住み着いた場所を離れ、一時、外なる土地を歩くこと。
人生は旅だと詩人は謳う。
旅の果てを見るための足跡は
もはや数字と成り果てたが
軌跡を見て歩み出す者もいるだろう。
ここはヤーナム。学舎ビルゲンワース。
埃と書籍に埋もれるばかりの建物内に、今日はそぐわない少女の声が響いていた。
「お父様とデート! とっても素敵! ねぇ、クルックス? これは新しいワンピースなの。どう? 可愛いかしら?」
クルックスは女性の被服について詳しくないためレースとフリルがふんだんにあしらわれたワンピースは、ネグリジェなどの寝間着とは何が違うのか分からずしばし答えに窮した。しかし、着ている人物のことを知っている彼にとってはたとえ着ているのが寝間着であったとしても最後に浮かんでくる感想は変わらなかった。
「君に似合わない服などない。俺達のテルミは、きっと、可愛いのだろう。俺はまだ『可愛い』を解さないので何ともだ。整っていることは分かる。けれどそれは『可愛い』ではないのだろう? 理解にはまだ時間が必要だ。ふむ。──ところで、ネフ。デートとは俺の認識では男女二人で行うものだが、三人以上の場合は何と言うのか?」
このところ機嫌が良い日がないネフライト──そもそも彼には機嫌が良い日などヤーナムの晴天と同じくらい少ないものだったが、それにしても──彼は、ムスッと不機嫌な顔を向けた。
「ただの『お出かけ』でいいだろう。まったく。浮かれるなよ、テルミ。実の父親とデートで喜ぶ娘など君だけだろう。聖歌隊の日頃の教育が透けて見えるようだ。お父様が心優しいから咎めないだけなのだよ。君は恥を知りたまえ」
ネフライトが噛みつくようにテルミに言った。それを聞いて「まぁまぁ、そこまで言うことはあるまい」とクルックスは仲裁に入ったが、テルミはネフライトの言葉を最初から最後まで聞いていなかった。
「あぁ、お父様? ご準備はよろしくて? あら、いつものトリコーンではないのですね?」
「あれはひどく時代遅れなのだろう。トップハットがよい。ウィーズリー氏のところにもこれで行った。これは年代を経ても変わらぬ紳士の装い──そう見えるハズだ」
狩人は、ソワソワとした足取りで姿見の鏡台前を行ったり来たりしていた。
普段着ている狩人服だが、どこか違うように見える。何が違うのかとクルックスは彼の服をよく見た。装束のあちこちにあった、獣との戦闘で作られたほつれが修繕されている。手先が器用なネフライトの仕事だろう。
ソファーに座り、彼らのやりとりを眺めていたユリエが「素敵よ」と狩人を励ました。
「いいなぁ。僕も行きたいなぁ。お外は楽しいじゃないかぁ。気分転換にさぁ。ねぇ、狩人君、狩人くぅーん?」
コッペリアが大きな図体をできるだけ小さくして狩人に強請った。
狩人は、チラチラとユリエを見た。
「俺は良くても、ああ、その、な?」
「ダメよコッペリア。昨年、抜け駆けした貴方は留め置きです」
「ええぇ~。本、買ってきたんだからもうチャラじゃない?」
軽い口調で彼は言う。
だが、クルックスは隣にいるネフライトが不吉に目の下をピクリと動かしたのが見えた。
「そうそう。『私達』の貯金に手を付けたことについて、私はいつか貴方とキッチリお話したいと思っておりました。主に返済計画について、とかね。──ああ、しますか? ぜひ、今?」
ネフライトが顎を上げて背の高いコッペリアを見た。
目隠しで隠されたコッペリアの表情とは、頬のあたりによく見られる。
それは明白に「マズい」と形を作っていた。
「ネ、ネフ、やめないか。コッペリア様の出費は研究のための必要経費だった。それに減った分はお父様と俺が補填したのだから、それでいいだろう」
「原資は私達の貯金だった。自分と他人の金の区別も付かない学徒を野放しにはできない。いいか。これは信用の問題だよ」
「それは……そう、かも、だが」
口論においてクルックスはネフライトに敵わないことを知っているので、コッペリアを見上げた。
彼は腰に巻いた銀鎖に繋がっている懐中時計を開き、よく通る声で「おぉ」と驚きの声を上げた。
「我らが狩人君! もうこんな時間だ! 出発してくれ! ハリー、ハリー・アップ!」
コッペリアは狩人の背中をバシバシと叩き、教室から追い出した。
その後をテルミが楽しそうにトコトコ歩いて行った。遅れずに行こうとクルックスも続いた。
「えー。では俺も二人と一緒に行くが、ネフは別行動だったな?」
「ああ、同じダイアゴン横丁にはいる。けれど私は人と会う予定がある。……くれぐれもお父様から目を離さないでくれ」
メンシスの檻を外し、眼鏡を掛けながら彼は言った。
「善処する。だがテルミが一緒だからな。難しいだろう」
狩人がテルミを苦手としているのは周知の事実だった。
それは今さら意外も驚きもないことだったが、ネフライトは愉快そうに口の端を上げて鼻を鳴らした。
■ ■ ■
「ねぇ、お父様? 何のお店が好み? 書店を巡りますか? それとも腹ごしらえから? ええ、ええ、どれでもなんでもお好きなようにお望みのように。いくつかはお父様も気に入ると思いますから。──あら」
イギリス、ロンドン。
そこに密かに存在するダイアゴン横丁のなかでもいっとう人通りの少ない路地に設えた灯りの下、彼らは現れた。
テルミは、引いた手が想像よりも一回り二回り小さいモノであることに気付き、小首を傾げ、振り返った。
繋がる手の先、当惑した顔のクルックスも首を傾げている。
二人は並んで顔を見合わせた。
「む。俺はお父様ではないぞ」
「ええ、知っていますけれど。──なんで!? お父様は!? さっきまで隣にいらっしゃったのに──」
身代わりにされたクルックスは、テルミの遙か後方、路地の端でトップハットがヒラヒラと振られたのを見た。
テルミが振り返る頃には、明るい通りのどこかへ行ってしまった。
「聖杯と同じだ。お一人で探索したいのだろう」
長いこと独りで過ごしていた狩人にとって、誰かと共通の時間を過ごすことは難しいことなのだと言う。
今回は、新しい土地に来た。これは彼にとって探索に近いことだ。今は誰に気を遣うこともなく歩きたい気分になっているのだとクルックスは考えた。
テルミは悔しそうに「むーぅ」と唇を尖らせて、その場でピョンと一度跳ねた。地団駄を踏んだつもりなのかもしれない。
「君がすでに知っていることを俺は念のために言うのだが、誰と一緒に来ていたとしてもお父様は同じことをしたと思うぞ」
「そうですね。もー。お父様ったら、そういう自由なところも素敵よね! 好き好き、大好き!」
テルミは一転して明るい顔になり、手を叩いた。
こうした切り替えの速さにクルックスはついていけないときがある。彼は「お、うん」と曖昧な顔をして頷いた。
「お父様は成長期なのだからいっぱい食べて遊んで楽しまれるといいわ。でも一緒にお食事できないのは残念ですね。お父様、放っておくと塩水と紅茶と血酒しか飲まないのですから……」
「そうだな。食事を一緒に楽しめないことは少々残念だが、お父様のことだ。意外と何でも食べてみようと……思っている、かも、しれない……だといいな、と俺は思っている、気がする……」
「最後までちゃんと言えばいいでしょうに。どうして自信がなくなるの?」
「むむ。いろいろあってな」
クルックスは『世界の奇妙な食卓』という本のなかでレッドゼリー──その正体はヤーナムの常識であっても口に憚る、なり損ないの何かである──の項目を探していた狩人のことを思い出してしまい、今からでも追いかけるべきだろうかと今さら考えた。その時、テルミがハッと口を押さえた。
「そういえば。お父様ってお金を持っていらっしゃるのかしら?」
「問題ない。先ほど俺の財布をスっていったので大丈夫だろう。あ。原資は俺の鎌貯金だから安心するといい」
「わたしはネフほど心配していないわ。どうせヤーナムでは使えないお金です。ここでパァーっと使ってしまうのが一番よいのですから。では、わたし達は買い物を一緒に済ませてしまいましょうね?」
「ああ。ひとまず立て替えてもらいたい。荷物持ちを務めよう。まずはインクや教科書などの学用品と服、それから昼食にしよう。……そうだ。君は、ほかにユリエ様から依頼を受けていたようだな」
「ええ、コッペリアお兄様からもね」
「コッペリア様からも? ……ぐぅ。コッペリア様はどうして君に。俺がいるというのに……」
「人には向き不向きがあります。適材適所というものね。けれどちょうどよかったのかもしれません。貴方も知っておくべきでしょう」
「何を?」
「それを教えてあげますからね。まぁ、おいおいですけれど。では、気を取り直して二人でデートしましょうね?」
「なるほど。了解した。デートだな」
クルックスは、テルミに手を引かれて隣を歩いた。
体の小さいテルミは必ず彼を見上げる形になる。
クスクスとおかしそうに笑う声を聞き、彼はテルミを見た。
「何か」
「一緒に歩くと歩調を合わせてくれる貴方のこと、わたしは好きですよ」
「そうか。俺も君と一緒に歩くのは、嬉しい」
クルックスがテルミと一緒にいて感じる『心地よさ』とは、好意を率直に伝えてくる明瞭さである。
いまだ人の情動に疎いクルックスにとって、意思表示してくれる彼女はありがたい存在だった。
これが気の置けない『きょうだい』であればなおさらのことである。
医療教会の事柄が絡まなければ、特にもそれは感じられた。
■ ■ ■
月の香りの狩人達が去った後。
ビルゲンワースの居残り組は、本を放り出し、緊張感も何もない弛んだ時間を過ごしていた。
学徒達はその筆頭であり靴を脱ぎ、互いにソファーに寝そべっていた。
「ふわああ。ネフったらキレてるなぁもう。何が気に食わないんだか」
──恐らく全部。
その言葉を飲み込み、ユリエはソファーに身を伸ばした。
「そう? 私は無神経な発言だったと思うけれど」
「はァ? まぁいいや。クルックスと狩人君が穴埋めしてくれて、その件は済んだことなのだから。そんなことよりテルミさ。彼女には僕の用事を頼んでいる。例の聖杯の件でね。年に一度くらいはボージン・アンド・バークスに催促しないとセラフィが僕のことを信用しなくなっちゃうだろう? ちゃんと手は打っておいた。……新しい手がかりになってくれたらレオーにも良い報告ができる。ああ、儀式の準備も地下聖堂に済ませてあるんだ。あとは聖杯が手に入ればという段階でね」
「『憂いの篩』でしたか? 貴方はそれにご執心ね。私の考えでは聖杯なんて何でもよいと思うわ。例えば略式聖杯の器は汎用のガラス製ですからね。血が特別なのだもの。肝要なのは血に堪えうる器であれば、何であれ構わないということね。必要とあれば、私の頭蓋を提供してもいいくらいよ」
「ハハハ……──なぁに。冗談じゃあないのか?」
「こどもができると不思議な心境の変化が生まれるとは本当のことみたい。子が仔であれ、できる限り身を尽くしてしまいたくなるのね」
うふふ、あふふ、とユリエは優しげに笑う。
気楽な口調で彼女は言うが、コッペリアは長い付き合いであるため「そう。いいんじゃない」と同調したが最後、ユリエが『ユリエの頭蓋骨』の世話を自分に押しつける未来が見えていた。
「かーっ。レオーもユリエもパパやママになっちゃって。もう嫌になるぜ。だが僕は永遠のお兄様に終身就任すると決めたんだ」
「それもよい選択でしょう。クルックスが喜ぶわ」
「その彼を喜ばせたくて君が頭蓋骨になるのはくれぐれもやめてくれよ。狩人君が帰ってきた時にユリエパイセンの頭が『病める聖杯』になっていたら僕『が』ヤバいだろう。ヤバヤバすぎて却下だよ、却下。ヤーナムで他の材料を探すなんて無理だろうさ。そんな都合のいいものがそうそう──せめて、他の──市街の聖職者はどうかな? エミーリア教区長はどう?」
「あの女性は、瞳が暗いもの。だから教区長程度が限度だったのでしょう」
「そっか~。どこかにちょうどいい医療者はいないかな? そこそこに瞳があって血筋がいい人がさぁ。レオーに聞いておけばよかったかな。心当たりはないかって……」
実は。
部屋にいるのは学徒二人だけではない。
空気のように静かに、違和感なく、そして馴染んでしまった彼がいる。目隠し帽子の下からの送られた視線を感じ、クィリナス・クィレルは本から顔を上げた。
「おっと。僕らのお喋りは内緒にしてくれよ。でなければ君のお口で裁縫の練習をしなければならないからね」
「何も、聞いて、いませんので……」
クィレルはそっと目を逸らした。ヤーナムの外から来た書籍の活字以外何も見たくはない。それが彼の本音で全てだった。
「それはいい。長生きするコツだよ。……ああ、そういえば。僕ねぇ。婚活話だと聞いていたら人身売買の話だったことがあってさぁ」
「あらまぁ」
「嘘かホントか。血族の末だとかの話でね。顔立ちを見ると、たしかにそれらしい面影があるものだったよ」
「それで? 貴方、どうしたの?」
「どうもこうも。未来が無い僕にそんな話を持ちかけてくるなんて性格悪くて頭も悪いじゃないか。だから処刑隊の彼にチクったよ。いやー、あんなに感謝されたの久しぶりだったなー」
「何も聞かなかった。私も何も聞かなかったわ。間違ってもレオーや鴉に言わないでね。嫌よ、今さらカインハーストを敵に回すなんて」
「分かってるとも。市街に遊びに行くときはせいぜい気を付けるとしよう。──そういえばクィレル先生もネフに何か頼み事をしていたようだったね。何を頼んだのか聞いても?」
「た、大したものではありません。食料品を……少々」
ヤーナムに十年間の滞在を予定しているクィレルは一年目の終了時点で、ほぼ毎日食べている芋に限界を感じていた。
たかが芋。
されど芋。
切実な現実だ。
毎日、寝ても覚めても食事は芋ばかりだ。近頃は限界も近く、夢にまで出てくる始末である。せめておかず的存在になればマシなハズだ。そんな期待を込めてネフライトには食料を依頼した。
「ああ、故郷の味というものかな?」
コッペリアの誤解はありがたいものだったのでクィレルは「ええ」と軽く頷いて見せた。
■ ■ ■
月の香りの狩人には、放浪癖というものがある。
彼自身はそれを自覚していて、その理由の分析も済ませている。
病み人、そして狩人として上位者の夢に縛り付けられていることが長かったせいだ。
ヤーナムは広い。
けれど限りある土地だ。
何百、何千年か繰り返した夢のなかでヤーナム内で彼はヤーナムで行かなかった土地はないし、踏まなかった地面も等しくないだろう。もっとも、どんな理屈か何をしても開かない扉や登れない崖というものは存在したが。
広い密閉空間に長らく閉じ込められていた反動は、放浪癖となって発露した。
知らない風物。
知らない風俗。
彼は興味の赴くまま、それらに触れることをよく好んだ。
昨年の夏休み。
学徒コッペリアは、月の香りの狩人とその仔らの財産と言うべきガリオン金貨を大量に消費した。
そして買い込まれた本は月の香りの狩人にとっても大切な宝物になっていた。
仔らは勿論、学徒も知らないことがある。
彼は、朝に夕に世界地図を抱きしめて空想に耽り、地の果てを思い浮かべた。
狩人は楽しい気分を存分に堪能しつつ、そんな自分自身に感心した。
(どうやら俺はビルゲンワースの学徒が期待するほど人の心を失っていないようだな)
この時、彼の瞳の輝きようといえば、宇宙悪夢的確率を乗りこえた果てに理想の血晶石を手に入れた地底人のそれと勝るとも劣らないものがあった。
ヤーナムのことは大切だ。抱える思いも多様に存在するが、きっと愛している。慈悲もある。過去を糧によりよい未来を作る歩みを止める心算はない。
しかし。それはそれとして。
(人間がたくさんいる)
田舎者のようにキョロキョロと辺りを見回したい衝動をグッと堪え、彼は慎重に道を歩いた。
彼には、外の世界を知りたい欲もまた存在する。
航海記や旅行記が愛読書となっているのは、決して一時の熱ではなかった。
『仔らにヤーナムの外へ行くことを勧めたのは、本当に彼らのことを想ってのことだったのか?』
もし、誰かにそう問われたとしたら、狩人は苦い思いをすることだろう。かつてアルフレートに対しカインハーストへの招待状を渡したときと同様に。動機には好奇心が爪の一片たりと無いと胸を張って言えるかどうか。その答えはヤーナムの闇のなかにいつまでも葬っておきたいことだった。
とはいえ、アルフレートの末路に比べれば、今回は遙かに善い出来事になりそうな予感がある。
(クルックス達は、今のところうまくやっているからな)
ネフライトの報告曰く周囲との不和は少ないらしい。
ヤーナム外の子供社会のことは狩人にとってまったく未知の世界だったが、仔らは何とかやりくりしている。最も心配なクルックスが大丈夫なのだから他の三人も大丈夫なのだろう。
杖売りのショーウィンドウの前で立ち止まる。
狩人は紫色のクッションに置かれた商品を眺めた。
その時、カランコロンと鐘が鳴り、親子が嬉しそうな顔をして店から出てきた。
今後のヤーナムと魔法界の関係は悲観することばかりではない。
仔らのホグワーツ在籍中に必ず片を付けなければならない案件でもないから、丁寧な対処ができるだろう。
魔法界という存在について仔らを通して情報を蓄積しつつ、理解を深めれば穏当な道筋も現れてくるに違いない。レオーには今年の成果にならないと伝えたが、来年の成果にもなりそうがない。だが、現在のヤーナムについて優れた点があるとすれば、時間だけは常人の気が狂うほどにあることだ。
気長に分析していこう。
狩人は気楽に考えようと試みた。
今は学徒達もいる。
集う頭が増えた分、一人で考え込むよりマシな結果が得られるだろう。そんな確信も手伝った楽観だった。
判断を急いで誤るのは懲りた。
長考により誤りが減るのであればそうしよう。
素直にそう思えるのだ。
(もっと早くこうしていれば……善かったのだろうか?)
心に余裕がある自分に気付き、狩人はそんなことを思った。
ある日、相棒が欲しいと思ったことが全てのはじまりだ。
その果てに生まれた存在は、狩人にとって心躍る結果を齎している。そして善い影響は狩人だけに留まらない。
レオーは『こどもは貴重品だ』と言った。狩人も同意した。
かの騎士が「クルックスが欲しい」と言ったことには、とても驚いた。
今でも狩人は独りになって考える暇がうまれると不意に彼の言葉を考えてしまった。
カインハーストの騎士にして使者であり対外的な仕事を担うことが多いレオーであるが、あの時の口ぶりは使者の仕事をしている際の熱量と比べても決して劣るものではなかった。彼がセラフィに並々ならぬ思いを寄せているのは察していたが、それは彼の懐古主義的な性癖であるとかカインハースト系の風貌であるセラフィだからこその執着だと狩人は思っていたのだ。
狩人は店から出て来る人々を眺めていた。
彼らは紙袋に不可思議な、恐らく魔法の道具の類いであろう、品を持って両親や友人と歩く少年少女がいた。
ヤーナムでは、最も希薄な年齢層の人々である。
(上位者の赤子は論外として。人間の赤子さえまともに生まれない土地になっているのだから、仔らが物珍しく見えるのも当然だな……)
レオーが棲まうカインハーストは、ヤーナムの土地のなかでも地上にあって悪夢に等しい位相に存在する、格別に異常な土地である。
上位者や人間の赤子が時間に支配されず存在できるとすれば、あそこだけだろう。カインハーストの女王、アンナリーゼが懐妊する様子は今のところない。しかし、赤子が生まれる可能性と受容する下地はヤーナムのどの土地より存在する。わずかな可能性があるため彼らは諦めるに諦めきれず、かといって実現する見通しは見果てぬ那由他の先にある。だからこそレオーはときおり発狂してしまうのだ。
そこまで考えたところでレオーと同じ境遇にあって発狂したことがない鴉の存在を思い出し、狩人はげんなりした。あの男は人間であった時分の狩人より、そしてレオーより遙かに異常者なのだ。
(そうだ。セラフィがカインハーストに赴いてからは、レオーが発狂したとは聞かないな)
セラフィの存在が、レオーにとって善い影響を及ぼしているのだろう。セラフィもレオーや鴉のことを慕っているようだ。
狩人には、どんな苦難な状況でも夢に帰れば人形がいた。そして言葉少なに癒やしてくれたものだが、思えば彼らには永らくそんな存在はいなかった。省みると長い時間のなかで残酷なことをしていたかもしれない。女王様は女王様なので彼らの献身に応対しているかどうかはとても怪しい問題であり、狩人は考えついたことさえ忘れたいと思った。
(レオーが繊細なのではなく、俺が鈍感なのだろう。もっと目配りをしなければな)
狩人は、気付きをひとつの自戒とした。
放浪している最中でも彼はヤーナムのことを考えることが多かった。存在の空白が、彼にヤーナムのことを思い出させずにはいられないからだろう。
聖杯に赴くまでが最も期待が高まって楽しい。──とは聖杯に入り浸る別な世界で遭遇した狩人の言葉だったが、その気持ちはよく分かる。
だが狩人はヤーナムの外に出たら『ヤーナム』という単語を頭から小半時程度でも追い出し、ただの異邦人の気分になって街を散策しようと決めていた。
そして、今こそ実現の時だ。
むしろこれをやらなければ何のために仔らを撒き、クルックスの財布をスッたのか分からなくなってしまう。
それから大切な用事もある。
雑踏の歩調に合わせ、彼は目的を持って歩き出した。
「そうそう。ダンブルドア校長へお手紙を出さなければならないからな」
やがてトップハットの古風な紳士の姿は、夏の日差し降り注ぐ人並みに消えていった。
■ ■ ■
ハリー・ポッターは自由を謳歌していた。
数日前からロンドンのパブ『漏れ鍋』の宿で寝泊まりしている。
『漏れ鍋』は、ただのパブではない。
『漏れ鍋』の裏庭の秘密の扉をくぐれば、そこは魔法界へ繋がっている。魔法界への入り口なのだ。
いつもの夏休みの間、一緒に暮らしているダーズリーの家ではなく『漏れ鍋』で生活しているのには事情があった。
ハリーの母の姉のペチュニア、彼女の夫バーノンには姉がいる。
とある田舎にある、庭つきの家に住み、ブルドッグのブリーダーをしているマージという人物で、ハリーと血の繋がりはなかったが、ずっと「おばさん」と呼ぶよう言いつけられており、ハリーは今もそれを守っていた。
彼女とハリーの間には、大きな問題があった。
それはダーズリー家の人々にも当てはまることだったが──できるだけ、穏やかで婉曲な表現を使うと──ソリが合わないことだった。
彼女がダーズリーの家で過ごした一週間の滞在時間の苦痛と同等の苦痛を探すことは難しい。
ホグワーツの時間割が朝から夜まで全てスネイプの魔法薬学になったら、こんなストレスを感じ続けるかもしれない。
ハリーはおもむろに今朝の日刊預言者新聞を開いた。
『生き残った男の子、キレておばを膨らませる!?』
『マグル一〇〇人に目撃され、事故惨事室が緊急出動!』
『ハリー・ポッター、逮捕!? 嘆くダンブルドア校長! マクゴナガル教頭「いつも挨拶をしてくれる良い子だったのですが」』
そんな見出しになってもちっともおかしくない出来事が起きたが、世間はシリウス・ブラックの脱獄ニュース一色だ。
ハリーが、咎められることはなかった。
むしろ。
「──やぁ、ハリー。君が無事でよかった」
おばを膨らませた夜。
辿りついた『漏れ鍋』で待っていたのは店主のトム。そして魔法大臣だった。
魔法大臣、コーネリウス・ファッジ。
イギリス魔法界の政を執り行っている人物である。
マグル界で言うところの国務大臣に相当する人物だ。
実は、ハリーは彼に会ったことがある。
昨年、ハグリッドが不利な過去を持っていたことから『念のために』移送されたバジリスク事件のおり、彼の小屋にファッジがやって来たのだ。ただし、その時のハリーは透明マントを被っていたのでファッジは知らないだろう。また、ハリーの身近なところでは、親友ロン・ウィーズリーの父親が魔法省に勤めている。そのボスとも言えた。
さて、魔法大臣の登場にハリーは大いに驚いた。
もちろん、普通のことではない。どんなに気の良さそうなオジサンに見えても彼は魔法大臣だ。一介の生徒の前に、まして事故処理の報告のために現れるべき人物ではないことは魔法界の常識に疎いハリーでも分かっていた。
ハリーは、そんな異常を理解していたが「どうして魔法大臣がわざわざ?」と聞くことは出来なかった。唯一の血縁であるいとこのダドリーの家を飛びだしてしまったのだ。魔法界以外に行く場所はなく、そして、魔法界の無法者として爪弾きにされてしまえば、この先の人生は想像もしたくない。できない。これまで手に入れた素晴らしい友人やこれから学ぶこと全てが永遠に手に入らなくなることが確実だということくらいしか分からない。
だから、魔法大臣が「君は……アー……退学になりたいワケではなかろう?」と言った時、激しく頷いた。
「ならばよろしい。状況は変わるものだ。そう、刻々とね。川の流れのように緩やかに、そして時に激しく。昨年とは違う状況なのだよ。魔法大臣として考慮すべきは、いつもそこでね。──退学になりたいワケでないのなら、つべこべ言うものではないよ」
大臣の言葉に爪の隣に出来たささくれのように引っかかるものを覚えたが、まったくそのとおりだ。やはりハリーは頷いたのだ。
彼の行動の一端を理解しはじめたのは、ほんの数日前だ。
世間はシリウス・ブラックのことで毎日、目撃のニュースが更新されている。
買い物に来る魔法使いや魔女達の間では、必ずと言ってよいほど話題に上がる。
だから、きっと魔法大臣は嫌がったのだろう。
シリウス・ブラック脱獄は不祥事として一級品だ。
さらに『生き残った男の子』が良くない話題で世間に現れることは、魔法省が引き起こした不祥事ではないが、さらに民衆の心を揺るがすことになるだろう。
彼はそれを望まなかったのだ。そして、ハリーも望まないことだった。
ぼんやり三日前のことを思い出しながら、夏休みの間にすっかり不足した栄養を摂り、学用品の買い物を終え、今は燦々と日の差す屋外を歩いている。
こから二週間、学校からたっぷり出された課題をこなさなければならない。
昨日からダイアゴン横丁にある喫茶店を何件かハシゴしながら、居心地のよい場所を探している。
──できるだけ夏の陽気を感じることができる場所で、ダイアゴン横丁に買い物に来た人々が眺め渡せるところがいい。
ハリーは、熱心に喫茶店を探した。
魔法界への入り口である『漏れ鍋』に訪れる人々は、さまざまな職業の人がいるようだった。
学術論議を交わす魔法使い。
田舎から出てきたどこか滑稽な魔女。
同胞に矢継ぎ早に今朝のガリオン取引について話し続けているゴブリン。
こうした人々を観察するのは、魔法界にまだまだ疎いハリーにとって貴重で、何より面白い経験だった。
「──次はオリバンダーの店よ。イギリスで一番の杖なんだから──」
ハリーの傍を栗毛色の髪をした母親と子供が歩いて行く。その数歩後ろで荷物を持った父親が「やれやれ、ようやく最後だ」とぼやきながらついていく。ひときわ明るい顔をして真っ先に先頭を走って行ったのは、きっとホグワーツに入学する一年生だ。
昨年は、煤を思いっきり吸い込んでしまったせいで煙突飛行に失敗し、ノクターン横丁に出てしまったハリーにとって、このダイアゴン横丁は一年ぶりの世界だった。昨年は、ゆっくり観察する余裕もなかったが、こうした光景もこのダイアゴン横丁ではありふれたものなのだろう。
店先をぶらぶらした後。
ハリーは、今日のカフェ・テラスに腰を落ち着けた。
名を『フローリアン・フォーテスキュー・アイスクリーム・パーラー』という。
天気が良い。夏のギラつく日の光であっても、日傘の下にいればそれは柔らかく感じられた。
「やぁ、こんにちは。天気がいいね。ブラックのことがなければ、気楽なお散歩日和さ」
「ええ、それと課題がなければ悪くないかも。アイスをください。味は……チョコレートで」
店主のフローリアン・フォーテスキュー氏は、柔らかな金の髪を頭の後ろで結った四十代くらいの男性だった。ハリーが財布のシックル銀貨を数えている間に、フォーテスキュー氏はリクエストに応えアイスをテーブルに置いた。ただし、アイス球体は二つだ。注文を伝え間違ってしまっただろうかとハリーは彼を見上げた。
「ひとつサービスだよ。今日は暑いからね! あとこれ新味でね。ハナハッカ味なんだけど、どう思う?」
ハリーはスプーンを手に取り、食べた。
「これは風邪の時に飲む……ンー……シロップの風味みたいな」
「次回も食べたいと思う?」
「五回に一回くらいなら」
「どうりで売れないワケだよ。先ほどダンブルドア校長にもサービスしたんだが、さては気を遣わせてしまったかな。ワハハハ。気にしないでくれ。サービス品だからさ」
フォーテスキュー氏は、人好きのする顔で笑った。夏のようにカラリとした清々しい笑顔だった。
これから漏れ鍋に滞在する二週間。
ハリーは明るい日差しの入る、このフローリアン・フォーテスキュー・アイスクリーム・パーラーに通い、彼に手伝ってもらいながら宿題を仕上げることになるのだが、それは人々を見渡せる立地のほかにフォーテスキュー氏の朗らかな人柄にもよるところが大きいものだった。
課題に取り組みながら、今日のこれからの予定を立てる。
教科書はすでに買い込んでいるので、買い物の必要はなくなってしまっている。
頭の冴えている午前中の間に今日の分の課題を終わらせて、午後はまだ行ったことのない区画に行ってみようか。
そんなことを考えながらチョコレート味のアイスクリームを食べる。
おばを膨らませた時のことを思い出していた。いとこのダドリーが食べていたアイスは、同じような色をしたチョコレート味のアイスクリームだったからだ。
──こないだも言ったけれどね、やっぱり犬は血統だよ。
──コイツは出来損ない、生まれ損ないの顔だ。
──犬にもこういうのがいる。ああ、ファブスター大佐に処分させたよ。
マージおばさんの声も思い出した。
思い出す度に胃の中が熱く、腹立たしい気分になる。
けれど、ハリーは違うことも思い出そうとしていた。
マージの隣に座ったペチュニア──ハリーの母の姉にあたる女性だ──彼女は、その言葉を聞いたときに唇をキュッと引き結んだ。
──ただ、あんたの妹は出来損ないだった。
──いやいや、ペチュニア。
──あんたの家族の事を悪く言っているわけじゃない。
──どんな立派な家系にだってそういうのがひょっこり出てくるものさ。
その言葉を初めて聞いたとき、ハリーは妙な耳鳴りがした。そして『自分でできる箒磨きガイドブック』の二〇ページを思い出そうとしていた。けれど、チラリと話し込む彼らを見たとき。ペチュニアおばさんは同調するでもなく、唇を引き結んでいたように見えた。
やがて怒りで見境がなくなり、仮にも家と呼ばなければならない場所を飛び出したハリー・ポッターは、プリべット通りを離れ、結果として、自由な生活を手に入れて初めて振り返ることができた。
「…………」
ハリーは、ペチュニアおばさんが妹、つまりはハリーの母親について話すことを聞いたことがなかった。──長いことハリーに対し交通事故で死んだと言い聞かせてきた、これまでの出来事を除いて。
(両親のことを……いつかよく知る誰か、例えば友人や他の親族から聞くことができるんだろうか?)
ハリーが自分の父母のことで知っていることは、両手の指で数えられるほどだ。そもそも両親について知っている人について、ハリーの知る心あたりは少ない。長らくホグワーツに務めている寮監のマクゴナガル先生、それから同じく長く在職しているダンブルドア校長ならば知っている、かも、しれない。それからハグリッド──けれど二人に比べて、知っていたらもう教えてくれているような気がする。彼とは友達だから。
──これからも機会があれば聞いてみよう。
思うに留めて、ハリーはふとテラス外の通りを見た。
そこはガヤガヤと人々が話しながら通り過ぎていくが、その雑踏のなかで黒い陰がひとつ動いていなかった。
明るい日当たりである通りを見ると目の奥がチカチカと痛んだ。それでも目を細めて向こう側を見ているとトップハットの紳士が足を止め、パーラーの看板を眺めていることが分かった。
ハリーには、魔法族の大人に知り合いが少ない。彼とは当然初対面だったが、顔に見覚えがあった。もちろん指名手配の写真ではない。その顔は、同級生で同じグリフィンドールのクルックス・ハントだった。
彼は、とびきりのハンサムではないが整った顔立ちをしている。もっとも、やや陰りのある暗い銀灰の瞳のせいで、ロン──ハリーの親友だ──には根暗に見えるらしい。けれど、彼はどちらかと言えば前向きで積極的な性格だとハリーは感じる。ただ、すこしだけ自分のことには気が回らない性格でもあるようだ。それは髪によく見られる。いつもぞんざいにオールバックにしているせいで跳ねた前髪がちょっとだけ額にかかっているのだ。
彼が成長したら、きっと、こんな顔や姿になるだろう──そんな人物が看板を見上げていた。
「おや」
目が合ってしまった。
今さら目を逸らすのも不自然であり、ハリーは座ったまま会釈をした。
クルックスの顔をした紳士は、そばまで来るとハットをひらりと上げて「こんにちは」と言った。
彼と同じようにぞんざいなオールバックは跳ねた前髪がちょっとだけ額にかかっていた。挨拶を返すと彼は、微笑んだ。
「挨拶は良いものだ。実に人間らしい礼節の現れ方だと感じる。──ご機嫌よう。初めまして。おはようございます」
クルックスだってもう少し人間味のあることを言うだろう。
外見だけではなく中身も彼の親族を感じる言葉だった。
「ええと。じろじろと見てすみません。友人に似ていたものですから」
けれど、似ていないところも見つけた。
笑顔に対し、こんなことを思うのはどうかしているとハリーは思ったが、浮き世離れした夢っぽい笑顔はクルックスには見られないものだ。
「うん? ああ、クルックスを知っているのか? あの子を友と呼んでくれるとは。嬉しいものだ。父としてお礼を言わなければならない。ありがとう」
『父』という言葉が引っかかり、ハリーは、まじまじと彼を見た。
トップハットの影に隠された顔は、若い。クルックスと年の離れた兄弟だと言っても頷けるだろう。
「ああ、貴公。隣の席、座ってもよろしいかな? 他の子から学校のことを聞く機会は貴重でね。いろいろと教えてくれないか? もし時間があれば、だが。誰かと待ち合わせをしているのだろうか?」
丁寧にハント氏は申し出た。
「ええ、いいですよ」
羊皮紙を片付けながらハリーは空いている席へ促した。
「ありがとう。昨年度は大変だったようだな。災難と言うべきか。穏やかに暮らしたいものだな。争いなく、諍いなく、穏やかに、な」
彼は、クルックスから昨年度に起きた話を聞いているのだろう。
質問に答えていくと、校長室で昨年度話した内容の繰り返しのようになった。
事件終了直後の語りより、物事を整理して話すことができたと思う。
「大変だったな」
最後に彼は軽く言った。
ダンブルドア校長が労ってくれたことを思うと、彼のこれはただの感想に思えた。
「貴公は『どうして自分だけが』と思うことはあるのか?」
ハリーは、そんなことを訊ねてくる人がいなかったので驚いた。
「思わないことは、ないですけど。……自分には、どうしようもないので。トラブルのほうが飛び込んでくるものですから……」
両親の事と同じように。なぜ、トラブルに巻き込まれるのか。
その理由を分かる時が来るのだろうか。
うっすらと考え事をしたハリーの向かいで、ハント氏は薄く微笑んだ。
「ああ。そう。懐かしい気分を思い出したよ。『どうしようもない』。そう思うこともあったか……。うんうん。ありがとう。世の中、当事者はいつだってそんなものらしいからな。トラブルは、まぁ大抵楽しいことではないが、そのなかにさえ輝くものがある。それを見つめ、悲観しないことだ」
ハリーはパチパチと瞬きをした。
会話が終わりになる気配があり、ハリーは手の中で温めていたスプーンを持ち直した。
「ところで、君が食べている……それ、その白いの、何だろうか」
「アイスクリームです」
「アイス、クリーム?」
「あのこれサービス品なんです。食べますか?」
テーブルの上にある半ば溶けかかったハナハッカ味のアイスクリームを差し出した。
未使用のスプーンをテーブルから取り、彼はアイスクリームを食べた。
「うわ。冷たい……え……え……?」
「他の味、フレーバーもあるんですが」
彼は目を丸くしてあっという間に溶けかかったアイスを食べてしまった。
「スゴイな。氷だが氷ではない。舌触りが滑らかだ。味付き氷。素晴らしいな。これがクルックスの言うブルジョアというモノか……」
──あっちで売っています。
ハント氏は即座に立ち上がった。
「今日はお話できてよかった。また話したいものだ。ありがとう。──買い占めてこよう」
「ええ、また」
ハリーは、手を振ろうと上げかけたがもう彼は見ていなかった。
立ち去る後ろ姿を見る。動作はキビキビとしている。やはり行動の節々に若々しさを感じた。
「あら、ポッターさん?」
また通りで誰かが立ち止まった。
不思議とよく響く幼げな声。
そこにいたのは、テルミ・コーラス=Bだった。
「まあ、こんなところでお目にかかるなんて。お元気かしら? んー、ちょっと痩せたみたいですね?」
約三年前、初めて出会った時と同じように見える彼女は、柔らかく微笑んだ。
彼女の隣には荷物の袋を抱えた本物のクルックス・ハントがいた。
いつもの薄暗い瞳だが、明るい夏の日差しのせいだろうか、やや生気が宿っているよう見える。
父親のほうが瞳の色が濃いのだな、とハリーは思った。
「あれ、ついさっき──」
ハリーはフォーテスキュー氏を振り返ったが、何やら充実してホクホクした顔の彼がいるだけだった。
クルックスは挨拶もせずに明後日の方向を向いていた。
「クルックス、どうかしまして?」
「近くにお父様の気配があったのだが、消えてしまった」
野生の勘、いや、親子の絆というものだろうか。
やがてクルックスはハリーを見つめた。
「失礼。挨拶が遅れてしまった。こんにちは。ご機嫌よう。……挨拶は大切だ。礼節は守らなければならない」
「君のお父さん。さっきまでお話をしていたんだ」
「おと──父に会ったのか。……俺は心配で貴公に聞くのだが……あの人から、何か物をもらったりしていないだろうか?」
非常に微妙な言い方だった。
クルックスは、テルミをチラチラと確認しながら言った。
彼らは身長差があるので視線を合わせることはできないが、クルックスがテルミの様子を伺っている様子だった。
もらっていないよ。そう伝えると彼は、一つ息を吐き出した。
「そうか。ならばいい。お礼で物をあげたがる節があるのだ。たいてい間の悪い贈り物になってしまうからな……」
「どうして一緒に買い物していないの?」
「我々の買い物なのだ。計画から実行まで我々で出来る。大人とて気楽に歩き回りたい時もあるだろう。その程度の話だ」
親ならば、一緒に買い物をして歩くものだと思っていたハリーにとっては、意外な返答だった。
次にクルックスは「次は学校で」と言いかけたが、それをテルミが止めた。
「これから最後の用事で、すこし変わったお店に行くの。……昨年度の疑問に完全な回答ができると思いますわ。いかがです?」
「何の話か」
クルックスがテルミに訊ねた。
彼女は首を傾げた。
「あら、伝えていなかったかしら。ごめんなさいね。あまり重要ではないから忘れていました」
本当に忘れていたのかどうか疑わしいとクルックスも思ったようだ。
油断なくハリーとテルミを見た後で、彼に問いかけられた。
「昨年度、実はノクターン横丁に出入りするコーラス=Bのお兄さんを見て、何をしていたのかって質問したんだ」
「……それだけか?」
クルックスは、テルミに詰め寄った。
「ええ。わたしは知らなかったのだけど、ノクターン横丁とは少々後ろ暗い商店の集まりのようなの。だから昨年度のバジリスク騒動の時にセラフィが疑われてしまったのね。コッペリアお兄様もセラフィも迂闊だったわ。それで、ええ、もちろん、やましいことをしていないことの説明はしました。けれど、実際に見てもらえばもっと納得していただけると思いまして。……ね?」
控えめだが試すように誘うテルミの言葉にハリーは腰を浮かしかけた。疑ってかかった手前、その検証ができるのならばすべきだと思ったからだ。また、ノクターン横丁で怖い思いをしたことは確かだが、まったく何物にも興味が惹かれなかったかと問われたら嘘になる。
しかし。
「俺は許さん。貴公がトラブルに自ら頭を突っ込むことはない。もう散々だろう? 脱獄したシリウス・ブラックとかいう犯罪者も出歩いている。暗い場所をうろつくべきではない」
クルックスが強い口調で言った。
ハリーは浮かしかけた腰を誰にも気付かれないうちに着席した。
「……。ああ、そうでした! クルックスの言う通りですね。ごめんなさい、ポッターさん。せめて脱獄囚が捕まってからね──」
「いいや、捕まったとしてもダメだ。『疑われるようなことをする方が悪い』と言われたらそれまでなのだから。彼は、俺達よりもっと慎重になるべきだ。魔法界は狭いのだろう。身の振り方をよく考えるべきだ」
「珍しく真っ当なことを言うのね、貴公。すこし見直してしまいますわ。──では、ポッターさん。誘っておいて失礼なお話になってしまいましたけれどクルックスの言うとおり、この話は『無かった』ことに。よろしくお願いしますね?」
テルミは美しく笑い、手を振って去っていった。
ハリーは「これでよかったのだ」と心の内で呟いた。
今、魔法大臣の寛容さを試すべきではないだろう。
ファイアボルト──新製品の競技用箒だ──でグリンゴッツ銀行の口座を空にするよりも、もっと迂闊なことをしてしまうところだった。
「俺も買い物に戻る。──では、次は学校で会おう」
テルミを見失わないように目で追いながら彼も去って行った。
彼らが去ってしまった後で。
フォーテスキュー氏がサンデーを片手にやって来た。
「ハナハッカ味が全部売れてしまったんだけど、もしかして、彼に薦めてくれた?」
「ええ。あの人、たぶん、すごく気に入ったんだと思います」
「……懐かしの味ってことで製品化してみようかな。ああ、このサンデー。ちょっとしたお礼だよ」
■ ■ ■
白髪交じりの鳶色の髪が夏風に揺れる。草臥れ、継ぎ接ぎも擦り切れたコートを翻し、彼は歩いた。その姿は、ともするとギラつく夏の日差しに負けそうになる貧相な印象を抱かせた。やがて彼は早足で日陰に駆け込み、店の扉を開けた。
店をぐるりと見渡して彼は、待ち合わせをしていた人物を見つけた。長い銀色の髭に半月の眼鏡。往年とまるで変わりがない。雑誌をめくっていた彼もこちらの視線に気付いたようだ。右手を軽く挙げ、ニコリと微笑むのが見えた。
混み合った店内の椅子をいくつか越えた先で、彼は老人の対面にある椅子に座った。
注文を伺いに来たウェイトレスに彼は困ったように微笑み、ようやく「では、コーヒーを」と告げた。長い髭の老人に何やら話す機会がやって来たのはそれが到着した後のことだった。
長い銀色の髭の老人はホグワーツ魔法魔術学校の校長、ダンブルドアと言う。そして、向かい合う人物は、リーマス・ルーピンと言った。ダンブルドアにとって彼は覚えている教え子の一人であった。
「──若い頃は厚手のウールの靴下が何足あろうが数えもしないものじゃったが、自分で買うようになってようやく数を覚えたのじゃよ。冬に向けて厚手のウールの靴下を三足ほど買おうと思ってのう。これで夏と冬、あわせて十五足じゃ」
「なるほど。ならば端にあるニコラスの雑貨屋がオススメですよ。あそこは品揃えがいいですから」
「おぉ、それは良いことを聞いた。近頃は、大陸からの輸入品が多くてのう。鍋底も薄ければウールも薄いようじゃ……」
二人で「ハハハ」と軽い談笑をした後で。
本題を切り出したのは、ダンブルドアだった。
「リーマス・ルーピン。さて君にひとつ、お願いがあるのじゃ。次学期の『闇の魔術に対する防衛術』の教職を引き受けてはくれまいか」
ルーピンは、痛みのある顔をした。
「……ダンブルドア先生、私には無理ですよ。とても……相応しくない。私のことは……。よくご存じのハズだ」
「もちろんじゃ。能力は十分じゃとな。そして予防措置を取れば、君が生徒として通った時よりも快適に過ごせるじゃろう。リーマス、トリカブト系の、例の薬の話は耳に入ったかね?」
「ええ。けれどあれは腕の良い魔法使いや魔女が手間暇を惜しんで惜しんで、ようやく作れるものです。……私には難しいものでした」
「学校にはセブルス・スネイプがおる」
お互いにこれまで一分の隙も見せないよう見つめ合っていたが、先にルーピンが目を逸らした。
「話には聞いています。風の噂でしたが」
「君も知るとおり、魔法薬の腕はたしかじゃ。もし、君が学校に戻ってくれるのであれば、月に一度、脱狼薬を煎じることを約束してくれた。どうじゃろうか」
優れた軍師に手際よく外堀を埋められてしまった情景が目に浮かぶ。
用意周到だ。それだけ必死ということなのだろうか。ルーピンはテーブルの下で親指を擦り合わせた。
「『闇の魔術に対する防衛術』は、私の在学中から先生が長続きしていませんね。話に聞くところ、一昨年は、事故死。昨年は、自主退職と聞きました」
「ああ、近年引き受けてくれる人がすっかりいなくなってしまってのう。本当に、参っているのじゃよ。……君に断られたら、そうじゃな、わしが『闇の魔術に対する防衛術』をすることも視野にいれなければならん」
「それでは校長職が空席になってしまう。マクゴナガル先生を変身術の先生から欠くワケにもいかないでしょう。そして、万一のことが先生に起きては……」
これ以上の言葉を紡げば、悪い影響を招くような気がして彼は曖昧に濁した。
──きっと、後悔するのは自分だ。
ルーピンは再びダンブルドアを見つめた。
「ご依頼、引き受けます。ありがとうございます、先生。……私を気にかけ、また取り立ててくれる人は、少ない。貴重な機会をありがとうございます。全力で勤めさせていただきます」
「こちらこそお礼をせねばならん。リーマス。できる限り君が穏やかに、そして教育に専念できるよう力を尽くそう」
固い握手が交わされる。
コーヒーのなかで溶けかけた氷が、小さな高い音を立てて割れた。
学徒のメモ
鴉がセラフィを使って実験した例の件の五番ですが、二ヶ月ほど生命維持限界の栄養だけで体が成長することが分かりました。このことから栄養状態と成長は関係無いことが予想されています。一方で成長に必要な諸々の閾値が著しく低いことも予想されていますが、鴉から実験背景等の詳細情報を受け取っていないため最終結論は保留とします。しかし、レオーから受け取った速報値を見るに我々も同様の結論に至ることが推察されます。速報値の原本はいつもの場所に置いている『湖水水質記録No.3』に保存しておいて下さい。複写分は確実に焼却処理して下さい。追伸。レオーは子細を知り得ないため質問等は一切しないで下さい。また、この件に関する全てについて狩人に報告は不要です。
外出用狩人様のイラスト
挿絵
【挿絵表示】
クルックスは今でも狩人とそっくりの顔をしていますが、この調子で成長するのか、狩人は心配したり期待したり不安になったり、成長を見つめるのが眩しくなっています。まるで人間だった自分にあり得たかもしれない成長を見ているようで。
四仔の私服姿のイラスト
【挿絵表示】
ホグワーツは1年生が11才で入学しますから、3年生は13才。日本マグルで言うところの中学校1~2年生ですね。
セラフィ(170cm)、テルミ(145cm)、クルックスとネフは160cm……くらいのざっくり感で描いています。
狩人様の突撃イギリス訪問
ヤーナムからようやく離れたのにヤーナムのことを考え続けてしまうのは今の彼にとって職業病かもしれません。でも空白は存在の輪郭を強調してしまうので致し方ない側面もあるのでしょう。終盤、彼は一般旅行者のフリをして人混みをうろうろするように心がけてからはアイスも見つけて楽しそうです。
デート
クルックスとテルミはデートしています。正確にはテルミがデートと言い張るお買い物なのですが、クルックスはデートを男女が連れ添って歩く行為(そのためお父様とテルミでもデートは成立する)という大いに誤った認識をしているので彼らにとってはデートなのです。ネフライトは認識の誤りをキチンと把握していますが、学徒のいる空間が嫌いなので修正は別の機会となりました。
ご感想返信は、うっかりネタバレしてしまいそうなので、後ほどご返信させて下さい。
でも、とても励みにさせていただいていますので、ご感想お待ちしています(交信ポーズ)