仮面ライダーアルパ   作:ぜんそく0088

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ちょっと長いかも………

あと週一は流石にキツかった。


恐怖鬼男 後編

 

 

 

 

或男

 

 

男は普通の教師だった。

少なくともあの時までは。

 

男には常日頃から人を食べてみたいと思っていた。

誰にも言えない彼の嗜好。秘密のまま27まで生きた。彼の人生はひどく凡庸でつまらないものであったが、彼はそれでもいいと感じるほどには満ち足りた生活を送ることができていた。

だが男は迷っていた。このままでいいのか?

会社にはそこそこ中の良い同僚が何人かいるが、誰も自分の性癖を知らない。知られてはいけない。

そこに自由はなかった。希望もなかった。

 

人を食べるために人を殺すのは流石に忍ばれたが、

それでもチャンスがあれば、いつでも食べてみたいとは思っていた。

 

そのチャンスは意外と早くに来た。

 

後輩がアイスを食べているのを横目に、公園で昼を過ごしていた時。

ベビーカーが放置されている。母親は向こうで談笑しているようだ。中をチラリとみた。可愛らしい赤子と目があった。

思った。赤子を食べるのに、なにも全身を取る必要はない、と。一部分だけで良いのだ。

 

例えば、その小さい手。

 

バッグを弄った。ちょうど良い大きさのペンチがあった。偶然では無い、自分はこのような機会を虎視眈々と狙っていた。

 

もう一度あたりを見る。誰もみていない。

ペンチをベビーカーの中に入れ、バチッと音を立てた。それからそっと小さいそれをバッグにしまい、後輩とともにその場から速やかに退散した。

 

その日の夜は眠れなかった。赤子の喚き声が頭から離れなかった。新鮮なうちに手は唐揚げにして食べた。初めて心が満たされたような気がした。男ははじめて心が満たされた。あまりの多幸感に、もう一度食べたいと心から思った。

 

そこから男は歯止めが効かなくなる。子供、老人、女性、男性。ホームレスを狙い始めてからは手際が良くなった。

 

そうして人体のあらゆる部位を食べた男は、ある夜ついにまだ食べていない脳を食べることにした。

 

しかし男はついぞ脳を食べることはできなかった。

 

秘密結社オアビス。暗い影が彼の狂気に迫ったのだ。

 

彼は秘密結社オアビスの魔の手にかかり、一週間で廃人となる。彼は今年で30になるが、白髪が増え、今の彼は親しかった後輩の目から見ても60歳ほどに見えた。

 

 

 

彼が再起不能になった今でも、ハサミ男の恐怖は続いている……

 

 

 

 

 

新聞記事

 

『児童複数行方不明 ハサミ男の犯行か?』

 

「先日岩手県城南市など3市で四歳の幼稚園児2名と七歳の女児3名、12歳の男児2名が相次いで失踪。『ハサミ男』との関連性は不明。児童らはいづれも帰宅途中に失踪した模様。県警は情報提供を呼びかけている。生活安全総務課によると、幼稚園児2名が最後に確認されたのは母親(38)が自宅で朝食を食べさせたX日午前7時ごろ。その後午前11時ごろに自宅からいなくなっていることに気づき…………………

 

………警察関係者らによると今回の事件と『ハサミ男』は従来の犯行の手口からして、関連性は低いと考えられる。県警は情報提供を呼びかけている」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブーッ、ブーッ、ブーッ

 

「………」

 

ブーッ、ブーッ、ブーッ

 

「………朝」

 

朝になった。

結局俺はあれから一睡もできなかった。多分ベッドから布団に変わったのが原因ではないと思う。

 

ブーッ、ブーッ、ブーッ

 

「………うるせぇよ」

 

少々乱暴にスマホを叩くと音は止まった。いつもは後数回は叩かないと止まらないのに、今日は何だかやけに行儀がいいな。

 

………はぁ。

昨日あったことは全く自分の中で整理がついていない。正直何が起こったのか自分でもさっぱりなのだ。

俺がゴキブリを見てあまりの生理的嫌悪感から内なる力に目覚めて瞬間的に爆発的なパワーを使ったという可能性が一つ夜中の間に浮かんできたがまあ絶対違うよね。それともまさかまさかで本当にそういうことなのか?

 

「とりあえず歯磨いて飯食うか」

 

ベッドから、間違えた布団から起き上がって寝着を素早く脱いで制服に着替える。

 

「んっ?」

 

ベルトを掴んだ手が止まった。

あれ?俺のベルトってこんな色だったっけ?

黒を基調とした地味なベルトで、留め具の所は確か鈍色だったはずなのだが、俺が今手に持っているのは溶けるような白色だ。

 

「………ま、いっか」

 

気にせず腰に巻きつける。昨夜起こったことに比べれば些細なことに思えたのだ。少なくともこの時は。

 

すっかり制服に着替え終わった俺は洗面台に向かう際に何気なくポケットに滑り込ませていたスマホを取り出して時刻を確認したのだが、スマホの画面がバキバキに割れていた。

 

「………はい?」

 

バキバキに、割れていた。腹筋だったらどれほど嬉しかっただろうか。

 

「………寝るときに踏んじゃったかな」

 

間抜けな俺はこの時にはまだ自分の体の異変に気がついていなかった。そんな俺でも、流石にこの後の展開で嫌というほど思い知らされることとなる。

 

「んっ???」

 

歯ブラシに歯磨き粉をつけようとチューブを軽く握ると、中身が勢いよく飛び出してガラスに張り付く。

 

「ぐわあああああぁぁあ!!」

 

水を出そうと軽く水道のレバーを上に押し上げたはずなのに、水は勢いよく噴き出して顔に飛び散りついでとばかりにレバーはひしゃげた。

 

パキョン

 

といい音を立ててとてたのはドアノブ。水回りの破損は自分じゃどうにもならないので、助けを呼ぼうとドアを開けようとしたらこうなった。

もう間違いない。

ひしゃげたレバーとドアノブを手に、俺の頭の中にはとある仮説が立っていた。

 

身体能力が上がっている。尋常でないレベルで。

もしそうだとすれば目の前の現象も、昨夜のゴキブリバク転事件も納得がいく。しかしなぜあんなことが起こったかはこの際それほど重要なことではない。

問題は、どうしてこんなことになっているかだ。

 

兎にも角にも、今の俺にできることは破壊した洗面所の水道の手当てを父に押し付けて朝食をかっ詰めてさっさと学校に向かってしまうことくらいだった。もっと正確に言えば俺が母に押し付けたのを母が父に押し付けたと言った具合なのだが。がんばれ、強く生きろ親父。

 

そうやって半ば逃げるように家を出たわけだが、家を出てすぐに俺は吐き気を覚えた。

 

あらゆる感覚が鋭敏になりすぎていたのだ。身体能力だけでなく五感も強化されていた俺は、周囲のありとあらゆる情報を常に根こそぎ吸い取っていく。だからといって脳がパンクするとかそういったことはなかったが、今まで見知った町が全く別の国のように思えてひたすら不快だった。

 

特に匂いが酷い。街全体に嫌な匂いがこびりついている。体臭もひどいのが多いし、女性の香水なんてもってのほかだ。安物と高級の違いがはっきりとわかる力なんてつくづく必要ないなと思った。

 

他にも以前と比べて変わったことがある。

子供の頃から少し苦手だった車が、今は全く怖くない。

あれだけ早く走っていると感じていたのに、今はただの鉄屑にしか思えない。

 

でもそれ以上に人間が怖くなった。

 

車が人を傷つけるのは中に人が乗っているからなのだ。人間の持つ溢れんばかりのパワーが車を動かしている。そのことが、今ではよくわかる。エンジンのパワーじゃない、人の手がハンドルを切っているから車は走るし、事故を起こすのだ。

 

車だけではない、歩行者もまた車と同じように危険だ。集団力学と言うやつだろうか、人混みはてこでも動かないような強い力があって、均衡が何らかの衝撃によって崩れると津波のような大きなうねりとなって、時にはそれが大量の人を殺すことにもなる。

 

それから、子供も危なっかしくて見ていられない。子供は力の使い方が極端なのだ。大人になるにつれて力の制御の仕方がわかるようになるのだろうが、たまにパワーを使い誤ってとんでもないことをやらかしたりする。

 

そしてそれは、思わぬ事故を引き起こす。

 

強い力の迸りを感じて振り返ると、通学途中と思われる小学生が道路に向かって駆け出していた。風に飛ばされた帽子を取ろうとしているようだ。右から迫る赤い乗用車のことなんか目にも入っていないと言った感じで。そして乗用車の方も子供には全く気が付いていない様子だ。

 

感覚で理解した。あ、事故るなこれ、と。

 

その時、不思議なことが起こった。見えない糸で引っ張られるように俺は子供と乗用車に向かって走り出していたのだ。無意識とかそんなちゃちなもんじゃない、もっと恐ろしい強制力を感じる。

 

俺の体はものすごい速度で、半ば自動的に、道路に体を飛び込ませて帽子を掴んでいた子供を抱き抱えると、目の前に迫った赤の乗用車を蹴って飛び越えた。俺自身は終始自分の行動に圧倒されていたのだが、俺の体は素の俺より凄いんじゃないかってくらい華麗に着地。

 

ちょっとばかり尋常の動きではない。

 

口をぽかんと開けたまま固まっている子供(この時女の子だと知った)を地面に下ろすと、俺を支配していた不思議な力が解け俺は自由になる。ぶっちゃけもうちょい不自由であった方が個人的に都合が良かったのだが、さてこの後どうすりゃいいんだ?事後処理もオートでやってくれよ。

 

とりあえず周りを確認した。

目撃者は全員漏れなく呆然としている。乗用車には傷がついて修理費が高そうだ。

 

 

よし、

 

 

 

逃げよう。

 

 

 

__________

 

 

 

 

逃げる男子生徒を漏れなく見つめる目撃者の中に、彼と同じ高校の制服を着た女子生徒がいた。

彼女もまた呆然と彼の後ろ姿を見ていたが、手前で停車していた赤の乗用車のボンネットにくっきりと足跡が残っているのを見てさらなる驚愕に見舞われるのだった。

 

 

 

 

___________

 

 

 

 

「今から飯やっちゅーのに、そんな辛気臭い顔すんなや」

「よせよ、………なんかマジで体調悪そうなんだよなぁ」

 

昼休みになっても鋭敏な感覚は無くならなかった。どころか本来の調子を取り戻すかのようにさらに精度が上がっている。

嗅覚や聴覚だけじゃない、視線や感情といったものまでぼんやりと認識できるようになってしまった。いわゆる第六感のような力を身につけたのだ、俺は。

 

もうはっきりいらないとわかる。

 

誰が誰を好いていて誰を嫌ってるかなんてこんな力がなくても人付き合いの中でなんとくなくわかるものだが、人間というのは意識的にしろ無意識的にしろ自分にとって害のある情報からある程度己を守る術を体得しているものだ。

 

ところが今のところ俺にはその力がない。特に自分に向けられた視線や強い感情なんかは本能的に拾ってしまう。つまり、俺は授業の間中ずっと強い感情に晒され続けていた。

 

マジで授業に集中しろよお前ら。

おかげでこちらは全く授業に身が入らないし、段々気分が悪くなってきた。

どんな感情にしろ強いものを受けると疲弊するものだが、やはり悪感情は格別にしんどい。太田という男を筆頭に、俺のアンチがクラスに割といるというシンプルに萎える事実は確実に俺の体力を削っていく。そいつら一人一人に意識を向けると全員漏れなく緑川のことを見ていた。幼馴染やっちゅーとんのにこいつらは………。

勘弁してもらえませんかね。男の嫉妬とか誰得やねん。

 

そして当の緑川は、妙なことに俺を方に視線を向けていることが多い……ような気がする。

三回くらい。

悪意と違ってはっきりとはわからないので、もしかしたら俺の願望が生み出した幻覚かもしれない。そんなわけがないと個人的には思いたいのだが否定できるほど自分に確たる自信がない。

 

まあ気のせいかもしれないが。

 

ただ、午前中ずっと授業を受けていてなんとなく思ったのが、やはり学校という場所は異質な空間だということだった。ゴッフマン曰く人は社会の中で俳優のように自分の役割を演じているそうだ。いわゆるドラマツルギーというやつである。

 

俺は度々教室を俯瞰して見ているような錯覚を覚えていた。俺はさながら、舞台裏から生徒と先生の役割を演じている人々を覗き見ている観客のよう。

 

今まで俺もこの中で平然と暮らしていたのかと思うと、頭を大きく揺さぶられるほどショックだった。馴染みの場所がどんどん見知らぬ場所に変わっていく。体調は悪化してく一方だし、一刻も早く家に帰りたい。

でも、家ももういつもの家じゃないかもな。

 

「飯食わんのか」

 

本堂が心配そうに俺の顔を覗き込んだので、俺は妙な安心感を覚えて顔を上げた。やはり友というのはいいもんだ。

 

「ああ………ちょっと気分悪くて」

「ホーン、そんじゃワシがその弁当遠慮のう食うてもええか?」

「まあいいけど」

 

ウッヒョー、と言って俺の弁当箱を掻っ攫っていく本堂の姿は、馬鹿馬鹿しくて笑える。

 

今までなんとも思っていなかったセピアの日常の一瞬一瞬が、カラーの写真のように鮮やかでまるで新鮮に思えて、まあそれが体がおかしくなって唯一よかったと思えることかもしれない。

 

「保健室行った方がいいじゃないの?」

「うーん、実は保健室使ったことないんだよなぁ」

「もしかして行ったことないの、ショウくん」

 

ごく自然に会話に乱入してきた緑川のことを拒絶する元気もなかった。近づいてきていたのはわかっていたが、別にわざわざ声をかけて拒絶する必要もないだろう。

 

「うん、まあ」

「あ、だったら」

 

緑川は妙に楽しそうな顔で、いかにもいい案が思いついたという風に人差し指をピンと伸ばす。なんとなくクラスの雰囲気が変わったような気がしたのを感じて二の腕の辺りがピリッとした。

 

「私が連れていって上げようか」

「えっ」

「私保健委員だし、一応」

「…………」

 

俺も疲れでどうかしてたのだろう。いつもなら即お断りで一人で行けますまで2秒もかけなかっただろうに、あろうことか緑川と一緒に行く気になってしまった。

 

「ーーーええっと、じゃあ」

 

チッ

 

「ッ!」

 

はっきりと聞こえた。

 

それは舌打ちと呼ぶにはあまりにも小さな音。

もしかしたら本人にすら聞こえなかったかもしれない。

だが俺にははっきりと聞こえた。舌の独特な動きまで、はっきりと認識できた。できてしまった。

 

「………ショウくん?」

 

今まで感じたことのない嫌悪感が背筋から這い上がってくるのがわかる。

あの舌打ちには特盛の悪意がこもっていた。慣れてない分目の前で中指を突き立てられた方がまだマシだと思える。そんなことされたことないからよくわからんけど多分そう。

 

「どうしたの?」

「いや………ちょっとトイレ」

 

俺は素早く席を立ってできるだけ壁際に座っている太田の方を見ずにトイレに向かった。吐き気が込み上げていたし、一刻も早くここから立ち去りたい。

 

駆け込むようにトイレに入ると、個室の鍵をかけて別に用のない便器に座る。ようやく一息ついたのも束の間、また吐き気がぶり返して俺は勢いよく便器に胃の中のものを全部戻してしまった。

 

おいおいマジかよ、今の俺はだいぶキてるようだぜ。

何度かえづいて、別に見たくもない内容物をちらりと見た俺はその異様な状態に思わず目を見開いた。

 

「なんだこれ………」

 

食パン、目玉焼き、ウインナー、サラダ………

よく確認もしないで口に詰め込んだ今朝食べた朝食が、そのままの状態で便器のなかを漂っていた。

 

「……消化されてない?」

 

食パンについた歯形まで綺麗に残っている。

 

「.……」

 

この時になってようやく俺は、自分の体の異常性をはっきりと認識したのだった。そして忘れていた恐怖も思い出した。

 

フランツカフカの代表作である「変身」では、主人公のグレゴールがある朝突然巨大な虫になってしまう。俺も姿こそ変わらないものの、彼と同じような境遇にあるのではないか。

 

「変身」は代表的な不条理文学だ。もし俺がグラゴールと同じであるなら、やはり同じような結末を俺はたどるのだろうか。それだけはごめんだ。

 

どうにかせねば、そう思った。

 

体を元に戻す方法があるにせよないにせよ、自分がこうなってしまった原因くらいはわからないと、この先どんなことになるのかわかったもんじゃない。

理由なんてないのかもしれない。そんなことはわからない。

だが、このままでいいはずがない。

それは間違いないのだ。

 

なんとか気を持ち直してトイレを後にしたが、流石にすぐ教室に戻る気にもならず、トイレの近くの窓に佇んで外の景色を暫く眺めた。

視覚もある程度変化しているので、昨日とは全く違って見えるのは新鮮で面白かったがそれを素直に楽しむ余裕はない。

 

「………」

 

外は穏やかだった。

 

雲はゆったりと流れる。

風は吹く。

緑が揺れる。

空が青い。

そして、青空の下に人がいる。

 

ひと、ひと、ヒト。

やはり、見渡す限りに人がいる。どこもかしこも人だらけだ。

以前の俺にとってそれは当たり前の光景だった。今でも、別にそのことに対して何か不可解に思っているわけではないが、「たくさんいるな」とだけ思うようになった。

 

でもその「たくさんいるな」と思うようになったことが、俺に起こった変化を最も象徴しているのではなかろうか。

 

たくさんいる。当たり前だ。

 

以前の俺が全く気にしなかったこと。

 

街。

 

俺の住む街。グラウンドの向こう側に広がっている。

中にたくさんの人がいる。

たくさんの人が歩いたり走ったり止まったりしている。力が集中している。

力を内包している。

人々を生活させる力。

それは強固だが、ゆらゆらと揺れている。蜃気楼のようだ。実際蜃気楼のようなものなのかもしれない。そこにあるようでない。

確かであり確かでない。

 

青空。確かだ。

 

大地。そこにある。

 

街。あるようでない。

 

漠然とした不安感に包まれている。

 

「………戻るか」

 

体が変わっても、俺がすることは考え事だけ。

 

滝壺があったら飛び込んでしまいたい。冷たい水が渦を巻いて俺の体を奥深くまで引き摺り込むだろう。俺は木の葉のようにクルクルと回転して………そのあとはきっと死なない。肌に鱗を浮かび上がらせて、とぐろを巻く大蛇にでもなればいい。そうでなければ、小さな鮒にでも。滝壺の裏には巨大な空間が広がっているのだ。だからなんだ。こんな考え事は全部無駄だ。なんの質量も伴っていない作業に価値などない。

俺に必要なのは、行動だ。

 

俺は再び俺のいる世界に集中した。容易に戻ることができた。塞いでいた心が解き放たれて、音と光があたりに満ちる。

満ちると視線を感じた。

振り返った。

 

そこには女の人が立っていた。俺の知らない人だ。制服を着ているから同じ学校の人なんだろうけど。

 

「………何か用でも?」

 

たっぷり十数秒待っても彼女は動かなかったので、終いに自分から声をかけた。彼女は無言で俺を見つめていた。声をかけようか迷っている様子で。俺に声をかけるのにそんなに迷う必要などない。

 

「いや、その」

 

女の人は軽く狼狽えた。にしても、髪がストレートに腰まで伸びている人なんて、初めて見たな。

ていうか美人だなおい。

なんと言えばいいのかわからず逡巡していると、不意に女の人が笑った。急になんだよ、こわ。

 

「………そういうこと軽々しくいうの?軟派なのね」

「えっ」

「見た感じ冴えない人だったから、ちょっと意外」

 

見た感じというか見たまんまの冴えないやつですけど?一体彼女は何を………あっ。

 

「もしかして、口に出してた?」

「思いっきり」

 

うわー、まじか。顔が急激に火照りだした。

 

「変な人」

 

女の人はもう緊張していない。逆に俺の方は徐々に焦りを覚え始めていた。つい先程までは気にしていなかったが、初対面で同い年の女子となんか普通に喋っている。普段の俺ならありえない。

 

「名前は?」

「へっ」

「名前だよ名前。まだ聞いてないでしょ」

 

一瞬素直に答えようか迷った。

いう必要ある?これ。

彼女が俺に近づいてきた目的がなんだかわからんが、それを済ませたらもうバイバイお別れなんじゃないの?それとも、彼女にとってまず初めに名前を聞くことはごく初歩的な会話術なのだろうか。

どちらにせよ答えないのは流石に感じが悪い。

 

「えーと、矢田章太郎、です。はい」

「なんで急に敬語?女慣れしてるんじゃないの」

「女慣れっ!?してないけど!?」

 

妙なレッテルが貼られそうだったので慌てて否定する。女慣れとはあまりにも心外だ。彼女はさもおかしそうにくすくすと笑った。なんか知らんけどいい感じに話が弾んでいく。

 

「私は立花六花っていうの。よろしく、章太郎くん」

「あ、うん」

 

それから彼女、立花六花は自然に俺の隣に寄って、同じように窓枠に肘を突いた。柔らかい匂いが鼻孔をくすぐる。他の人とは違う、少し変わった匂いが彼女から漂ってきた。自然と心が軽くなる。

いい匂いだった。

あと、どうでもいいけどこの人初対面の俺のこと章太郎くんっていや本当にどうでもいいんですけどもね。

 

「……あのさ」

「うん」

 

不意に会話が途切れた。というより、彼女が口を閉じた。

妙な切れ方だったけれど、俺は口を開かなかった。彼女にはこの束の間の沈黙が必要だと肌で感じた。

流れる雲が一回りほど大きくなったところで、窓の外に目を向けていた立花六花が再び口を開く。

 

「あのね」

「何」

「今朝のやつ、見てたんだ、私」

 

今朝のやつ………?

 

「轢かれそうになってた子供助けてたよね」

「っ!!」

 

喉が詰まった。彼女は見ていたのだ、あの時。あれを。全身の毛が警鐘で逆立っていくのを感じる。もし彼女が今朝あの現場にいたならば、当然疑問に思ったはずだ。俺の超人的な動きを。だとすれば彼女の目的も最早明確であり、それは追求だ。そのために彼女は俺に近づいたのだ。

 

そんな俺の心境を知ってか知らずか、立花六花は窓に目を向けたまま話を続ける。

 

「………言おうか迷ったんだけど」

 

俺が逃げ出そうかどうかしようとしていると、立花六花は不意に、俺に一歩近づいた。正直ギョッとした。彼女の視線が俺の胸のあたりに強く向いている。鋭敏となった俺の感覚が、胸のあたりをジンジンと訴えていた。これからないを言い出すのやら。たまったもんじゃない。

 

だが彼女から出てきた言葉は、俺が予想していたのとは全く違うものだった。

 

「どうして、助けたの?」

「はい?」

 

想定外の質問だ。それに、いまいち意図が掴めないし、要領を得ない。

 

「………ドユコト」

「私だったら、多分近くにいても動けなかった。章太郎くんはどうして助けようって思ったの?」

 

なんだ、そんなことか。力が抜ける。でも、やっぱり妙な質問だ。俺はあの時のことを思い出しながら、

 

「それは………無意識だったから」

 

と、かろうじて言葉を紡いだ。

 

「無意識に人を助けられるの?」

「まあ、咄嗟のことだったし」

 

俺は素直に本当の気持ちを立花六花に話していたが、同時に自分の言っていることがどうも的を射ていないことも如実に感じていた。

 

あの時の俺は明らかにらしくなかった。

まるで自分の体じゃないかのような、他人に操られているかのような違和感があったし、太い糸で引っ張られているかのような強制力も感じた。

 

無意識で、というのはなんだか違うような気がする。しかしそれ以外の言葉が見つからない。

 

「………やっぱりそうなんだ」

「やっぱり?」

「私のお兄ちゃんも、章太郎くんと同じこと言ってた」

 

立花六花は窓の外に目線を戻した。

 

「よく困ってる人を見かけたら手を貸してた。なんでって聞いたら、『困ってる人を見かけたら自然と体が動く』って。私は困っている人を見かけても周りの目が気になって動けないから、そんなお兄ちゃんのことを尊敬してた」

「………そうなんだ」

 

それを聞いた途端、胸に暗雲が立ち込めて憂鬱になる。

 

そんなんじゃない、少なくとも俺は。彼女の兄みたいな、立派な人間じゃない。あの時だって俺は子供を助けようだなんて思いもしなかった。

ただ、事故るな、とだけ思ってた。

体が勝手に動いたから結果として俺はあの子を助けたけど、それには俺の意思は何一つとして介在していない。そんなの、俺が助けたとは言えないだろ。

 

「尊敬してる、章太郎くんも」

 

その言葉を聞いて、胸が苦しい。

 

俺は褒められるような人間じゃない。常日頃から賞賛を心の奥底では求めているくせに、俺は今不当な賞賛を受けて罪の意識に苛まれている。どこまでもズルくてみみっちい男だ。

 

勘違いをしている立花さんに申し訳が立たない。今彼女の中にどんな俺が形成されるのかはわからないが、それはきっと本来の俺ではなく、子供を颯爽と助けた偽りの俺だ。

 

「………そんなんじゃないよ。何も考えてなかった」

「でも凄い。少なくとも、助けようと思っても私はできない」

「助けようと思う方がすごいよ」

 

俺は正直にそう言ったのだが、彼女は不満そうに口を窄めた。

 

「………謙遜の仕方、ヘタ」

 

それから、控えめに笑う。

彼女の横顔、長い髪の隙間から垣間見えるそれに、俺はほとほとに困った。

じっと見るのは彼女に悪いと思う反面、ずっと見ていたいと思う俺ガイル。

こんな邪な考えはすぐに消したかった。だがなかなか消えなかった。もしかして、これがいわゆる男子諸君らを虜にする『恋愛』というやつなのだろうか。

 

だとすれば、やはり俺には必要ない。不器用な俺はこの感情をきっと持て余す。さっさと捨ててしまうのがいい。

 

「あ、そうだ。せっかくだしライン交換しようよ」

 

ところが一度つながると簡単には切れてくれないのが人との縁だ。

特に断る理由が思い至らなかった俺は、渋々スマホを取り出してあれなんか画面がバキバキに割れてんな。あ、そうでした俺が叩いて割ったんでしたね。

 

「なんでそんなにヒビ入ってるの?」

「いやぁ、今朝、ちょっとね」

「もしかして、車と接触してた?」

 

心配そうに俺の顔を覗き込む立花さんに、思わず体を退け反らせて距離を取る俺。近いし匂いがヤバい。

 

「いや、大丈夫。それとは別件だから」

「あっそうなんだ。はい、これ私の」

 

ささっと操作してからしばらく、俺のスマホに立花六花のアカウントが登録される。何気にクラスの女子と身内以外で女性と交換したのはこれが初めてだ。

 

「私、昼はあまり教室いないから、もしかしたらまたばったり会うこともあるかもね」

 

また会う、か。

 

仮に会ったとして、俺と彼女の間には共通の話題がない。何を話すのだろうか。

なんとなく、どんな話題でもフラットに返す彼女の姿が想起される。それで気を良くした俺が、調子に乗ってどんどん話を膨らませて………て、なに仲良くなるところ妄想してるんだ俺は。思春期の男子中学生かよ。

 

多分俺の妄想通りはならない。何度か話すうちに彼女は、彼女の理想の俺と現実のしょうがない俺とのギャップに失望して、そのうち自分から離れていくだろう。ラインのアカウントはしばらく残ると思われるけど、機種変したら繋がらなくなるだろうな。

 

人付き合いなんて所詮そんなもんだ。

適度に仲良くなって、距離が離れるとぱったり交流が途絶える。大人になっても続くような関係を築ける人なんて、生涯で指で数えるほどしかできないものだ。

 

俺と立花さんがその数少ないうちの一人になるとは思えない。少なくとも彼女が俺を尊敬しているうちは。

立花さんが俺にある種英雄のようなレッテルを貼っているのだとすれば、俺が彼女の期待値を超えない限り、彼女との関係は継続しない。

それとも、立花さんにラベリングされることで、立花さんの思い描く俺の理想のアイデンティティが自然と俺の中に形成されるものなのだろうか。

 

………なんにせよだ。立花さんと話していて、俺の意思は固まった。

やはりこのままではいけない。

このままだと俺は俺ではなくなる。訳がわからないまま、気がついた時には全くの別人に変貌して、俺も変わったことを疑問にすら思わなくなるに違いない。

 

ヒトに、戻らなければ。

 

幸いなことに、あてはある。昨日俺が事故ったであろう奥玉湖にいけば何かがわかるかも………

神経質になっていたのだろう。

強い視線を感じて思わず身構えた。

 

「………緑川?」

 

廊下の曲がり角から緑川らしき人物がこちらを凝視している。彼女は俺と目が合うや否や、一目散に逃げていった。

なんだったんだ?

立花さんも俺の反応で緑川に気がついたようだ。

 

「あれ、だれ?彼女?」

「………」

 

彼女て、彼女じゃないわ。

 

「知り合いだよ」

「ふーん」

 

立花さんは疑り深い目を向けてくる。嘘なんかついていないって。

 

「まあ、いいけど」

 

俺は立花さんの目から逃れるようにスマホで時間を確認した。そろそろ昼休みが終わる頃だった。もう戻らないと。

 

「あ、そうだ。ちょっと聞きたかったことがあるんだけど」

 

帰り際に立花さんがそう言った。

 

「え、なに」

「子供助ける時なんか凄い動きしてたよね?車も凹んでたし……。どこかで鍛えてるの?」

 

ーーあっ。

 

「あ、ああー、いやぁ毎日3食食べて」

「うん」

「歯磨きして」

「………」

「よく寝て」

「…………」

「………早起きしてるから」

 

言い訳きっつ。

言い訳がきつかった。

俺が恐る恐ると言った風に立花さんの顔色を伺うと、感心した様子の彼女とばっちり目があった。あれ?

 

「………お兄ちゃんも同じこと言ってた。それって本当だったんだ」

「いやぁははは」

 

 

 

お兄様?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学校の帰り道、緑川とバスの中でばったり会った。別段奇妙なことでも無い、家は割と近くだし、帰る方向が同じなのだからこういう事もあるだろう。理屈の上では。

 

ただ、奇妙なことに緑川とバスを共にしたのは数えるほどだった。それにもしバスで彼女を見つけた時も、俺は彼女に声をかけなかったし、彼女も俺に気づいた素振りは見せなかった。

 

それが普通だった。

 

でも今日は少し様子が違う。俺の目の前に緑川はいた。そして俺の方をしっかりとみている。俺はスマホに目を落としてはいるものの、もうすでに三回ほどこちらを見つめている緑川と目があって、もうすっかり辟易していた。

 

「………今日は早いんだな」

 

俺から声をかけたのは、もう半年くらい前が最後だったと思う。

 

「うん」

「立ってたら疲れないか?前の席空いてるんだし、そこに座ったら」

 

緑川はさっきからずっと立ったままだった。俺はずっと座っていた。バスはこの時間帯にしては空いていて、いくらでも座る場所があったにも関わらず、緑川はずっと俺の隣に立っていたのだ。

 

なんというか、流石に黙ってスマホを弄ってるのはきまりが悪かった。

俺が着席を促すと、緑川はあっさり座った。

 

「………」

 

俺も、緑川も、何も言葉を発さない。バスの軋む音だけが響く。

 

「…………」

 

昼はあんなに積極的に話しかけてくるくせに。やっぱり緑川のことがよくわからない。彼女は一体何がしたいのだろうか。

 

前を向いたまま動かない緑川。

それを後ろから見つめる俺。

 

緑川の後ろ髪は、よく見ないとわからないが、少しカールしている。小学校の時はわからなかった。今より髪が長くはなかったから。

俺は小学校の頃の緑川しか知らない。中学も高校も同じなのに。

…………。

 

「小学校の頃は」

「えっ」

 

緑川が振り返った。目をまん丸に見開いて。

 

「小学校の頃は、よく一緒にいたよな」

「う、うん」

 

緑川は少なからず俺から話しかけてきたことに驚いている様子だった。俺だって驚きだ。驚天動地といってもいい。

 

なんで俺は急に緑川に話しかけようと思ったのだろう。

 

「どんなこと話してたっけ」

「どんなことって……」

 

緑川は躊躇いがちに、ぽつりぽつりと話し始める。

 

「テレビの話とか」

「漫画とか」

「あと、映画」

 

「映画か……そう言えば昔一緒に見てたな」

 

そうだった。

俺の家よりも二回りほどでかい彼女の家にお邪魔になって、やっぱり二回りほどでかいテレビの前で二人仲良く並んでよく映画を見ていた。

 

「派手なアクションものとかな。後俺は見たくなかったけど、B級映画とか」

「えー!面白かったでしょ?」

「八割駄作だったろ。まあでも、ダレンシャンはまあまあだったかな」

「あの吸血鬼のやつ?」

「あと、パイレーツオブオマタリアンとア・イヤ〜ンマンは今でも忘れられんわ」

「それは確かに」

 

気がつくと俺と緑川は普通に喋っていた。

懐かしい感覚だ。

昔はこうしてよく二人で喋っていた。家でも学校でも。

 

いつ頃から話さなくなってしまったのだろう。少なくとも中二の時にはもう口を聞いていなかった気がする。あの頃の俺は所謂思春期というやつだった。

 

人は皆思春期を経験する。

 

ガキの頃に距離を詰めすぎて、中坊で極端に離れる。そのうち適切な距離を測ることができるようになって、お互い傷つきにくくなってそれでようやく一端の大人の付き合いができるようになる。

 

やまあらしという生き物を知っているだろうか。

コイツは全身に鋭い棘を持っている。

それは敵から身を守ってくれるが、想いを寄せる相手をも傷つけかねない代物だ。

だからやまあらしは相手に自身の棘が刺さらないように上手く互いの身を寄せ合うそうだ。

 

俺も緑川もようやくその方法が分かってきたのかもしれない。

 

中学の時は皆んな自分や他人の持つトゲに怯えていた。だから俺と緑川も自然と距離を置いた。

でももしまた離れた距離を詰めるような機会があればその時は、互いに良好な関係を再構築できるのでは無いか。

 

バスは加速と減速を繰り返す。

 

目の前の緑川の頭が慣性でゆらゆらと揺れた。いつの間にか、かなり至近距離に顔がある。それに気づいた俺は若干身を引いた。

 

俺たちはかなり長いこと喋っていた。

俺は後方で小学生が三人、俺と緑川を見てクスクスと笑っているのを感じ取っていたが、今は不思議とそういうのが気にならない。

 

それよりも俺は緑川に聞きたいことがあった。

 

「昼は悪かったな、邪険にして」

「ううん、別に」

「そういえば、こうしてバスで話したこと、なかったな」

「そうだね……私が避けてたから」

 

……ん?

 

「避けてたって、なんで?」

「ショウ君に話しかけるの、ちょっとだけ怖かったから」

 

怖い?

 

「いやいや、昼休みに毎回話しかけてくるじゃん」

「それは、約束があったから」

 

約束?なんだそれ俺は何も覚えて……

 

《flash back》

 

………

 

 

……いや、思い出した。小学校3年生の時にクラスが別になって、別れたくないと嘆いた緑川に俺が、昼休みに必ず会おうと約束していた。

 

まだ覚えていたのか、そんなことを………

 

妙な気分になる。

申し訳ないような、嬉しいような。言葉にするのは難しかった。

妙な気分のままバスが目的地についた。

 

バスを降りてからも俺たちは肩を並べて歩いた。さっきよりは無口だったが、気まずいわけでは無い。ただ少しだけ気恥ずかしいのだ。同級生の異性とこうして肩を並べて帰宅するのはこれが初めてだった。

 

いや子供の頃はよく一緒に歩いてたか。

まあでも、子供の頃の話だもんな。

 

俺は気づかれないようにそっと、隣を歩く緑川を見る。彼女は俺と並んで帰ることをどういうふうに思っているのだろうか。俺と同じように感じているのか、それとも全く違う思いを抱いているのか。

 

ていうか、誰も見てないよな?

 

周囲をさらっと確認する。

この時間帯は俺らと同じように学校や仕事から帰宅する人でまあまあ混み合っていた。社会人から小学生までとヴァリエーションは豊富だが、ほとんどの人が同じ方角を進んでいる。

 

一見して知り合いは居なさそうだが、太田や本堂あたりがこれを見たら学校で面倒なことになるのは分かりきっていた。

 

緑川が不意に立ち止まった。ある一点を凝視している。

 

知り合いにバレたか?と俺は身構えたが、どうも違うようだ。緑川はランドセルを背負った小学生を見つめていた。

 

「正夫?」

「げ、ねーちゃん……」

 

露骨に顔を顰める小学生の顔には見覚えがあった。

 

「弟さんか」

 

緑川正夫。下校途中なのか、ランドセルを担いだままだ。

緑川とその弟正夫は5歳歳の離れた姉弟だ。姉弟の割には全く顔が似ていない。そして性格も似ていないようだ。

 

「塾はどうしたの?」

「きょ、今日は休みなんだよ」

「本当?」

 

緑川が訝しげに目を細めると、目が泳いだ。わっかりやすいなー、サボりか。

 

「ねーちゃんこそ今日早いじゃん。……隣の人誰?」

 

正夫はわざとらしく話を逸らし、俺の方に目を向けた。一応小学生の時に面識があるのだが、向こうは覚えていないようだ。

それも仕方がないか。

だいぶ昔のことだし、彼も幼かったからな。

 

にしても黄色とは派手な色のランドセルだな、最近はこういうのが流行りなのか?

 

「ショウ君、覚えてない?昔一緒に遊んだじゃない」

「うーん……」

 

正夫は俺と緑川を交互に見つめてから、してやったり、という風にニヤリと笑った。

 

「もしかして、ねーちゃんの彼氏?」

 

彼氏て、彼氏じゃないわ。

 

小学校特有の幼稚な発想だ。

男女が仲良くしていたらすぐ揶揄ってくる。俺はもう高校生なのでこの手の話題にも相手が小学生なら動じず鷹揚に構えることができる。

 

そういえば立花さんも目の前のガキと同じようなことを言ってたような気がするけどまあどうでもいいか。

 

「え、いや、その」

 

動じない俺とは対照的に、緑川は馬鹿正直に狼狽えていた。子供の言うことなんだから軽く流しときゃいいのに。こりゃ緑川は相当弟に舐められてるんだろうな。

 

「わー彼氏だ!!お母さんに言っとこー!」

「ちょ、こら正夫」

 

緑川の声は若干震えていた。当然そんな声では駆け出した正夫を引き止めることは出来ない。

 

「帰るんだったら寄り道しないですぐ帰るのよ!!」

 

なんとかそれだけ言うと、緑川は大きくため息を吐く。

 

「……ごめんね、正夫が」

「いや、別に」

 

緑川の顔は僅かに朱に染まっている。正直、それを見てかなり参った。

クラスの男子が夢中になるのも納得だよ、そんな顔されちゃね。

緑川は俺の視線に気がつくと、視線から逃げるように身を捩った。悪かったね長々と見つめたりして。

 

「まあ、最近はなにかと物騒だし、早く帰らせるのも良いんじゃないかな。ハサミ男とか出るらしいし」

「うん」

「…じゃ、帰りますか」

「う、うん」

 

俺たちは再び歩き出した。心なしか俺と彼女の肩の距離は、先程よりもちょっとだけ離れた。

 

「……昔はよくこうして二人で帰ってたな」

「そうだね」

 

俺たちはグングン歩いた。

普段よりも遅く歩いているつもりなのに、普段よりも早く道を進んでいる。別れはもうすぐそこまで迫っていた。

 

俺はずっと黙って前を向いて歩いていた。緑川が口を開くそぶりを何度か見せたのでそれで黙っていたのだが、結局彼女は一言も口を開かなかったし、それで俺も一言も発さなかった。

 

そのまま特に何も話すことなく、ついにその時になってしまった。

 

「……じゃあな」

「うん………あの、ちょっと待って」

 

別れる時になって、緑川は躊躇いがちに俺を引き留めた。

 

「その、言いたくなかったら言わなくていいんだけど」

 

なんだよ藪から棒に。

 

「昼休みに一緒にいた人って、ショウ君の彼女だったりする……?」

 

彼女って、彼女じゃないわ。

 

「立花さんのこと?や、今日たまたま知り合っただけだけど」

「そうなんだ……本当に?」

 

疑り深い眼差しを向けてくる緑川。なんかこの感じ何回かあったな。

 

「本当だって」

 

俺ってやっぱ信用ないのかね。

 

「ふーん……私が聞きたかったのはそれだけ」

「そうか、じゃあな」

「うん、バイバイ」

 

それを皮切りに、俺と緑川は別々の方向に向かって歩き出した。

 

今日はなんだか色々あったな。

だけど、まだ終わりじゃない。

 

何故なら、

昨日事故ったあの場所に、再び向かわないといけないからな。

真相を突き止める為にも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と、意気込んでバイクを走らせた(ヘルメットが無いのでノーヘルで)はいいものの、いざ昨夜の現場に来ても真相なんてもんはない。何の変哲もない道路が広がっているだけだ。

 

ま、当たり前か。

 

バイクを止めて、道端に座り込んだ。そのままガードレールに背中を預けると、自然と長い溜息が出てくる。期待していたわけじゃないが、何にも手がかりがないと流石に凹むな。

 

空は既に白み始めていた。

日がもう完全に地平線の下に沈み込んでいるのだ。暗くなる前に帰ったほうがいいな。昨日みたいなことがまた起こらんとも限らんし。

 

俺はガードレールを伝ってズルズルと立ち上がり、座った時についたズボンの汚れを払う。うわ、思ったより汚れてんなココ。

 

「ん?」

 

ポケットのスマホが揺れた。一瞬何でもない通知かと思ったが、中々収まる様子がない。つまりコレは通話だ。

バキバキに割れたスマホの画面には、見慣れない人物の名前が表示されていた。

 

「緑川?」

 

一応クラス全員の連絡先がこのスマホには入っている。緑川のも当然あるわけだが………。

 

「…………もしもし」

『あ、もしもしショウ君!?』

 

ギョッとした。思ったよりも大きい音が耳元でなったから仕方のないことだろう。緑川の焦りがひしひしと電話越しに伝わってくる。

 

「な、なんかあったのか?」

『急にゴメン、正夫を見かけなかった?』

「弟さん?いや、あれ以降は見てないけど」

『………まだ家に帰ってきてないみたいで』

 

咄嗟にスマホに表示された時刻を確認すると、6時44分を示していた。

 

「塾に行ったんじゃないのか?」

『塾にも連絡はしたけど、来てないって』

 

となると、俺たちが別れた後になんかあったのか……

 

嫌でも「ハサミ男」の件が脳裏を掠める。緑川もそうだろう。誘拐の可能性があるからこそ声に焦りが生じているのだ。

 

「警察には?」

『お母さんが………』

 

不意に語尾が震えた。

 

『ど、どうしようショウ君、正夫が、……どうしよ』

 

どうしようって………。

 

言葉が詰まる。

緑川にどんな言葉をかけたらいいのかさっぱりわからない。まだ誘拐と決まったわけでもない。取り越し苦労なのかもしれないのだ。

 

だからそんな気負うなって?

そんな薄っぺらい慰めでいいのか?

 

それに俺が緑川にとやかくいうのはお門違いって感じがする。

 

「とりあえず、俺も探してみるよ。今ちょうど外に出かけてるし………」

 

『うん、………ありがと』

 

今にも消え入りそうな「ありがとう」だった。いっそのことそんなお礼なかった方がマシだと思えるくらいには薄幸な響きだ。

 

「………見つけたら連絡するから」

『うん………また』

 

ぷつりと消える。きっと俺以外の知り合いにも手当たり次第に連絡を入れているのだろう。

 

「………行くか」

 

バイクのハンドルに手を掛けつつも、俺は行きあぐねた。

 

あてがない。探すったってどこへ?

 

俺と緑川が弟さんと会った場所を起点に探すとして、なにを手がかりにすればいい?誘拐ということは、少なくとも人目のつくところではない。暗い路地、森、カーテンで仕切られた室内。

 

それから、ここ。

 

毎日走っているからわかる。ここは人通りが少ない。静かだ。暗い。

 

こそこそ何かするには最適な場所。

 

「………まずは一周回ってみるか」

 

でかい車でも止まってりゃビンゴなんだが………嫌そもそも誘拐なんて起きていないかもしれないんだ。あのガキのことだからゲームセンターかカラオケにでも寄って時間を忘れてるのかもわからない。

もしかしたら「ごっめーん」てな具合でひょっこり家に帰ってくるかも。

 

なんてことを考えつつ俺はバイクのエンジンを吹かせた。

 

今日もこいつの調子は最高にいい。気持ちの良い音を鳴らしてくれる。

 

しかし、今日はなんとも不気味な風が吹くな。

いや元々こんな風が吹いていたのかもしれないな、ここは。俺の感覚が鋭くなっているから如実に感じられるだけなのか。

人があまり寄らないのはそこらへんに所以があるのかも。

 

 

 

5s

 

 

 

とにかく緑川の弟がどっかで彷徨ってるなら、早く見つけてやらんといかん。とっととバイクに乗って

 

 

 

4s

 

 

 

乗って………

 

 

なんだ?

 

 

 

3s

 

 

 

妙な気配がする…

 

 

 

2s

 

 

 

………?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1s

 

《ALERT》

 

恐ろしいほどの耳鳴りが、波打つように全身を襲う。まるで身体の内側から這い上がってくる叫び声のような耳鳴りが。

 

「ううぅっ!!!?」

 

一瞬で平衡感覚を根こそぎ吸い取られた俺はしかし、体勢を崩すことなくバイクに跨っていた。

 

それは奇妙だった。

 

だったが、

それを不思議に思う暇さえ俺にはなかった。

 

続いて俺の背後が真っ赤に染まる。血塗られた赤だ。

 

すぐに振り返った。

 

夜が赤い。

 

赤い夜は隅から隅までよく見えた。地面の凹凸や木の葉の揺れまでも。そこに光の暖かさは微塵もないが。視界一面に広がる赤は或一点に凝縮されている。そしてそれは急速に遠ざかっているようだった。

 

全く無意識だ。

 

俺は素早くバイクを旋回させると、遮二無二駆け出した。

 

叫びたい気分だ。

 

何かある。

 

絶対あれには何かある。

 

何かなきゃおかしい。

 

或いは俺の頭の方がおかしくなった可能性もあるにはあるが……

 

バイクが走り始めると、視界は元に戻りつつあった。だが全く安心はできない。俺は全身の感覚に従い遠ざかる赤を追う。

追う、というより、糸か何かで引っ張られているみたいだ。その感覚は赤に近づけば近づくほど強くなっていく。まるで磁石のように。

 

バイクが猛烈に加速し出した。

 

計器の針がグワンと上に持ち上がる。速度は既に100km/hを超過していた。

ノーヘルでだ。

警察に見つかったらまず間違いなく捕まる。こんなに早く走ったのは生まれて初めてだったが、そこに恐怖はなかった。どころか、もっと早く走れるとさえ思った。

 

もっと早く!!!!

 

ヘッドライトが音を立てて起動する。

 

そんなものがなくとも俺の目は走る道をしっかりと捉えていたが、光があるとやはり頼もしい。

 

恐れ知らずの体が、風を切るようにグングンとバイクを加速させていく。

 

「………あれだっ!」

 

100メートルほど先、直進の道路をそれは走っていた。

遂に追いついたのだ。

車だ。

いやかなり車体が大きい、トラックだろうか。こんなに離れているのによく見える。並外れた視力。

やはり俺はもう人間じゃないのだ。

既に視界はほぼ正常に戻っていたが、あのトラックからは未だに嫌な気配を感じる。

 

……それだけじゃない。匂いがする。

 

生臭い鉄の匂いが、

 

血の匂いが……

 

俺は更にバイクを加速させた。

こちとら軽く100km/hを越しているというのに、一向に距離が縮まない。向こうもかなりの速度で走っているのだ。

俺が追跡していることに勘づいたのか、それとも運転手がやんちゃなのか。

いや違う、あのトラックは俺が近づくまでは普通の速度で走っていた。俺が追いついた途端に猛然と走り出した。

やっぱり何かやましいことがあるから逃げているのだ。

 

クソッ

 

中々追いつけ……

 

「んっ?」

 

人間離れした眼が妙なものを捉えた。

 

見間違いか?

 

なんか、

 

助手席から人影が這い出てきたような……

 

「っ!!?」

 

いる。

 

トラックの上に立っている。なんだあれ。

 

一見すると人影のようにも見える。だが、俺の見間違いでなければ、あれには腕が四本あるように見えるのだ。

 

腕が、四本?

 

《ALERT 》

 

全身の毛が逆立つよりも早く、俺の体はバイクを大きく傾けて急停止した。

物凄い急ブレーキで、タイヤから煙が上がっている。ゴムの焦げるような匂いがあたりに充満した。

 

ていうか、なにこれ。

 

俺の目の前には巨大な蜘蛛の巣がかかっていた。後ほんのわずかでもブレーキが遅れていたら、まともにこれとぶつかっていただろう。

巨大だ。

道路の端から端まできっちり塞いでいる。少しばかりアンビリーバブルな光景だ。珍百景認定間違いなし。

 

そうでなくて。

 

どうしてこんなものが……

 

 

 

 

《ALERT 》

 

 

 

 

 

なんだ?

 

 

 

 

 

《ALERT 》

 

 

 

 

 

またなのか?

 

 

 

 

 

 

《ALERT 》

 

 

 

 

 

マズイ、四方からヤバい気配を感じる。

早くココを離れた方が

 

 

 

 

 

《ALERT 》

 

 

 

「アィム スパゲッティマン」

 

「うおっ!?」

 

機械音のようなざらざらした声がして、反射的に振り向く。

 

黒い服を着た妙なやつが右にいた。

 

「アィム スパゲッティマン」

 

左にもいる。

 

「アィム スパゲッティマン」

 

「アィム スパゲッティマン」

 

前にも、後ろにも。瞬間移動でもしたみたいに急に現れた。

なんなんだ。スパゲッティマンてなんだよ、なんで名乗ってんだよ。

全員背格好が同じ。全身黒タイツ。

 

そしておそらく、人間じゃない。

 

頭が細く捻れている。脳なんて入らないくらいギチギチに、絞られた雑巾みたいに捻れている。

 

何かわからんが、

 

ヤバい!!

 

 

《ALERT 》

 

 

右の奴が頭を軽く右に傾ける。

駆け出そうとした俺の体が浮き上がった。

 

左の奴が頭を軽く左に傾ける。

左手が捻れた。

 

前の奴が一歩手前に移動する。

俺の体が宙で乱回転し始めた。平衡感覚を失う。

 

最後に後ろの奴が、一歩遠ざかる。

すると四人のスパゲッティマンの頭がグニャりと歪んだ。

 

「「「「スパゲッティ」」」」

 

それから全員が一斉に勢いよく頭を右に傾けて、

 

「「「「攻撃」」」」

 

左に倒す。

 

それだけで俺の体は錐揉み回転しながら吹き飛んだ。そのまま木端のようにクルクルと宙を待った俺はやがて、硬いアスファルトの上にベシャリと落ちた。

 

全身が引きちぎれそうだ。

 

所々出血もしている。

 

頭に鈍痛が響いてる。

 

マジで死んじゃう5秒前って感じ。

 

つか、死ぬ。

 

走馬灯を見る余裕さえ俺には残されていない。

 

朦朧とした意識の中、歩み寄ってくる四人の足音と、唸るようなエンジン音が聞こえてきた。

 

 

 

 

 

………エンジン音?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『スパゲッティマンAの反応がロストしました』

 

「………何?」

 

トラックを運転していた男は、レシーバーから聞こえてきた報告に思わず目を見張った。男は一見平凡に見える。適度に手入れされた髪、肥満気味の腹、眠そうな目。

 

彼の精神もまた平凡なのだろうか?

 

『スパゲッティマンBの反応がロストしました』

『スパゲッティマンCの反応がロストしました』

『スパゲッティマンDの反応がロストしました』

 

「………死因は」

 

『Aは頭部裂傷、Bは右足切断と脾臓破裂による失血、Cは頚椎損傷、Dは四肢断裂』

 

「………」

 

男は手を当てて考えた。

考えたがスパゲッティマン四体が死んだ理由がわからない。

 

『《ラプラス》はプランδを推奨しています』

 

「………了解」

 

レシーバーがぷつりと切れた。それきりうんともすんとも言わない。彼はしばらく顎に手を当てて考え込んでいたが、バックミラーを確認するとアクセルを強く踏み込んだ。

一台のバイクがトラックに迫ってきている。

先程の青年だ。

消したはずなのに、生きている。

 

「やはり奴が殺したのか?………信じられない」

 

ハンドルをしっかりと握り締めながら、男は助手席に座る奇妙な男に声をかけた。

 

「殺せ」

 

男がそう言って助手席に目を向けた時にはもう、助手席には誰もいない。

男は大きく息を吐いた。

そうしてもう一度バックミラーを確認して、今度は流石の男も愕然としたのだ。

 

「………誰だ?」

 

先程後ろにいた青年とは全く違うバイクに乗り、全く違う風貌の男がそこには乗っていた。いや、青年の着ていたものと同じトレンチコートを羽織っている。しかし雰囲気は全く違う。

 

そしてその男は、奇妙なマスクを、大きな複眼のついた奇妙なマスクを被っていたのだった。

男はその風貌に見覚えがあった………

 

次の瞬間、バイクが姿を消した。

 

その直後に轟音がすぐ隣を突き抜け、再び目の前を確認した時にはもう謎の人影が立ちはだかっていた。

 

真紅のマフラーを風に靡かせて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺はバイクに跨っていた。

 

意識が急速に覚醒していく。全身が軋むような痛みに覆われているが、俺の身体はそんな不調も意にも返さずに、バイクのギアを上げてさらに加速する。

 

正直何が何だかわからない。

状況が不可測だ。

目が空いてるのか空いてないかもわからない。どこにいるのかも曖昧だ。

耳も風の音しか拾えない。

 

だが、わかることもある。

俺は今バイクに乗っていて、トラックを追いかけているのだ。

そもそもなぜ追いかけている?

そんなことはもうどうでもいいのだ。

追いつけるか?

いや、絶対に追いついてみせる!

 

風の音しか聞こえない?

風の音さえ聞こえれば、

風が味方してくれるなら、

俺は絶対にあのトラックに追いつける。

 

風よさけべ 風ようなれ

俺のからだの中で

うずをまけ 嵐になれ

大自然のエネルギーが

この俺の力だ!!

 

腹が熱い。

ベルトが熱を帯び始めている。

足が熱い。

バイクが熱を帯び始めている。

からだが、熱い。

全身が熱を帯びている。

 

俺はバイクを可能な限り加速させた。

まだだ、もっといける。このバイクはこんなものではない。まだ加速できるのだ。姿勢をできる限り低く保つことで空気抵抗を減らす。違う、こんなものではない。もっとだ!!

 

俺の魂の叫びに呼応するかのようにブルンと大きくバイクが震えると、左ハンドルのクラッチ横から、真っ白いレバーが歯のように生えてくる。

 

俺は躊躇なくそれを親指で押し込んだ。

 

《METAMORPHOSIS》

 

祝福の音。

 

バイクはメーターを振り切って加速する。

と同時に変形し始めた。

 

ヘッドライト周辺が盛り上がり、横から板状の装甲が伸びてカウルと結合する。

やがて装甲は車体全体を覆い、常用のバイクからフルカウル形態に、このバイク本来の姿に完全に変形しきった。

 

白と赤を基本調とした美しい流線型のフォルムが唸るように風を切りエンジンを蒸す。

 

後方には元からあったマフラーに加えてさらに5本、計6本のマフラーが生え揃い、同時にジェットエンジンが始動する。

バイクはジェットエンジンの力で跳ぶように更なる加速を始めた。

 

バイクが加速すると、その恐ろしいほどのパワーがタイヤに伝わり、そのタイヤがさらなるパワーを爆発的に生成する。

 

すると、タイヤは光の糸を紡ぎ始めた。

 

それは回転エネルギーの結晶!!

変形したバイクのタイヤ、そこに組み込まれているスーパーソレノイド機関が作り出した膨大なエネルギーは外部に放出されると物質化し、俺の腰のベルトに吸収されるのだ。

 

十分にエネルギーを蓄えたベルトもまた本来の姿を取り戻し、蚕の糸のような美しい白を基本色とするベルトに変わった。糸も紡げば立体となる。何重にも織り込まれた芸術的な糸のベルトは、溢れんばかりの輝きを内包していた。

 

そしてバイクはついに限界まで加速した。瞬間時速400km/h。あまりの加速に前輪が持ち上がり、一瞬だけバイクは後輪走行する。俺にはその一瞬さえあれば十分だ。

 

前輪が再び着地した時、俺はもう俺ではなくなっていた。

 

巨大な複眼。大きな顎。真っ白なはだ。黒いトレンチコートに覆われた、不気味な肉体。そして、風に煽られる触角と、首から伸びる真紅のマフラー。

もはや俺は、完全に人ではなくなってしまったのだ。

孤独のライダー。仮面が悲しみを隠す。

 

俺はもう俺じゃない。

仮面ライダー、俺は仮面ライダーだ!!

 

瞬間、風となる。

肉眼では追えないほどの速度で俺はトラックを超過した。弾丸よりも早く。何者よりも早く。

 

俺は車体を大きく傾けてバイクを急停止させる。バイクからおりると、あたりには煙と、ゴムの焼ける匂いが充満した。

トラックも止まった。

ようやくカーチェイスが終わったみたいだ。

 

トラックの上から、誰かが飛び降りて、俺の目の前に現れる。

それは人型ではあったが、おおよそ人とは呼べない姿をしていた。全身が焦茶色の体毛で覆われ、顔には大きな複眼が三つついていて、口からは鋭い牙が生えている。腕は4本もあり、鋭い爪がその人とはかけ離れた凶暴性を示していた。

 

「貴様、何者だ」

 

唸るような声だ。目の前の怪人からそれは聞こえた。

驚いた、しゃべれるのか。

俺も「お前たちこそ何者だ」というつもりだったが、俺の口はカチカチと動くだけで、金属を擦り合わせたかのような鋭い嫌な音しか出なかった。

 

「………その赤いマフラー。それはお前が我らと同じオアビスの怪人だということの証。しかし脳改造が行われていないようだな」

 

マフラー?

言われてから気がついた。確かに、目の前のやつも首に赤いマフラーをつけている。そして俺も。俺はこんなマフラーは持っていなかった。

 

「お前は脱走兵か?どこから逃げた?」

 

俺は怪人を無視して、周りを観察した。人だった時よりも周りの情報が手にとるように伝わってくる。この触角のおかげだろう。触角が細かく揺れて、風の微細な動きを感知しているのだ。

 

トラックに一人が座っている。

こちらの様子をじっと伺っているようだ。つまらなさそうな顔で俺を見つめている。こいつは普通の人間のようだし、放っておいてもよさそうだ。

 

それよりも気になるのは、荷台の中身だな………

 

中はかなり厳重に保護されているようだが、俺の触角は不気味な反応を確と捉えていた。弱々しい複数の反応も。

それから、酷い血の匂いも感じる。この触角は風だけでなく匂いも感じ取れるみたいだ。

 

「おい、どうした。何か答えろっ!!」

 

俺は再び目の前の怪人に集中した。

先ほど蜘蛛の巣を貼ったのは、もしかしてこいつなのだろうか。

 

「貴様、口が聞けないのか?………まあいい」

 

怪人の毛に覆われた顔がぐしゃりと歪む。

 

「………この裏切り者めが!!

 

「オアビス」の名においてこの蜘蛛男が

………あの世に送ってやる!!」

 

ふふふ………

 

不気味な笑い声を最後に

 

俺も

 

蜘蛛男も

 

僅かも動かない。

 

いや、奴は体毛を、俺は触角をざわざわと揺らしていた。相手のどんな動きも、俺の触角は捉える。蜘蛛男は一見ピクリとも動いていないように見えるが、奴の筋肉は力強く収縮しているのだ。

 

ザ   ザザザ…

 

それは長いようであり、短いようでもあった。

ただただ自然だった。引き絞られた弦が解き放たれるように、熟れたリンゴのヘタが切れて地面に落ちるように、ただただ自然とその時が訪れた。

蜘蛛男の腹がキュッと凹む。

 

シャッ

 

蜘蛛男は音を立てて糸の塊を吐き出した。

ものすごい量の糸だ。

強力な粘性を持った糸は複雑に絡み合い、俺の全身に降り注ぐ。

蜘蛛男は腹の底から唸るような笑い声を上げていた。もはや糸に囚われた俺が完全に再起不能になっていると思い込んでいる。

 

それは蜘蛛男に致命的な隙を生み出していた。

 

「『ライダージャンプ』」

 

音もない、跳躍。

 

あまりにも静かに、空気の揺れすら感じない跳躍に、蜘蛛男は仮面ライダーの姿を完全に見失っていた。

仮面ライダーはあの巨質量の糸を物ともせずに脱出したのだ。

 

蜘蛛男は我に返って毛を逆立てる。

だが、蜘蛛男の体毛が上空の暗い影を感知した時は、もうはっきりと手遅れだった。

 

「『ライダーキック!!』」

 

上空から放った俺の蹴りは、蜘蛛男の胸を正確に捉えた。鈍い音と蜘蛛男の呻き声が重なる。

確かな手応えがあった。足裏から肋骨が数本折れる感触がしたのだ。

だがまだ終わりじゃない。

蜘蛛男の肉体は強靭だ。

肋骨が折れた程度では直ぐに立ち直る。全身を木っ端微塵に叩き潰さねばならない。

 

空中から着地すると同時に地面を蹴って蜘蛛男との距離を縮める。奴はまだよろけたままだ。

いける!!すかさず攻撃を叩き込む。

こいつには、走馬灯を見る隙も与えない!!

 

「『ライダーチョップ!!』」

 

蜘蛛男は、仮面ライダーの繰り出した神速の三連撃を捉えることはできなかった。

だが、全身を駆け巡る衝撃だけは如実に感じ取ることができた。それは自身の死を想起させるには十分すぎるほどのエネルギーを内包していた。

 

蜘蛛男は最後の力を振り絞って仮面ライダーと距離をとった。実際にはただ単に後ろによろけただけかもしれない。

 

直後に蜘蛛男の四本の腕と頭は四方八方に弾け飛び、下半身と胴体は分離した。

その場には下半身だけが残り、胴体はトラックの方に飛んで、トラックのフロントガラスをぶち破って助手席に突っ込んだ。

 

衝撃でトラックが大きく揺れる。

蜘蛛男は文字通り爆散したのだ。

 

運転席で一連の流れを黙って見ていた男は、フロントガラスが破れた衝撃でぱっくりと割れた頭をものともせずに、アクセルを踏んで車を急転回させた。一瞬逃げるつもりかと焦ったが、どうやら違うみたいだ。

 

トラックは百八十度向きを変えた。

………なるほど?

荷台の中身とご対面というわけか。

 

ゆっくりと荷台の扉が開いていく。

滲むような血の匂いがあたりに充満して、俺は思わず息を呑んだ。

 

荷台の中は真っ赤に染まっていた。

 

血の池地獄とはまさにこのこと。血の滴る肉塊がいくつも吊り下げられていて、中央にはモゾモゾと動く影がある。

 

そいつは俺と同じような、しかし俺よりも遥かに大きな複眼を持ち、巨大な顎は何かに齧り付いていた。

 

その何かは子供ほどの大きさだった。

いや間違いなく子供だ。

その子の胴体にはまだランドセルが残っていたのだから。

ただし頭がなかった。

首に奴の顎がかぶりついている。

 

ゾッとした。

そのランドセルの色には見覚えがあった。派手な黄色。

なによりも、ランドセルの横には名前が書かれていたのだ。

 

『みどり川まさお』

 

まさお

 

正夫

 

緑川正夫。

 

それを見た俺は、俺は。

 

驚くほど冷静に敵を見つめていた。

 

触角が張り詰める。

僅かな機微も逃さぬよう、しっかりと触角の先端を目の前の敵に向ける。

敵は俺がジリジリと近づいても、食べるのをやめない。だが目はしっかりこちらに向けられている。短い触角も細かく痙攣している。こっちを警戒しているのだ。

 

風が吹いた。

木の葉の擦れる音が、奴の発する不快な咀嚼音を和らげてくれる。

俺は少しずつ、しかし着実に奴との距離を縮めていた。

もう少し、もう少しだ。

後一歩近づけば、攻撃を叩き込める。

 

あと一歩だけ

 

《ALERT 》

 

ピタリと静止した。

奴が食べるのをやめて、しっかりとこちらを見据えてる。

これが奴の間合いか。

 

遠いな……

 

俺も、奴も、見つめ合ったまま動かない。仕方がないので、敵をじっくりと観察させてもらおう。

大きな複眼、赤く染まった顎。

ぱっと見では鬼のような風貌だ。背中が異常なほど発達していて、筋肉が山のように盛り上がっている。重くないのだろうか、あれ。

 

不意に奴、鬼のような顔の男、鬼男が立ち上がった。すっかり戦闘態勢を取っている。

やる気だ。

 

戦いはすでに始まっていた。

 

俺も鬼男も、動かない。構図は先ほどの蜘蛛男の時と変わらないがしかし、鬼男は蜘蛛男よりも強い。

直感で理解できる。

蜘蛛男の時みたいに瞬殺はできないかもしれない。

でも負ける気がしない。

俺の方が強い。向こうもそれを理解しているからこそ容易に攻撃を仕掛けてこないのだ。

 

鬼男が一歩近づいた。

俺は別に戦い慣れしているわけではないが、本能で攻撃が届く距離を把握できる。

鬼男は俺の攻撃範囲に侵入してきた。

 

こちらから仕掛けるべきか?どうせ戦いのノウハウなんてないんだから深く考えるのはよした方が良いのだろうか。だからといって無茶苦茶に動き回るのもどうかと思うが。

 

そんな俺の迷いを、鬼男は鋭く感じ取っていた。そして鬼男はその隙を逃しはしない。

 

鬼男は体勢を低く保ったまま、飛んだ。

そしてそのまま俺に向かって突っ込んできたのだ。

 

「っっ!」

 

不意をつかれた俺はついその突進を避けてしまった。

避けてしまった。

鬼男は俺には目もくれずにトラックの外に躍り出す。

 

マズイ、退路を開けてしまった。

 

鬼男は逃走する気だ。

 

奴は初めから俺と戦うつもりはなかったんだ。

 

一瞬、逃しても別にいんじゃないのか?という思いが脳裏を掠める。

 

そもそも、なんで俺はこんなに必死になって戦っているんだ。

俺は少なくとも昨日までは普通の人間だった。

俺にはなんの責任もない。

こいつが逃げたって、俺にはどうでもいいことなんだ。

 

俺は力を抜こうとした。

だが、緊張は解けない。

身体がいうことを聞かないのだ。

俺は身体が動くままに鬼男を追いかける。

 

無理だ。

追いつけるわけがない。

逃げに徹した鬼男は早い。ココからじゃ『ジャンプ』しても絶対に届かない。

鬼男は完全に背をこちらに向けていた。

 

唸るようなエンジン音が聞こえる。

俺は、いや仮面ライダーは諦めていない。

 

狙った獲物は必ず仕留める。

 

鬼男の目前を一陣の風が走り抜けた。

 

無人のバイクが、鬼男の行方を遮った。意表をつかれた鬼男は緊急停止する。物凄い機動力だ。

だが、動きが止まったことでその強みも完全に死んだ。

バイクは弧を描くように鬼男の横を通り過ぎて、俺の隣でぴたりと止まる。

 

止まりはしたが、バイクの回転力は死んでいない。エネルギーは光の糸に変換され、ベルトを伝って俺の右足に送られる。右足は光の螺旋を纏った。

 

変身のその先。

 

バイクの回転エネルギーを攻撃に利用する。

 

鬼男は目の前の空気が断裂したかのような錯覚を覚えた。

そしてそれが鬼男の超感覚が捉えた最後の光景だった。

 

音を置き去りにする蹴りが彼の胸に突き刺さる。

 

「『シン・ライダーキック!!』」

 

光の糸が、鬼男の胸部に吸い込まれて、体内で爆発的な回転を生み出す。鬼男の肋骨は全て裏返り、内臓は大渦を巻いてミンチとなった。

仮面ライダーは静かに着地する。

 

地面に足がついた途端、俺は正気を取り戻した。

 

現実感がない。

俺は今何をやった?

どうしてこんなことになってる。

何が起こった?

 

………弟。

 

フラつく足に喝を入れて歩いた。

 

トラックに近づいたことを、すぐに後悔した。首のない緑川正夫。これで生きてるわけがない。

トラックの中には沢山の子供だったものが敷き詰められているが、殆どが肉塊と化している。見るも無惨な姿だ。いっそ見つけてやらない方がマシだと思えるような。

 

俺は運転席の方も確認したが、運転手は既に姿を消していた。逃げたわけではないことが、触角から伝わる匂いでわかる。

運転手はまだ運転席にいるのだ。ただ形が変わってるだけで………

 

そういえば、蜘蛛男の死体もない。

鬼男の死体も確認するが、もう既に半分以上溶けかかっていた。

 

証拠隠滅だろうか。

 

俺も早く逃げた方がいいかもしれない。

もしこの場を誰かに目撃されたら………

 

そう思った矢先のことだ。

 

突如強烈な光を全身に浴びせられた。

完全に油断していた。車が接近していたことに気がつかなかった。

俺はバイクに跨りすぐさまその場を離れた。

だが、俺の姿はばっちりと確認できただろう。

 

バイクで走っている間に変身は自然と解けていった。だが胸に詰まったシコリは消えない。

 

俺はただ一人、秘密を胸に抱きながらバイクで夜の街を駆け抜けていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

児童誘拐殺人事件。

 

世間は謎のバイク乗り「仮面ライダー」を犯人と断定し、日夜ワイドショーで面白おかしく祭り上げられていた。ハサミ男は仮面ライダーの影に隠れて、数日で忘れ去られてしまった。

 

あの日、俺にヘッドライトを浴びせたのは報道機関の車だ。何者かが情報をリークしていたらしい。その情報を元に駆けつけたところでばったり俺と、仮面ライダーと遭遇したらしい。出来た話だ。

 

その時、走り去る仮面ライダーの姿を激写されていたようで内心ヒヤヒヤしたが、幸いなことに特定はされていない。一番の懸念点だったナンバープレートは変形時にうまい具合に隠れてたし、トレンチコートも常用してなかったことが功をなしたのか未だに知り合いにもバレていない。

 

あれからもう一週間は経っていた。

 

先日俺は緑川正夫の葬式に参列した。

正直行きたくはなかったが、色々迷った末行くことにした。当事者として行かないわけにはいかないなどと思ったわけではないが、緑川が泣いている姿を見ると、やはり行くべきなのだろうかと考えてのことだった。

 

正直、葬式のことはよく覚えていない。

なんなら俺が参加したのが葬式なのかもわからない。便宜上俺がそう呼んでるだけで、俺がどういった行事に参加したのかとか、そういうことは全くわからなかったし、考えようとも思わなかった。ただ、参加できるものは何でも参加した気がする。

 

緑川とはあまり話さなかった。

 

なんとなく、以前のように普通に話すことはもうないんじゃないかと思う。

 

俺が仮面ライダーである限り。

 

教室は今日も暗い雰囲気が所々に染み付いている。緑川はみんなの人気者だった。皆んな悲しんでいた。皆んなが互いを慰め合っていた。

 

でも俺だけは、その悲しみを共有できない。

 

何故なら、俺の苦しみは誰にも分かち合うことができないから。

 

何故なら俺は、仮面ライダーなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

秘密結社オアビスと、その身を犠牲にして戦う矢田章太郎。

緑川ルリの弟正夫はオアビスの魔の手にかかった。しかも、世間は仮面ライダーを、矢田章太郎を犯人と信じている。

その潔白が明かされるのはいつの日か…

 

そして、オアビスの恐るべき怪人の脅威もまた

 

待っているのである。

 

 


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