その日、ベルカがアノール・ロンドの事務室で一服していると、窓をコンコンと叩く音がした。
金具を外して開けると、ぬっと白い指が入ってくる。
「プリンターの紙がなくなった。新しいのを頂戴したい」
ゴロゴロとしわがれた、低い声だった。
「私は事務の人じゃないからわからない」
「ほう…では誰だ?」
「この世の至宝にしてグウィンの妃ベルカである」
そう言って胸を張るベルカ。すると指が引っ込んで、くっくっくと笑う声が聞こえた。
「グウィンの新たな妃か。厄介な男だろう?やつは」
「わかる?毎晩襲ってくるくせにヘッタクソでさあ。あんなの出来る子もできないっつの」
「くっくっく。ならそんなじゃじゃ馬の妃がどうしてここにいる」
「コーヒー飲みたかったからだよ。コーヒーメーカーと粉はここから持ち出しちゃいけない決まりがあるの」
「そうだ。俺がそう決めたからな」
「そうなの?」
「でなければロードランのどこにコーヒーショップがある?」
「ねえ」ベルカが窓から身体を乗り出した。すかさず白い手がその下をかばう。
「落ちるぞ」
「さっきプリンターって言ってたじゃん。あんたのところコーヒーとかプリンターとかあるの?」
「ああ。オフィスに必要なものは一通り揃っている」
「NetflixとSpotifyは?」
「NetflixはないがSpotifyは法人契約をしている」
「なんだ。Netflixないんだ」
「仕事で要らんだろそれ。それで、紙はどうした」
「知らないよ、事務の人じゃないもん」
「後ろのロッカーに積んであるはずだ」
「勝手に開けたらだめじゃない?」
「ならコーヒーもダメだろう」
「コーヒーは許可をもらってるからいいの」
「わかった。ならまた後で来る」
「待って」
きびすを返す客をベルカが呼び止める。
「あんたのとこに連れてってよ。アノール・ロンドの中にあるんでしょ?私アノール・ロンドの中なら自由に行き来していいんだ」
「来てもいいが、楽しすぎて帰れなくなるかもしれんぞ」
「遊園地?」
「少なくとも俺にとってはな」
* * *
ベルカが白い手に乗って入ったのは天まで届かんとばかりに棚の並んだ図書館だった。ロードランの知すべてが集結する、公爵自慢の書庫。建物は隅々まで渋い紙の香りに満たされている。そしてその主こそ、ベルカを手に乗せる白竜シースその人もといその竜だった。
「失礼します」
ベルカの前に司書が手を伸ばし、本を抜いて去ってゆく。棚のひとつに触れたベルカは背表紙の奇妙な特徴に気づいた。
「点字」
「わかるか」
「でこぼこしてる」
「俺は目が見えないからな。集めた本は片っ端から点字を打ってもらっている」
「ぜいたく」
「くっくっく。言うな。俺はこのためにグウィンに味方したんだ」
「あー。なーんか昔ママがそんなこと言ってたような」
「見ての通り、俺は他の竜にあるべきものが一つもない。それを知るために、この世の全ての知を集められるようグウィンと取り引きしたのさ」
「あるべきもの?」
「見てわからないのか?鋭い瞳も、力強い羽根も、頑丈な足も、そして岩のように硬いウロコも俺にはない。屈辱だった。なぜ俺だけがこんな仕打ちを受けなければならないのか。だから俺は調べているんだ」
「何かわかった?」
シースは顔を横に振る。「かんばしくない。得意な魔術だけが洗練されてゆく。だから最近はこうして気分転換に外の空気を吸いに出るのさ」
「ふーん。そんな見た目って気になるんだ。私が住んでたイザリスで容姿でバカにする人はいなかったよ、少なくとも私の周りには」
「…」
シースは少し無言になってから、「お前はラッキーだったな」と言った。
「そうかな。私はママの娘なのに術の才能がなかったからよくバカにされてたよ。いくら呪術書を読んでも全然頭に入らなかった」
「くっくっく。俺はお前のようなやつを何人も知っている。才能がないと言い訳ばかりのやつらをな」
ベルカはむっとして言い返す。「姉ちゃんの何倍も時間かけて全然身につかないんだから、才能ないってことじゃん」
「違うな。俺にはわかる。お前は考えなかったんだ」
「はい?」
「物事には必ず原因がある。俺の魔術は因果の解明を積み重ねて磨かれてきたんだ。そうだな、お前はソウルの矢を撃てるか?」
「ソウルの矢、なら撃てる」
「念じて撃っているだけじゃないのか?」
「…うん」
「違うぞ。詠唱にははっきり順番があるんだ。俺が教えてやろう。来い」
くっくっく、と笑いながらシースはズルズルと書庫のテラスに向かって進み始める。
「マンスプレイニングはお断りだよ」
「俺の説明に鬱陶しさを感じたらすぐに帰っていいぞ。面白すぎて帰れなくなるだろうがな」
「大した自信だね」
「俺は理屈に興味のない神族を面白がらせるために極限まで鍛錬してきたんだ。他の理屈バカとは格が違う」
あとを追いかけながらベルカは言った。「…ねえ」
「何だ」
「私たち、逆に生まれてたら幸せだったかもね」
シースはそう言われてからしばらく黙った。知性を問われる世界で生まれたバカのベルカと、容姿が問われる世界で生まれた醜い天才シース。
「俺はその穴を埋めたいと思っている」