アノール・ロンドのそこかしこにおびただしい量の血が飛び散っていた。銀の鎧に身を固めた衛兵達が駆け回っている。
跡継ぎが産まれた。はずだった。しかし部屋は一面真っ赤に染まり、グウィンが駆けつけたときにはすでに二人の姿はなかった。
先頭に立って指揮をとる獅子騎士、竜狩りオーンスタインの元に次々に母子の痕跡を伝える情報が入ってくる。しかし二人を見た者はいない。
「オーンスタイン様!」
「今度は何か」うんざりした調子で言う。
「お二人の場所がわかりました!」
* * *
アノール・ロンドには大絵画と呼ばれる一枚の油絵がある。建物の複数階を貫く巨大なキャンバスには、実物大といっても過言ではない吊り橋と、その先につながる教会が描かれている。血は絵の前で途切れていた。
「オーンスタイン様。お妃様が産んだのは『生命狩り』の忌み子でございます」
白装束をまとった衛兵が腕の傷をかばいながら言う。大絵画を警備する絵画守りの一人だった。
「なんと…ふむ…」
目に入るもの全てを切り裂く『生命狩り』。完全な存在である神族は捕食を知らず、失った血を取り戻すすべはない。ゆえに生命狩りは天敵ともいえる存在だった。しかし、妃がそのような子を産むとは。これを大王にいかに伝えたものか。
「大王、お出でになられました」
響き渡る声。オーンスタインが振り向くと、昨日までの活気に満ちた姿が嘘のように呆けた顔のグウィンが立っている。
ふだんはすかさずグウィンの前に進み出てひざまずくオーンスタインも、このときは指をアゴに当てたまま、絵画の前に視線を戻し考え込んでいた。
「仔細を述べよ」
音もなくグウィンが背後に立った。
「お妃様は忌み子とともに絵画の向こうへ行ってしまわれたようです」
「忌み子とは」
「生命狩りの能を備えておいでです」
ドン。
オーンスタインの身体は輪ゴムのように吹っ飛び、壁に叩きつけられた。グウィンは左腕を上げたまま、無言で絵の前に立っている。すかさず騎士の一人が手の甲についた汚れを拭き取ると、グウィンはさめざめと涙を流し始めた。
「無念だ」
* * *
「あはははは!顔が梅干しみたいにパンパンに膨れたくらいでなーにウジウジしてんのよ!」
ベルカが冗談で叩くと、毒液が飛び散った。
「Oh」
真っ白な灰が雪のように積もった、朽ちかけの教会。ベルカは大きなお腹と不安を抱えて絵画の中に足を踏み入れたものの、杞憂だった。先客が大勢いたからだ。しかもどいつもこいつも見た目の醜さだとか大したことのない理由でここに追いやられたらしい。
「外の人たちは下らないことでけなすのね」
「妊婦さん、あんたのところは違うのかい」
「私のところは頭の悪いやつがいじめられるだけよ」
「ああ…どこも似たようなもんなんだな」
「へっ。あんたんとこと一緒にしないでよ。見た目は関係ないんだから」
「でも頭が足りないと、俺たちみたいな目にあうんだろ?」
「だって鍛えられるし」
「さっきあんたいつまでたってもバカのままだったって言ったじゃないか」
ハハハハハ。焚き火を囲んで互いに馬鹿話ができるなんて。なんて素晴らしい場所なんだろう。
出口がない以外は。