今年最後の更新として本当ならユニゾンウォーより先に書こうと思っていたビャクアの後日談&ほのぼのとした日常回のお話を一つお届けです。
湯けむり羽休め
「一緒に温泉に行きませんか?」
はじまりは沙夜さんのそんな一言だった。
物部天厳の事件から二週間が経った七月のとある日に彼女からそんな誘いを受けた。
なんでも先の騒動の混乱や後始末がようやく落ち着いたので光姫さんから事件解決の立役者としてご褒美代わりに休暇をもらったそうだ。
光姫さんの口利きで御守衆の関係者が営んでいる温泉宿の離れを自由に使わせてもらえることになっているらしい。
「湯治といったら大袈裟ですが温泉でも入ってのんびりしてこいと。それで永春くんのご迷惑でなければ一緒についてきてくれないかと」
「嬉しいけど、部外者のボクがご一緒しても大丈夫なの?」
「そこは私の方から説明しておきます。温泉は好きなのですが……一人で行っても寂しいというか、その、また永春くんとお出かけしたいなぁと」
沙夜さんは梅雨の湿気もなんのそのと普段と変わらず漆のように艶やかな黒髪の一房を指でくるくる弄りながら、照れ笑いしてボクの返答を待っていた。
「沙夜さんがそうしたいのなら、よろこんで。誘ってくれてありがとう」
「いえ……いえ! こちらこそ、私のワガママを聞いてくれてありがとうございます」
ボクの了承にキラキラした笑顔を見せて深々とお辞儀をする彼女を宥めつつも、そんな沙夜さんが可愛くてこっちまで頬が緩んでしまう。
ラッキーなことに梅雨の切れ間で次の週末は雨も止むらしいし、良い旅になっておくれとボクは曇天の雲の彼方で瞬いているであろう星に願ったのだ。
※
太陽の輝きが照りつくアスファルトから燻ぶる夏の香りを僅かに感じながらボクたちを乗せた白い車体が軽快に二輪を回して風を切る。
「風が気持ちいいですねー梅雨の蒸し暑さを忘れてしまいそうです」
「そう、だね! あの、やっぱりボクが運転代わろうか? 沙夜さんの骨休めの旅行なんだしさぁ」
「お気になさらず。むしろ、誰かを乗せて走るなんて滅多にないことなのでちょっとワクワクしていますので」
天気は快晴。
吸い込まれるような真っ青な空の下を旅行姿のボクと沙夜さんを乗せた擬態状態のハヤテチェイサーが目的地を目指して我が物顔で駆けている。
誘ってくれたせめてものお返しに荷物持ちや運転手役ぐらい引き受けるつもりだったのだけれど、いまハンドルを握っているのは沙夜さんだ。
元々、ハヤテチェイサーは彼女の愛機なので当然なのだがボクたち以外は殆ど車が走っていない長閑な二車線の山道を滑らかな動きとかなりの速度で飛ばしている。
「余計なお世話かもしれないけど、安全運転忘れないでね?」
「……くす。ハヤテ、ハイヤー!」
「ちょっわあああ!?」
我ながらちょっと情けないが彼女の腰に両腕を回してしがみついているボクが遠慮気味にそういうと沙夜さんは意味深な沈黙の後に小さく笑うと得意げにウィリー走行を披露してくれた。
突然重力にひっぱられて、彼女との間が離れていくのを実感して咄嗟に両腕に力を入れる。後々になってそれは紛れもなく沙夜さんのことを後ろから強く抱きしめている様な格好だなと気付いて、こそばゆさで体温が急上昇してしまったのは内緒だ。
それにしたって白い二輪車を手足のように操って走る姿はまるで現代の牛若丸だ。え、牛若丸は男だろうって?それじゃあ巴御前あたりに訂正を――いやその、こんなことを考えて誤魔化さないと同乗しているこっちは気が気でないんだよ。
「さっ! さささ沙夜さぁん!? 仮にもヒーローが交通安全守らないのは不味いのでは!?」
「これは失敬♪ 永春くんとの二人旅が嬉しくて、少しはしゃいでしまいました」
「沙夜さんが楽しいのは良いことだけど、できたらもう少しハートフルな感じでお願いします!」
「もう少し、私がちゃんとバイクの腕も達者なところをお見せしたかったのですが心得ました。この山を抜けるとそこそこ大きな道の駅がありますのでそこで休憩しましょう」
彼女の知らない一面に触れることができた嬉しさと思わず心臓が止まりそうになる恐怖体験を味わいながら、ボクと沙夜さんは移動時間も余すところなく楽しみながら温泉宿を目指していった。
※
「えーっと、この建物ですね。この離れを一泊自由に使って良いそうです」
「おお……すっげぇ」
道の駅でアイスクリームを食べさせあったり、道中の観光名所に寄り道して記念写真を撮ったりと自分でもビックリするぐらい甘酸っぱいイベントを体験しながら無事に目的の温泉宿に到着したボクたちは女将さんにご挨拶をして、本館から少し歩いて離れに通された。
和風のコテージのような建物で造られたばかりなのか真新しくて、中に入ると濃厚な檜と畳みの香りが鼻孔をくすぐった。和紙で出来た提灯風の照明のオレンジ色の優しい灯りもとても風情を出している。こじんまりとしているけど、なんだかとても居心地が良い気分だ。
キッチン設備も整っているから、冬場とかでも盛況するんだろうなと考えながら荷物を置いて一息つく。残念ながら今回は先に夕食を食べてきたので今回は出番はなしだ。
沙夜さんが贔屓にしているお店の鮎尽くし御膳、美味しかったなぁ。
「すごく良いところだね。ボク一人じゃ絶対にこんなところ泊まる機会ないだろうし、沙夜さん様々だよ」
「くす、お風呂から見える景色も素敵ですよ。春は桜、夏は星空、秋は紅葉に、冬は淡雪と何時まででも入っていられる自信があります」
「そうなんだ。天気が良くて改めて感謝だね」
まるで自分の事のようにグッと拳を握ってアピールする彼女が面白い。
前髪からチラリと見える紫瞳も気合の入った強気な眼差しになっている辺り、絶景が待っているんだろうと期待が膨らむ。
そして、楽しい旅に浮かれていたのは彼女だけじゃなかったと気付いて青ざめたのはこの時だった。うん、ここまでの道中でなんで思い至らなかったんだろう。
若い男女二人で温泉ってことはそういうことだろうにさ――。
「さっそく入りに行きましょう。タオルといったお風呂セットは脱衣所に――」
「あの……沙夜さん? 一応聞くんだけど、ここの温泉って混浴とかじゃないよね?」
「え……あ」
足取り軽かった沙夜さんの体は恐る恐る問いかけたボクの質問で氷像のように固まった。そして、見る見るうちにちょっと間抜けっぽく半開きに口を開けたままの顔が真っ赤になっていく。
「えっと、その……沙夜さん?」
「ッ!!」
一分間以上のフリーズを経て、再起動した彼女は脱兎のような素早さで脱衣所の方に走っていくとしばらくしてまた戻ってきた。
「ゼェ……ハア……大丈夫です。男女別でした」
沙夜さん曰く、露天風呂を囲むように数軒のコテージが建っていて、備え付けのシャワー用の脱衣所から渡り廊下を通ることで男女に別れた専用の脱衣所があるらしい。
わざわざ確認をしてきた彼女は息を切らして、白い肌には汗も浮かんでいるのできっと温泉のお湯が格別に気持ちいいことだろう。
沙夜さんは時々勢い任せですっごく迂闊なことをする人だということもあの春の出会いから知ることが出来た微笑ましくも素敵な一面だとボクは思う。
※
「おお……すごいや」
待望の露天風呂を前にしてボクは本日何度目かのすごいを呟いた。
我ながらもう少し情緒なり語彙力を磨いた方が良いと思う今日この頃だ。
だけど、本当にここの露天風呂は見聞も浅いボクでも分かるぐらいの素晴らしいものだった。庭園のような石造りの湯船と幻想的な灯りを照らす石灯籠、男湯と女湯を隔てる木製の塀まで芸術っぽい細工が施されている。
「はぁ~生き返るぅ」
逸る気持ちを抑えて体を洗い、湯船に入ると自然とそんな声が出てしまった。これじゃあ下宿の同居人である三十路の先生を笑えない。
熱すぎず、温すぎずな絶妙なお湯加減の温泉が一日の疲れと汗を綺麗さっぱり流してく気分だ。
「永春くん、ここの温泉はどうですか?」
「沙夜さん? ははっ、極楽でーす!」
ふと塀の向こうから届いた彼女の声に思わずかなり軽いノリで答えてしまう。
これが良い旅夢気分というやつなんだろうか?
「それはよかった。せっかくですし、お背中お流ししましょうか?」
「はぁいっ!? い、いや……それはちょっとハメ外しなんじゃ!? え、その……本気で、言ってますので?」
「ぷっ……ふふふ♪ あっはは、冗談です♪」
唐突過ぎる彼女のお誘いに体の内から体温が上がっていく。
血が煮えていると言っても大袈裟じゃないと思う。
流石に浮かれすぎですよ沙夜さんと注意を促そうとする良心と健全な高校生の境界線を踏み越えてしまうかもしれない思い出作りに期待してしまう下心がせめぎ合っていると塀の向こうから、屈託のない吹き出し笑いが聞こえてきた。
「ああ!? からかったでしょ? 沙夜さんひどい」
「だってお湯に浸かっているのなら、体はもう洗っているでしょうから」
夕闇の向こう側から聞こえてくる沙夜さんの声はとても嬉しそうだ。
きっと、してやったりとほくそ笑んでいるんだろう。
どんな顔をしているんだろう。ボクがまだ見たことのない表情だったのならちょっと勿体ないな。
「困ったなぁ……反論できないや」
「ごめんなさい。でも……もしも混浴とかでしたら、永春くんは気遣ってこんな風に一緒には温泉に入ってくれなかったでしょ?」
「うーん……どうだろう? ここまで来てたんだし、どうしてたかは分かんないよ? 旅の恥はかき捨てって言うしさ」
完全にリラックスしていたボクは彼女の穏やかな言葉に深く考えずに思ったままの言葉を返す。
昔のボクなら確かに鉄の意思(不死故の諦観とも言う)でお行儀の良い選択を取っていたかもしれない。
でも、いまのボクは自分でも沙夜さんが露天風呂を確認しに行った時にもしものIFな事態に対してどうしていたのか本当に分からない。それぐらいボクは沙夜さんと出会えて変わったんだと実感する。
「――そう、ですか」
短く、小さな彼女の返事――水音と夜風でこのときボクは聞き取れなかった。
だから、急に塀を飛び越えて投げ込まれてきた白いタオルに何事かと驚いて無防備で油断していた。
「なにこれ!? い、いまこっちに降ってきたタオルって沙夜さんが投げたもの? 沙夜さん!?」
タオルはふわりと狙ったように石灯籠に引っ掛かった。
何度声をかけても彼女から返事が返ってこないことにボクが慌てて塀の傍に駆け寄るとすると塀の下から何かがこちら側へと流れ込んでくるナニかを見つけた。
「沙夜さんどうしたの? 大丈ぶ――ッ!?」
お湯の中で、それも薄闇と湯煙でよく見えない謎の大きな怪魚にも思えた影に緊張が走る。黒い影はボクの目の前で大きな水柱を作って姿を露わにした。
「ぷはっ! きちゃいました」
夕闇の漆黒と灯籠の灯りに照らされておぼろげに扇情的な女体の輪郭が瞳に映った。
お湯に濡れた艶髪と見惚れてしまう綺麗でしなやかな肢体。
温泉の熱でほんのりと上気した白い肌は夢で見るような美しさだった。
前髪も濡れてぺたりとおでこに張りついているせいで宝石のような澄んだ双つの瞳がくっきりと露わになっていた。
まるで人魚姫だ。
人魚に良い思い出はないはずなのにボクはぼんやりと目の前の彼女を見てそんなことを――いや、そうじゃない。いやいやいやいやいや!!
「さ! さっさささ!? え、ちょっ、待っ! お肌ぁああああ!?」
彼女の大胆さに、彼女の無邪気な笑顔に、彼女の生まれたままの姿に、ボクの理性はナニも出来なくなるぐらいに木端微塵に吹っ飛んだ。
慌てて目を瞑り――嘘です。下心が罪悪感に屈する限られた時間ギリギリまで彼女の豊かな双丘もくびれたお腹もお湯に浸かって見えるか見えないかの腰回りも沙夜さんの裸を全部ぜんぶ眼に焼き付けてから両手で顔を覆って全面降伏する。うん、我ながら呆れるぐらいのバカ野郎だ。
「そ、そんなに拒絶しなくてもいいじゃないですか!? あんな豪胆なことを言っていたので私も勇気を出して羽目を外してみたんですよ?」
「すみません……まさか沙夜さんがこんな行動力のお化けみたいなことをするとは思ってもみなくって、甲斐性なしでごめんなさい」
「お化けときましたか。では、とり憑いてしまっても文句はないですね。ふふん♪」
借りてきた猫のように萎縮するボクに投げておいたタオルで髪を拭く彼女は拍子抜けした様子。前から思っていたけど、やっぱり沙夜さんはご自身のナイスバディがどれだけ男子にとって破壊力があるのか無自覚のようだ。古典的かもしれないけど、本当に鼻血ぐらい出すかと思ったよ。
慌てふためくボクが余程面白かったのか、驚くべきことに彼女は口元をにんまり緩ませるとご機嫌な様子でさらに密着を企んでくるもんだ。
とてもとっても嬉しいけど、いまはまだどうかご勘弁を。
※
「お、落ち着きましたか永春くん? 大丈夫そうならお隣よろしいですか?」
「……せ、背中あわせなら何とか。正直に白状するね、裸の付き合いとかボクはまだ耐えられそうにないです。生意気言ってごめんなさーい」
そんな醜態を晒しまくった末にボクと沙夜さんはいま同じお湯に背中合わせでくっついて浸かっている。
背中と背中を何もかも真っさらに取っ払って、触れ這う肌から彼女の鼓動も体温も全部感じながら同じ時間の中で同じ夜空を眺めている。
最初はボクと彼女、二人仲良く謝罪の堂々巡りだったけどそれもようやく落ち着いて、いまはどうにかちょっとだけぎこちなく今日一日の思い出話に花を咲かせることができた。
「永春くん」
「どうしたの?」
「ずっと、気になっていたことがあるんです」
「なに?」
「初めて、ビャクアとしての私の戦いに巻き込まれた時のことです」
ぽつり、ぽつりと交わされていった思い出話はいつしかそんな昔のことにまで遡っていた。本当に人生が変わった思い出の日の出来事だ。
「あのとき、私の身代わりになろうとしたり化神の注意を逸らすために石段から飛び降りたのは不死身という保険があったからですか?」
「まあ、ね。だってボクがお荷物で沙夜さんが痛い思いをしたり、最悪負けちゃったら嫌じゃん?」
「でも、痛みを感じるのは永春くんだって同じじゃないですか? なのにどうして……ずっと不思議だったんです」
「それは……」
言いかけて、言葉に詰まってしまう。
弱ったな。なんて言葉にすればいいんだろ。
ただ、そうしたかった。それだけなんだけど。
いいや、誤魔化すな。ちゃんと言葉にするんだ。
今度はボクの番じゃないか。
「好きな女の子の前で恰好つけたかったから……じゃ、ダメ?」
「ふぇっ!?」
彼女の体がビクンと跳ねて、湯船の水面が揺れる。
バトンタッチとばかりに今度は彼女が慌てふためいて動揺する番だ。
触れあっている背中を伝って感じる彼女の鼓動が早まっているような感覚は幻じゃないと思いたい。
「ありきたりな理由かもしれないけど、ボクが沙夜さんのことを好きになった理由はなんてことない一目惚れだった。だから、毎日ちょっとでも話ができれば嬉しかったし、声を聞ければその日一日がずっと楽しかった。それぐらいボクは君に夢中だったんだよ」
歯が浮いてしまうようなことを言っている自覚はややあった。
でも、温泉の熱気で茹っているであろういまだからこそ、恥ずかしさはない。
むしろ、意地も照れも飛び越して彼女への慕情を素直に伝えられることが嬉しい。
「永春くんは変な人です」
「へ、変!?」
「だって、そうじゃないですか。私に秘密がバレるのが怖かったって隠していた気持ちを吐露してくれたと思ったら、今度はそれと真逆のようなことを言ってるじゃないですか? 私はその……人付き合いが苦手で、ずっとあわよくば避けてきたような人間なので困ってしまいます」
「参ったなぁ。しょうがないじゃん……沙夜さんのこと大好きだって気持ちの前じゃ、理屈や道理なんてどうでもよくなっちゃってたわけだから。少なくともボクはそうだったよ」
本当の気持ちだと思う。
いいや、本当の気持ちだ。
確かにいつからか秘密を知られてしまうのが怖かった。
怖くて、迷って、嫌ってぐらい後悔した。
でも、この体は彼女のために尽くせる機会に貪欲に反応した。彼女に首を裂かれてしまったときだって、躊躇うことなく。
だから、ボクは言う。
恋の告白は彼女に先手を取られてしまったから、今度はボクが先を行くんだと意気込んで。
「もう一度言うね。ううん……何度でも言うよ。ボクは沙夜さんのこと大好きなんだ。だから、なんだってやれるよ」
「………沙夜は幸せ者ですね」
噛み締めるように嬉しげな声色で彼女がそう言ってくれたことにボクは沢山の意味を詰め込んで「ありがとう」と呟いた。
※
「これでよしと」
備え付けのドライヤーでようやく髪を乾かし終えて、壁に掛けられた時計を一瞥する。
なるべく急いだつもりでしたがやはりそれなりに時間を使ってしまった。
待たせてしまっている彼のところに急がないと……急がない、と――。
「……やって、しまいました」
永春くんのことを想った途端につい先ほどまでの自分の浅慮で衝動的な行動のあれやこれやが脳内に再生されていき、弱々しくその場にしゃがみこんでしまう。
湯あたりしたわけでもないのに心臓はバクバクと高鳴って、熟れたトマトのように真っ赤になっているのでしょう。
「ただの変態じゃないですか……っ」
消えてしまいそうな小声で叫ぶ。
なんてはしたないことをしてしまったんでしょう。
タオルも巻かずに湯船を潜って男湯へ忍び込み、彼の目の前で何もかも晒して……ち、痴女です。不埒者です。我ながら、なんて不束なことを思わずやってしまったのでしょう。
浴衣に皺ができてしまうことも気にせず、頭を抱えて狼狽する。
きっと、いまの私のような有様を後悔先に立たずというのでしょう。
どんな顔でこれから彼に会えばいいのか皆目見当が付きません。
どんな顔で――彼に、逢えば良いのか――……。
恥じらいと戸惑いと後悔はそのままに肌を合わせて同じ湯船でたゆたって、語り合った彼の言葉が再び流れ出す。
大好きだと言ってくれた。
彼は確かにそう言った。
私のことを永春くんが大好きだって言ってくれた。
聞き間違えじゃない。
聞き間違えたりするわけがない。
他でもないこの世界で一番大切な彼の声を。
この世界で誰よりも好いている人の言葉を。
「……沙夜は幸せ者です」
本当は早く彼のところにいかないといけないのに立ち上がれない。
きっと、いまの私はとてもひどい顔をしているから。
永春くんの真心いっぱいの言葉を噛みしめたら、こんなにも嬉し涙がとまらない。
恋は盲目ということでしょうか?
こんなの昔の私じゃあ考えられませんでした。
「……沙夜だって、永春くんのこと大好きです。大好きに決まってます」
勇気を出して、この湯治に誘って良かったです。
実はご褒美のお休みも羽休めにいってこいだなんて言われたなんて噓でした。
学校で偶然耳にしてしまった彼のことを佳い人と噂する後輩たちの会話に不安で仕方なくなって、光姫さんに無理を言った数日前の自分が恥ずかしいことこの上ないですが――ちょっとだけ、自分にワガママになって本当に良かったと思います。
さあ、そろそろ行かないと。
夜はまだまだこれからです。永春くんと話したいことも遊びたいことも山ほどあるんです。涙を拭いて、いつもの私らしく彼の隣にいかないと。
※
「う……ん……むにゃ……あれ?」
微睡みが途切れて、自分が眠りから覚めたことをなんとなくで自覚する。
まだまだぼんやりとした視界と意識は早朝の薄暗さとエアコンで整えられた涼しい部屋を感じとる。
ですが、それなら私のすぐ近くで感じるこのぬくもりはなんでしょう?
梅雨の蒸し暑さとはまるで違う心地の良いあたたかさ――とても安心できて、何故だか抱き心地も最高なのですが?
「あ……そうでした」
寝惚けて枕のようにそれに顔を埋めて二度寝しようとしたところで聞こえてきた優しい心音に私は音を立てずに飛び起きた。
嬉し恥ずかしの号泣のあとでどうにか持ち直した私は永春くんと合流してコテージに戻った後は現代っ子よろしく、二人で携帯ゲームで盛り上がって夏の夜長を楽しんで、そのまま寝落ちしたことを思い出したのです。
お布団は敷いていたのでその、つまり私が枕と勘違いして身を預けていたものは――やっぱりそうでした。
「くー……すー……」
覚悟を決めて視線を下げるとそこには規則正しい寝息を立てて、あどけない顔で眠る永春くんの姿がありました。
やりました私。彼氏さんに裸を見せた挙句にお次は同衾です。これは親不孝者な娘になってしまうのでしょうか?誰か教えてください。
「すー……すー……」
「くす。寝顔を見るのはこれで三回目ですね」
朝の静けさのおかけが彼の寝息が良く聞こえる。
彼が生きている証拠。おもむろに触れた胸から伝わる心臓の鼓動とセットになって、とても大きな安心感を私に与えてくれている。
「永春くーん……信じてますが私に悪戯とかしたんですかぁ?」
三回目だからか私の方も余裕のような物が生まれていたのでしょうか、あるわけないことを呟きながら眠る彼の頬っぺたを指で突いてみたり、なぞってみたりと遊んでみる。
起きている彼にも普段からこれぐらいやれる意気地があればいいのにとは言うまでもない。ただ今回に至っては既に羽目をはずしに外したせいで多少気持ちが大きくなっていたんだと思います。
「旅の恥はかき捨て……ですよね」
ふと思い立って、おもむろに自分の顔をすやすや眠る彼の顔へと近づけていく。
ただ何となく思ったんです。キスしてみたいなと。
キス。くちづけ。接吻。
恋人同士がする愛情表現。
「……海外では気軽に親子や兄弟でもするっていいますし、近頃は女子高生なんかは友情のスキンシップですることもあるって雑誌に書いていましたし、ねえ」
この期に及んで言い訳をまくし立てて、自分を奮い立たせるのだから情けない。
小さい頃に母親にすぐに言い訳をする子は良くないと叱られたことなんかを思い出す。
「頬っぺたは……起きてしまうかもしれませんね。ここはおでこで……いや、やっぱり頬っぺたぐらい大胆にいったほうが……」
煩悩のままに、実のところすごくわくわくドキドキと胸を躍らせて彼の顔を眺めてどちらにしようかと迷っていた時だった。それは唐突に訪れました。
「ん……ふっ……ぅ?」
――唇が、触れた。
彼の唇が私の唇に、そっと。
頭が真っ白になりました。
顔や体は真っ赤です。
なんで?という言葉がずっと山彦のように心の中で反響していました。
困惑の中でも感じる彼の唇の感触に無意識に骨抜きになりながら。
「ちゅっ……ん……っぁ、そのーおはようございます」
「ぁ……まって……ふぇ?」
あわあわと呆然としていると静かに唇が離れていく。
思わず名残惜しくて声を出してしまいながら、ようやく私は永春くんが起きていたことに気付いたのです。そして、彼の方から私にキスをしてきたことも。
「……いつから起きてたんですか?」
「沙夜さんがボクの頬っぺたをぐりぐりしているあたりから」
「なぜ、急にキスを?」
「沙夜さんが嬉しそうに一人で頬っぺたにするかおでこにするかってぶつぶつ呟いていたのでその……ここは男気を見せようと、はい」
「むううううううわああああああっ!!?」
「うわっと」
何をしたいのか自分でも分からないまま、私は気恥ずかしそうにだけどしてやったりと会心の表情を浮かべている彼の胸元に飛び込んでいました。
ええ、そうです。躾けのなっていない大きな駄犬のようにパタパタと戯れて往生際悪く襲い来る羞恥心から逃れようとしたのです。
「沙夜さん落ち着いて。その、可愛かったからボク別に幻滅とか全然してないし」
「知りません! イジワルです永春くん! 腹黒鬼畜ですよ! あなたは良くても沙夜の方は末代までの恥をどれだけ上塗りしてしまったと思っているんですか!?」
「可愛くて、そういうことにも好奇心旺盛な彼女さんを持ててボクは嬉しいけどな」
ほらまたズルい。
そういうことを迷いなく言うのズルいです。
永春くんがこんなにも気遣い上手で優しいから、私はどんどん弱みも辛みも何でも見せてしまう。みんなを守らなければならない御伽装士なのに、君の前ではなんと葛藤もなくただの女の子でいられるようになってしまった。
「起きてください」
「え?」
「起きてください。正座です」
「は、はい!」
ちょっと凄みを利かせた私の声に彼はすぐさま飛び起きて姿勢正しくこちらを見つめてくる。あの夕暮れと変わらず、あの夜と変わらず、どんな私も受け止めてくれる真っ直ぐな眼差し。
「その……怒った?沙夜さん?」
「これからの永春くんの対応次第です」
「どうすればいいかな?」
本当にどこにでもいる普通の男の子で、滅多にいない勇敢で優しくて誠実な人です。なので、私ももう少しだけ甘えさせてもらいましょう。
「さっきのキスは無効です。嬉しさとか全部驚きで消し飛んでしまいましたので」
「と、いうと?」
「……もう一回、ちゃんとやってください。彼氏さんらしく、正々堂々とです」
我ながらなんてメチャクチャで傍若無人なことを言っているんだろう。
もうとっくに旅の最中でもかき捨てできないレベルに至っているだろうに。
「お安いご用です。じゃ、じゃあ……心を込めていくよ沙夜さん?」
「……ど、どうぞ」
悟られないように自嘲と猛省を繰り返していると永春くんは楽しげに苦笑して、そっと私の傍に寄る。その微笑みで実感するのです。ああ、これは何をしても敵わないなと。
「……ん……ちゅっ……んぅっ……」
「んふ……ぷぁ……ぁむ……ちゅぅ」
やさしく、ふわりと触れあう唇と唇。
あたたかに濡れた感触がどこまでも深く沈んでしまうぐらい心地いい。
戸惑いながらも重なって、交わって、絡み合う舌と舌との感覚が溶けてしまうぐらいに熱くて幸せな気持ちを生む。
数秒なのか、数分なのか――数時間にも思えた接吻を終えて名残惜しげに二人の唇が離れていく。私と彼の舌を結んでいた銀色のいけない橋が途切れたと同時に永春くんが強く私を抱きしめた。
「これでどうかな?」
彼の指先、震えていた。ついでに声も……きっと緊張と嬉しさでどうにかなりそうなんだと思います。私もそうだから、心臓が破裂しそうなぐらいに暴れている。でもこの全身を食む、壊れてしまいそうなほどの熱がとても愛おしい。
「答えは……こうです♪」
あの日、彼が私に応えてくれたように強く優しく抱きしめ返して――そのまま私は永春くんをもう一度お布団に押し倒した。
「やっぱり、お仕置きされる流れかな?」
「いいえ。ただなんとなく、もうしばらくこうして仲好くくっついていたいだけです」
「そっか」
「はい」
それはいいねと言ってくれるように丁寧な手つきで私の髪を撫でてくれる彼の手が心地いい。何時もは早起きな私ですが今日ぐらいはもうちょっと永春くんとだらしのない幸せな朝の時間を楽しみたいと思います。
「沙夜さん」
「なんでしょう?
「大好きだよ」
「知ってますよ。ねえ、永春くん」
「うん」
「――ずっと、大好きです」
それはちょっとした羽休めのお話。
そしてまた、少年少女は走り出す。
止まり木のない海原に翼を広げる渡り鳥のように。
慣れないジャンルで四苦八苦しながら書いたもので拙いお話になりましたがここまでお読みいただきありがとうございました
最後になりましたが今年も一年お世話になりました
来年もマフ30と諸々の投稿作品をどうかよろしくお願いします
それでは皆様、よいお年をお迎えください