仮面ライダービャクア   作:マフ30

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お久しぶりです。
少し間が開いてしまいましたがどうにか最新話投稿出来ました。

今回はちょっと難産と言いますか、地の文の視点がよく変わって読み難いかもしれませんのでご了承ください。


第五幕 男は嘆く

 お救いせねば。

 お救いせねば。

 

 この悲しみに満ちた世界をお救いせねば。

 

 お救いせねば。

 お救いせねば。

 

 この人間(けがれ)に満ちた地上をお清めせねば。

 

 お救いせねば。

 お救いせねば。

 

 今日も人は怒りを生む。

 今日も人は悲しみを生む。

 今日も人は憎しみを生む。

 今日も人は恨みを生む。

 

 お救いせねば。

 お救いせねば。

 

 けれど、けれど、小生はあまりにも矮小でありました。

 俗世を捨てて山中に籠り、救世の道を求めようと修行に励み早十五年。

 しかし、小生は救いの神を見出すことも出来ずに仄暗い水底で溺れるように日々を悪戯に費やしておりました。

 

 だが、だが、運命の日は何の前触れもなく小生の前に訪れたのです。

 忘れられるはずもない。あれは小生が瞑想に耽っていた時のこと。

 野山の獣にしては騒がしい物音を聞きつけて、足を運んだその先で小生は見たのです。この世の物とは思えない神々しき姿形をした生物と恐ろしき面を纏った夜叉のような人型が争っていたのです。

 

 黒くブヨブヨした全身に血管のような赤い管が迸る姿をしたソレはお面の者との争いの果てに滝壷へと落ちていったのです。その光景を食い入るように見つめていた小生はお面の者に悟られないように走りました。

 何のために?

 ええ、もちろん……現世の生き神としか思えぬ美しきあの御方をお救いするためです。幸いにもその山は既に小生にとっては我が家も同然。秘密の近道を用いて滝壷の下へと辿りついた小生は弱りながらもまだ息があったあの御方――バケヒル様を自らの寝ぐらへと匿いお救いしたのです。

 

 瀕死の傷を負ったバケヒル様は小生に様々なことをお教え下さいました。

 古来よりこの国の陰日向に息づく化神と呼ばれる彼ら古き精霊たちと彼らを人間の世の害悪と見なして狩ろうとする御守衆なる者たちとその尖兵である御伽装士。

 まさに僥倖とはこのことでした。

 バケヒル様との邂逅は小生の長年の悩みに対する答えを授けてくださったのですから。

 化神――嗚呼、なんと素晴らしき御方たちがこんなにも近くにいるとは思いませなんだ。同時に小生は人間という生物への未練を完全に断つことが出来たのです。

 

 化神の皆様のような知恵も意思も力もある尊き御方たちが存在するのならば愚かで醜い人間たちが万物の霊長を気取る資格は無し。地上の支配権を偉大なる化神様たちへと譲り渡す時が来たのだと確信致したのです。

 ですが小生がこのような大願を抱いたというのに無情にもバケヒル様の天命は尽きようとしていたのです。小生は滂沱の涙を流して懇願しました。我が身を食みどうか生き永らえてくださいませと。腕の一本、足の一本程度は惜しくはありませんでした。

 

 しかし、バケヒル様は思わぬことを口にしたのです。

 

 ――お前が俺を食ってみろと。

 

 化神が人を食らうは常なること。

 しかし、人が化神を食うのは見たことも聞いたこともない。故に冥土の土産に俺を食って見せてくれとバケヒル様は仰ったのです。

 愉快そうに笑うバケヒル様のあの御声はいまでも小生の胸の奥に響いております。

 化神様のご期待に応えねばと、おぞましき人間への決別の意もこめて小生はしばしの愕然と葛藤の後に嘆きの涙を流しながらバケヒル様のお身体に喰らいついたのでございます。

 

 化神バケヒル様の血肉を食らった小生がどうなったのか?

 その顛末はどうかこれより、皆々様がご自身の目でお確かめ下さいませ。

 小生が貴方たち人間をこれより清め掃き捨てるその前に――。

 

 

 

 

 五月の連休から早二週間がたったある日の昼休み。

 いつものようにボクは西条、井上と集まってダラダラとくだらない雑談に興じていた。

 

「やっべーな……これ部活始まるよりも前に雨降ってくるんじゃね?」

「そりゃあまあ、この空模様じゃあねえ」

「今朝のニュースでは急なにわか雨に注意だったな」

「曖昧だな、オイ。そこはスパッと断言しようぜお天気お姉さん!」

 

 今年は例年よりも早めの梅雨入りだそうで教室の窓の向こうには鉛色をした空が広がっている。

 

「ダァ~勘弁してくれよ! 折角部活再開したと思ったのに屋内じゃ地味な筋トレしか出来ねえんだぞ? いっそ、校舎の廊下全部使って室内マラソンやろうって提案してみるかぁ」

「よせよせ」

「西条、そのノリは最低でも中学二年で置いていくべきテンションだよ。陸上部だからって走る以外にも鍛えなきゃいけない部分が身体には幾らでもあるだろ?」

「なに言ってんだよ、お前ら。俺にゃ走り続けてないと他に意味なんてねえんだぜ?」

 

 放っておくと陸上部エースの影響力を行使して実行に移しかねない西条をボクと井上で諫めてみるけど当の本人はドヤ顔でなんだか手遅れっぽいことを言っている。

 

「……マグロかお前は」

「西条、パンクな哲学かもしれないけど普通に生徒指導室がゴールになりそうだと思うよ」

「うっそだろ!?」

 

 本当だよ。そもそも廊下は走らないっていう日本の全ての学校における基本的なルールのことを我が親友はまるで考えていないみたいなのが恐ろしい。

 ボクたちのいつもと変わらないやり取り。

 取り留めもなく、深い意味もない……くだらないけど、笑いの絶えないそんな日々の一コマ。

 

(……今日は四人か)

 

 二人と話しながらバレないように視線を移す。

 教室内における窓辺のボクの席があるあたりの女子の集団。

 正確にはクラスの女子たちと楽しげに喋っている沙夜さんの様子をさり気なく覗き見る。

 

(巴さんには感謝?かな……彼女のお陰で繋がりの輪が広がってるみたいだし)

 

 GWが明けてから、沙夜さんを取り巻く環境は少し変わったと思う。

 というよりも沙夜さん自身が少し変わったと見るべきか……自分から積極的に話しかけてくる巴さん以外のクラスメートとも気後れせずに交わろうとしているようにボクには映った。

 ボク自身は見守ることしか出来ていないのが歯痒いけど、沙夜さんが御守衆の活動を理由に他人と距離を置くことが薄れてきていることが自分のことのように嬉しかった。

 

 だからこそ、この間に光姫さんから聞かされた不穏な事件が気掛かりだった。

 沙夜さんたち御伽装士が変身に用いる怨面の一つが東北地方で盗難にあったと言う。光姫さんたちと知り合ってから少しずつ可能な限りだけど、沙夜さんの任務を手伝うことも増えたボクにはごく僅かな情報しか聞かされてはいないが犯人がまだ捕らえられてないということに一抹の不安を覚えてしまう。

 

「おお! 晴れてきたァ!! よっしゃッ……今日は模擬レースやんぞ!!」

 

 あれこれと当事者でも無いのに思考を巡らせていると隣で西条が大声を上げた。

 ビックリして何事かと思って窓の外を見るとどんよりと曇った空の一部から眩い晴れ間が差し込んでいた。ボクのこの胸騒ぎも呆れるほどの杞憂で終わって欲しいところだ。

 実のところ、ボクも傘なんて持ってきてないから夜までは雨降ってもらいたくないのだ。

 

 

 

 

 放課後。

 町は午後五時を待たずして、大雨に見舞われた。

 舗装された道にはあっという間に大小多数の水溜りが出来上がる。

 

「マジか……バイト休みで浮かれてたらこれだよ。沙夜さん大丈夫?」

「なんとか、でも参りましたね。にわか雨くらいは降るかなと思っていましたけど、ここまでとは」

 

 髪も学ランも七割ほど雨に濡れたボクの隣で同じように濡れカラスのようになった沙夜さんがたははと苦笑する。しっとりと濡れた黒髪がどこか色気というか風情が出ているけど、いまは置いておこう。

 何となくの流れで一緒に下校することになって、ゆるくお喋りしながら帰っていた矢先に降り出した雨の前にボクたちはやむを得ず長距離走を強いられることになった。

 タイミングの悪いことにいま信号待ちをしている場所は雨宿り出来るような屋根や軒下が何も無く、降りしきる雨水をボクも沙夜さんもノーガードで受けている。

 

「もう少しでボクの住んでる下宿があるから、沙夜さんも雨宿りしていってよ」

「いえ、こんな濡れた格好でお邪魔するわけには……」

 

 これは風邪を引いても不思議じゃないと思ったボクは沙夜さんにそんな提案をした。言ってから事の重大さに気付いて動揺しまくったわけだけど。

 だけど、沙夜さんはボクの家が一軒家ではないとこに遠慮してかなかなか首を縦に振ってはくれなかった。

 

「沙夜さんの家っていうか、六角モータースまでまだ結構距離あるでしょう? ボクのとこの下宿なら大丈夫。西条や井上なんかもよく寄ってくし、大家さんも親切な人だから」

「でも、その……突然、男の子の自宅にお邪魔するというのは勇気がいるというかなんというか……永春くんのお気持ちだけで平気です。私が全力で走ればあっと――」

 

 今更後には引けないボクと一部もにょもにょと言い淀みながら頑なに遠慮する沙夜さんとで押し問答を続けていると二人の前を大型トラックが勢い良く走り抜けて、気持ちの良いぐらいの水飛沫をボクたちに浴びせていった。ウォータースライダーなんて可愛いレベルでボクと沙夜さんは全身ずぶ濡れに早変わりだ。

 

「……沙夜さん、ボクん家においで」

「……お言葉に甘えさせていただきます」

 

 今までの走りとか、頑張りとかが文字通りすべて水の泡となったボクたち。

だけど、この理不尽な水飛沫は沙夜さんの頑なさも水に流してくれたようで、そこは感謝したいと思う。

 

 

 

 

「ただいま。お静さーん? 永春です、帰りました」

「お、お邪魔します」

 

 彼の背中の後を追って、広い玄関の敷居を跨ぐ。

 民宿を改装した下宿とは前から聞いていたけど、永春くんのお住まい――笛吹荘は木の温かさに溢れたどこか懐かしさを感じる素敵な下宿屋さんだった。

 

「おかえりなさい永春ちゃん。あらあら、見事に濡れネズミさんですねえ。あら、女の子のお友達?」

「そうなんです。ちょっとそこで仲良くトラックの水飛沫を思いっきり浴びちゃいまして」

「は、はじめまして。望月沙夜と言います。永春くんにはいつもお世話になっていまして、ご迷惑かとは思いますが少し雨宿りさせてもらえないでしょうか?」

「まあまあ。そんな畏まらなくてもこんなあばら屋で良かったらいつでも大歓迎ですよ」

「ありがとうございます」

「こちらこそ、よくぞおいで下さいました。沙夜ちゃん」

 

 お静さんと呼ばれる初老の気品のある大家さんはこんな初対面であるにも関わらず、私のことも温かく迎えてくれた。以前、永春くんが言っていた人に恵まれていると言う言葉を早くも実感させられた気がします。

 お静さんは下宿の床が濡れて汚れてしまうことにも嫌な顔一つ浮かべずに私をお家へと招き上げるとペキパキとした手際で準備を整えながらお風呂場へと案内してくれました。濡れたセーラー服も出来るだけ乾かしてくれるとのこと……感謝ばかりです。

 

「……広いお風呂。そっか、元民宿ならそうですよね」

 

 シャワーをお借り出来るだけでも幸いだったのに、お静さんは「どうせ店子の二人も後で入るから」と一度に四、五人は入れる浴槽にお湯まで張ってくれました。

 ボディソープを泡立てたスポンジと熱いシャワーのお湯で泥水や汚れをよく洗い流してから、お言葉に甘えて湯船に浸からせてもらうことに。

 

「はぁ……あったかい」

 

 全身を包むぬくもりに思わず声が出た。

 予想以上に冷えていた身体がじんわりと温まっていく心地の良い感覚にずっと張り詰めていた緊張もほどけていくみたい。

 

「……私、変わったのかな」

 

 身も心もリラックスした私の口からはふとそんな言葉が零れた。

 最近は双葉さん以外のクラスメートの人たちとも会話することが増えてきた。それまでは適当な相槌を打ったりして、悪目立ちしない程度に流して済ませてきていた。

 どうせ高校の三年間の付き合いだろうし、化神の悪事に巻き込まれれば育んだ友情も纏めて消さなくてはならない場合もあるだろうと思っていたから。一種の諦観だ。

 

「きっと……変わったんじゃなくて、変えてもらったんだよね。永春くんに」

 

 まただ。

 彼の名前を声にすると胸の奥があたたかい気分になる。

 お風呂のお湯も心地いけど、この表現する言葉が見当たらない熱は格別だ。

 彼がくれた言葉を信じて、どこかで無意味になると分かっていても学生としての自分にも本気で向き合うようになってから嬉しい意味で毎日が忙しくなった。

 普通の女子高生のお喋りは話題が尽きない。オシャレに、遊びに、美味しいスイーツに――まともに耳を傾けていると相槌を打つだけでも精一杯だった。

 だけど、その慌ただしさは嫌いじゃないと少しずつだけど思えるようになった自分がいた。きっと、永春くんの他に双葉さんがあれこれとどんくさい私の世話を焼いてくれるのも大きな一因だと思う。

 

「私なんて構っても楽しくないと思うのに……みんな、やさしいです」

 

 彼らの優しさに私は何を返せるのだろう?

 断言できることは一つ、みんなの日常を守ること。

 永春くんや双葉さん、クラスメートのみんなの学校生活も何気ない毎日も私が守るんだ。

 二足のわらじは大変かもしれないけど、やってみようと思う。

 

 

「……当たり前だけどこのお風呂、永春くんも使ってるんですよね。さっきの石鹸も」

 

 あ。いけない。

 決意を新たにしたばかりなのになんでそんなこと、こんなところで考えちゃうかな私。

 初めてクラスメートの男子のお家にお邪魔しただけでなく、図々しくお風呂まで借りてしまっているいまの状況。彼と同じ匂いのボディソープを使い、こうして彼が毎日汗を流している湯船に自分も入っている。

 

「お風呂ですし、脱ぎますよね……ふつう」

 

 色々と想像してしまうじゃない。バカだな私。

 身体の芯から一気に熱が高まっていくのが分かる。

 お湯が熱いからじゃない、私の血とか心が火照っている。

 バシャバシャと荒っぽく掬いあげたお湯で顔を洗って逃げるように湯船から上がる。

 

「永春くんだって、早くお風呂入りたいですよね。うん、うん……きっと、そう!」

 

 そそくさと身体を拭いて脱衣所に出ると洗濯籠の中に民宿時代の物だろうか、浴衣が一組置かれていた。着替えに使えと言うことなのだろう。

 お静さんの行き届いた気配りに感激しながらもう一度髪や身体の水気をタオルで拭き取っていく最中、脱衣所の鏡に映る自分と目があった。ありのままの裸の私だ。

 

「……私は彼にどう思われたいんだろう。永春くんと、どうなりたいの?」

 

 慌ただしく動かしていたタオルを持つ手が止る。

 全てを曝け出している自分を眺めていると不意にその肌に赤い蛇紋様が浮かび上がるのを幻視する。

 

「あーもうっ、人様のお風呂場でなに考えてるんですか私。急いで代わらないと永春くんが風邪ひいちゃいます」

 

 綺麗だと褒められたいの?

 素敵な女の子だと好かれたいの?

 身の程を弁えなさい、望月沙夜。

 

 私は御伽装士だ。

 ただの女子高生なんかじゃないんだから、不相応な夢はベッドの中でだけ見るものだ。

 浮かれた心が抱いた雑念を振り払った私は用意してもらった浴衣に袖を通すと生乾きの髪を躍らせながら二階にあると言う彼の部屋へと駆け出した。

 

 

 

 

「勢いで言っちゃったのはボクだけどさ! 本当にマジかよ、こんなことになるなんてさ」

 

 数十分前の自分の言葉を若干後悔しながら、大慌てて部屋を掃除して片付ける。これじゃあ、西条のことをノリと勢いで生きているだなんて馬鹿に出来ない。どっちこっちだ。

 

「物が少なくて良かった……西条と井上のやつ、変なものボクの部屋に置いて言ってないよな?」

 

 バイトの他に御守衆と関わるようになって、部屋を散らかす暇もなかったわけでそこまで血相を変えることもないようにも思えるけど、それでも女子を部屋に上げるなんて人生で初めてのことでベストは尽くしたいと思うのが男の子の性だ。

 

「とりあえず、妙な本やDVDが無くて本当に良かった……令和に生まれて良かったよ」

 

 なんとか沙夜さんがお風呂から上がってくる前に出来る限りの整理整頓を澄ませて汗だか雨水だか分からない額の水気を拭う。

 たまにあの二人が持ち込んでくる大きな声では言えない映像資料の類がいまは無いのが幸いだった。もちろん、沙夜さんに限って押し入れや収納を漁るような真似はしないと思うけど、お互いに年頃の高校生だ。

 軽蔑されるかもしれないがもしもボクの立場が逆転して沙夜さんの部屋に招かれて一人でいる時間があったのなら好奇心に負けないと断言はできない。

 そんな風に一人、達成感と安堵感を感じていると早足で階段を上がってくる足音が聞こえてきた。

 

「お待たせしてすみません。お先にお風呂いただきました」

「もっとゆっくり入ってきても良かったのに。沙夜さん、ちゃんと温まれた?」

 

 ドアの開ける音と障子戸が開くとボクの目の前に浴衣姿の湯上り沙夜さんが現れた。

 予想はしていたけど、大和撫子な彼女に藍色の浴衣はとても似合っている。可愛いとかきれいという表現じゃ足りないと言うか、例えるなら美麗というべきか。

 血色のいい鎖骨辺りの肌なんかは直視するのに罪悪感を覚えるぐらいだ。

 

「それはもう! いいお湯でした」

「ッ……よかった。じゃあ、すぐに戻ってくるからゆっくりしていてよ。そ、それじゃあ」

 

 前髪の隙間から幸せそうに瞳を細めて笑う彼女が小首を傾げると胸元が大きく揺れた。錯覚じゃなく、いつもよりも自由な躍動。そこでボクの脳裏には不謹慎にもある仮説がよぎってしまった。

 もしかして、いまの沙夜さんって下着何もつけていないのではと?

 あの濡れ方じゃあ制服だけじゃ済まないだろうし、遠くでは洗濯機か乾燥機が動いている音が聞こえるし。

 そんなこと当然確認できるわけないし、知ったかと言って何か起きて堪るかなんだけどその想像はボクの理性をかき乱すには十分過ぎた。逃げるように部屋を飛び出して風呂場へと向かったわけだけど。ボクはそれを後になって酷く後悔することになる。

 

 

 

 

 永春くんがお風呂から帰ってくるのを私はぽつんと用意された座布団に正座して静かに待つことにした。何も考えずと言うわけにはいかないので視線はキョロキョロと忙しなく彼の部屋の隅々を観察している。

 

「本当に旅館なんですよね……不思議」

 

 年季のある天井に、八畳間ほどの畳み。

 民宿時代の家具や調度品をそのまま店子さんに貸出しているのか一人暮らしには大きすぎるテーブルや片隅にある小さな金庫。そこにハンガーラックに掛けられた学生服や教科書が詰め込まれたカラーボックスが同居しているのがおもしろい。

 だけど、ここは紛れもなく彼の――永春くんが生活している部屋なんだと呼吸をする度に彼の安心できる匂いが鼻孔をくすぐり実感する。

 

「……ちょっとだけ。うろうろするぐらいなら、いいですよね?」

 

 雨音と壁掛け時計の針の音だけの沈黙に耐えかねて、すくりと立ち上がりお部屋の細部を眺めてみる。押し入れや収納の引き出しを開けるわけではないので軽蔑はされないと信じたい。

 

「……電子キーボード? すごい永春くん、楽器弾けるんだ。あれ、これは?」

 

 普段から小まめに掃除をしているのか、物が少ないのか数冊の雑誌やノートPCといったものがテーブルに置かれているだけでなんというか質素な印象だった。それだけにケースにしまわれたキーボードが存在感を放っている。

 彼に楽器の心得があるというのは初耳だった。何かの機会に永春くんの演奏を聞いてみたいと思っていた時に金庫の上に置かれた二つの写真立てが視界に入った。

 

「これは永春くんのご両親と前に教えてもらったお兄さん夫婦ですか? こっちは……女の人と子供の永春くん?」

 

 写真の一枚はたぶん、永春くんのお兄さんの結婚式に撮ったと思われる家族写真だった。幸せそうな家庭にこの後とても悲しい事件が起きてしまったと思うと虚しさが押し寄せてくる。そして、気になったのはもう一枚の写真の方だった。

 そこには小学生に入りたてぐらいだろうか幼く可愛らしい彼と鮮やかな栗毛の女性が二人で写っていた。とても綺麗な女性だった。年頃はちょうどいまの私ぐらいだろうか?

 女の人のことはさて置き、永春くんの笑顔はこの頃から眩しかったんだと何故だか自分のことのように嬉しいと感じるのは何故だろう。自然と口元がだらしなく緩んでしまう。

 

「沙夜さんお待たせ……ッ」

「ふぁい!? あ、これは……その、ごめんなさい勝手にお部屋を見て回ってしまって」

 

 写真に見入っていた私は未熟にも彼が戻って来た気配にまるで気付けていなかった。

 片手に写真立てを持つ私を見て、永春くんの顔色が変わったことは見逃さなかったくせに。

 

「別にそれは良いよ。そんな謝らなくても大丈夫だから」

「あの……こちらの写真の方は? 永春くんのお姉さんですか?」

 

 すでに無礼を働いてしまっていた私はどこか開き直って直球で彼に聞いてしまった。永春くんは数秒ほど口をポカンと半開きにして考え込んでいたようだったけど、一回大きく肩で息をつくと滔々と写真の彼女について話し始めてくれた。

 

「その人は夕凪さんって言って……なんだろう、昔可愛がってもらっていた近所のおねえさんって感じの人って言ったらいいのか?」

「……はあ?」

「普段何やっているのか教えてくれなかったし、家もどこに住んでいるのかも分からない不思議な人だったんだけどさ、近所の公園とかにいくと大抵夕凪さんがいてよく一緒に遊んでもらったりしてたんだ」

「この人、高校生ぐらいに見えますけど大人なんですか?」

 

 まるで夢の内容を語るようにどこかふんわりとした言葉で話す彼。

 だけど、その顔と声色は懐かしさと嬉しさを帯びていた。

 

「それも教えてもらえなかった。というか、出会った頃に聞いたら怒られたよ。変わった人だったな……一週間連続で顔を合わせる時もあれば、二か月ぐらい見かけない時もあったり」

「旅好きだったとか?」

「どうだったんだろうね。いつも身軽な恰好でいたような記憶しかないけど……あと、ずっとその写真みたいに変わらず綺麗な人だった」

 

 私の隣に立って写真の中の夕凪という女性を覗き込む永春くんの穏やかな表情を見た途端に何故だか胸が苦しいような気分になった。

 そこで何と無く解ってしまった。

 永春くんと夕凪さんとの関係。驚きはあるけど、不思議じゃないと思った。

 きっと、特別な女性だったんだ。 

 こんなにも綺麗な人が可愛がってくれたのなら、小さな子供は自然と強く慕う筈だ。懐くという枠を飛び越えてそれ以上の感情だって抱いても可笑しくない。

 

「あの失礼ですがいまは夕凪さんとは?」

「七年かな……たぶん、もうそれぐらい会ってないよ」

 

 彼は寂しそうな顔で呟いた。

 同時に私の胸の奥にはとても深い安堵感が芽吹く。

 いえ――いいえ、なんでそこで私が安心なんてするの?

 もしかしたら、ご両親と同じように永春くんにとってもう逢うことも許されない人になっているかもしれないのに、どうして私は胸を撫で下ろすような心地になっているの?

 

「あの、沙夜さん? なんだか顔色良くないみたいだけど平気?」

「へ……ぁ、はい。何ともないですよ。大丈夫です」

 

 なにが大丈夫なんだろう。

 彼に気遣われるぐらい顔に動揺が出ていたくせに。

 彼がまだ誰かの物になっていないのが分かって安堵した浅ましい気持ちで胸がいっぱいになっていたくせに。

 

「本当に? 先週も結構化神退治に夜遅くまで頑張ってたし、無理しない方が良いよ」

「ありがとうございます。でも、本当に何ともないんです。ちょっとこんな風に永春くんのお宅にお邪魔するとは思っていなかったから緊張していたのがお風呂に入って気が緩んじゃったのかもです」

 

 私を心配してくれているであろう彼の眼差しと言葉がいまはとても心苦しい。

 必死に動揺を顔に出さないように自分自身を誤魔化すので精一杯になっていると永春くんの方が何かを決意したような真剣な面持ちで口を開いた。

 

「それならいいけど、あのね沙夜さん……こんな時にする話じゃないかもだけど、折角二人きりで落ち着いて話せそうだから、話しておきたいことが――」

「よお、永春! 友達きてるんだって? お静さんがお茶とカステラ用意してくれたから食べに来いよ!!」

 

 永春くんが言いかけているのを遮って、戸が再び勢い良く開いた。

そして、肩を微かに雨で濡らした整った顔の男性がズカズカと入ってきた。なんというか自分の家でよく目にする光景に似ている。

 

「って、あれ!? 西条でも井上でもないじゃないか」

「先生さあ? それでも社会人なの?」

「永春が女子連れ込んでるぅうううう!!」

「人聞きの悪いこと言うんじゃねえですよ!?」

 

 結局、その後はこの笛吹荘のもう一人の住人である水樹さんの乱入やお静さんのご好意でお呼ばれしたお茶の席で質問攻めや止らない世間話に巻き込まれて、永春くんと二人で話すこともままならずに夜になってしまった。

 折角、彼の暮らしている下宿に寄らせてもらったと言うのに私は、そして永春くんの方も何とも言えないモヤモヤした気持ちを残したまま一日は過ぎていった。

 

「……恥ずかしい。明日から、どんな顔をして永春くんに会えばいいんだろう」

 

 その日の夜。

 私はベッドの上で丸まってずっと自虐自責の念に駆られていた。

 嫉妬?妬きもち?

 それも出会ったこともない女性に身勝手な気持ちを向けて、永春くんにも気を遣わせてしまった。

 表と裏の顔を弁えることは怠らないようにしようとあれほど自分に言い聞かせていたのにこの体たらくだ。

 

「……そうだよ。私みたいのなんかより、相応しい良い人なんて彼には幾らでもいるのなんて少し考えれば簡単にわかってた。だって、永春なんですよ?」

 

 身の程を弁えろ。弁えろと、自分を戒めながら私は眠れぬ夜を過ごした。

 

 

 

 

 山を越え、谷を越え、河を越えて、彼らはこの土地に流れてきてしまった。

 邪まな熱情を孕み、野望の道を進む者。

そして、その者が闇の吹き溜まりを練り歩きかき集めた人ならざる同胞たち。

 

「くっひゃっははははは! 感じる、感じる……小生が手に入れた怨面が反応していますぞ。この地には別の御伽装士が確かにいるようですなあ!! 可哀想に……こんな所に住んでいなければもう少し長生きできたでしょうに」

『左様か。どうするのだ同盟者よ? 多勢に無勢で殺戮するか!』

『それとも寝首を狙ってみるのかしら?』

『装士の肉は不味そうだ。食うなら女子供に限る』

『――戯れも良し。――闘争も良し』

 

 

 簡素な黒衣を纏った不気味なほどに白い肌をした痩身の男が嘆く。

 その声、笑いながら――けれども男は嘆いていた。これからあらゆる理不尽と無情が襲い来る人間たちへと男の嘆きが慎ましくも木霊する。

 傍らには数体の化神たちが連なっている。

 それは世にも恐ろしく不思議な光景であった。

 

 

 

 

 翌日。

 昨日の大雨が嘘のような晴天。

 気持ち良く学校生活を邁進したいところだけど、調子が狂う。

 特に沙夜さんと空気が喧嘩をしたわけじゃないのに噛み合わない。気まずい。

 視線が合わないのだ。正確に言うと真っ直ぐ彼女を見ようとしても外されてしまう。

 

「どうした永春? 風邪でも引いたか?」

「ボクはどう頑張っても健康優良児だよ。ちょっと悩みごと」

 

 今朝、学校の昇降口で顔をあさせた時からどこか余所余所しかった沙夜さんの態度。

 理由は解っている。夕凪さんの写真だ。

無理もない、あんな風に思わせ振りなことを言っておいて何も話せていないんだ。

 過去に何かありましたよな感じを醸し出すだけ出しておいて、大事なことをなにも伝えていないんだから、色々と勘繰られてぎこちない態度を取られてしまっても当然だ。

 

「珍しいな。僕たちに話してみろ。恋の悩み以外なら知恵を出し合えば解決できるはずだ」

「ありがとう井上。でもだめなんだ、その悩みのジャンルが限りなく恋に近い」

「むう。そうか、なら仕方な――なんだと!?」

「冗談だよ。この追跡者にそんな浮いた話があるわけないじゃないか」

「永春おめー何気にあの一件のことメチャクチャ根に持ってるじゃねえか? 水臭いぞ話してみろよ」

「西条もありがとな。まあ、ちょっとデリケートなものなんだ。気持ちだけ受け取っておくよ。大丈夫、ボクがちょっとだけ腹を括れば簡単に解決するものだから」

 

 ボクにとっての日常の象徴ともいえる親友たちとのフレンドリーなやり取りを経て、気持ちの折り合いを付ける。

 昨日の話の続きを沙夜さんに打ち明けるのは正直怖い。信じてもらえるのかも分からないし。だけど、彼女には――沙夜さんにだけは伝えないとボクは沙夜さんのことを裏切るようなものだと意を決する。

 HRが終わったら必ず彼女に話を切り出すと強く誓ってボクは一日が終わっていくのを待った。

 

 

 

 

 放課後。

 西条たち部活のある生徒たちがそれぞれの練習場所へと向かって一斉に動き出して人が河川のように流れ出す中でボクは沙夜さんを呼び止めた。

 幸いなことに昨日の話の続きをしたいと切り出したら彼女は「お願いします」と拒否感も見せずに一緒についてきてくれた。

 

「ごめんね、喫茶店でもいいかなって考えたんだけど……やっぱり、本当に二人きりで話したかったんだ」

「そう、ですか。私は平気ですから、それで大切な話というのは――!」

 

 人気のない場所をと考えてボクは彼女をあの神社へと連れ出した。

 ボクと沙夜さんの数奇な出会いの始まりの場所になったあの神社だ。

 学校からここまでの道中に妙に緊張してしまって他愛ない会話もできなかったのが少しきつかった。

 

「夕凪さんとの話にはちょっと続きがあって、そのずっと言えないでいたんだけど……多分、ボクに記憶消しの術が効かなかったのにも――おおっ!?」

「クッ……誰ですか!」

 

 話している途中で先に何かに気付いた沙夜さんがボクの手を強く引いて抱き上げるとそのまま大きく跳んで社の屋根に飛び上がった。

 大きく揺れ動く視界にさっきまでボクたちが立っていた場所に大きな獣の爪痕が刻まれているのが見えた。そして、二体の異形の影も――。

 

『ほお! 女の方が装士だったのか、興が乗るぞ!』

『妾はそこの坊主の方が食べ甲斐があったのじゃが残念だのう』

「化神……それも二体一緒にだって!?」

 

 獣人然とした虎の異形。鋭く大きな爪を持つ化神バケトラ。

 人型の肉体にろくろ首のように長い蛇頭を持つ不気味な姿の化神バケマムシ。

 既に躰を得た尋常でない威圧感を放つ化神がそれも一度に二体まとめてボクたちの前にいたのだ。

 

「沙夜さん……これって!?」

「彼らの狙いは分かりませんが私がやるべきことはシンプルです。危ないのでここに居てください」

「気をつけてね」

「ご心配なく。私は……私がみんな守って見せますので」

 

 何時もとは様子が違うことに胸騒ぎが止まらない。

 けれど、彼らと戦う術を持っている沙夜さんは臆することなく怨面を手にすると屋根から飛び降りて奴らと対峙した。ボクにどこかぎこちない笑顔を残して。

 

「オン・カルラ・カン・カンラ」

 

 余裕綽綽とばかりにふてぶてしく笑って待ち受ける化神たちを凄みのある剣幕で黒髪の奥に隠された紫瞳が睨みつける。

 

「白鴉の怨面よ、お目覚めよ」

 

 諸刃の刃でもある怨面を心を律した彼女が被ると濁流のような怨念が破邪の力・神通力と共にその五体に流れ込んでいく。

 

「クゥ……ア、ァ、ゥアア――」

 

白い肌には無数の蛇が這うような赤い痣めいた紋様が浮かび上がる。

 それは彼女の身命を数多の怨念無念が蝕み、苛む証しだ。

 けれども、沙夜さんはボクたちを守るために夥しい量の情念を受け止めて、超人へと変わる。

 

「――変身」

 

 閃光が弾け、穢れのない白い風が一陣。

 真白の軽鎧を纏った御伽装士ビャクアとなった彼女は二振りの快刀を構えて、化神たちを迎え撃つ。

 

「ヤァアアア! お覚悟!!」

 

 先手必勝とばかりに快刀を振り上げたビャクアが斬り込んでいく。

 白刃が煌めいて、バケトラ達に無数の斬撃が迸る。

 

「グォッ!? 見てくれ以上に威勢が良いではないか! 滾るぞ!!」

「やれやれ……暑苦しい小娘は趣味じゃないのぅ。早いとこ始末するかの」

 

 だが、化神たちもやられてばかりではない。

 バケトラは直ぐに態勢を整えて一振りで丸太も断ち切りそうな大爪でビャクアの快刀と切り結び。バケマムシが口からの溶解液で中距離から援護する。

 ただでさえ、二対一では不利なのに連携まで取られたら彼女が苦戦を強いられるのは明らかだ。

 

「ヤバい……沙夜さん!?」

「大丈夫です。私を……信じて!」

 

 爪撃を凌ごうとすれば溶解液が体を掠めて肌を焼き。

 溶解液を避けようと意識すれば冷ややかな切れ味の爪が彼女の四肢を裂く。

 奮闘空しく徐々に押されて傷ついていくビャクアの姿に堪らず悔しさが滲んだ声だ出てしまう。だけど、そんな狼狽えるボクを彼女の叫びが一喝した。

 

「永春くん……貴方がいるから、私は負けません。だから、心配しないでそこで見ていてください」

 

 眼差しは敵に向けたまま、彼女は静かにそう答えた。

 強い背中がボクの目に映る。

 そうだ。ボクが沙夜さんを信じないで、誰が彼女を信じるんだ。

 

『口だけは達者だが現実を見るんだな御伽装士!!』

『小娘が意地を張るんじゃないよぉ!』

 

 二体の化神が止めを刺そうと同時に襲い掛かった。

 猛虎が爪を振り上げ、大蛇が退路を塞ぐように溶解液を雨のように撒き散らす。

 それに対して、ビャクアは何を考えたのか右手に握る快刀の一振りをするりと手放した。

 

「退魔七つ道具が其の壱、天狗の羽団扇! カンラ!」

 

 目にも止まらぬ速さで空いた右手に召喚された羽団扇を力強く彼女が振るうと巻き起こった白い竜巻が溶解液を跳ね返した。

 

『『いぎぃ!?』』

「まだです!」

『ガァアアアア!? 目、目がァ、あああ!?』

 

 あべこべに溶解液を被って全身を焼け溶かす化神たち。ビャクアはその隙を逃がさずに足元に落ちた快刀を蹴っ飛ばしてバケトラの右目に突き刺した。

 

「カンラ! カンラ! カンラ!!」

 

 淡く輝く羽団扇を仰ぎに仰いで嵐のような強風を化神たちに浴びせて怯ませるとビャクアは自らも白風の中に飛び込んだ。

 

「ハイヤァアアアア――!!」

 

 神通力を四肢に巡らせたビャクアは仙術を駆使して自らの重みを一時的に軽減すると風の流れに乗って宙空を駆け抜けた。そして、バケトラとバケマムシの両名に渾身の一太刀を連続で叩き込んだ。

 

「御伽装士を舐めないでください……!!」

『グウウ……おのれぇええええ!!』

『相打ちになろうとも食らい殺してくれるに!!』

「おっと、そこまでございます。バケトラ様、バケマムシ様。いまはまだ愛しき貴方たちを喪いたくはないのです」

 

 深手を負って後退しながらも殺意を剥き出しにする化神たち。

 抜身の刃のような静かな闘志を燃やして攻勢に転じるビャクアと雌雄を決しようとした時だった。ボクたちの誰のものでもない声が戦いの流れを止めた。

 

「いやはやお見事な腕前ですな御伽装士様。嗚呼、全く嘆かわしい……小生の読みは見事に外れてしまいましたぞ。もっと楽に始末できると踏んでいたのですが手強いものです」

 

 青白い肌をした男の人だった。それでいて浮き出た血管は太く血色が良い。

 ボロの目立つ黒い着物を一枚纏った瘦せ細った男。

若くも見えるし、老けても見える――まるで幽鬼のように見えた。

 その謎の人物は石段を登り切り神社に現れると手負いのバケトラたちを庇うようにビャクアの前に立つ。

驚くべきことにその背後には新たな化神を二体も侍らせていた。大柄な狸のような化神と枝葉が鏡のようになった観葉樹のような奇怪な姿の化神だ。

 

「……誰ですかあなたは? 何故、人間が化神を庇うんです」

「それはもちろん化神(かれら)は小生が崇敬する尊き者であり、慕い合う同胞だからですよ」

「正気で言っているんですか?

……あなたは一体何者です!?」

「失敬。自己紹介が遅れましたな。小生の名は物部天厳(もののべ てんげん)、化神の皆々様に世の救いを見出したしがない救世の徒でございます」

 

 天厳と名乗る不気味な男はボクと沙夜さんの目の前で信じられないことを口にした。

 化神が世界の救世主だって?馬鹿じゃないのか?

 

「そこをどいてください。化神を野放しにしていたら多くの人が傷つき、命を落とすことだってあります」

「良いではないですか。好いではないですか。人間など一先ずのところ全体の半分ほど死に絶えた方がこの世の天然自然には癒しになりましょう」

「正気で言っているんですか、あなたも人でしょう?」

「忌まわしいことにねえ。ですが小生は化神様の献身にて醜き人間という軛から逃れた者でありますので」

 

 大真面目に語る天厳にビャクアは絶句する。

 後ろで聞いていたボクのあまりにも会話が噛み合わないこの男に寒気に近い気持ち悪さを感じていた。

 

「ダメだ沙夜さん。その人はどうかしてる、たぶん言葉じゃ止まらない」

「ほほぅ。存外に辛辣ですね少年。獅子の背に乗る鼠の如く、御伽装士のお嬢さんに守られているのが当然の身分では気持ちも大きくなるのですかな?」

 

 ボクのことなんて眼中にないと思っていたけど、彼は慇懃で棘のある言葉でハッキリと煽ってきた。反論したいけど、その言葉は戦いにおいては無力なボクにとっては事実に近いこともあって悔しいが何も言い返せない。

 

「……彼は御守衆でもない一般人です。守られる側であることの何がおかしいんですか?」

「おっと、怖いこわい」

 

 険しい顔を見せることしか出来ないボクに代わって、ビャクアが聞いたこともないような苛立った声で天厳に詰め寄った。快刀の切っ先を向けて、いまにも斬り掛かりそうな勢いだ。

 

「永春くんの言う通り、何者か知りませんが身柄を捕らえさせてもらいます」

「化神様たちが四人もおわすこの状況でですか? あと、小生もなかなか手強いかもしれませぬぞ?」

「それは……猿羅の怨面!? じゃあ、あなたが東北の仲間を殺した殺人犯!」

「はぁい。小生のような不審な身なりの者が相手でも実に親切丁寧な御仁で……あまりの阿呆ぶりに笑いを堪えるのが大変でございました」

 

 天厳が懐から取り出した猿を模した怨面に緊張が走った。

 まさか、目の前のこの男が御守衆の人たちが血眼になって行方を追っていた怪人物だったなんて思いもしなかった。

 

「ふざけたことを……人の命を何だと思っていますか!」

「嘆かわしいお嬢さんですね。これだけ小生と言の葉を交えたというのにまだ理解できませんか? 人の命? ええ、ええ――ごみ屑と心得ておりますとも」

 

 ビャクアに憐れみの視線を浴びせながら、天厳は嘆く。嘆きながらボクたち人間を嘲笑っていた。正直、ボクはこの血も涙もないような男に怒りよりも理解不能な恐怖を感じる方が勝っていた。

 

「壊れてる……何なんだよアンタ!?」

「永春くん、落ち着いて。大丈夫ですよ、私がいます」

 

 このままでは天厳の狂気に呑まれてこちらの理性まで可笑しくなりそうでボクは無我夢中で声を荒げた。そんなボクを彼女の優しく頼もしい声が宥めてくれる。

 

「麗しいですな。けれど、そこのよく喋る冴えないお荷物のお守りをしながら小生たち五人に勝てると思っているのですか?」

 

 卑しい舌から吐かれる挑発が再びボクたちに浴びせられる。

 ボクは悔しさをどうにか我慢したけれど、彼女は天厳が言い終える前に一足飛びで斬り掛かっていた。

 

「もう……喋るな!!」

「ああ、嘆かわしい。やはり子供か……バケカガミ様」

『――了承した』

 

 怒りに満ちたビャクアの快刀による横薙ぎの一太刀が抜かれるよりも前に天厳の後方に控えていた奇怪な姿の化神バケカガミが動いた。

 その枝葉のような鏡を僅かに動かして天厳と永春、二人の姿を映すと刹那の閃光が瞬く。

 

「は……?」

「……えいしゅん、くん?」

 

 何が起こったのかボクには分からなかった。

 天厳の後ろにいた化神の枝木のような形の鏡になっている腕がほんのちょっと光ったと思ったら、ボクの目の前にどうしてだかビャクアが剣を振りかぶって飛び掛かってくる姿があった。

 沙夜さんの方も何が起こったのか理解できていなかったようだ。だけど、ボクたちがお互いのことを認識できた頃にはもう既に天厳を薙ぐはずだった彼女の快刀は振り抜かれていて――。

 一秒がとても遅く感じられる刹那の瞬間。

 ビャクアの後ろ、ボクがいたはずの社の屋根に立つ天厳が悪鬼のような笑みを浮かべているのがこの目に焼き付いていた。

 

「いっ……かぁ、っ―――」

「う……そ……っなんで、そんな……ああ、あぁぁ!!」

 

 ほんのチクっと痛みが走ると首から下がじわじわと何かで濡れていく。

 生温かくて、ぬるっとしてきもちわるい。

 カシャンと大きな金属音が響いて、目の前にいるビャクアの姿をした沙夜さんがガタガタ、ブルブルと震えていた。

 

 いきが苦しい。

 息をするのがくるしい。

 

 理解が追いつかない。

 ちがう。理解したくなかったの方が正解かもしれない。

 そんなまさか――こんなことがあるなんて。

 

「ぅぶぅぅ……おぇ、っぷえ゛ぁああ」

 

 こみ上げてきた血反吐をボクの意思に関わらず、身体が本能のままに口から吐き出したところでボクは沙夜さんに喉を切り裂かれたことを受け入れるしかなかった。

 

 

 

 

 化神バケカガミ。

 その化神は非力ではあったが希少で恐ろしい能力の持ち主だった。

 自らの枝腕に生えた魔鏡に姿を映した対象同士の位置を入れ換えるというものだ。

 物部天厳はその力を以て、自らと永春の位置をすり替えてビャクアの手によって永春を切り捨てるという悪辣な手段を行使したのだ。

 

「えい……しゅん、くん? なんで! そんな! あああああああ!?」

「――――っ」

 

 ボクの血を浴びて白い体を真っ赤に染めた彼女の錯乱した悲鳴が聞こえる。

 いますぐに沙夜さんを安心させたいのに、身体が思うように動かない。

 喋りたいのに声が出ない。痛みだか、しびれだか分からない感覚で口が上手く開かない。

 呼吸が苦しい。変なところから空気が抜けるような感触が気持ち悪い。

 まるで喉がパンクしたタイヤのチューブみたいだ。

 

「やだ……嘘だ。うそだ……ぁ、えいしゅんくん、しっかりして! ああ、ああああ」

 

 ボクを抱き止めて、叫ぶ沙夜さんの声が響く。

 悲しそうで辛そうな、こんな彼女の声は聞きたくなかったそんな声。恨めしいことに耳だけが敏感に音を捉えている。

 彼女の涙交じりの絶叫に混じって天厳や化神たちの嘲笑う声が聞こえてくる。

 くそ。くそ。くそ!!

 

「―――――」

 

 沙夜さん、ボクは大丈夫だから戦って!

 放って置いてもこれぐらいじゃ死なないから、アイツらを倒して!

 ボクは痛みや苦しみになら幾らでも耐えられるから、君にしか出来ないことをやってくれ!

 

 想いを伝えたいのに声が出せない。

 時間が経つにつれて足に力が入らない。

 血の気が引いて、頭が痛くなってくる。

 くそ。くそ。くそ。

 これぐらいの怪我じゃ駄目なのか(・・・・・)ボクの体はさあ。

 

「わたしの……せいだ。私が……えいしゅんくんを……傷つけた。こんなに血が……馬鹿、馬鹿っ、馬鹿ぁぁ」

 

 沙夜さんが泣いている。

 仮面の赤い双眸から涙が止めどなく溢れている。

 違う。違う。違う。

 沙夜さんのせいじゃない。彼女のせいであるもんか。

 どうしよう。どうしたらいい?

 なにをやったら、この状況で沙夜さんを助けられる?

 そんなことを考えていたら、天厳の厭らしい声が流れ込んでくる。

 

「おやおや情けない。御伽装士ともあろう者がまるで幼子のようですね」

『好機だぞ。二人諸共食い殺してしまうぞ』

「どうか、この場はお控えください。本日はあくまでご挨拶に伺ったまでですので」

『同盟者がそういうのなら意を汲むが良いのか?』

「敵に囲まれながらこのような醜態を晒す小娘ならば取るに足りませぬでしょう。路傍の雑草のようにいつでも踏み潰せましょうぞ」

 

 ボクを抱き止めてその場に蹲り、錯乱したままの彼女を徹底的に見下した視線をぶつけて天厳と化神たちは去っていく。ボクたちは見逃してもらったのだ。

 

「ですが……ビャクアとか言いましたね。小生から情けを施してあげましょう」

 

 天厳は何を思ったのか取り出した小刀で自らの腕を切り裂いた。

 すると溢れ出た血液がまるで生き物のように動いて触手のようにこちらに伸びてきた。

 

「ガァ――!?」

「―――!?」

 

 ビャクアの体がビクンと跳ねて、ボクの腹にも鋭い痛み。

 天厳の血は蛇のような動きで迫った末にその先端を尖らせて彼女とボクの体を串刺しにしたのだ。ボクたちは折り重なったような不格好な形で崩れ落ち膝をついた。

 

「これで小生も少年を傷つけてあげましたぞ。良かったですねえ……あなたのせいだけではありませぬぞ、彼が死にゆく責任は。クッヒャッハハハハハ!!」

 

 嬉々としてそう言い残して、今度こそ物部天厳はボクたちの前から姿を消した。

 

「あああ、あぁ……ぁぁぁ……アアアアァ――!!」

 

 力の抜けたボクの体を抱き止める血染めのビャクアの姿が霞んで見え難くなっていく。

 すぐ傍で聞こえていたはずの沙夜さんの慟哭が遠のいていく。

 心は必死になって意識を保とうとしているのに、指の一本でもいいから彼女のために動かしたいのにやがてボクの意識はブツリと途切れて闇の底へと落ちていった。

 

 あの時、ボクが意地でも話していればこんなことにはならなかったのに。

 沙夜さんが苦しむ必要もなかったのに。こんなんじゃ嘆いても、嘆いても、足りやしないじゃないか。

 

 

 ボクの大馬鹿野郎め。

 

 

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