永き世の果て   作:ノイフェル

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故郷である、岡山において戦国時代の武将で埋没してるっぽいから取り上げてみた

歴史資料を元としていますが、基本的にオリジナル設定が乱舞しております

あらかじめご了承ください


関ヶ原にて

 時は慶長、処は美濃國と近江國の境目

 

乱世となっていた日の本を統一せんとした織田信長の跡を引き継いで天下を治めた太閤、豊臣秀吉の死から僅か数年

 

 

亡き太閤の作り上げた筈の体制は音を立てて崩れ去ろうとしていた

 

 

 

天下人たるべき豊臣秀頼は未だ若年であり、豊臣家や天下の采配に五大老や五奉行、親族衆等が心一つにして支えるが、亡き太閤秀吉のねがいであった

 

 

 

 

だが、五大老の前田利家が亡くなった事から事態は大きく動き始めた

 

 

 

前田利家と同じく五大老に列せられていた関八州を治める徳川家康は、五奉行筆頭石田三成襲撃を受け、襲撃した福島正則等よりも五奉行筆頭でありながら豊臣家に不和を齎した三成を糾弾

 

結果、石田三成を五奉行の地位から引きずり下ろす事となる

 

 

 

様々な言い分があり、襲撃した福島側としては三成こそ佞臣で豊臣に仇を成すものと考えていた

 

逆に三成としては愚直なまでに秀吉、そして豊臣に仕えていたと思っていた

 

双方に言い分あり。にも関わらず、徳川内府は福島等に対する処罰は程々としながらも、石田治部に対しては五奉行という豊臣の要職より引きずりおろしたのか?

 

 

 

そもそも、豊臣秀吉の一門に連なるはずの福島正則や加藤清正がなにんえにこの様な凶行に及んだのか?

 

これを考えるには時を遡る必要があった

 

 

 

元より石田三成は秀吉の小姓あがりの人間である

 

近江において、秀吉に見出されたのが三成であった

 

 

それに対し、正則や清正は農民であった秀吉が弟秀長のみという一門衆の弱さから、引き立てたものである

 

 

三成襲撃に協力した池田輝政、細川忠興。

 

輝政は信長に古くから支えていた池田恒興の子息であり、忠興は元幕臣であった細川幽斎の子息である

 

 

秀吉ありきの立場を持つ三成や正則等とはそれこそ立場が違っていた

 

 

更に三成はあくまでも秀吉子飼いの人間に過ぎず、正則、清正は秀吉の一門である

 

 

これもまた、立場が異なるわけだ

 

 

これ等に加えて、三成は文官であり、正則等は武将である

 

 

視点の違いは当然存在した

 

 

 

 

そして、朝鮮出兵の際には特に双方の溝が決定的となる事態が起きた

 

 

当時、朝鮮に渡って戦っていた正則等に対して三成は国内に留まり、豊臣の政務や朝鮮への兵糧等の輸送を担当していた

 

 

正則等からすれば、朝鮮は太閤秀吉が日の本を統一して以来となる武功の立てどころであり、此処で活躍する事を切望していただろう

 

 

だが、三成からすれば敵方朝鮮水軍の存在が決して無視し得ない状況において、朝鮮に領地を持つ事への不安があったであろう

日の本において、四国や九国への豊臣家の支配力を及ぼす事さえ難渋していたのだ

 

それが対馬国まで行かねば視認すら覚束ない遠隔地の朝鮮である。どう考えても三成からすれば統治しきれるものとは思えなかっただろう

 

 

 

更に朝鮮の背後には大国である明が控えていた。大規模な増援は当時なかったとはいえ、明の存在を九州の大名より聞いていた三成らは警戒せざるを得ない

 

当時は朝鮮側が焦土戦術を積極的に行なっていた事も合わさり、補給面において豊臣方は優勢どころか不利になり得る状況にもあったのだから

 

 

加えて、言葉も通じない相手を統治した上で日の本の支配体制に組み込むのは容易ならざる話である

 

更に前述した李舜臣率いる朝鮮水軍は少なからぬ被害を与え続けていた

 

 

無論のこと、根拠地への攻略作戦も提案されていたが、地の利を得れない上に補給にも問題を抱える以上、迂闊な攻めは自粛すべきというのが、三成や黒田官兵衛、徳川家康といった人間たちの方針であった

 

戦況が膠着した事も相まって

結果、朝鮮よりの撤退となる

 

 

が、福島正則ら武功派はこの判断を三成が下したとして、更なる不信感を持つことになってしまったのである

 

 

 

 

時代は遡るが、この様な対立は周防長門に勢力を誇っていた大内における陶晴賢と相良武任の武断派と文治派の対立など、類似する事例には事欠かなかった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、此度の戦において毛利輝元を大将とする軍勢に三成は身をおき、正則達は徳川家康の旗の元に集った訳であった

 

 

 

此処に豊臣家は分裂したと言っても過言ではなかった

 

 

 

 

 

 

 

「亡き和泉も無念であろうな。何とか保った筈の家が危機的状況に陥っているのであるからの」

 

「宗景様、そろそろ」

 

 

美濃関ヶ原に着陣した軍勢を眺めていた老齢の男は若い男に声をかけられた

 

 

「うむ

やれやれよ。既にこの身は死んだもの

さてもさても、先だった和泉たっての願い。無碍には出来ぬなぁ」

 

老齢の男はそう呟いた

 

 

 

 

男の名は浦上宗景

 

 

現五大老の一人、備前の宇喜多秀家が父、宇喜多直家の元主君である

 

 

 

嘗て彼は家臣であった筈の直家により家を追われ、流浪の身と一時的になっていた

 

 

 

だが、その後皮肉ともいうべきか、宗景が嘗て敵対していた筈の毛利家に彼は拾われる事となる

 

 

 

 

 

というのも、宇喜多直家を危険視していた毛利としては元々備中の三村を当てるつもりであったが、三村は二代に渡って直家により当主を暗殺されており、対宇喜多用の戦力としての価値を減じていた為である

 

 

 

 

直家とて主家筋である宗景を追放したからといって、国人衆達の支持を完全に得ていた訳では無かった事も影響していた

 

 

宇喜多家臣である、戸川、岡、長船、花房等の支持こそあれど、笹部、金光等の反発や残る浦上一門からの抵抗が予想されていた

さりとて、表立って何かしらの失態があるならいざ知らず、唯旧主に近しいからと攻め滅ぼすわけにもいかなかった

表面上とはいえ、直家に恭順していた訳であり、対毛利の為の戦力となる国人たちを削る事は流石に躊躇われた

 

 

直家としても、苛政を宗景が行なっていたのであればいざ知らず、宗景ではこの先立ち行かぬとの展望からの謀叛となれば大局観を直家くらいに持ち得ないと賛意を受ける事が出来なかったのも事実

 

当時の宗景の治世は実のところ問題は表面化していなかったのであるから

 

 

 

無論、大義名分として毛利や赤松との長い間の抗争による国力の低下を掲げたものの、双方との関係修復は難事であり、播磨赤松は既に織田に服していた

 

 

 

毛利と赤松だけでも苦戦は免れぬのに、東海から畿内、北陸にかけて強大な勢力を誇る織田に対抗できるはずもなかった

 

 

 

 

直家としては独立するよりも織田に臣従する事により、備前を守ろうとしたのである

 

 

 

 

 

 

だが、勿論の事であるが、この宇喜多直家の動きを毛利は座視する事は出来なかった

 

弱体化した三村を吸収し、備中に足場を得たとは言えど、未だ民心や国人の掌握が出来ているとは言い難かったからである

 

織田に対して既に対決姿勢を打ち出しているとは言え、瀬戸内に覇を唱えていた村上水軍は先の戦にて甚大な被害を受けた

 

 

毛利両川が一人、山陽担当小早川隆景は瀬戸内における重要な戦力として村上水軍を当てにしていただけに、危機感は毛利家中の中でも高かっただろう

 

毛利の本領たる安芸、備後に踏み込まれれば最後と隆景は確信していた

 

 

故に備中は重要な前線の要所であり、それに隣接する美作、備前もまた毛利にとって無視できない地でもある

 

そこに宇喜多直家の元主君であり、元備前国主であった宗景を見つけたのであれば、対宇喜多の策略の一環として毛利に迎え入れるのは決して不思議でなかった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

元々毛利と宇喜多。いや、浦上の関係は複雑怪奇である。宗景が当主となった頃には毛利は安芸の一国人にすぎなかった

 

 

既にその時点で宗景は備前の大半を領しており、当時の毛利よりも勢力は上であった

 

 

この状況が変わるのは大内における大寧寺の変により、当主義隆が重臣陶晴賢により謀反された末、亡くなった事にある

 

 

当時、浦上宗景は瀬戸内の交易発展による利益拡大を目指しており、周防長門に勢力を持ち、西国でも屈指の水軍を持つ大内

そして、阿波を本拠とし、畿内において勢力を誇る三好と連携して瀬戸内交易を軌道に乗せ始めた頃であった

 

播磨灘は三好、備前、備中沿岸は浦上。それ以西は大内水軍が管理する事により、対岸にある伊予の村上水軍などを牽制していたのである

 

 

 

現在でこそ、毛利配下となっている村上水軍だが、元は伊予河野の支配下にいたのであるからだ

 

 

 

それを毛利元就の意を受けた小早川隆景が、有名な厳島の戦いの事前に調略し、自陣営に引き入れたのである

 

 

 

その結果、陶晴賢は厳島にて戦死。大内家は大打撃を受ける事になってしまう。

 

 

 

 

その後も大内は衰退の一途を辿り、遂には毛利により滅亡する事になる

 

 

この事により浦上と毛利は敵対関係となってしまう

 

 

 

 

 

 

 

しかし、一方で山陰方面では出雲に本拠を持つ尼子に対しては図らずとも、毛利と浦上は共に対尼子という意味で一致していた

 

 

大内滅亡後も石見、安芸、備後、美作の一部に影響力を持つ尼子は毛利と浦上にとって脅威であったからである

 

 

 

安芸、備後、石見、周防、長門に勢力を伸ばした毛利

備前、美作に勢力を持つ浦上

 

両者にとって、山陰で大きな勢力を持つ尼子は脅威だったのだ

 

 

特に毛利としては山陰の有力者、吉川氏に次男元春を養子として送り込んだものの、山陰においての覇者である尼子に比べるべくもなかったのも問題であった

 

吉川氏を取り込み、そこから山陰の国人たちに調略をしかけようとしたのであるが、隆盛を誇る尼子に反しようとするものがでるはずもなかった

 

 

 

更に嘗て毛利が尼子の庇護下にあった事からも、尼子が毛利の国人に何らかの圧力をかけるのは自明である

 

如何に備中の三村を味方にしたとしても、尼子相手には不利であったのだ

 

 

 

ところが、尼子の当主たる尼子晴久は美作への影響力を強めようとし、浦上と対立したのである

 

 

 

 

此処で、毛利は浦上と同盟関係構築を図るも、前述した大内の件により成功しなかった

 

仕方なく毛利は浦上と個別に尼子に対する事となる

 

 

 

 

 

 

つまり、山陽方面では毛利と浦上は敵対しながらも、山陰方面では協調するという微妙な関係であったのである

 

 

 

 

 

その後、尼子が滅亡した為に再び毛利、三村と浦上、三好は敵対するものの、あくまでも三村と浦上の限定的な戦となった事は毛利として不幸中の幸いであった

 

 

 

 

 

 

尼子滅亡後、毛利は旧大内の北九州の領土を巡って豊後大友と争う様になり、三村に対しては消極的支援にとどまっていた

 

 

これは毛利の戦力を西に集中したい為であり、万一毛利が三村に援軍を送るのであれば、浦上と結んでいる三好がどう動くか不透明であったからである

 

 

 

当時の三好は和泉、摂津、大和、阿波、讃岐などに地盤を持つ天下屈指の勢力であり、動員兵力もそれ相応の規模になるだろう事は容易に想像出来た

 

讃岐から瀬戸内経由で備前に入る経路は常に確保されており、尼子との戦においても三好一門が一人、十河一存が阿波と讃岐の国人衆を束ねて浦上へ援軍に赴いた事もある

 

 

つまり、毛利が本格的に三村に肩入れすれば、三好もまた浦上に肩入れする可能性はあるのであった

 

 

 

 

 

毛利は後に知ることになるが、実のところ三好にそこまでの余裕はなく、丹波波多野、大和の筒井、紀伊の畠山だけでなく、足利将軍家との関係も悪化していた

 

 

むしろ、因幡の山名と結んだ浦上を三好はあてにしていたのだ

 

 

 

尼子討伐は以前将軍を上洛させた為であり、また丹後一色や丹波波多野への圧力を強める為でもあった

 

 

 

 

 

毛利は独自の忍び衆を持つが、当時は大内、尼子残党や大友に力を注いでいた為に京方面は手薄になっていた訳であった

 

さてとて、毛利の忍び衆が手を抜いていた訳でもなかった

宇喜多直家の意を受け、尼子に支えていた忍び衆である鉢屋衆を密かに味方としていたのだ

 

元々尼子が勢力を弱めた理由の一つには尼子屈指の戦力を有していた新宮党を晴久が処断した事にあった

 

この際に鉢屋衆は毛利の流言飛語を許してしまい、結果として尼子の没落に繋がってしまう

 

故に対毛利として動いていた宇喜多につくのは必然ともいえた

 

結果、鉢屋衆は毛利の三好領での活動を撹乱する事に成功するが、この経緯は割愛する

 

 

そうこうしている内に三村当主、家親が暗殺された上に家臣団の中に疑心暗鬼が生まれてしまった

 

言ってしまえば、毛利が兵を出さない事に不信を覚えたのである

 

 

 

 

このあたりは宇喜多直家の仕込みであった。謀将と言われた直家の本領発揮ともいえる

 

 

 

 

結果、三村と毛利の関係が悪化し、対宇喜多においては共通しながらも各個にあたる事となってしまう

 

 

後に家親の嫡男元親が家中を纏めて毛利との関係を修復するものの、時既に遅く、宇喜多の意を受けた人間により元親も暗殺される

 

 

既に対三村について全権を委ねられていた直家であった

しかし、此処で直家は三村に攻め掛かる事なく静観し、備中はやむなく毛利が治める事になるのだが、旧三村家臣の中には毛利の謀略と見る者も少なくなく、備中平定に時間をかける事となる

 

 

 

その頃に宗景は直家によって追放されたのである

 

 

 

 

 

斯様な複雑すぎる経歴を持つ宗景であったが、羽柴による九州平定の後毛利より宇喜多へと仕える家を変える事になる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「不満か、仙千代よ」

 

宗景は従者に問うた

 

「正直に申し上げるならば不満にございます

亡き和泉守は我が父の仇であり、殿を追放した大逆人にござる

なにゆえ、和泉守の子である八郎殿に仕えたのでございますか」

 

不満を言う若者

 

彼は宗景の家臣であった笹部勘次郎が息、笹部宗二である

仙千代とは彼の幼名だ

 

「残念だがの、儂ではあの激動の中を泳ぎきれなかった

それは儂が1番良く分かっておる」

 

宗景は悲しそうな顔で語る

 

「元より、兄に反発して家を割った。それは後悔しておらぬが、結果として備前の民に大きな負担を強いたのも事実であろう」

 

 

宗景が言う事は真実である

 

 

 

 

元々は浦上家は播磨赤松の家臣筋であり、宗景の父村宗は赤松において大きな影響力を有していた

 

そして、主家である赤松当主すらも一時は傀儡にする。が、それに不満を持った赤松と三好、細川により大物にて命を落とす

 

 

その後、浦上は宗景の兄である政宗により混乱は免れたが、拡大著しい尼子に対する方針で宗景と政宗は対立

 

結果、宗景は兄を討ち備前国主の地位に就く事になった

 

 

 

だが、度重なる赤松との抗争や尼子との抗争により備前の民が疲弊していたのも事実だった

 

宗景は三好政長の息子であり、足利や細川晴元等と対立する三好長慶と結ぶ事により、赤松への牽制を目論んだ

 

 

三好としても播磨の赤松に対するには、周辺に敵ばかりである事を勘案し、これを受け入れた

 

更にかつては足利を上洛させた尼子を攻める際には、実弟十河一存を大将とした阿波、讃岐の国人衆を派遣。浦上との関係修復を図る

 

 

これに対し宗景も因幡山名と盟を結び、丹後一色への圧力を強めた

 

 

 

この当時、浦上家の兵の殆どは農民兵

つまり、備前の民は赤松、尼子、三村に加えて一色との戦にまで動員される事になった訳である

 

無論のことではあるが、宗景とて民の疲弊を許容出来ない為、内政に力を入れると共に必要以上に戦をする事はなかった。それでも、民への負担は宗景の想像以上のものであっただろう

 

 

 

直家の謀略や暗殺を黙認したのもその辺りの事情によるものである

 

 

 

 

 

 

「儂では備前の民を護れなんだ

なればこそ、和泉に後を託したのよ」

 

「されど、和泉守とて備前の民を安んじたと言えぬではありませぬか。あまつさえ、八郎殿は宇喜多の家を割り申した

確かに今はなき太閤殿により天下は一時治り申したが」

 

 

 

 

太閤 豊臣秀吉

 

 

織田信長に仕えていた人物であったが、竹中半兵衛調略、墨俣築城を始めとした数々の功により、やがて北近江の今浜城主に任じられる

 

その後も歴戦を重ね、播磨赤松降伏後には播磨入りし、山陽方面の攻略を指揮した

 

対毛利の為に宇喜多直家を配下にし、直家嫡子である八郎こと宇喜多秀家の後ろ盾となり、後の秀家五大老入りに多大な影響を与えた

 

 

 

 

さりとて、晩年は朝鮮出兵や関白豊臣秀次などにより声望を落とす結果となった

 

それはそのまま秀家に対する反感にもつながり、更には宇喜多家中においてキリシタンを優遇したり、一部の家臣を優遇した結果、一門であった者などの出奔へと至る

 

 

宗景には坂崎直盛となった後も頻りに書を送ってきているが、既に徳川家臣となっているとの事らしい

 

直盛は宇喜多直家の弟であり、宇喜多家中のまとめ役でもあった宇喜多忠家の息子であった。が、南蛮の教えに対して禁教令を発した豊臣の方針に反してまで洗礼を受けた秀家に対して不満を持っていた

 

 

 

この直盛の出奔騒ぎにより、少なからぬ宇喜多家臣が秀家の元から去っていくこととなり、宇喜多家の勢力は衰える事となる

 

 

それでも、宗景としては宇喜多、いや備前の先を見据えねばならぬと秀家に仕え続ける事を選んだが

 

 

 

 

 

「太閤秀吉か

かの御仁は正しく天下人であった

確かに晩年は問題も多々ありはしたが、それをどうにかするのが豊臣政権に属する者の責務だったであろう」

 

 

 

宗景は思う

 

例え、主君信長公のあとを継いだとて、柴田勝家、徳川家康、長曾我部元親、島津義弘、北条氏規、伊達政宗。これだけの人物を倒し、抑えたのだ。見事という他ない

 

 

確かに信長公とて、今川義元を始め、斎藤龍興、六角義治、松永久秀、武田勝頼等数多の強敵を下して来たのは事実である

 

が、義元公はさりとて、斎藤義龍、六角義賢、三好長慶、武田信玄、上杉謙信、毛利元就といった強敵と本格的にあいまみえる事を信長公は回避し続けた

 

後年において、その苛烈さを強調されがちな信長公であるが、寧ろその我慢強さこそが信長公の強さだったと宗景は思っている

 

 

そして、その強さは太閤秀吉にも受け継がれていた、とも

 

 

だが、信長公と太閤秀吉の異なる点

それは家臣の制御が出来ていなかった点ではないかとも思う

 

無論のこと、文字通り日の本を統一した秀吉と信長公では家臣の絶対数も異なるだろうし、単純に比較できるものではない

 

 

しかし、しかしである。秀吉が頼りにしていた弟、亡き秀長殿や軍師たる黒田官兵衛殿はよくとも、親族衆たる福島正則等の短慮は宗景から見ても危ういものに見えていた

 

それでも、秀長殿や五大老前田利家殿のいた頃は仲裁も出来ていた。流石に正則達としても一門筆頭である秀長殿、太閤秀吉の盟友でもある利家殿を無視できなかった

 

 

 

石田三成もまた、誤解を生みやすい行状が見えていた

備前という地をまがりなりにも治めていた宗景からすれば、三成のする事に一定の理解を示せた

本来なら、その辺りを理解するのが正則等の立ち位置である筈なのだが

 

 

 

「反治部を掲げ、よりにもよって内府につこうとは」

 

「笑えぬものよなぁ

しかも、総大将である筈の輝元殿は大阪らしいの」

 

 

 

そう、三成を襲撃した正則等であったが、徳川による上杉征伐に同道した。

 

そして、上杉征伐の兵を起こした状況下で三成は反徳川の兵を起こしたのである

大義としては専横極まる徳川を討ち、豊臣を護るとなっている

 

 

これに対し、徳川内府は息子である結城秀康に上杉の抑え役を任せ、石田治部討伐を掲げ、東海道を西進しているとの事である

 

 

尚、家康は一度江戸に戻り、諸大名に対して今回の戦の大義と石田側の不実を書き連ねた書状を送っている

 

問題なのは、福島正則等が軍議の席にて徳川家康に従う事を表明した事である

 

これにより、少なからぬ豊臣恩顧の大名が徳川についた

 

 

 

 

 

石田方に付いている主な大名と武将は

 

毛利家

 

吉川広家、安国寺恵瓊、毛利秀元

 

 

宇喜多家

 

宇喜多秀家、明石全登

 

 

立花家

 

立花宗茂

 

 

島津家

 

島津義弘

 

 

大谷家

 

大谷吉継

 

 

石田家

 

石田三成、島左近

 

 

朽木家

 

朽木元綱

 

 

小川家

 

小川祐忠

 

 

脇坂家

 

脇坂安治

 

 

小早川家

 

小早川秀秋

 

 

となる

 

 

 

対する徳川方は

 

 

徳川家

 

徳川家康、本多忠勝、井伊直政

 

 

福島家

 

福島正則

 

 

加藤家

 

加藤嘉明

 

 

黒田家

 

黒田長政

 

 

細川家

 

細川忠興

 

 

池田家

 

池田輝政

 

 

 

などである

 

 

 

 

 

両軍合わせると十万を越えようという稀に見る大合戦であろう

 

 

 

 

「勝とうが、負けようが徳川内府にとっては問題なかろうて

無様極まる話よな」

 

宗景は吐き捨てる

 

 

この合戦における全ての大名は豊臣家の大名である

 

 

 

つまり、石田が勝とうが、徳川が勝とうが豊臣の力を削ぐ事になる

 

 

 

 

 

 

 

加えて、徳川家康は間違いなく本陣を戦場より遠ざける

 

となれば、徳川家で消耗するのは一部の家臣のみであろう

 

 

 

豊臣恩顧ともいえる、福島、加藤等の戦力をもって石田、宇喜多などの勢力を削ぐ

 

どちらが勝とうとも、徳川家の影響力は増すだろう

 

 

 

加えて中山道より、後継である徳川秀忠が一軍を率いて来ていると安房守の忍びより話があった

 

つまり、この戦で徳川家が消耗しようとも、秀忠の軍が来れば終わりなのである

 

 

もしも、戦闘中に秀忠の軍が合流すれば、寝返る者も出てこよう

 

 

何せ、既に老齢であり、宇喜多家での影響力を持たない筈の宗景にすら使者を送るくらいなのだから

 

 

 

 

 

更に前田利家亡き後の前田家もこの戦に参陣していない

となれば、内府の手が及んでいると見て間違いないだろう

 

 

 

「まこと、無様なものでございまする

亡き左衛門佐様(小早川隆景)や駿河守様(吉川元春)が居られたならば、激昂したとしても不思議ではござるまい」

 

「加えて言えば、維新殿(島津義弘)も難儀なものよ

柳川侍従(立花宗茂)もまた、問題を抱えておるらしいの」

 

 

毛利はこの状況でも全軍を動かさずいた

しかも、聞くところによると、吉川侍従(吉川広家)は此度の戦に不満を持っているとの事らしい

 

 

強兵で知られる島津家もまた、島津龍伯(島津義久)と維新の間に意見の相違があったとも漏れ聞こえていた

 

結果、島津の兵は異常に少ない

 

 

『鎮西一』と秀吉より評された立花宗茂もまた、妻である立花誾千代との意見の相違があったらしい

 

 

 

 

 

既に秀吉の創り上げた統治機構は崩壊しており、奥州の伊達政宗あたりはこの混乱に乗じて何らかの動きを見せるだろう

 

 

 

 

 

 

「ふ、これもまた乱世の習い、か」

 

 

 

 

宗景は悲しそうに溢した

 

 

 

 

 

 

 

 




 というわけで続くか分からない歴史小説(笑)となります

宜しければお付き合いください
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