馬車
ホグワーツの送迎馬車は、骨と皮、翼のある馬のような生き物が牽くのが慣例となっている。
それを知ってもなお、見える者ばかりではない。
彼らはそれを知らなかった。
知らぬ方がよい。そう考えることもあるだろう。
霧の立ちこめるホームに突入した真紅の列車が、減速しつつある。
ギィ、ギイィというけたたましいブレーキ音が、明かりの少ないホームに響き渡った。
例年、ホームでその音を聞いているのは森番のルビウス・ハグリッドだけだが、今年ばかりは異なった。
ホームからすこし外れた林の中には、薄青い光を帯びた灯りが存在している。ヤーナムに属する狩人達に『使者の灯り』と呼ばれる、神秘の光を視認できる者は月の香りの狩人に関わる者だけだ。
森から流れる霧に紛れ、空間が歪んだ。
次にハッキリとした景色が現れたとき、そこにはローブ姿のクルックス・ハントが立っていた。そのまま木陰に潜み、列車から出てきた生徒に紛れるタイミングを窺っている。
(ちょうどいい時間だったな。ギリギリとも言うが、こうなれば遅れなかっただけよかったとすべきだろう)
一年生を誘導するハグリッドの声を背景に聞き、生徒の顔を見ているとおかしなことに気付いた。
列車から降りてくる生徒は、そろって青ざめた顔をしている。だが、妙な興奮も感じられた。嵐の前に伝染する、常ならぬ雰囲気と似たものだ。つまり不穏である。
これが一人、二人ならば気にも留めなかっただろうが、テルミまでそんな顔をして列車から降りて来たのでクルックスは木陰を離れ、生徒の群れに加わった。
「ああ……クルックス……はぁ……」
「何かあったのか。妙な顔をした生徒が多いが」
ちょうど視線の先、クルックスはいつもより硬い表情のハリー・ポッターを見た。
クルックスにとって最近のハリーとは、ダイアゴン横丁で見かけた夏の日差しがよく似合う少年だった。それが今はどうだろう。墓場から這い出てきたような顔をしている。彼の身長が、もう少し高ければ聖杯の中身の人ならざる人々に見間違える面影になっていた。
「歩きながら話すわ……はぁ……」
「何だ。随分参っているな」
「参りもします。ネフは大丈夫かしら?」
テルミからネフライトを心配する言葉が出てくるのは意外なことだ。クルックスは驚いた。そして尋常ではないことが起きたことを察した。
「……わたしは医療者ですから、穢らわしいものには耐性があると思っていました。けれど、アレは想像以上です。吸魂鬼、と言うそうですね」
「きゅうこんき? ディメンター?」
「どちらでも同じものです。それが列車のなかに来て、シリウス・ブラックを探していたようね」
「なんだか分からないが、君の気分が悪くなった理由がそれなのか?」
「ええ。そう。アレは存在してはいけないものだわ。わたしの中からお父様が溢れてしまいそう。生きていることは幸せなことなのに、それを──ううん、考えるべきではないわね。だからネフが心配だわ。あの人を見つけて、一緒にいてあげて」
「分かった。あとで手記を送る」
奇妙な皮と骨のような馬のような魔法生物が引く馬車に乗り、彼女は他のハッフルパフ生徒と一緒に登城の道へ行った。
テルミは別れ際にクルックスの手を握った。その力は想像より小さく、弱いものだった。かなり参っているようだ。
微かに温もりの残る手をギュッと握り、ネフライトを探した。その途中でセラフィを見かけた。普段と変わりない顔をしている。だが周囲が沈んだ顔なので相対的に明るい顔に見えた。
多くの生徒を見送り、最後尾に近付いた頃に彼はやって来た。
ハンカチーフを口に当てて、目を細めている。隣をとことこ歩いているのはルーナ・ラブグッドだ。
テルミが心配したとおり、ネフライトの顔からはすっかり血の気が引いていた。恐らく生まれてから過去最悪の体調を更新していることだろう。隣を歩む彼女もまたいつもにまして白かった。
「──遅かったな」
声色は、彼の心情を雄弁に伝えた。とても攻撃的で不機嫌だった。
「ああ、まあ、いろいろあって。君も……ふむ……いろいろあったらしいな」
「吸魂鬼だ。……忌々しい、汚物、汚物だ……」
「口が悪いぞ」
「見ていないからそう言うのだ。私だってそうだった。……近寄らないでくれ」
隣を歩こうと歩調を合わせようとしたが、拒絶されてしまった。
ネフライトは顔色も体調も悪いが、機嫌も最悪だった。
「さっきまで吐いていたんだよ、この人」
困惑するクルックスを見てルーナが伝えた。
ネフライトがハンカチーフの下で口を歪ませるのがクルックスには分かった。
「世の中、言わなくてもいいことがある。そうは思わないか、ラブグッド」
「責めるな。君を案じてのことだろう。俺は気にしない。……ルーナ・ラブグッド、君に感謝を。この状態のネフを放っておけないからな」
クルックスはネフライトの手を掴み、歩き出す。彼は嫌そうにしていたが振り払う気力もないため、されるがままになっていた。
仄かに漂わせる酸っぱい匂いは、歩き続けていれば気にならないものだ。
馬車に乗り込むとネフライトがぐったりとクルックスに寄りかかった。
「私の記憶は、たいていのことを覚えていられるが、その時の気分だけは覚えていられない。紙に書いておけば別だろうが……。今回に限っては幸いだった。吸魂鬼の精神汚染は凄まじいぞ。私は例え三百体の検死に立ち会ってもこんな無様を晒さないと言うのに……」
「あーっ。ところで吸魂鬼とは、幽霊のようなものか? ……無理に返事をしなくていいぞ」
ネフライトが周囲を憚らないことを言うので、よほどの出来事だとクルックスは思う。ネフライトは昨年度ルーナの前では『ヤ』の字の地名も『メ』の字の学派の名前も出さないように気を付けていたのだ。
ガタガタ揺れる道でネフライトは再び気分を悪くしてしまった。彼の丸くなる背中をさすった。
ずっとこの調子なんだよ、と言いたげなルーナと目が合った。
そして数秒。まだ気遣いの言葉でもあるのかとクルックスが訝しむ頃、彼女は首を傾げた。
「──あんた列車に乗っていなかったよね。どこから来たの?」
いま聞かれるとは思わず、クルックスは「君は目敏いのだな」と率直な感想を伝えた。
ネフライトは息を止めたようで丸まった体が緊張で固くなった。
「ラックスパートを探しているんだ。列車の中は全部見たもン」
「素晴らしい探究心。だがネフの言葉を借りれば、世の中、詮索しなくてもいいことがある。そう思いたまえよ、ラブグッド──とでも言うのだろう。俺のことは気にするな。君とて男子トイレをずっと見張っていたワケではないだろう?」
彼女は見回っていない場所があることを思い出したようだ。
フーン、と軽く鼻を鳴らし、以降の追求はなかった。
彼女のまとうフワフワとした奇妙なペースに引きずられないようにクルックスも口を噤んだ。
──どうやら引き際もわきまえているようだ。
ネフライトが関心を寄せる人物だ。油断できるワケがなかったのだとクルックスは心底思った。
■ ■ ■
城へ向かう長い上り坂が終わり三人は馬車を降りた。
集団から遅れてホグワーツ城に到着するなり、クルックスは足下がフラフラしているネフライトの腕をまだ掴んでいた。
「医務室に行くぞ。このまま人混みに行ったら、いつぞやのバレンタインデーのようにキレてしまうぞ」
「ぐうぅ……うぐぅ……」
ネフライトは、渋々ながらクルックスの提案の妥当性に頷き、ルーナに弱々しく手を振った。声が出れば恐らく『君はさっさと行くといい』と言いたかったのだろう。けれどルーナは「また後でね」と軽く微笑み、石の階段を上り人のさざめきが聞こえる大広間に向かって歩いて行った。
彼女とすれ違うように校医のマダム・ポンフリーが気忙しく小走りに石の階段を降りてやって来た。
「吸魂鬼を学校の周りに放つなんて。繊細な子ならば体調を崩すのも当然です。さあ、医務室へ行きましょう。ハッフルパフの子達と同じように今晩は泊まっていった方が良いでしょうね──」
クルックスが事情を話すまでもなく、マダム・ポンフリーはネフライトの顔を一目見て診察は終了してしまった。
とても早口だったので、吐き気のためいつものように話すことができないネフライトが「私は繊細ではなく……ただ、厳密であるだけで……」と言いかける暇もなかった。マダム・ポンフリーの肩越しに彼はクルックスを一瞥して瞬きをした。彼なりの礼だと分かり、手を軽く上げて応えた。
石の階段を登り、大広間へ向かうとほとんどの生徒は着席していた。
魔法で姿を変えた天井は夜空を映し出し、千を越える蝋燭が眩い星のように光っている。そのせいだろうか。新しい一年生を迎える雰囲気にわく人々の顔は輝いて見える。眼前に開けた苦もなく明るい世界を前にクルックスは立ち止まった。
(俺は、ほんの十分前にはヤーナムにいたのだ)
暗澹のヤーナムから這い出てきた自分が場違いに思えてしまい、そのことに戸惑いを覚えた。
「入らないの?」
「──あ」
「どうしたの?」
クルックスに声を掛けたのはネビル・ロングボトムだった。
同じグリフィンドールで同級生である。
夏休みで見ない間に彼は背が高くなったように感じられた。やや見上げる格好になってしまった。
「あ、ああ……そう、だな」
「君も吸魂鬼にやられたの? 落ち込むよね……何か、こう、ずっと幸せになれない気分になるような……」
「ああ、そうなんだ……だが、もう大丈夫だ。ありがとう」
ネビルに背を押された気分になりクルックスは大広間に足を踏み入れた。
■ ■ ■
一年生の歓迎会とは毎年のことだが、その内容は年々変わるものだ。
全ての組み分けが終わり、レイブンクローの寮監であるフリットウィック先生が組分け帽子と丸椅子を片付けた後でダンブルドアが立ち上がった。
昨年度までならば、簡単なひと言の後で夕食会の食事が現れるタイミングであったが、今年度は異なった。
『変化』とは、不思議なものだ。
ヤーナムでは変化があるものが少ないため、昨年度と違うことはより強く感じるのかもしれない。
クルックスが知りたかったことに言及したのはダンブルドアだった。
「我が校は、ただいまアズカバンの看守吸魂鬼、つまりディメンターたちを受け入れておる。あの者達がここにいる限り、はっきり言うておくが、誰も許可なしで学校を離れてはならんぞ──」
青い秘薬を試す好機だろうとクルックスは算段を立てかけたが、この話をするダンブルドアの顔は昨年度までに見せたことがない真剣で切実なものだったので考えをあらためた。万が一にも諍いとなることは避けるべきだろう。特に今回は。
「さて、楽しい話に移ろうかの。──ルーピン先生じゃ」
ダンブルドアは半月形のメガネの奥を優しく細めて、掌を教職員の席に座る男性に向けた。
「今学期より空席になっている『闇の魔術に対する防衛術』の担当をお引き受けくださった」
気のない拍手が起きた。
今日は一年生の歓迎会だが始業にあたる式典でもある。そのため一張羅を着込む先生達の列に座る彼、ルーピンはいっそうみすぼらしく見えた。
しかし、組分けが終わった後にやって来たグリフィンドールの席のハリー・ポッターと何人かは熱心に拍手をした。彼らは面識があるのかもしれない。拍手がまばらになる頃、ひそひそ話が聞こえてきた。
「見ろよ、スネイプ。残念そうで嬉しいよ」
ロンとハリーがクスクスと笑った。
彼らがスネイプとソリが合わないことは同じ学年のグリフィンドール生にはよく知られたことだ。
実際、スネイプは嫌そうな──というよりは、憎悪に煮えた──目でルーピンを睨んでいた。拍手はほとんど音の出ないものを三回ほどした。
「もう一人、新任の先生がおる。皆もよく知っている先生じゃ。『魔法生物飼育学』のケトルバーン先生は、残念ながら前年度末をもって退職なさることになった。手足が一本でも残っているうちに余生を楽しまれたいとのことじゃ。そこで後任者じゃが、うれしいことにルビウス・ハグリッドが森番に加え教鞭を取ってくださることになった」
ウオォォ、という喝采がグリフィンドールから上がった。
ルビウス・ハグリッドは、クルックスにとって魔法界で最初に出会った人物である。
彼にとっては栄転と言うべき事態だ。喜ばしいことだと彼もたくさん拍手をした。その拍手の何割かは『魔法生物飼育学』で噛みつく本を教科書指定した人物について納得できた歓びもあった。
拍手がひとしきり済んだところで、ダンブルドアは一呼吸おき両手を広げた。
「さあ、宴じゃ!」
■ ■ ■
歓迎会が終了し、談話室へ向かう頃。
クルックスは数ヶ月ぶりの満腹感を覚えていた。
食事中、隣に座っていたネビルに心配されるくらいに食べてしまった。ハリーでさえ「そんなに?」と言われてしまった。
ヤーナムの貧相な食糧事情を考えれば、こうしてヤーナム外の世界の食事を知っているクィレル先生の忍耐は、賞賛に値するものだろう。きっと今日も瓶詰めの肉と主食の芋と副菜の芋を食べているに違いない。どこもかしこもビルゲンワースの食卓は芋ばかりだ。
最初の夏休みからネフライトが提案し続けているヤーナム土壌改良作戦の進捗はよろしくない。ビルゲンワースの学徒とネフライトの観測によれば、朝と夜が交互にやって来るビルゲンワース周辺と禁域の森周辺だが、見た目どおりの日の進みではないらしい。四季が変わる様子もないので、この説はとても信憑性のあるものだとクルックスも思っている。
グリフィンドールの寮の出入り口へやって来ると『太った婦人』の絵画の扉は開いていた。一年生達を率いて扉のそばに立っているのはパーシー・ウィーズリーだ。クルックスの同級生のロンの兄で彼は今年で七年生、すなわち最上級生となった。胸には首席を示す、輝くバッジを留め付けている。
入り口の邪魔にならない場所に立ち、クルックスはパーシーに話しかけた。
「全校首席は名誉なことであると聞きました。おめでとうございます」
パーシーは角縁のメガネの向こうでかなり驚いたようだった。
賞賛の言葉ならば飽きるほど聞いただろうと思っているクルックスにとって、彼の意表を突かれた顔は思いがけないものだった。
「あ、ああ、ありがとう。成績と日頃のことを思えば、きっと当然のことだったが」
「学力もさることながら、昨年の秘密の部屋の件において寮生の先導や見守りを率先して行っていたことが評価されたのでしょうか。何にせよ、寮の代表としてあなたがいることで安心する生徒も多いと思います」
やや肩に力が入りすぎるきらいがあるように見えるが、まとまりきらない寮生を束ねる努力を──それは徒労かもしれないが──続けられる忍耐力を彼は持っている。右も左も分からない一年生は、彼に感謝することだろう。クルックスも一年生の時は、何度か道を聞いたことがある。
「それでは、先に休ませてもらいます。失礼」
丁寧な挨拶をしてクルックスは談話室を通り過ぎ、寝室の塔へ向かった。
他の生徒の部屋は大きなカバンや他の荷物でごった返していたが、クルックスのベッドの周辺だけは何も置いていなかった。
ローブの下に着込んでいた異邦の狩装束の衣嚢から、普段ヤーナムで着ている狩人の装束を取り出すと衣装箪笥にしまい込んだ。そして、教科書が収められている鞄を取り出してベッドの隣のテーブルに置いた。
「…………」
疲れていないため眠気は訪れない。普段ならば市街の狩人達に混じり、外を歩いている時間なのだ。
クルックスは、狩人の装束から手記を取り出した。
『きょうだい会議の日取りを定めたい。休日、早朝いかがか。併せて写真を撮る』
手記を床に放る。床はにわかに白い靄を沸き立たせ、小さな悪夢の使者達が手記を受け止めた。
「ネフとテルミ、セラフィに見せてほしい。頼むぞ」
何人かの使者達が親指らしき指を上げた。声はないが「任せろ」と言っているようだった。
彼らの姿が手記と共に完全に消えるのを見送り、クルックスはベッドに身を横たえた。
(さて。今年は、何が起きるのか、起きないのか。俺は、どちらでもよいが……)
吸魂鬼という存在は気がかりだ。
吸魂鬼
きゅうこんき。ディメンター。
原作において『誰も経験したことがない恐怖』を持っている場合、吸魂鬼は特に影響を受けやすい旨のことをルーピン先生は語っています。ハリーに影響が大きかったのは、ハリーの過去に最悪の経験(両親が殺される&自分も殺されかける)があったからです。
そのため、本作においては仔らにも「こうかばつぐん!」です。
繊細なネフライトは嘔吐。テルミでさえ冗談を言ったりからかったりする余裕はありません。重傷です。セラフィだけ顔色が変わらないのは、何か秘密があるのかもしれません。
クルックスはまだ吸魂鬼に直接であっていないため、あの底冷えするように這い寄る恐怖を知りません。出会ったら殴ってみたい様子ですが、常識を鑑みて無茶な行動はしない方針のようです。
ルーナ・ラブグッド
鋭い。クルックスは、彼女のふわふわした印象と言葉のギャップに戸惑っています。ネフも時々戸惑います。しかし、彼女の本質とは具合の悪い人を気に掛けてくれることに代表される優しさなのでしょう。
原作のハリーとの関わりを見ると、そんなことを考えます。