甘き夜明けよ、来たれ   作:ノノギギ騎士団

90 / 128

睡眠と夢
内的原因によって周期的に起こる状態。
近頃の学者によれば眠りに際し起こる夢は、脳が記憶を整理する折りの幻覚だという。

浅い眠りのなかで彼は夢を見た。
懐かしい香りのなか白い腕に抱かれる揺籃の夢を。




ホグワーツまでの前夜

 ホグワーツでは。

 三年生になると校外の街ホグズミードへ外出することが許される。

 それについて思うことは「ふらりと散歩するにはよかろうか」という程度だ。そのためクルックスは重く意識することはなかったが、テルミやネフライトは興味津々であれこれと関連図書を読みあさっていたようで、今もテルミは夢中になって雑誌を読んでいる。

 クルックスは、頭上で交わされる彼らの会話を流し聞きながら宿題に取り組んでいた。ほとんど終わりかけているが、油断はできない。

 

「四人で一緒に行くお店を決めないとね。カフェ、レストラン、雑貨屋……あら、バーもあるのね」

 

「くだらない。三人で出かけてくれ。私は欠席だ」

 

 ネフライトは気の塞いだ声で言う。先日、ダイアゴン横丁でクルックスが買い込んだ手動式QWERTY配列タイプライターを彼は朝早くから起きて念入りに調整していた。父たる狩人とクルックスが物珍しさに心負けて触ろうとしたら静かに怒られたので彼の調整が終わるまでは、こうして遠くから眺めているだけだ。

 その彼はタイプライターの打鍵から目を離した。

 

「──ところで許可証に署名はもらったのか? それが無ければ話にならないぞ」

 

 テルミは衣嚢から一枚の紙を取り出した。

 

「ユリエお姉様に今朝サインをもらったわ。セラフィ、貴女は? お父様にお願いしたのかしら?」

 

 めでたく一日の余裕を残して宿題が終わったセラフィはテーブルの上で愛銃を分解して掃除している。作業の手を止めず、彼女は答えた。

 

「僕はレオー様にサインをもらったよ」

 

「あらそうなのですね。お父様でなければ鴉羽の御方かと思いましたが、違うのはちょっぴり意外だわ」

 

「最初はお父様にお願いしたが『レオー様に頼め』と言われてしまった。……鴉羽の騎士様はヤーナム外のことがお嫌いだから、お願いする気分にならないな。僕は恐怖を感じないだけで痛覚はごく普通に存在するからね」

 

「ふぅん。そうなのね。ネフは? お父様にサインをもらったのかしら?」

 

 ネフライトは嫌な顔を隠さなかった。

 

「冗談で言っているのだろうね、それ。お父様の偽名にも程がある名前でフィルチさんと諍いになりたくない。学派のダミアーンさんからサインをもらっている。クルックスは誰に頼んだのかね?」

 

「俺はまだ誰にも頼んでいない。宿題が終わらずそれどころではなかった。今もそれどころではないと言いたい。ふむ。けれど行って見聞を広めるべきだなのだろうな。お父様にお伺いを立ててこよう。きっとコッペリア様に頼むことになるだろうが……」

 

 クルックスは、宿題をキリのよいところで切り上げると狩人と学徒達がいる部屋へ向かった。廊下の壁面に隠された階段を下ると学徒の部屋がある。ノックすると入室を許可する声が聞こえた。今日は、ユリエの声だった。

 

「失礼します。ご相談がありまして参りました。お父様よろしいですか?」

 

 父たる狩人はソファーに寝そべって『吟遊詩人ビードルの物語』という子供向けの書籍を読んでいた。昨年、コッペリアが買い込んだ図書の一冊だった。

 

「俺? ああ、何かな。そうそう、俺からも一つ二つ、君に話すべきことがあった。この本の事と旧市街へのお遣いを頼んだ諸々の手間賃についてだが……あ、採血の準備を忘れていたな……。あとでな」

 

「了解です。俺の用事はホグズミードへの許可証の件です。先にセラフィがお訊ねしたようですが、保護者の署名をいただきたいです」

 

「ああ。なるほど。俺の名前は避けた方がいいだろう。コッペリアかユリエ、頼めるだろうか?」

 

「署名なら僕が書くよ! 狩人君の名前は、ちょっとねぇ。そうそうサイン用のペンがあってさ。……ん。あれ? どこにしまったかな?」

 

「では、よろしくお願いします。俺は宿題が、かなり、アレなので作業に戻ります」

 

 クルックスは、許可証を近くのテーブルに置いた。

 狩人がうずたかく積んだ本の向こう側で手を振った。

 

「追い込み頑張りたまえ。俺は納税したから当分大丈夫だ」

 

「それは昨年の話だろう。今年の納税分はコツコツ頑張りたまえよ。つい最近『納期限の最終日まで血眼で鐘を鳴らすのはもうしないぞ!』と決意したばかりじゃあないか」

 

「だが一年はまだ始まったばかりだ。俺にも休暇があってもいいハズだ。このように!」

 

 狩人は、悠々とソファーで体を伸ばし、ついでに両手を広げた。

 それを知ってか知らずか、コッペリアは鼻で笑った。

 

「それが結局自分の首を絞めるんだから世話のない話だよ」

 

 狩人は何を言われても気にしないことを決めているようだ。彼は軽く笑ってソファーでゴロゴロしていた。クルックスはいつか見たことのある猫の写真集を思い出した。 

 

「コッペリア、他人事のように語っているけれど、貴方もレオーから依頼を受けているのでしょう。天気が崩れないうちに用事を済ませてしまった方がいいわ。明日にでもね」

 

「あぁ~、忘れてた。近々、医療教会上層に行かなきゃならないなぁ」

 

 うっかりしていた、とコッペリアはペンを探していた手で目隠し帽子をおさえた。

 三人がそれぞれ今年の予定を話し合い始めたのでクルックスは一礼して退室した。

 

(学徒の方々はいつもお忙しくしているが……コッペリア様が受けた仕事はヤーナムの過去を繙こうという試みだ。レオー様の話が本当ならば、秘密は当事者の死と共に葬られているが、それさえ覆すご心算であるのか? いまだ悪夢を彷徨っている古狩人から聞き出すとして、戻ってこない古狩人が大半なのに)

 

 だが、これまで成功していないということは異常を通常とする現在のヤーナムにおいても困難なことなのだろう。

 手伝いを申し出なかったことを少々気に病みながら、彼は勉強部屋に戻ってきた。

 部屋には、テルミがソファーに寝転んでいるだけでセラフィとネフライトはいなくなっていた。

 

「ん? 二人はどうした?」

 

「セラフィはお仕事ですってカインハーストに向かいました。何でも整理整頓の任務とか。ネフはなにも言わなかったけれど、外だと思うわ」

 

「ネフが外に? 珍しいな。しかし最近、何やら鬱屈気味だったのでちょうどいいのかもしれない。散歩しているのだろうか」

 

 彼のタイプライターはテーブルの上に置いてある。好奇心に負けた誰かが手を触れることを見越したように『全員接近禁止!』と書かれた置き手紙があった。

 窓に近寄って外を見るとすぐに彼を見つけた。彼は、水辺で弓を引いていた。ますます珍しい光景だ。

 

「……彼は医療者だが狩人でもあるので鍛錬の方が気分が晴れるのかもな」

 

 テルミが寝そべっていたソファーから身を起こした。

 

「貴方は知っているのかしら? ネフがずいぶん落ち込んでいる理由について」

 

「知らない。興味はあるが話してはくれない。そういう情報収集は君の得意分野だろう」

 

「ネフは用事が無ければ、わたしと口を利いてくれないの。わたしはもっとお話していたいのだけど」

 

「時間が解決するだろう。あまり茶々をいれないことだ」

 

 クルックスは、彼に気付かれる前に窓から離れ元通り、長椅子に腰かけた。

 羊皮紙のインクが乾いたことを触れて確認しつつ、重ねていく。

 

「自分でどうにもできない問題を抱えて身動きが出来なくなるほど彼は不器用ではないだろう」

 

「そうだとよいのですけれど。あら。怪訝な顔をしないでね? わたし達は幼いのですから失敗することもあるわ。その時の傷は浅く済ませたいものね」

 

「そうだな。……何だ」

 

 クルックスの隣に来たテルミは、ちょこんと座った。

 

「暇なので課題を見てあげようかと思いまして。わたしも成績は良い方ですから。例えば『ベゾアール石はどこにあるか』の質問の答えは『スネイプ教授の薬品保管庫の三番目の棚』ではないことを指摘できるわ」

 

「とても助かる。実のところ、なぜ個人の薬品保管庫のなかにあるものを俺に聞くのだろうと疑問だった試問だ。そうか。産出場所のことを質問していたのか」

 

「うーん。貴方の宿題は総点検した方が良さそうな気がしてきましたね。わたしは心配です」

 

「ああ。頼みたい。宿題と言えば、クィレル先生は?」

 

「自分の部屋で調理をしています。ネフが調味料とお肉を買ってあげたの。一年間芋を食べ続けて食傷気味なんですって」

 

「なんと。学徒のお二人は二〇〇年以上芋を食べて続けているのに。一年で飽きてしまったのか?」

 

「学徒のお二人を引き合いに出すのは残酷なことです。あまり食事にこだわるお二人ではないし、クィレル先生はお菓子を知っていますから。病み人のように生きていることを唯一の娯楽にして欲しいですね。ウフフ、フフフ……」

 

「何だ。ずいぶんと楽しげだな」

 

 テルミはクルックスが書いた『変身術』のレポートを眺め、ついでに彼に寄りかかった。大した重さではないので彼も好きなようにさせた。

 ──そういえば。

 テルミはすっかり宿題を終えてしまったのに雑誌をめくり始めるまで書き物をしていたようだ。何を書いていたのだろうか。

 

「一生懸命に生きている人は可愛いわ。つい助けてあげたくなりますね。お父様がクィレル先生を助けた理由も、あるいはそういう気持ちだったのかもしれません。わたしにとって小気味よい想像なので、つい笑ってしまったの。わかるかしら?」

 

「よく分からない。彼にとって良いことであれば、俺は奨励すべきなのだろう。けれど、君の善意は少々極端に過ぎる。ハリー・ポッターをノクターン横丁に連れ出そうとした件にしてもそう。あのまま連れ歩いていればきっと騒動を起こしてしまっただろう。あの提案は好ましいことではなかった。マルフォイに突撃したこともそう。俺達は──お父様がそうであるように──どうしても巡り合わせが良くないのだから『よかれ』と思って何かすることは、慎重に、そして、できるだけ控えた方がよいのだ」

 

「ウフフ、自分に言い聞かせているといいわ。わたしの正しさとは異なるようです。ええ。咎めませんよ。控えめな干渉を心がけることは、貴方の美徳ね」

 

「『心がけ』か。明日から始まる新年度にあっては是非とも実践に移していきたいところだ。……さて。魔法薬学はこの程度でいいだろう。いいと思う。いいとする。いいとしたい」

 

「残念ですけれど出来具合を決めるのは貴方ではなくてスネイプ先生なのよね。はいはい、嫌な顔をしないで。ちゃんと見てあげますからね。教科書を見て書いているのならば、そうそうトンチンカンなことを書けないハズです。すこしの修正で済むでしょう。わたしがチェックする間、お菓子を食べて英気を養っておいてね」

 

「助かる。……はぁ……新年度の授業はもっと難しくなるのだろう。俺はついていけるだろうか。授業のスピードに。……体を動かすことならば、誰にも負けないのだがな……」

 

「そうですね。体を動かすといえばクィディッチですが、貴方は飛行訓練はお好きなのかしら?」

 

 飛行訓練。その名の通り、箒による飛行、道具の取り扱いを学ぶ科目であり、ホグワーツ魔法魔術学校においては必修科目にも設定されている。

 だが、クルックスは飛行訓練が好きではなかった。

 

「ネフは常々言う。『我々の体は四次元にすら対応できていないのだ。なぜ三次元に堪えうるというのかね?』。至言だ。箒は苦手だ。地面から脚を離すという行為が、もう、何というか、ダメダメだ。恐怖とは違う。ただの違和感なのだが、それが凄まじくて、堪えられない」

 

「あらあら。ネフが唯一首席を逃した科目とは聞いていたけれど、貴方もダメなの。とっても意外ね。セラフィは簡単と言っていたけれど」

 

「技量の差だろう。彼女は器用だからな」

 

 クルックスは、テーブルに置かれたクッキーを食べた。

 バニラ味のクッキーは口の中で柔らかく砕けた。

 

「美味しい」

 

 食事に関する語彙は、増える傾向を見せない。それもこれも大抵のものは「美味しい」のひと言で済んでしまうからだ。感動を一口で言い表してしまうのは、勿体ないと感じることもあるが、感動を伝えたい時は大抵、目の前に美味しいものがあるので語彙の貧弱さに彼が困ることはなかった。

 

「そう? 嬉しいわ。お父様の夢のなかで人形ちゃんと作ったの」

 

「ああ、素晴らしい。食事を作れることは幸運なことだ。そして美味しい。バニラ。恐らく、ブルジョアの味。富裕層の香りがする」

 

「何を言っているか実はよく分からないのだけど、お気に召したのならよかったわ。次の夏休みにまた作ってあげましょうか?」

 

「頼む。俺も何か手伝おう。買い出しとか」

 

「ええ。一緒に行きましょう。わたしも作っていて楽しかったわ。──では。はい。修正箇所です」

 

 テルミが羽根ペンを動かしていた手を止めた頃、クルックスもクッキーを食べ終えた。

 

「ありがとう。──いや、待て待て。結構あるじゃないか」

 

「どんな問題であっても、ひとつずつ片付けていけば、巨大な障害にはなりえないのです。なので、さっさと手を動かして直しましょうね」

 

「ぐうぅ……。あまりの正論に言葉も出ない。……しかし……人には向き不向きがあるハズでは……?」

 

「今どき汎用性のない狩人になっても仕方がありません。今年のスローガンは『目指せお父様!』でいきましょう。獣をねじ伏せる手段は筋力だけではないでしょう? わたし達は臨機応変に適切な対処のできる狩人になるべきなのです」

 

「お父様はいつもノコギリ鉈を使っている……」

 

「あらあら。言い訳ばかりの困ったさんになってしまったのかしら。……フフ、そうイヤイヤという顔をするものではないわ。考え方を変えてみましょう。これだけが人を救う術だとしても貴方は手抜きをするのかしら?」

 

「ぐぅ……。君の言いたいことが、何となく分かる。『たかが』と思ったことに足下をすくわれると言いたいのだろう」

 

「違いますけど似ているのでヨシとしましょう。けれど、そういうことなのです。死の間際に『もうちょっと知力に振っておけばよかったなぁ』とは思いたくないでしょう? ましてこれから行くのはホグワーツです。大抵のことは何でも取り返しのつくヤーナムとは違います。わたし達にはまだ想像もつかない、限りある命を抱えて生きている子供のなかに飛び込んでいくのです。……そして、わたし達も幼いのですから」

 

 ──傷は浅く済ませたいものね。

 テルミが言わんとする言葉を悟り、クルックスは羽根ペンを取った。

 

「貴方には何かご褒美が必要ね。何がいいかしら? 夕食まで時間があるのでクッキーをまた焼いてみましょうか?」

 

「勉強に褒賞があるべきではない。これは俺のための勉強なのだから」

 

「そう言って一週間も缶詰なのですからご褒美には何かあってもいいと思うわ。頑張っている人は報われるべきなのです。何か欲しいもの、あるかしら。青い秘薬のダースはいかが?」

 

「それは後ほど君から購入する。無償、無料はいけないものらしい。『ただ』のものに人は敬意を払わず、結局、高くつくとレオー様は言う」

 

「あらそう? 『きょうだい』の仲ならば、わたしは気にしませんけれどね。けれど気が進まないのなら仕方がないわ。他には? 何かしてほしいことないかしら」

 

 クルックスは羽で顎の下を掻きながら考えた。そして閃いた。

 

「では、夜は寝ようか」

 

「んぇっ──ビックリして噎せちゃったわ──なぁに?」

 

 テルミは目をぱちくりさせた。

 彼女は表情をころころ変えるが、これは珍しい顔だった。

 いつも人を手玉に取りたがる彼女にそんな顔をさせたことは、何だか気分が良い。クルックスは小さく笑った。

 

「『一年間お疲れさま会』の後、俺はひどく酔って寝てしまったのだろう。君に世話をさせてしまった時のことだ」

 

「わからないわ。わたしは貴方を甘やかしたいのよ? 貴方に世話をされたいワケではないの」

 

「まぁ待て。急くと秋となるぞ。──君と眠るのは充実していた。夢も見なかった。ぐっすり寝た。温かさがあると眠りの深さが違うのだろうな。君は、俺へのご褒美に何かしてくれるらしい。今夜、どうだろうか。学舎で過ごす最後の夜だからユリエ様もきっとお許しになるだろう」

 

 羽根ペンのふさふさした羽でテルミの顔の輪郭を撫でる。すると宙を泳いでいた彼女の視線が、ふらふらと落ちてきて、クルックスと目が合った。

 

「そういうことなら、そういうことなら仕方ないわ。ええ、そう、仕方ない、仕方ないわ。わたしは貴方のお願いを叶えたいのですから! いいですよ。いいわ。貴方がわたしの部屋へ? それとも貴方の部屋に行けばよいのかしら?」

 

 するりとクルックスの左腕に身を寄せてテルミは囁くように言った。

 

「別の広い部屋だ。あとで伝える。コッペリア様に申し出てベッドも準備しておこう。倉庫にいくつか在庫があったハズだ」

 

 テルミは幸せな気分で浮ついた。暢気にも「夜は何を着て行こうかしら」と考え始めた。そのため、その後クルックスが言った「だが仲間はずれは良くないな。ふむ」という言葉を聞き逃した。

 

「さて、宿題の修正を頑張るとしよう。それから学徒のお二人にお伺いだ」

 

「ええ。頑張りましょうね! ううん、頑張って! 頑張りなさいね!」

 

 クルックスが宿題に取りかかり始めるとテルミは隣で助言をした。

 夏休み最終日は、二人にとって穏やかな午後の時間となった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 夜。

 市街で獣を追っているであろう連盟の同士に思いを馳せながら、彼はビルゲンワースの廊下を歩き、目的地に到着した。

 扉はわずかに開いている。すでに来訪者がいるらしい。蝋燭と魔法の光が空間に浮いている。光源が豊富なので中の様子は窺えるが、礼儀としてノックした。すると「いいですよ」と上ずった声が聞こえてきた。

 部屋の主はクィリナス・クィレル。彼と話していたのは、父たる狩人だった。テーブルには二人分のティーカップがあった。

 

「お父様、こんばんは。クィレル先生にご挨拶に来ました。明日、ヤーナムを離れますから」

 

「ああ、良いことだな。俺はすこし歓談をね。……俺にも学ぶことは多くある。先生と話していると時間を忘れそうになるほどだ。今は『吟遊詩人ビードルの物語』についてな。知っているか?」

 

「いえ、知りません。あとで読んでみますね」

 

 クィレルは恐縮したように肩を竦めた。

 二人の間ではテーブルの上に置かれたテーブルランプがあった。しかし、照明としての役割は求められていないようだ。立ち上る焔の上には網が置かれ、薄く切られた燻製肉がわずかな油を音立てていた。酒こそないが、これも話の『つまみ』なのだろう。

 

「夏休みも最終日。お、おも、思えば、早かったような、短かったような。あ、新しい学校生活に心弾むものですか。それとも、ゆ、憂鬱になるものですか」

 

「心配なこともありますが、概ね楽しみです。新しい教科も増えますから、学ぶことも多くあると思っています。先生もお体に気を付けてください。……食事は大切なものです。気が回らず失礼いたしました。芋ばかりは大変だったのですね」

 

 クィレルは「そんなことはない」と言いかけたようだが、肉が焦げないようにサッと網の上でひっくり返す動きは真剣そのものだった。

 

「俺達は豚肉を食べない。いいえ、先生が気にされることではない。俺達は、お父様の真似をして食べていないだけですから。しかし、先生が芋に食傷であれば……俺もすこし融通しましょうか。今年からホグズミードに行くことが出来ますから、多少の食料を買っても怪しまれることはないと思います」

 

 話を聞いていた狩人が「おお」と色よい声を上げた。

 

「禁域の森の豚を狩ってこようかと算段していたところだが、手に入るのならばそちらの方が良いだろう。……こちらの豚は餌がな……衛生的に……。あぁ、嫌なことばかり思い出してしまう」

 

 半分は独り言になった狩人を横目に、クルックスはクィレルに提案した。

 

「お父様からもお許しが出ましたから、今年はご期待ください。できる限り快適に過ごせるよう努力します。金で買える快適さならば安いものです」

 

「それはどうも、あ、ありがとう……けれど気を遣わないでください……ええ」

 

「健康! 病み人だった俺は、すこし気を配るべきだったな。失礼をしてしまった、先生。栄養バランスという概念が、ここには存在していなかった。実は食事という概念さえ皆、怪しいところだ。──クルックス、長期保存できるものが好ましいだろう」

 

「了解しました」

 

「充実した生活となると、い、いいですね。今日は早く休んだ方がいいですよ」

 

「そうですね。……それではお父様、クィレル先生。先に休ませていただきます」

 

 二人はそれぞれに労いの言葉をかけてクルックスを見送った。

 その後で。

 椅子に座り、膝の上に手を乗せたクィレルは、対面のソファーで寛ぐ狩人を見て言った。

 

「……彼は、一夏の間に、す、すこし貴方に似てきましたように見えますね」

 

「そうか」

 

 狩人はテーブルランプの硝子に映る自分を見つめ、それからクルックスを思い浮かべた。

 

「残念なことだ。私に似た顔になるということは、苦労が多いということだからな」

 

「こ……子供が子供らしく過ごせる時間は短いものです。……もうすこしだけ、彼らにもゆっくりする時間が必要だと思いますが……」

 

「それは出来ないな。狩人が狩人を止めてしまえば、我々はただの豚の餌だ。はじめた時と同じように終わることは出来ない。目につくものを狩り尽くして明かす夜は終わった。だが、まだ『狩り』は必要だ。純粋に、自分や誰かを守るためにもな……」

 

 狩人の言葉は。

 クィレルにとって理解が困難なものだった。それゆえ彼の危惧は、狩人には理解されないものだということも分かった。

 それでも、見てしまったものはある。

 

「わ、私が起こした賢者の石の件、クルックス達から聞いて、貴方はすっかりご存じでしたね」

 

「概要は、と前置きを付けるべきだが、それが何か?」

 

「ここは考え事をするには十分な時間がありました。自省するには十二分な時間、そして後悔するには余りあるものです。ホグワーツ地下、『みぞの鏡』の間でヴォル──闇の帝王と私が謀をしている間。……きっとやって来るのはダンブルドアだと思っていた。次点でスネイプ教授。闇の帝王が警戒していたのは彼らで、しかし結果は違いました」

 

 狩人もその話は知っていた。

 今から約二年前になる。顛末は簡単だ。

 ハリー・ポッターが全て終わらせた。

 クィレルは、震える手を隠すように握った。

 

「もしも、彼がやって来たのはダンブルドアの差配であったのなら、もしも、あそこでの出会いが偶然ではなかったのならば、彼は策士だ。最も効果的に、確実に我々を滅ぼした。……しかし、それでも……彼は? ハリー・ポッターは? 私が今さらあの子のことを心配するのは筋違いなのでしょう。けれど、彼のことを思えば不安なのです。闇の帝王と会っただけで、子供の心には恐ろしい出来事だったに違いない。まして、例のあの人は、ハリー・ポッターにとって親の仇です。とても、とても、恐怖を感じたことでしょう」

 

「『大人の都合でこどもを振り回すな』と言いたいのかな、先生?」

 

「いいえ。貴方や学徒の都合だけならばよいと思いますよ。『お使い』の範疇でのことならば社会の訓練として子供には必要でしょう。そ、それに貴方は、何でも、どうとでもできるのでしょうから。……私が心配してしまうのは、他の大人の影響です。彼らは、あの子達をあまりに『子供』として扱っていないのではないかと……気がかりなのです」

 

「そうか。ふむ。ヤーナムでは、あれくらいの年の子になれば、恐らく何らかの仕事に従事している頃だろうから気にしたことがなかったが……。学生をしている子は、学生をしていない間、何をしているんだ?」

 

 狩人は、オッタリー・セント・キャッチポールの『隠れ穴』にあるウィーズリー家に行ったときに話を聞いてくればよかったと思った。

 クィレルは、すこし考えて込んでから答えてくれた。

 

「遊んでいますよ。いえ、私は友達がいなかったので遊べませんでしたけど」

 

「すまない。悪いことを聞いた。悲しい子供時代を掘り起こすつもりはなかったんだ」

 

 網から肉を下ろし、近くにあった皿に取ると部屋の中には何とも言えない肉の香りが広がった。

 

「え、ええ。自分でも思いがけないダメージを受けていますが、そ、その、気にせずに。……ともかく、もうすこし穏やかに過ごす時間が必要なのではないでしょうか? 学校が終わってしまえば、四人ともずっとヤーナムにいるのでしょう。ですから、学生の間だけでもせめて子供らしくあっても……など……私は、思うのですよ……」

 

「ふむ」

 

「ネフは、よく私の話し相手になってくれていますが……さ、最近はとても参っているように見えます。もちろん彼は決して悩み事を口にしませんが……子供が負うには重い荷を持っているのではないですか?」

 

「放任も過ぎれば毒なのだろうか。……ふむ。先生の言うことならば検討してみよう。日帰りで実施した旅行企画は、まぁまぁの出来だったようだからな。……学徒はよい顔をしないだろうか」

 

 狩人は、そう言って思案顔になった。

 その顔は、やはりクルックスとそっくりなものだ。つまり、苦労が多いのだろう。

 

 クィレルは、カーテンに遮られた窓の外へ意識を向けた。

 空には『いつものように』満月が浮かんでいるのだろう。

 狩人は立ち上がり、部屋の壁に掛けていたトリコーンや外套を抱えた。

 

「さて、明日の十時までには戻るだろう。──先生も夜はお休みになるといい」

 

「え、ええ……ありがとう、ございます……」

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

(これはもう完璧と言ってもいい出来でしょう!)

 

 ビルゲンワースにあるテルミの部屋は、一見したところ私物が少なく実に簡素なものだ。

 なんせ彼女が私有する物のほとんどは服であり、洋箪笥に納められているからだ。

 レースに彩られたワンピースは現代においてベビードールと呼ばれるネグリジェの一種だ。

 肌着として求められる機能より、視覚の栄養に富む衣装となっていることをテルミは知っていたが、面白いことに使えそうなので先日ダイアゴン横丁で買ってきた。

 クルックスに荷物持ちをさせて買いに行ったものだ。

 つい最近の温かい思い出も彼女にこれを手に取らせた。

 姿見の前でクルリと回ると白い裾が広がった。

 

「赤とか黒とか、濃い色の方が良かったかしら……?」

 

 凹凸の少ない体を見下ろし、テルミはレースの裾に触れた。

 真新しいネグリジェは──ヤーナムのあらゆる衣類がそうであるような──ほつれのひとつもない。

 けれど、白はいくらなんでも地味すぎるかもしれない。

 

 ──おや、素敵なお召し物ですね。

 ──縫い目が細かい。

 ──刺繍は、まあまあ。

 ──繊維が……人の手によるものなのでしょうか?

 ──なぜでしょう……。

 ──途方もない時代の流れを感じます……。

 ──はっ、失礼。ご相談は色でしたね。

 ──テルミさんならば、次回は濃紫などいかがでしょう。

 ──いえ、私の趣味ではなく性癖でもなく。

 ──はたまた嗜好でもありませんよ。

 ──瞳の色に相応しいかと思っただけなのです。

 ──そ、そう疑わずに。

 ──ところで、どなたのためのお召し物なのでしょう?

 ──いったいどこの馬の骨なのか伺っても……?

 ──あう。な、なんでもないです。

 ──私は幸福です。

 ──耐えられないほどの幸福のなかにいるのですから……。

 

 美的センスは医療教会の黒、ピグマリオンの方が上だ。病み付いた言動はあるものの彼の審美眼の正しさは、多くの場合で認めなければならないだろう。次回の反省は心に留めつつ、これ以上のものはないので袖を通した。

 そうして自室を出てスキップしながらクルックスが示した部屋に向かう。

 微かに笑う横顔は、幸せの色をしている。しかも、ヤーナムに誤って咲いた花の如く開いた少女が満月に照らされたのなら、恋するピグマリオンがうっとりと溜息を漏らすほど殊更に白く輝いて見えるのだった。 

 

 快活と信仰を矛盾なく持ち合わせ、純情に他人を慕い弄ぶ少女の形に惑わされた者の末路は、つい最近、ピグマリオンが証明してしまったことをまだ誰も知らない。

 彼女の内面にどんな思惑が渦巻いているのであれ、見目はヤーナム内外の美しさの指標に高くかなうものだった。

 ──たとえクルックスが『可愛い』を理解できなくとも今日、具体的には、今夜に知ることになるでしょう。

 テルミはそんな確信を持って部屋の扉を開いた。

 そこには挨拶回りを終えたクルックスが市街の狩人を案じて窓のそばに立っている──ハズだった。

 

「まったく、こんな時間に私を呼び出すとは。君だから応じてやったんだ。しかも時間に遅れてくると、は──ヒッ、う、ワアアアアッ!」

 

 部屋の中、窓のそばにいたのはネフライトだった。

 テルミも驚いたが、ネフライトの驚きようは比ではなかった。

 口をぱくぱく開けたり閉じたりしながら、数歩下がった拍子に頭を窓枠に打ち付けてしまった。

 

「ぐぅうぅぅ、痛い!」

 

 それはそうだ。聞いているこちらも痛くなりそうな音を立てた。

 いつもならば「あらあら」とでも言うところだが、意表を突かれたのはテルミも同じだ。

 

「きゃっ! ネ、ネフ、な、なによ……」

 

 ネフライトは我が目を疑うようにパチパチ瞬きをした。

 

「テル──テルミ! な、なんだ……! その格好は! 破廉恥! 破廉恥な紐! 破廉恥が歩いている! は、恥知らず! 恥を知れ! この、このっ、この~っ!」

 

 気を取り直して怒り狂うネフライトの手から逃げながらテルミも混乱していた。

 

「な、なんでネフがいるのっ!? クルックスに呼ばれたのはわたしなのに──!」

 

「ハァ!? クルックスに呼ばれたのは私だ! そしたら君が破廉恥してきたんじゃないか! やはりそうだ男を誑かすのは女だと決まっているな!」

 

 テーブルを挟んで睨み合いながらネフライトが強い言葉で言った。

 内臓に手を突っ込む気安さでテルミはネフライトの心を読んだ。普段、テルミに対しては嫌悪以外の感情を露わにしない彼の珍しい姿に魔が差したのだ。

 

「ウフフ、ネフったら自分がわたしのように可愛い女の子の形ではないから怒っているのね?」

 

 朱が差したネフライトの顔は、ほんの一瞬、青ざめた。

 

「ばっ……かを、言うんじゃあないっ! そんなっこと! あるワケないだろうがっ! 学派では女性など目も当てられん扱いをされるのだからなっ!」

 

「もうっ、ネフったら。これ以上は神秘99のガラシャでパンチしますわ。でも、そんなことよりクルックスを探しに行かないと──」

 

 その時、扉が開き、ふたりは「すわクルックスか」と思い、争いを止めた。

 

「深夜の呼び出し。理由は聞かずとも分かるとも。決闘とは気高いものだ! いよいよ君と僕のどちらが優れているか白黒つけようと言うのだね?」

 

 およそ考えられる限りの最高の武装をしたセラフィが現れたのでテルミは絶句した。

 ネフライトは一足先に「もうダメだ」と呟き、視点を天井に向けてこれ以上の視界情報の理解を拒んだ。

 

「セラフィ! 貴女……あの、どうしちゃったの……?」

 

「クルックスから依頼を受けて来た! 何でもこの部屋に来いとね。レオー様に伺ったら『夜の決闘でもするんだろ』とのことだったので僕はこのように狩装束で来たのだ。それで君たちが決闘立会人か?」

 

「違うわね」

 

「違うのか。では、なぜここにいるんだ? おや? この部屋、ベッドなんてあっただろうか……?」

 

 ネフライトとの騒動でテルミは気付かなかったのだが、部屋には大きな寝台が二台置いてあった。それは天蓋付きの立派なものだった。

 

「だが、枕がないね」

 

 セラフィの指摘通り、寝台にはあるべき枕がなかった。

 するとクルックスのいない理由にも思い至る。間もなく、ノックの音が聞こえた。

 

「両手が塞がっている。開けてくれないか」

 

 再び気を取り直したネフライトが扉を開くと両手に枕を抱えたクルックスとコッペリアが立っていた。

 

「この時間までに枕が乾いてくれてよかった。これはネフの分だ」

 

「ああ……そう……」

 

 ネフライトは受け取ってしまった枕を手の中で形を確かめるように触った。

 

「セラフィの分だ」

 

「ありがとう。ところで、これから決闘するのかな?」

 

「その予定はない。君も武装を解くといい。今夜は休むべき日だからな。──これはテルミの分だ」

 

「ん……あ、うん……」

 

「ずいぶん薄着だな。ヘソが見えているぞ。しかも尻の半分が隠せていない」

 

 それを聞いたコッペリアが三人の頭上で盛大に吹き出した。

 彼は励ますように震えるテルミの肩を優しく叩いた。

 

「ファー! じゃ、じゃあ、ファフッフフッ、プフ、うん、ウフフ、プフォッ! 年寄りはこのへんで。いいかい。ンッフ、クフフ、四人ともくれぐれも仲良くするんだよ!」

 

「分かりました。お休みなさい、コッペリア様」

 

 唇が緩い弧を描き、彼はヒラヒラと黒い長手袋に包まれた手を振って部屋を出て行った。

 最初に動いたのはネフライトだった。コッペリアの足音が聞こえなくなるやいなや枕をベッドに投げつけてテルミを指差した。

 

「そうだな!? 破廉恥だな!? 破廉恥だと思うんだな!? 破廉恥だよなぁ!? 許せないよなぁ!? クルックス!?」

 

「ネフ、俺は君が何に興奮しているのか理解しかねる。テルミは何を着ても、きっと、可愛いと言われるのだろう。しかし、腹を冷やすなよ。明日はずっと列車に揺られることになる。トイレとの旅は楽しいものではないだろう」

 

「あら、心配してくれるのね! わたしは貴方がわたしとの約束を忘れてしまっているのではないかと心配なのに! いいえ、この際、セラフィがいるのは許しましょう」

 

「メンシス学派差別か!? ええ!?」

 

 今にもテルミに食ってかかりそうなネフライトを止めたのはセラフィだった。「まぁ、落ち着きたまえよ」と言って脇腹に銃口を押し当てたので彼は以降、静かになった。

 

「どうしてネフがいるの? わたしと貴方だけの予定だったのに」

 

「二人で眠るのは充実していただろう。だから四人で寝たらきっともっと充実するだろうと思ったので呼んだ。……すまない。てっきり話をしたつもりだったのだが、その様子では俺は話し忘れてしまったらしい。……先日は、独りでは得がたい眠りだった。君は、俺にご褒美をくれるらしい。今夜は期待したいところだが、どうか?」

 

 彼にしては珍しく機嫌を取るようにテルミの頬を指で撫でた。

 予定とはずいぶん違うが、求められたからには応じることもやぶさかではないのだ。

 

「し、仕方がありませんね……。わたしだから許すのよ?」

 

 結局、テルミが部屋を去って行くことはなかった。

 クルックスとテルミの話が一段落したところでセラフィも肩の力を抜いた。

 

「そういうことであれば話は単純だ。親睦を深めることもよいだろうね。僕も先達とゆっくり休みたいものだよ。……今晩は特に。カインハーストを離れがたい夜だった」

 

 行儀悪くネフライトは舌打ちをした。

 

「まったく結構な提案だ。親睦と共に溝も深まった気がするがね。──君は、さっさと銃をしまいたまえよ!」

 

「今夜の寝台は、僕らの揺りかごだ。何人も争うことあたわず。ここを出て行くか、不戦を誓いたまえ」

 

「今夜だけはテルミを蹴飛ばしたりしないと誓おう。クルックスのために。そして許可したお父様の為にも。……実はとっても癪だが」

 

「よろしい。では寝ようか」

 

「ハァ? 誰が君と──あ、力強い……!」

 

 軽々とネフを寝台に投げ込んだセラフィは部屋にある洋箪笥のなかに狩装束を納めた。

 身軽になったところでネフライトもベッドの上でシャツのボタンを二つ外した。ついでに眼鏡を外し、サイドテーブルに置いた。

 

「私だって聖職者の端くれだ。……くれぐれも触らないでくれよ」

 

「それでも触れることから愛は始まるものだ。僕らの間柄で忌避することはないだろう」

 

「知っていた気がするが、君と私は根本的に相容れないらしい。もういい。寝る。……明かりを消してくれ。すこしでも明かりがあると眠れないんだ。だから私は隠し街のヤハグルで掃除用具箱のなかでバケツを被って寝ている」

 

「肺に黴が生えてしまうよ」

 

 彼女が呆れたように言った。

 

「眠れないよりいい。……どうした、セラフィ?」

 

 てっきりすぐにでも身を横たえると思っていたセラフィが、軽装になったにも関わらずいつまで経ってもベッドのそばで立ったままだったのでネフライトは声を掛けた。柄にもなく緊張しているのだろうかと疑ったがそんな殊勝な風ではない。言葉に急かされたように彼女は動き、促したとおり広いベッドに横たわった。それからネフライトにだけ聞こえる声で呟いた。

 

「僕はもう十日ほど寝ていないんだ。眠り方を忘れてしまっているかもしれない」

 

 冗談ではない響きがあった。

 

「……なぜそんなことに? 私達にも眠気はある。空腹があるのと同じように」

 

「ううん……。レオー様の看病で朝も夜もそばにいた。眠くなったら自分の頭を銃で撃ち抜くんだ。すると万全だった時の自分に戻る。それを繰り返していたら、眠り方を忘れてしまった。お父様が眠って夢が巡り、レオー様の怪我は治ったけれど……肉体と精神は、どうしようもなく違うものなのだね。そして自分の感覚と実態は違うものだ。今は消えた傷の痛みにひどく苦しんでいらっしゃる。僕に寝物語を語れないほどに」

 

「ああ……? ああ、そうか。なるほど……なるほどな」

 

 要領を得ないセラフィの話を聞き、およその事情は察した。

 市街で怪我を負った後、その傷が完治する前に上位者の眠りが起きて、世界の一新に巻き込まれてしまったのだろう。そして先達は、記憶と肉体の差異に苦しんでいる。セラフィの困り事とは、そんな事情のようだ。

 一般的に肉体の傷ならば輸血液を使って回復が見込めることだろう。しかし、治療すべき傷はもう夢の如く『無かった』ことになっているのだ。

 

「恐らく、幻肢痛のようなものだろう」

 

「げんしつう?」

 

「慢性的な疼痛。君の言った症状の病だ。『無いハズの傷が痛む』というものだよ。『痛み』は、必ずしも傷があるから痛むのではない。正常だった時の体と現状の齟齬によっても引き起こされる。神経の混乱とか何とか。私も専門ではないが……ヤーナムの外では交通事故などで四肢を欠損した際に見られる症状の一つらしいがね。……それにあの古狩人ならば顔も火傷か塩酸で痛めているだろう。きっとそれにも苦しんでいるのではないか?」

 

「その通りだ」

 

「ふむ。……なるほど。現在のヤーナムでは『夢を見る狩人』でもない人間が、まるで『夢を見る狩人』のように振る舞っているように見えるが、似ているだけで根本は違うものなのだろうな。夢を見る狩人の我々とは違い、彼らは死んだら一回休み。お父様の夢が巡れば、直前の記憶を保持したまま死んだことが『無かった』ことになる。彼が苦しむ他方で君が何度頭を撃ち抜いても平気なように。過去の出来事を覚えているからこそ感覚の狂いが出ているのか……? 考察が足りない。情報が不足している。……残念だが、外的に治すことはできない。鎮痛剤も果たして効くものか。外傷ではないから」

 

 セラフィは、自分の痛みのように苦しそうな顔をした。

 

「……心配なんだ。レオー様は僕のことを愛してくれているのに僕は何も出来ない……」

 

「君までおかしくなってどうする。さっさと寝ることを思い出すことだ」

 

「きっと僕は今夜も眠れない」

 

「では目を閉じてジッとしていることだ。……君の先達は、君の健康を害してまで回復を望まない。だって、愛が、あるんだろう?」

 

 ぎこちないネフライトの言葉は、投げやりなものだった。

 それでも。

 嘆くばかりだった美しい顔が、わずかに人の血の色を取り戻した。

 

「ああ……そうだった。そうだったね。うん。きっとレオー様は大丈夫だと思う。僕より強いからね。……きっと、起きたら、僕に寝物語を語ってくれるのだろう……僕が眠る時のために……僕らの、未来の話を……そう、きっと……きっと……」

 

「眠ってしまうといい。夢の中ならば……私達は自由だ」

 

 ごく薄い毛布を掛けるとネフライトはセラフィに背を向けて目を閉じた。

 明かりの消えた部屋ではクルックスとテルミの内緒話が聞こえるような気がしたが、そのうち彼も眠ってしまった。背中に感じる温もりが今日の夢の入り口だったことに気付いたのは、抗いがたい眠気が訪れた後だった。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

「くぁ……眠いな。俺は寝るぞ」

 

「ええ。どうぞ」

 

 横臥したクルックスは小さな背中を向けたままのテルミに話しかけた。

 眠るのならば、気分よく眠りたい。

 それにベッドに横になった時点で彼女も異議はないハズだった。

 

「なんだ、拗ねているのか? 充実した眠りは狩人の悲願だ。少なくともお父様の願いの一つでもある。狩人が夜に眠るときこそヤーナムの朝は訪れる。……本当は、俺は今日も市街に行くべきだが……お父様の厚意には甘えるべきなのだろう。だから休むことにしたんだ」

 

 振り返ったテルミが「むぅ」と唸った。

 

「怒っていないわ。いいえ、怒っているわ。貴方が全然甘えてこないので拗ねているわ。ご機嫌とりに甘えてご覧なさい」

 

「難しいことを言う。ご褒美が過ぎるのだ。……こうして皆のそばにいるだけで俺には十分だ。幸せとは、こういう時間のことを言うのだろう。四人揃って何かをするのは充実感がある。何もしなくとも、ただ寝ているだけだとしてもだ。あるべきものが、あるべき場所に収まったように……不思議と気分が落ち着く」

 

「……欲のない人ね。けれど、貴方がそれでいいなら、わたしもそれでいいの。押しつけがましいことは嫌いです。何も望まないことを望むことを許しましょう」

 

「君は、たまにややこしい言葉を使う」

 

 ちょうどクルックスの鎖骨のあたりにテルミが頭をすり寄せた。

 

「いつもそう。貴方は温かいのね」

 

「俺達も休もう。共に夜明けまで……あぁ、惜しいな。日中に比べれば今日の夜は瞬きの時間に感じる」

 

「ええ、そうね……」

 

 壊れ物を扱うかのように優しくクルックスの腕がテルミの背を抱えた。

 それから額を寄せ合って二人は目を閉じた。

 

 

 

■ ■ ■ 

 

 

 

 恐らく、真夜中。

 テルミは目を覚ました。

 真夜中に起きる習慣はない。どうして目が覚めたのか。それは部屋の外の扉の向こう側から聞こえた。

 

「ぐっすり寝ているようだね」

 

「ええ、眠るといいわ。仔らの仲が良いことは良いことね」

 

「争うよりは?」

 

「そうね。ヤーナムの各組織や団体は簡単に争ってしまう。夢の生地を掌握したのだから、我々が争う必要はカインハーストの動機や処刑隊の主張を除いて無くなっている。──しかし、人々は瞳が暗で、耳は衰え、脚も萎えている。もう限りあるものは無くなってしまったのに」

 

「そのうち気付くさ。ビルゲンワースの蜘蛛の秘匿も十分ではない。狩人君もよく言うだろう。『皆が期待するほどに上位者が完璧なら、ヤーナムは滅びることはなかった』とね。滅びが綻びになっているだけで上等だと思わなければ……」

 

 足音は遠ざかっていく。学徒達の夜の見回りだったようだ。

 寝付けなくなってしまったテルミは頭を上げて部屋を見渡した。

 ベッドの端でうつ伏せで寝ているネフ、その隣にいるセラフィは左手で顔を覆って寝ている。

 クルックスは、と探す。やがて暗がりの中でチクチクした髪に触れる。それから、ふすふすという呼吸がテルミの薄い腹部をくすぐった。

 

「んっ……ぁ……」

 

 テルミが身動ぎすると引き寄せるようにクルックスが腕を回した。

 ──あら。

 深い眠りで声が嗄れていなければ、そう呟いたところだ。それから「ウフフ」と笑ったことだろう。

 ちょうどテルミの腹部にクルックスは頭を寄せていた。裾が開いているので腹が寒いだろうと考えたのだろうか。それとも単純に柔らかいところに行き着いたのだろうか。クルックスの鼻先はテルミの肌を柔く擦った。微かに感じる寝息がくすぐったい。

 

 いつも無造作に髪を上げて額を露わにしているクルックスだが、乱れた髪が額を隠すと途端に幼い印象になるのが妙におかしい。

 ──いい子、いい子ね。

 彼の頭を抱きしめた。より深い眠りが訪れるように何度も何度も抱きしめた。その度に胸が苦しいような、熱いような、そして目の奥が疼いて涙が出そうになる。この感情の高ぶりが何なのか、テルミは知らない。けれど、この時間がとても貴重でクルックスの言う「充実」に相応しいと感じていた。

 先ほどユリエは「もう限りあるものは無くなってしまった」と言う。

 その通りだと思う。

 この感情に『限り』があってはたまらない。

 人の意志とは永遠だ。狩人は言う。

 ならばこの感情も、きっと永遠なのだ。

 

(生きているのはこんなに楽しい)

 

 だから夜は深く、ずぅっと深くなるといい。

 ねぇ、お父様。

 もうすこしだけ夜に浸らせて。

 まだ明かさないで。

 わたしは貴方の夢に溺死していたいのです。

 

 お眠り、お眠り。

 わたしの恋しい人。

 

 ここには子守唄がないけれど。

 わたしは母になれないけれど。

 貴方が慕う誰よりも、貴方を大切に想っています。

 だから、今は眠っていて。

 新しい朝が来て、夢から醒めるまで。

 

 恋しい貴方は、わたしのもの。

 




クルックスの提案
 狩人が夜に眠れるのは貴重なことです。獣と遭遇する夜ばかりではありませんが、普段の夜も市街を哨戒しています。
 夏休みに四人で行動したのが彼にとってとても楽しい思い出になったから出た提案なのかもしれません。テルミとネフライトは何を期待していたのか、お互いに爆発しましたが、結局、どちらも部屋を出て行くことはしませんでしたし、何を期待していたのかも取り沙汰されませんでした。コッペリアだけは何か察する事があったのか「ファーッ!」と笑い転げました。また、セラフィは「夜の決闘(意味深)」の意味を理解せずに一張羅と最高装備でやって来ました。レオーおじさんの心身の調子が悪くて言葉足らずだったからでしょう。決して鴉が病人を血質99の腹パンで黙らせたワケではありません。

テルミの服イメージ
テルミの下着
本人は地味すぎると感じているようだ
破廉恥な紐、とはネフライトの言
とはいえ異なる視座を得たならば、見えるものも違うのだろう
一部の男性には大いに評価されているらしい
──病み人ならば医療者の長手袋に思うこともあるのだろう

【挿絵表示】

 ピグマリオン的には長手袋なのが清楚ポイントが高いそうです。

原作冒頭の思い出
 ホグズミード村は、ハリー・ポッター原作をお読みの方ならばご存じ。ハリーがマージおばさんの暴言に耐えるとき、心の支えにするほどの価値あるイベントです。
 筆者は初めて読んだ時に、魔法使い無しの村とはそれだけ不思議に満ち、開放感がある場所なんだなぁ、と思うことがありました。
 また、ハリー・ポッター原作3巻で束の間の一人暮らしをすることになった『漏れ鍋』ハリーの日常描写がとても気に入っています。ダーズリーの家にいないハリーが手に入れた自由に戸惑いつつ、楽しそうにしている様子が見られて当時は新鮮だったのです。
 今でこそ『ハリー・ポッターと呪いの子』や『ファンタジック・ビースト』等で魔法界のさまざまなものが見えるようになってきましたが、本で追っている頃は、ダーズリー家とホグワーツのこと以外は魔法の世界に何があるのか、なかなか見えてこなかったのも思い出です。

ご感想お待ちしています(交信ポーズ)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。