ジムバッジとは、所有するトレーナーがどれだけポケモンを上手く扱えるかを示す、免許証のようなものです。就職の際には資格証としての役割を果たします。
また、ポケモンには空を飛ぶ種も荒波を泳ぐ種もさまざまに存在しますが、それに騎乗して青を行くトレーナーには、それ相応の技量が必要となります。具体的に言うと、“そらをとぶ”だったり“なみのり”だったり、所謂“ひでん”と称されるわざを使いこなすにはジムバッジが必要だということです。
しかしここイッシュでは、その括りは緩いといいますか。ジムバッジを所有しておらずとも“ひでん”わざを使うことは可能です。──可能ではあります。
「……え、あ……あれ?」
「ああ、来たね。おはよう」
「お……おはよう、ございます……」
スクールに登校してきたあなたを待っていたのは、雲ひとつ無い晴天と、爽やかな笑顔を浮かべるチェレン先生と、彼にブラッシングされているケンホロウでした。
あなたは初めて見るケンホロウに驚き、思わずぺこりと頭を下げます。ケンホロウはその丸い頭を鋭く見下ろしましたが、チェレン先生に背中を撫でられて目を伏せました。ケンホロウは非常に賢い分、プライドの高い種族です。トレーナー以外には決して懐かないと言われています。その彼が、撫でられ宥められるだけでトレーナー以外の人間を背に乗せようというのですから、いかにチェレン先生が優れたトレーナーであるのかがわかりました。
──そう、背に、乗せようというのです。
「今日の職場体験は“少し”遠いところにあるからね」
「……えっ、あの、昨日もらった書類ではビレッジブリッジって、」
「うん、“少し”遠いだろう?」
「いやいやいや」
あなたにとっては“少し”どころの話ではありません。ここヒオウギシティがイッシュの南西部の端だとしたら、ビレッジブリッジは北西部の端にあるようなものだからです。だからあなたはてっきり、電車を乗り継いで行くものと思っていました。大きめのショルダーバッグには何泊分かの着替えなどを詰めてきたのですから。
けれど、慌てるあなたをよそに、チェレン先生は微笑みます。青空のように爽やかに。
「今日は“そらをとぶ”で行こう」
話を戻しますが、イッシュは他地方と比べて“ひでん”わざの使用規定が緩いのです。ジムバッジを所有しておらずとも“ひでん”わざを使うことは可能です。──可能では、あるのです。
「うわっ、あわ、わああああ!?」
「大口を開けていると舌を噛むよ」
今あなたは、ケンホロウに着けてもらった飛行用の鞍に必死にしがみついています。後ろから支えてくれるチェレン先生の苦笑も聞こえていません。耳元で鳴る風。瞬きの間に置き去りにされる風景。遥か足元にある街並み。胃をすくませる浮遊感──五感で感じるもののすべてが、あなたの顔色を青くさせていきます。
「ああそうだ、ちょうどいい。君に問題。ケンホロウはオスとメスで姿が大きく変わることで有名だけれど、このケンホロウはどちらかな?」
「ちょっ、ちょうどいい、って! おかしくないで、」
「ケーン」
「オスさんです!!!」
こんな状況でもケンホロウの(主人に口答えか???)という圧を感じることは出来たようで、あなたは恐怖で回らない舌を必死に動かしました。いっそヤケクソじみた回答でもチェレン先生は満足そうに頷き、じゃあ次はと促します。
「ケンホロウはオスとメスで飛行能力に差があるよ。どちらがどう違うかな?」
「えっ!? ええっ、と……」
あなたは以前目を通した本の内容を覚えていました。けれどそれを馬鹿正直に言っていいのか迷い、視線をさ迷わせます。が、振り向きざまにこちらを見据えるケンホロウの眼差しがあまりに鋭かったので、ごくりと唾を飲み込みました。そうして、
「……あの、あくまで、一般的な話なんですけど、ね」
「うん。どうぞ」
「はい……一般的にオスは、その、メスと比べて、飛ぶのが、下手だって……」
飛行とケンホロウの眼光に怯えながら、たどたどしい口振りでそう答えました。そんなあなたに、チェレン先生はふふと微笑みます。
「教科書には載っていない内容だけれど、よく勉強しているね」
「あ、いえ、はい……」
「でも残念。不正解だ」
「エッ!?」
「最近ガラルの方で発表された論文によって、ケンホロウのオスは飛行スピードに優れ、メスは持久力に優れるって改訂がなされたんだよ」
「そ、そうなんですか……」
あなたは驚きに目を瞬かせた後、ケンホロウに対して「勘違いしててすみません」と頭を下げました。ケンホロウは目を伏せ、ゆったりとその眼光を収めます。
ほんのしばらくの間、沈黙が続きました。あなたにとっては初めて知ることを脳に書き込むような沈黙で、チェレン先生にとってはいつかの懐かしい時を思い出すような沈黙でした。
「絶対に正しいと思い込んでいた“真実”でも、覆ることがあるんだ」
びゅうびゅうと吹き荒ぶ風の中、先生はそんなことを言いました。“いつかの誰か”に言い聞かせるような声色でした。その真意の全てを理解することは出来なくとも、彼の思いやりの一端を、あなたは感じることが出来ました。
「……はい、チェレン先生」
だから素直に頷いて、あなたは前を向きます。遠目に、大きな川と橋が見えてきました。
「ビレッジブリッジの概要を言ってみて」
「ええと、はい。……ビレッジブリッジは、イッシュ地方最古の橋です。200年前の、開拓時代に造られたといわれています」
あなたが教科書に掲載されていた記述を諳じると、チェレン先生は正解だと頷いて、歩き始めました。あなたもその後を、少しよろめきながら追い掛けます。
「造られた由来は?」
「昔、川の水が溢れて家が流されちゃったんですよね。だから川に流されないよう考えて、橋の上に家を建てたって……」
「そう。シンプルだけど合理的だよね」
そんなことを話している内に、フライトでふらついていた足取りも元通りになってきました。少し余裕が出てきたあなたは、初めて来るビレッジブリッジの街並みを見渡します。
大きな川を股がるように建てられた、石造りの大きな橋。その上に建ち並ぶ家々もまたレンガ造りで、優しく色褪せたアンティークレッドの屋根が、深い森の緑によく映えていました。ただ古ぼけたのではない、美しく重ねられた歴史を目の当たりにして、あなたは小さく感嘆の息を吐きました。そうしてひょこりと橋の上から下を見下ろします。悠々と流れる大河が、青空を映して輝いていました。
「きれい……」
「うん、けれど落ちないように気をつけて。ああ見えて水深は深いんだ」
「そうなんですね」
「時折ラプラスが現れるぐらいにはね」
「エッ!? ラプラスですか!?」
あなたの声が驚きに跳ねるぐらい、ラプラスというのはここイッシュでは珍しいポケモンです。知能が高く、滅多に争わない温厚な性格が災いし、人間に大量に捕獲され絶滅寸前まで追い込まれた歴史を持ちます。それを知っているあなたは、目を丸くして再び大河を見つめました。今は赤と青のバスラオが縄張り争いをしているのでしょうか、バシャバシャと荒く波打つばかりで、とてもラプラスなんて巨大なポケモンが現れるとは思えません。不思議だなあと小さく溢すあなたの後ろ姿に、チェレン先生は講義を続けます。
「そんなラプラスも、大切にされ過ぎて増え過ぎたって例もあるんだよ」
「増え、過ぎた?」
「そう。アローラなんかは顕著だね。アローラでは今、大量のラプラスによって魚ポケモンが減ってきているそうだよ」
「ええ……“大切にする”って、難しいですね」
「本当に」
なんともいえない顔をして唸るあなたに、チェレン先生は頷きつつ微笑みました。さまざまなことに頭を悩ませ目を輝かせる、あなたの学ぶ姿が嬉しかったのでしょう。そんな気持ちが表れていました。
けれどそれを沈黙の内に隠して、彼は足を進めます。そうしてしばらくした後、あなたたちはとあるひとつの家の前に辿り着きました。その表に掲げられた看板を目にして、あなたは口を開きます。
「……“ビレッジ・ブリッジ・ベーカリー”?」
「そう。ここが、今日の君の職場体験先だ」
マホガニーの美しい赤褐色のドアには、ビークインを模したドアベルが飾られていました。女王蜂のロングドレスが揺れ、軽やかな鐘の音が鳴ります。それと同時に、ふわりと、あたたかなパンの匂いがあなたを包み込みました。
「……わあ……!」
店内はさほど大きくはなかったけれど、あなたは思わず目と声を輝かせました。赤茶色を基調としたインテリアは上品かつ可愛らしい雰囲気を感じさせ、窓辺には大小さまざまな植木鉢が並んでいます。いきいきとした緑の葉の間には、赤、青、黄色、桃色……色とりどりのきのみ。ここイッシュではあまり流通していないきのみです。図鑑で知ってはいたものの直に見たことは初めてだったので、あなたは思わずまじまじと見つめました。チュリネ型の植木鉢から垂れている黄色のきのみは何だろうかと、首を傾げた、そんな時。
「ん? あ! あなたが職場体験の子?」
店の奥から顔を覗かせたのは朗らかな女性でした。コック帽を被ったその顔は、ふっくらとした笑顔でほころんでいます。
「いらっしゃい! ようこそ、ビレッジ・ブリッジ・ベーカリーへ! あたしは店主のヨシエです。よろしくね」
「あ……え、ええと、」
「先日お電話いたしました、ヒオウギトレーナーズスクールの者です。本日はよろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします……!」
あたふたしながらも、チェレン先生に倣って深く頭を下げたあなたは、次に聞こえてきた声にはっと目を見開きます。
「ぶーう!」
その鳴き声を、あなたは知っていました。いつだったか調べたことがあったからです。
顔を上げると、ぶわりと穏やかな熱気があなたの頬を打ちました。赤橙の身体に山吹色のふわふわした体毛を纏うその様は、まるで炎のようです。──それもそのはず。
「……ブースター?」
「んふふ、そう! ウチの看板娘だよ」
「ぶーしゅう!」
にぱっと笑う、その口許から小さな八重歯が見えました。無邪気かつ誇らしそうなその笑みに、あなたは微かに息を飲みます。
ブースター。ほのおポケモン。イーブイがほのおの石を得ることで進化するポケモン。いつか調べたことを脳裏に並べるあなたは、まだ気づいていません。無意識に、縋るように、イーブイの入ったモンスターボールを握り締めていることに。
そのことを知ってか知らずか、ヨシエさんは明朗な笑顔で告げました。
「ウチのベーカリーのウリは“人間とポケモン一緒に!”だからね。今日はあなただけじゃなくて、そのイーブイにも働いてもらうよ。出ておいで!」
「え、あっ、はい!」
あなたが慌ててボールを投げると、そこからイーブイが現れました。小さく微笑み、ぱたりと尾を振るイーブイと、胸元を握り締めるあなたを見やって、ヨシエさんは腰に手を当て言いました。
「じゃあまずは、仕込みから手伝ってもらおうかな!」
ビレッジ・ブリッジ・ベーカリーの朝は早いです。早朝6時に開かれ、登校もしくは通勤するお客さんに向けてテイクアウトでのみ販売をするとのこと。そうして9時になると一旦店を閉じ、午後に向けて仕込みなどの準備をするのだそうです。
9時半に職場体験生としてこの店に訪れてから、あなたは数時間ほど、貸してもらったエプロンを身に付け、ひたすらパン生地を捏ねていました。
「うぐぐ……」
「おや、疲れたかい?」
「いっ、いえ、大丈夫、です!」
ミルタンク印の牛乳やバターに、ラッキーの卵。強力粉や砂糖に塩、そうして忘れてはならないイーストを混ぜて、捏ねて、捏ねまくります。それは正直に言ってしまえばとっても疲れる作業なのですが、あなたは意地を張って平気そうに声を繕いました。
「ぶいっきゅ……」
「うぐ、だっ、大丈夫だって言ってるでしょ」
「ぶーい」
相変わらずの意地っ張りだなあと言わんばかりに、イーブイが苦笑しています。そんなイーブイは椅子の上で保存パックに入ったブリーのみとモモンのみを前足で潰していました。ふみふみと小さな足が一生懸命動いて、桃紫色のベリーソースを作っていきます。手際の良し悪しはともかく、真面目に仕事に取り組む1人と1匹に、ヨシエさんは嬉しそうに声を弾ませました。
「よく頑張ってくれてるねえ! 助かるよ」
「いえ、そんな」
「その生地もいい感じだね。半分くれるかい? こっちで蜂蜜を練り込むから」
あなたからパン生地を受け取ったヨシエさんは、瓶を開けて蜂蜜を流し込みました。黄金の輝きを弾いたそれは、まるで蕩けた琥珀のようでした。とろり、ふわり、甘い匂いが漂って、残ったパン生地を寝かせるために形成していたあなたの頬が緩みます。
「ふわ……すっごく、いい匂いですね……」
「でしょう? ウチのミツハニーの特性は“みつあつめ”でね、森に遊びに行きがてらよく集めてくれるんだよ」
「? ヨシエさんって、ブースター以外のポケモンもいるんですね」
「うん、リングマとミツハニー。ミツハニーが森に遊びに行くのを、リングマが心配して一緒に着いて行ってあげてるって感じだね」
だから2匹だけで出歩いても安心できるのさ!と笑うヨシエさんに、あなたは曖昧に相槌を打ちました。彼女の向こうで火の番をする、ブースターの姿を視界に入れながら。
「ぶーきゅうっ」
「おっブースター、パン焼けた? ……うん、今日もいい焼き上がり!」
「きゅ!」
ブースターはパン焼き釜に適度に火を注いでいます。強すぎず、弱すぎず、一定の火加減を継続して。小麦が焼ける匂いが広がって、焼き釜から覗くパンが膨らんでいくのを、きらきらした黒目が見守っています。
そんなブースターの仕事ぶりを、ブースターを撫でながら褒めるヨシエさんを、あなたはじいっと見つめます。ゆらりと、瞳が揺れました。
「…………、」
エプロンに皺が寄っています。ぎゅうっと、あなたが握り締めているからです。あなたにとっては無意識な行為でしたが、ヨシエさんの目に留まりました。彼女はひとつ瞬きの後、ゆっくりと微笑みました。
「何か、質問があるのかい?」
「! えっ、と……」
その、と、あなたは視線を泳がせ、言葉をまごつかせます。あなたは意地っ張りで、けれど嘘の苦手な子なので、しばらくした後に意を決して顔を上げました。瞳はまだ揺れていますが、逸らしはしません。
「……すみません、質問させて、ください」
「もちろん、いいよ」
「はい……どうして、」
──どうして、ポケモンと一緒に仕事をするんですか?
「ヨシエさんは、そのブースターの他に、リングマとミツハニーが手持ちにいるとおっしゃっていました。その子たちは遊んでいるのに、どうしてブースターだけ働いているんですか?
それも……無理やりじゃなくて、すごく、楽しそうに……」
失礼なことを訊いているという自覚があったのでしょう、あなたの声はどんどん小さく掠れていきました。けれどヨシエさんは微笑んでいます。にこっと、ふくらかに。
「あなたは、どうしてだと思う?」
笑顔のまま、彼女はそう訊き返しました。あなたは驚きに目を見開きます。はく、と、言葉を探して、唇を震わせました。
「ど、どうしてっ、て……」
「あはは! ごめんねえ、質問に質問で返すのは意地悪だったかな?」
たはは、と頬を掻いて、彼女は目を伏せました。
でもねえ、と、柔らかく言葉を紡ぎました。
「その答えは、人それぞれに違うものだよ」
その諭すような物言いに、あなたは二の句が継げませんでした。黙り込むあなたが俯くと、視界の端に光が灯ります。光……橙の炎が、そっとあなたの足元に寄り添っています。
「きゅーう」
「っ、ブースター……」
あなたと目が合うと、にぱっとブースターは笑いました。大丈夫だよと言わんばかりの、あたたかな笑顔でした。
それに戸惑うばかりのあなたは、ただ立ち尽くしています。そんなあなたの凍りついた歩みを溶かしてくれるような、そんな温もりでした。
「……うん! もうすぐお昼時だね!」
ヨシエさんがパンッと手を叩きます。先程までの空気を一新させるような、そうした声色でした。
「職場体験だもの。気になってることはじゃんじゃん訊いて、解決していってほしいと思ってるよ」
「ヨシエさん……」
「ただ、それは今日の仕事終わりに。それまでは仕事しながら自分で考えてみてね」
ヨシエさんは厨房から店内に歩みを進めます。その隣をブースターがとととと寄り添います。ヨシエさんが抱き上げると、嬉しそうに元気よく鳴きました。
「さあ、“人間とポケモン一緒に!”がウリのビレッジ・ブリッジ・ベーカリー、開店だよ!」
マホガニーのドアが開かれ、カランと軽やかにベルが鳴ります。外から射し込んでくる光の眩しさに、あなたは目を細めました。
▽ ブースターのベーカリー 前編
このssを書くにあたってポケモン図鑑の説明文をおさらいしてるんですが、結構新発見があって面白いです。特にサンムーンの図鑑はなんというか身も蓋もなくて笑ってしまう。