「ぐっ――どうして私は……」
ルーレ市の路地裏、女は頭を押さえながら呻く。
その背後には憲兵隊の諜報員が無様な姿で雁字搦めにされて吊り下がっている。
彼は鉄道憲兵隊の諜報員。
サラの邪魔で一度は逃したが、どうにか確保してあらゆる手を使い尋問を行ったが、貴族連合の発表に反してラインフォルト社爆破事件への関与については潔白だった。
しかし、正規軍はあろうことか新型機甲兵の奪取を計画し、ルーレ市への襲撃を企てていた。
ラインフォルト社の爆破がその先駆けだとすれば、正規軍への疑いが完全に晴れたわけではない。
今後のことを考えれば、既に正規軍はラインフォルトを脅かす敵だと女は認識していた。にも関わらず――
「どうして私は……殺せないのですか……?」
手の中の刃をかつての頃のように雁字搦めにして動けなくした敵に突き立てるだけの簡単な作業のはずなのに、女は自分でも信じられないことに諜報員を見逃した。
それも今回だけではない。
ルーレ市に潜伏していた正規軍、領邦軍問わず怪しい敵、自分を止めようとする敵、全てを女は見逃していた。
「っ――」
頭痛に女は頭を押さえる。
――コロセ、ユルスナ、スベテヲコロシテシマエ……
女の衝動を突き動かそうとする囁きが聞こえて来る。
それに同調し、それこそが自分の本質だと受け入れようとする自分がいる。
その衝動を押し留めようとする声が脳裏に蘇る。
「イリーナ……様……」
――むやみやたらに噛みつく狂犬はうちには必要ないわ。ウチのメイドをしている間はもう少しお淑やかになりなさい。娘の教育に悪いわ……
「わたしは……わたくしは……」
“クルーガー”なのか“シャロン”なのか。
虚ろだったはずの心が二つの顔によって軋む。
ただ一つ、どちらの心も許すなと訴えている。
計画した者、厳重なセキュリティが掻い潜って社長室へ爆弾を運んだ実行犯。その他の協力者。
その全てに報いを受けさせなければいけない。
そして、ラインフォルトを脅かそうとしているのなら外敵も排除しなければいけない。
それがシャロン・クルーガーが己に課した使命。
「…………ふふ、ならば好都合というものですね」
女は顔を上げて笑みを作る。
犯人はまだ分からない。
だが、ラインフォルトを襲う敵が来る。
「お出迎えの準備をしないといけませんね」
楽しそうに、嬉しそうに、笑いながら彼女の目は虚ろだった。
*
「母様……」
ルーレの中で一番大きな病院。
その中でも一番大きな病室と一番良いベッドに寝かされたイリーナの姿は痛々しいものだった。
治癒術を限界まで行使して何とか一命は取り留めたものの、まだ意識は回復していない。
そんな想像をしたこともなかった母の姿にアリサは呟く。
「どうして……私なんか庇ったりしたのよ?」
その呟きに答えは返って来ない。
思い出すのは爆発に飲まれる直前の出来事。
覚えのない荷物を差し出され思案すること数秒。
イリーナは差し出した小包を乱暴に払い除けるとアリサを抱き締めるようにして伏せた。
直後に小包は爆発し、アリサが事の顛末を知ったのは数日前に目を覚ましてからだった。
「どうして……っ――」
繰り返そうとした言葉をアリサは呑み込む。
どうしてなど問わなくても分かっている。
爆弾を払い除けた時の必死な顔。
庇うために抱き締めてくれた力強さと温もり。
それこそ言葉よりも雄弁にこれまでイリーナの想いを感じることができた。
「違うわよね……」
今自分がすべきことは何なのか、考えてアリサは涙を拭って立ち上がる。
もしもイリーナが目を覚ましていたらどんな言葉を掛けてくれるか、想像する。
今まではそこで分からないと思考を停止していたが、今なら言葉とそこに込められた本心まで想像できる気がした。
――いつまでそうしているつもり? 泣いている暇があったらこの失態を挽回してみなさい……
「ええ、イリーナ・ラインフォルトの娘が泣き寝入りなんてするはずないものね」
簡単に想像できてしまった母の言葉にアリサは苦笑を浮かべる。
「今度は私が母様を守る。愛しているわ母様……」
それだけを最後に言い残してアリサは病室から出る。
そして廊下で待っていたクリス達に向き直る。
「早速で悪いんだけど、クリス……
ガレリア要塞でエリオットに使った“霊薬”ってまだあったりする?」
既にガイウスからクリスの生存を聞かされていたアリサは再会の挨拶を後回しにして尋ねる。
「え……? ああ、一応あれから補充はもらったけど、今は手元にないよ」
トリスタの襲撃が突発的だったこともあり、補充された“霊薬”を学生寮の部屋に置きっぱなしにしていたことをクリスは思い出す。
「今は……と言う事はトリスタにあるのね? なら、取引をしましょうクリス」
「取引?」
「ええ、私は母様のためにその“霊薬”が欲しい……
それから今後のラインフォルトを守るために貴方達“皇族”の後ろ盾が必要だと考えているわ」
「それは……」
「今、ラインフォルトは微妙な立ち位置にいるわ……
貴族連合が勝てば、母様の意識がないことを良いことにハイデル卿が会社を牛耳るでしょうね……
かと言って革新派が勝てば、機甲兵開発に協力していたラインフォルトは政府に接収される可能性だってあるわ」
冷静に内戦が終わった後のことをアリサは語る。
「だからラインフォルトを守るために“功績”が欲しいの……
それと合わせてさっき言った“霊薬”。この二つのために私は貴方に協力するわ」
Ⅶ組の仲間としての情ではなく、アリサ・ラインフォルト個人として内戦に関わる意志を示す。
その要求にクリスは答えあぐねてガイウスに振り返る。
“霊薬”の存在をここまで忘れていたが、彼の父の負傷のことも考えれば素直に頷くことはできない。
だがその心情を察してくれたのか、ガイウスは何も言わずに首を横に振る。
「……アリサはそれで良いの?」
「言ったでしょ。ラインフォルトは日和見をしていられないって」
内戦が終わった後の展望を語るアリサの主張はクリスにとって、悪くない条件だった。
元々、何も差し出せるものがない身のクリスにとっては協力してくれる条件を提示してくれた方がありがたいくらいだ。
シャーリィは帝国政府との契約の延長。
ガイウスにしても、ゼクス中将に家族の保護と援助を報酬として契約が交わされている。
「それでも僕にできることは口利きすることしかできないし、“霊薬”だって今どうなってるか分からないよ?」
皇族の発言力が弱いこと、“霊薬”に関しても学生寮の自分の部屋がどう扱われているのか分からない以上、確約はできないとクリスは言葉を返す。
「それで構わないわ。後で契約書を作っておきましょう」
「…………えっとアリサ……?」
淡々と告げるアリサにクリスは戸惑う。
「ん? どうかした?」
いつもの調子で首を傾げるアリサのギャップにクリスはやはり違和感を覚えて指摘する。
「今のアリサは何だかイリーナさんみたいだね」
「え……?」
クリスの一言にアリサは目を丸くし、一連の会話を思い出して微笑みを浮かべる。
「ふふ、ありがと」
イリーナに似ていると言われて悪くない気になっている自分にアリサは驚きながらも受け入れる。
「ところでもう一つ良いかしら? シャロンの事なんだけど――」
「その前にこっちからも一つ良い?」
アリサの言葉をシャーリィが遮って一つの疑問をぶつける。
「報酬の内容は良いんだけどさ、今のアリサは何処まで役に立つの?」
「それは……」
「聞いた話だとアリサだって爆心地の中心にいたんでしょ? 怪我人を連れて行ける程、こっちには余裕はないんだよね」
「っ――だったらどうやって証明すれば良いのかしら?」
喧嘩腰にアリサはシャーリィに向き直る。
「ふふ……」
シャーリィは不敵な笑みを浮かべ、“テスタ=ロッサ”が収められたケースを落とす。
「っ――」
ケースが落ちた重い音と衝撃にアリサは身を竦ませ――その隙にシャーリィはその背後に回り込み、羽交い締めにするようにアリサの胸を鷲掴みにした。
「ちょ!? 何するのよ!?」
「ふふん! シャーリィを振り解けたら最低限の力はあるって認めて上げるよ」
そう言いながらシャーリィは鷲掴みにしたアリサの胸を揉みしだき始める。
「ちょ――やめ……あ……」
「おお! 委員長には劣るけどラウラよりも良い!」
彼女を守るメイドがいないことを良いことにシャーリィはここぞとばかりにアリサの胸を堪能する。
「あらあら」
「シャ、シャーリィさん、アリサさんは怪我人ですから、その……」
アルフィンはその光景に傍観を決め込み、エリゼはどうやって仲裁しようかと迷う。
「不埒ですね」
そしてアルティナは軽蔑の眼差しをシャーリィに送る。
「…………凄いね。このタイミングでもシャーリィはブレてない」
「ああ、だが……その……」
回れ右をしたクリスとガイウスは背中から聞こえて来るアリサの嬌声に居たたまれなくなる。
「あ! そこはダメ――いい加減にしなさいっ!」
そしてアリサの怒りの拳骨がシャーリィに降り注ぎ――窓の外、ルーレの象徴とも言える巨大な導力ジェネレーターが爆発した。
*
「それに嘘偽りはありませんね?」
ラインフォルトの工場にて、女は生け捕りにした正規軍の部隊長を締め上げていた。
「ほ、本当だ! 私が直接見たわけではないが……部下がハイデル・ログナーがアリサ・ラインフォルトに怪しい荷物を渡しているところを目撃している」
自分の命、そして部下の命を惜しんで部隊長は女の問いに知っている事を答える。
もっとも部隊長からすれば隠すような事柄ではない。
「そう……ですか……よりにもよってアリサお嬢様を利用したと……」
「ご、誤解は解けたようだな。どうだ? 君も貴族連合のやり方に怒りを感じているのなら我々に協力して――」
「お黙りなさい」
「がっ――」
女は首を掴んでいた手に力を込める。
女の細腕一本で持ち上げられた男は握り潰すような圧力に声にならない悲鳴を上げる。
「例え貴方達がラインフォルト家を爆破した犯人ではなかったとしても、ラインフォルト社に弓を引いた愚か者であることには変わりありません」
感情の乏しい虚ろな言葉にも関わらず、そこに宿る憤怒の激情の矛先は暴挙を自分達の利のために見逃した者へ向けられる。
「せいぜい自分の罪を悔い改めて――ぐっ――」
ナイフを振り被り、女はそこで頭を押さえて苦しみ出す。
二つの囁きが再び女を揺らす。
「こいつらは…………殺して良い……はずなのにっ!」
技を錆び付かせたわけではないと言うのに、何度も経験したはずの一線を超えること躊躇っている自分に女は困惑する。
「わたしは……わたくしは……」
よろめき、蜘蛛の巣に捕らえた正規軍達を放置して女は歩き出す。
頭を押さえて右に左と揺れながら歩くその姿は病人の動き。
しかし、歩みを進める度にそのブレは少しずつ納まっていく。
「ふふ……うふふふ……」
顔を上げ、シャロン・クルーガーは憂いが解消したと言わんばかりの微笑みを浮かべる。
「ハイデル・ログナー。彼は殺しても良い人間でしたね」
“クルーガー”も“シャロン”も満場一致で“コロシテ”しまえと囁いている。
「ふふふ……あはははは……」
狂ったように笑いながら、シャロン・クルーガーは貴族街へと足を向ける。
その足取りは軽やかだった。