序 207X年、陽春にて
愛知県某所の特別養護老人ホームにて。
車椅子に乗った一人の老婆が窓越しに中庭にある池の鯉を眺めていた。
「光姫さーん。面会の方が来ていますよ」
「……アタシにかい?」
齢八十を過ぎたがまだ補聴器の世話にならない程度には聴力は健在な白髪の痩せ細った老婆はそれでも面会人の来訪にしばし呆然とした様子で一拍以上の間を置いて怪訝そうに首を傾げた。
彼女の名前は六角光姫。
かつては御守衆中部支部の頭目として多くの部下を率いて化神たちから無辜の人々を守るために辣腕を振るった女傑だ。
けれど、いまの彼女は在りし日の面影など見る影もなく老いていた。
車いすの自走こそまだ出来るが数年前から満足に自分の足での歩行は難しく、入浴は介護士の助けがなければシャワーも浴びれやしない。
内臓も随分と弱り、半世紀も昔では仲間たちと何度も食べた宅配ピザなど到底体が受け付けない有様だ。
「はい。お孫さんが遊びに来てくれましたよ。良かったですね」
「アタシには孫どころか子供なんていないよ。子を授かる前に旦那とは別れた」
にこやかな笑顔で光姫が聞き取れるようにゆっくりと大きな声で話しかける若い男性介護士に対して彼女は車椅子の向きを変えることもせず、池の鯉を眺めたまま冷たく吐き捨てた。
「えっ、あ……すみません! え、じゃあ……あの、え、え?」
自分の失言にさあっと血の気が引いた気分になって光姫に謝罪する介護士は頭を下げている最中に違和感に気付き、更に混乱する。
自分はナニを光姫の孫などと信じてここまで案内してしまったのだと?
全身から不快な脂汗が滲んで止まらない介護士の目の前に彼が連れてきてしまった者が人差し指を立てて近づけた。
指先に小さな灯がともり、そして――。
「オン・カンラ」
謎めいた言葉と共に火が弾けた。
「案内してくれてありがとうございます。少し二人で話したいのでどうかお仕事に戻ってください」
「分かりました。お帰りの際に、一言お声掛け下さい」
記憶を一度消され、認知を改竄された介護士はその者の風貌に一切違和感を覚えることなく、その場を去っていった。
そして、いつの間にか人払いの結界まで張られた廊下には車椅子に座ったまま微動だにしない光姫と和装にボロボロの黒いチェスターコートを纏った顔面を包帯で覆った怪人物だけが残った。
「お久しぶりです」
相変わらず中庭に体と視線を向けたままの光姫に寄り添うように怪人物は隣に立つ。
その両足は義足なのか袴の裾からは黒い一本歯下駄のような物が飛び出していて、カツン、カツンと硬質の足音がどこか寂しく廊下に響く。
「お元気そうですね。見事な人払いの術だ……流石です」
若い男の声だった。
青年にも少年にも聞こえる。
けれど、この声色に覇気や生気の類はまるで見られない。
くたびれ果てた亡者の呻きのような不気味さを帯びているようだった。
「なにが元気なもんかい。飯食うたびにどれだけの薬を飲まされていると思ってんのさ? カフェインの規制までされたおかげでコーヒーだって牛乳で割ったのを一日一杯しか出してもらえない。長生きなんてするもんじゃないよ……本当にアタシだけ、いつになったらお迎えがくるんだか」
「そんなことを言ったら、教え子さんたちが悲しみますよ」
光姫のつい早口になるぼやきに男は淡々と返事を返して、それでも自分の知る彼女がまだそこにいることを喜ぶように目を細めた。
男が言及したように、光姫は頭目を退いた後には彼女の両親の跡を継ぐように御守衆の後進たちを育てる任について多くの装士たちを育てた。
けれど、忙しなくも愉快に六角モータースを切り盛りしていた頃の仲間たちはもう誰もいない。みんな彼女を置いて遠くへ行ってしまった。
一人の例外を残して。
「お尋ね者が今更こんな死に損ないのババアのところに何の用だい?」
「たはは……ひどい言われようですね」
「日本各地で総本山付きでも無い所属不明の御伽装士が勝手に昼も夜もお構いなしに化神を狩るなんて真似をして、白々しいよ」
「ごめんなさい。一応、もうすぐやめるんで勘弁してください」
「罪滅ぼしかい? それとも自分に罰でも与えているつもりかい? どっちにしても、あいつはそんなことしても喜ばないよ」
「違う!」
初めて、男は感情を剥き出しにして叫んだ。
その圧にあてられたのか池の鯉たちが一斉に飛び跳ねて騒ぐものだから、ばしゃばしゃと通り雨のような激しい水音が二人を包むようだ。
「
「ありがた迷惑、だとは言わないがね。アタシたちは褒美や報酬なんて望んじゃいないさね」
「貴方たちが良くても、俺は……僕は納得したくない」
自分の声が震えているのに気が付いて、男は息を整えるともう一度滔々と語り出す。
本題を、数十年ぶりに六角光姫に出会いに来た理由を。
「すみません。取り乱してしまって……今日はお別れを言いに来ました。もう、会うことは無いでしょう」
「アタシに早く死ねってかい? 言っとくがお迎えが早く来て欲しいとは言ったけど、自分で死ぬだなんて情けない真似するほど落ちぶれちゃいないさね」
「いえ、この世からいなくなるのは俺の方です」
知人と再会した影響か知らず知らずのうちに往年の気風の良さを蘇らせていく光姫に対して、申し訳なさと嬉しさが入り混じったような危ういにこやかさを見せて告げたのは男の方だった。
「何を考えてる? 馬鹿な真似はするんじゃないよ」
「実はね、沙夜さんを見たんですよ」
包帯の下の口元を嬉々として吊り上げて言う男に光姫は堪らず血相を変えた。
「悪い冗談のつもりなら、今ならまだババアの拳骨で済ませてやるよ。ちゃんと寝て休みな坊や」
「この間ね、化神を退治した洞窟の奥にあった地底湖で見たんですよ。夢だと思った。でも、日を改めてもう一度見に行ったらやっぱり動いている沙夜さんを見れたんです。理由や理屈は分からない。いや、知らなくてもいい……でも。でも! 多分、憶測でしかないけど、きっとそういうことですよね。大丈夫ですよ、上手くいく。いまの僕なら、もう絶対に間違えない!」
「■■■■■!!」
壊れた蛇口が水を延々と流し出すように爛々とした眼で興奮止らず喋り続ける男を光姫が一喝する。
しかし、男の笑みは消えなかった。
濁った眼には決意だけが宿っていた。
「安心してください光姫さん。沙夜さんも御守衆も救ってみせる」
「いい加減にしろ。それ以上、世迷い言をほざくな……坊や」
「御守衆が戦わなくてもいい、そんな世界を作ってきますよ。止めたければどうぞ? 六角光姫……いまの貴方にその術があればの話ですけどね?」
男は高らかに宣言すると苦虫を噛み潰した表情で自分を睨む光姫に見せつけるように懐から取り出した鴉面の怨面を被り、悠然と老人ホームを立ち去った。
男が挑発したように、いまの光姫には彼を止める術は何も無かった。
愛した夫も、頼れる部下も、可愛い妹分も何も、誰も、残ってはいなかった。
その日、一羽の鴉が偶然にもその世界に生じていた時空の裂け目へと飛び立った。
狂おしき願いを止められる者は誰もいない。
仮面ライダービャクア
新編
2026年10月より、本格連載開始予定。
乞うご期待。