数人の侍女たちがベルカの鼻血を拭き、目のアザを冷やしている。
「キアラン。ごめんね」
何度目かの謝罪だった。キアランは無言で部屋の隅に立ち、指の折れた両手を組んでいる。
数分の空白だった。事務室でコーヒーを飲んでいたはずのベルカが消え、仮面の色よりも蒼白になったキアランは持ちうる情報網全てを駆使して捜索した。しかしついに見つからなかった。
夜伽の時刻をとうに過ぎ、大通りを満面の笑みで歩くベルカが見つかった。その笑顔はすぐにグウィンの鉄拳で歪んだ。その日の行為は特に激しく、止めに入ったキアランが苦痛を肩代わりしなければ、そのまま命を落としていたかもしれない。
傷ついたベルカは心身ともに限界だった。グウィンに唯一進言できる獅子騎士オーンスタインの提案で、幸か不幸か、ベルカは数日の休養をようやく得た。
「キアラン。ごめんね」
「私がちゃんと見ていなかったのが原因なので」ようやくキアランが返事をした。
「でもあのジジイ、休みくれたね」
「ゆっくりお休みくださいませ」
「前の妃は何人も殺したってシースが言ってたよ」
「ベルカ様は特別ですから」
「特別?どんな」
「ベルカ様はロードランに残された神族で唯一の女性なのです」
侍女たちを寝室から去らせたあと、キアランはベルカの隣に座って小声で話し始めた。
グウィンは女運のない男だった。最初の妻はそれはそれは美しく、三人の子供ももうけた。だが妃にとってグウィンとの関係は遊びだった。母親になる気などさらさらなかった彼女は子供をほったらかして去ってしまったのだ。しかも長男はグウィンと仲違いしてロードランを去り、二人の娘もそれぞれ嫁いでロードランを去った。
二人目の妻は白竜シースの娘だったが互いに愛はなく、子供にも恵まれなかった。結局彼女も先妻の末娘の守り手と称して追放してしまった。
その後何人妃を娶っても子供はできなかった。焦った。もしかすると自分は不能なのではないか。最初の妻との三人の子供も実は他の男との子なのではないか。誰とも言わず噂は広がる。疑心暗鬼にとらわれた大王は妃への態度が次第に苛烈なものに変わっていった。
「それなら最初にそう言ってくれれば多少はこっちも頑張ってやろうって思えるのに」
グウィンが初めて自分と会ったとき、なんであんなに興味なさげだったのかベルカは理解した。
「ええ。ですがそれだけではありません。王には時間がないのです」
「時間がないって?寿命?」
「そうとも言えますが…ベルカ様。『ダークリング』はご存知ですか?」
「英語のスラングで」
「ストップ。そこまでです。ここからは『ダークサイン』と呼ぶことにします」
「日本語の作品なんだからケツの穴でいいじゃん」
「ストォーップ!ストップ。イエローカードです。次はありませんよ」
「声大きいよ」
「誰のせいですかまったく…。コホン。で、ここ百年、奇妙なことが起きています。死んだはずの人間が蘇る。私たち神族ではありえないことです。そして蘇る人々には漏れなく暗い穴が空いている」
「それが『ダークサイン』?」
「はい。大王はその異変はロードランに栄光をもたらした『はじまりの火』が弱まっているのが原因だと。それで、自らを薪として火の勢いを取り戻したいとお考えなのです」
「なんかよくわかんないけど、世界がおかしくなるまで時間がそんなにないから早く跡継ぎが欲しいってことなのね」
「わかりにくいですかね…」
「わかんないよ。もっとシースみたいにわかりやすく言ってくれないと」
はあ、と言ってベルカは仰向けにベッドに倒れた。
「産まれる子供ってどっちでもいいのかな。ふつう王族の跡継ぎって男だよね」
「おそらく」
「でも産まれるまでわかんないよね」
「…はい」
「私、女の子がいいな」
「あの、理由を聞いてもいいですか?」
「男だったら私は用済みだから殺されると思う」
「そんな」
「もしあいつが男の子が欲しくて、産まれたのが女の子だったら、あいつガッカリして、でも男が欲しいから私をギリギリまで生かしておくと思う」
ベルカの口から淡々と衝撃の言葉が飛び出す。
「どっちにしても時間切れになったら殺されると思うけど。生かしておく理由ないし」
「ベルカ様…」
「ねえ」
「はい」
「毎晩一緒に寝てほしいんだ。それで、私が悪夢にうなされたら、起こして、私が寝るまで手を握っててほしい。ここに来てから怖くて全然眠れないの」
「わかりました」キアランは身につけていた刃物のように鋭い鎧を脱ぐ。そうして裸になると、へこんだ顔と折れ曲がった指を見せて笑う。
「私が一緒に寝る方が怖いかもしれませんけど」
「あいつに比べたら怪物だって天使だよ」
ふふっ、と二人で笑った。