「おまたせっ! よーし、移動しよっか!」
「おう。次はどこ行くんだ?」
「えっとね、まず駅まで行って───」
買い物を終えた風太郎と一花はデパートを後にし、移動を開始する。すっかり一花は調子を取り戻したようで、風太郎とは違い絶好調のご様子だ。
決して風太郎も不調というわけではないのだが、基本的に一花のペースに振り回されているため、若干の疲れが見えていた。最も風太郎はサボりに適したスポットなどわからないので文句を言える立場ではないと認識してはいるが、せめて移動先でも心臓に悪い展開が訪れないことを祈っていた。
そんな不安をひそかに抱きながら風太郎が一花の方を見ると、彼女の格好が少し変化したことに気づく。
(……ん? 上着はしまったのか?)
今の一花は変装用の眼鏡をかけているだけではなく、普段腰に巻いているカーディガンが見当たらない。心なしかスカートの丈もいつもより短いようにも感じる。やけに時間がかかっていたのはこのためだろうか。新鮮味を感じると同時に、肌の露出の多さに目のやり場に悩む風太郎。どうにも落ち着かない。
次は一花がお気に入りのスポットを紹介してくれるというので、二人はその場所へと移動することとなった。駅に向かい、電車に乗って何駅か移動して改札を出ると、そこは人気もお店も車通りもほとんどない、まさに田舎と言うべき場所であった。
それでも駅前にコンビニはあるようで、一花が風太郎に誘いをかける。
「ねぇねぇフータロー君、コンビニでお昼買ってこっ! お姉さんが奢っちゃうよー」
「なんだよ、俺だって給料もらえるようになったんだ。自分の分は自分で払う」
「いいのっ! 今日は私のわがまま、たっくさん聞いてもらってるんだから! これくらい私に、さ・せ・て♡」
「うっ……」
風太郎の右腕に抱きつきながら、上目遣いでおねだりをしてくる一花。風太郎は早くも顔が赤くなるのを感じた。それは決して、腕にあたる胸の感触だけではない。
一花は基本的に制服のボタンを第二ボタンまで外しており、胸の谷間が見えることは普段の学校生活でも珍しくない。そんな服装で腕に抱きつかれてしまっては、背の高い風太郎が一花の方を向くと、自然と彼女の胸元を見下ろす形になってしまうのだ。
しかし、腕を抱き寄せられるのは初めてではない上に、目線を反らせばさほど緊張しない。ドキドキを悟られないように、軽くあしらう。
「わかった、わかったから離れろ。ありがたくご馳走になってやる」
「はーい。……やっぱ、露骨なのは今ひとつかな……でも、まだまだ……」
「……ん? なんか言ったか?」
「なんでもないよー。ほら、入ろ入ろっ!」
「お、落ち着けって……」
コンビニに入った二人は昼食、飲み物などを購入し、再び移動を開始する。民家はあっても人通りの全くない、静かな空間が続く。五分ほど歩き坂道を登ると、一花が声を上げた。
「はーい、着いたよー!」
「おおっ……」
風太郎の目の前に広がるのはそれなりに広い公園。以前風太郎が四葉と一緒にブランコを漕いだ場所のような一般的な公園とは違う、緑の多い自然公園といったような場所だ。
しかし遊具も充実しており、ブランコに滑り台といったようなメジャーなものから、ロープウェイといった珍しいものまで揃っている。だが、風太郎と一花以外に人は見当たらない。完全に貸切状態だ。気持ちの良い快晴と春のそよ風も合わさって開放感が凄まじい。それにともない、風太郎のテンションも高くなる。
二人は遊歩道を歩き、少し進んだ先の木陰のあるベンチに腰掛ける。少なくともここでなら心臓に悪くなるような展開が起こることはないだろう。そんな安堵感を抱きつつ、風太郎は一花に話しかけた。
「いいところだな、ここ。こんな場所今まで知らなかったぞ」
「でしょでしょ? みんなも知らない、私だけのお気に入りの場所なんだー。誰かに話したのは、フータロー君が初めてだよっ」
「……そうなのか。お前にとっての秘密基地みたいなもんか。静かで落ち着く場所だな」
「気に入ってもらえたようでよかったよ。私、たまーにここ来てのんびりするんだ。嫌なこととかがあっても、ここでお昼寝してると忘れられるからね。ホント、気持ちよく寝られるんだよ」
「そうか。ま、せっかく来たんだし遊ぼうぜ。なかなかに長い滑り台あるじゃねぇか。俺が見た中だったら最長かもしれんな」
「いいよー! 一緒に行こっ!」
二人は荷物をベンチに置き、一花は眼鏡も外し、滑り台へと向かう。一花もテンションが上がってきたようで、滑り台に到着するやいなや即座に階段を登り始める。風太郎も少し遅れて後に続こうとしたが───
「…………やらかした…………」
「んー? どうかしたー?」
「いや、なんでもねぇ……」
ふとした呟きが聞こえたのか一花は止まって振り向いて反応するが、風太郎は適当に誤魔化す他ない。一花に先に階段を上らせたのが失敗だということに気づいてしまったからだ。
角度的に、目線に気をつけないと一花のスカートの中の下着が見えてしまう恐れがある。
普段はカーディガンを腰に巻いているためこのようなトラブルは起こりにくくなっているのだが、なぜこのタイミングで巻いていないのか。一花は浮かれているのか、スカートを抑える仕草すら見せない。風太郎はひとり気まずい思いをしてしまう。
(わ、わざとなのか? いや、そんなまさか……)
階段は長くはないが急なため上を向いて登りたいところなのだが、この状況では難しい。風太郎は手すりにしっかりと手を合わせ、慎重に上る。ただ階段を上るだけだというのに、なぜこんなにも気を遣わなければならないのか。この場所でもすでに風太郎の心は乱され始めていた。
若干の緊張を感じつつも、なんとか風太郎も滑り台の踊り場に到着した。階段を先に登ったのは一花のため、彼女が先に滑るものなのだと風太郎は考えていたがどうやら違うようで、風太郎に先を譲ってきた。
「フータロー君、おさきどーぞっ」
「おっ、いいのか? じゃあ遠慮なく」
滑り台の滑る部分はローラーになっていて、さらに高校生の風太郎でもスムーズに滑ることができそうな幅の広さがある。
地面までの距離の長さもなかなかで、これは楽しめそうだ。少しばかりのワクワクを胸に、風太郎がいざ滑る体制に入ったところで───そのまま、停止した。なぜか、風太郎の背後から首へと手が回されているのだ。それと同時に、柔らかい感触が風太郎の背中に伝わる。
(なっ……!)
突然襲い来るその特盛マシュマロに風太郎の心拍数は跳ね上がるが、それに感づかれたくないのが男心。離れるようにと風太郎は自身の背中に張り付いている少女に声をかけるが、その声は震えてしまっている。
「……おい、一花」
「どうしたの、フータロー君」
「どうしたのじゃねぇよ。おかしいだろ」
「えっ、何が? お姉さんわかんなーい」
「とぼけんな、滑り台は二人で遊ぶもんじゃねぇ! 一人用だ! 離れろ!」
風太郎が後ろに振り向くと、きょとんと可愛らしく首を傾げている一花が至近距離で視界に映る。抱きつかれているため当然密着度は凄まじい。
背中に当たる柔らかい感触と一花の髪の甘い香りが、風太郎の心から平静の二文字を奪う。ここでなら心を乱されることはないと思っていた数分前の自分を全力で殴りたい。そもそも人が全然いないということは、誰か来るまで風太郎はこの少女とずっと二人きりということなのだ。一方一花は特に気にしていないのか、お茶目な笑みを浮かべながら風太郎の言葉に答える。
「ごめんね、薄着だからちょっと寒くってさ。でも、こうしてくっついてればあったかいでしょ? だから……ね?」
「俺はむしろ暑いわ! その問題はお前が上着を着れば解決だろうが!」
「えへっ、鞄の中に置いてきちゃった。ていうか、私とのハグなんてべつに初めてじゃないんだし、そんな気にすることじゃないよ! 友達ならこれくらい普通普通!」
「だからここは欧米じゃねぇんだよ! さっきからお前の友達との距離感ガバガバすぎるだろ! 普通の友達はこんなことしないっての!」
「…………そっか、わかったよ。じゃあ友達っていうのは訂正するね。私の本気、フータロー君に知ってもらうまで何度でも言うよ」
「はぁ? お前、何言って……」
またしても一花の表情と声のトーンは真剣なものに変わる。この百八十度の変化には慣れない。さらに、先ほどの壁ドン以上の至近距離。これは、マズい。
「いや、待ってくれ。俺が悪かった、何も言わなくていいから!」
シチュエーションは違えど、再び豪速球が飛んでくると察し、慌てて謝罪する風太郎。爆弾発言が飛び出す前に逃げようとするも、一花の抱きしめる力は強く引き剥がすことは難しい。抵抗むなしく、風太郎は一花の直球勝負を受けることになる。
「私がこんなことするの、これまでも、これからもずっと、フータロー君だけだよ。私にとって君はただの友達なんかじゃない。心からの信頼を寄せられる、とても大切な存在なの。……そんなフータロー君のためなら私、いくらでも大胆に、どんなことだって───!」
「あ゙ー! わかった、わかったから! もう言うなそれ以上! とっとと行くぞ!」
「! ふふっ、やったー! それじゃあいざ、れっつごー! ……本当に、私の本心、なんだからね?」
「〜〜〜っ!」
あまりの恥ずかしさに耐えられず、風太郎は一花の方を向いていた顔を定位置に戻してしまう。しかし、顔を赤くしながらも真剣な眼差しで好意を伝える一花の姿は風太郎の脳に刻み込まれている。
一花も自分の素直な気持ちを伝えることに恥ずかしさを感じていたようだが、むしろそれが良くない。これは一花の本気の想いなのだと否が応でも理解させられてしまった。
(こいつは、本当に……なんで、俺なんだよ……!)
完膚なきまでに風太郎の敗北だ。ど真ん中のストレートだとわかっていても受け止めきれない。一花の大胆かつ一直線な言葉は聞くたびに心が揺さぶられ、風太郎の胸の鼓動はなかなか収まらない。愛の告白同然の彼女の発言に、一花と二乃でこうも破壊力、感じ方が違うものなのか、風太郎にはまったくわからなくなっていた。
様々な疑問を胸に秘めつつも、結局風太郎は一花の胸が背中に当たる状態で滑り台を滑ることとなった。周りに人がいなかったことが、少年にとって唯一の救いである。
「あー楽しかったー! フータロー君、次はどれで遊ぶの? ブランコ一緒に乗らない?」
「だから二人用じゃねぇっての! ブランコだけはぜってーお前とはやらん。……遊ぶとしたら、次はこれだな」
「えっ、なになに?」
滑り台を遊び終えた風太郎と一花。振り回されている現状に複雑な心境の風太郎ではあるが、一花が心からこの時間を満喫していることは風太郎にも伝わっている。
風太郎的にブランコは譲れないが、楽しんでいる一花を見ると遊ばないと拒絶することはできない。今までの自分なら鋼の意思で容赦なく断れていたはずなのに。本当に、一花に対して甘くなっているのを風太郎は自覚してしまう。
しかし、たかだか滑り台でこんなに緊張していては心が保たない。そんな危機感を覚えた風太郎は、せめてもの抵抗に次の遊具は密着のしようがないものにしようと考えていた。そのような意図を含んだ結果、風太郎が選んだのはこのロープウェイだ。
「あー、これねー。名前わかんないやつ。何回か来てるけど、私これで遊んだことないかも。ひとりだとちょっと恥ずかしいかな」
「確かにな。ちなみにこれ、正式名称はロープウェイでいいらしいぞ」
「へー、そうなんだ! ロープウェイって聞くと、登山用のをイメージしちゃうよね」
「だよな。実際にはそれとは違うが……これも普通の公園にあるのは珍しいし、知ってる人も少ないだろう」
「納得ー。うーん、せっかくだし私もやってみたいけど今制服……いや、待って。これは……」
「どうかしたのか?」
「……よしっ、いいよ! やろっ!」
「お、おう……」
最初は悩んでいた表情の一花だったが、一瞬にして覚悟を決めたかのようなものに変化させた。心なしか頬も赤い。何か企んでいるのかと風太郎は怪訝に思うも、いかに悪知恵を働かせようがこの遊具は完全に一人用だ。丈夫とはいえどロープに二人も掴むスペースなどあるわけがない。
トラブルなんてありえないと安心しきっている風太郎はロープウェイの中間地点へ移動し、そこにぶら下がっているロープを片手に踊り場へと向かった。そして、踊り場からロープの上部を掴んで軽く飛び移り、勢いのまま加速する。
「おおっ、結構早いな……!」
「……やっぱり……」
あっという間にロープは終点まで到着し、その反動で中間地点まで戻される。風になったような疾走感を味わえるこの遊具を、風太郎は無邪気に楽しんでいた。
「ふぅ……いい風だったぜ。一花、お前もやるか?」
「……うん、オッケー! フータロー君、私の勇姿、しっかり目に焼き付けておいてよね!」
「そんな気合い入れんでもいいだろ……」
まるでこれから死地に赴くかのような一花の真剣な表情に呆れながらも、風太郎は踊り場で待っている彼女の元へロープを持っていく。
「ほらよ。しっかり、ロープの上の方に掴まるんだぞ」
「ありがと。……えいっ!」
特に何もアクションを仕掛けることもなく、一花は普通に軽くジャンプしてロープに掴まり、その勢いで加速する。
「わっ、思ったよりはやっ……!」
やはりというべきか、予想以上のスピードに一花は驚いているようだ。それを見た風太郎が、慣れてないとびっくりするよな、と呑気に少女を眺めていて───
(……ん? 待て、あいつ今スカートじゃ……)
一花と密着しないことを優先するあまり、彼女の服装を忘れていた風太郎。頭にクエスチョンマークが浮かんだ時には、すでに手遅れだった。
加速するロープにしがみついている一花。彼女が着用している制服の短いスカートは、風圧に耐えきれずめくれ上がってしまった。
結果、風太郎は一花の履いている下着を目撃することとなる。
(はあっ!? なっ、なんで……!!)
文字通りの絶句である。一花自身予想できないトラブルではないだろうだとか、そもそもスカートなのになぜ遊ぼうと思ったのかだとかそんなことは知らない。風太郎の頭は、ただひとつの疑問で埋め尽くされていた。すでに遊び終えてロープウェイの紐から手を離している一花に声をかけることもできない。
(わけわかんねぇ……どうしてあいつ、さっきのあの下着履いてんだよ!?)
予想外の攻撃は、安心しきっていた風太郎の心に衝撃を与える。みるみるうちに風太郎の顔は赤くなり、さらに下着を見てしまったことによる動揺で平常心を保てなくなる。
いつも履いているであろう一般的な女性用の下着ならまだしも、一花が履いているのは今日風太郎が自分の意思で選び、魅力を伝えた下着なのだ。なぜか風太郎もとばっちりを食らったかのような恥ずかしい気分を味わってしまう。そして、風太郎の心に不安が生じる。
(ていうか待て……これじゃ、まるで俺が一花の下着が見たくて提案したって思われるんじゃ……!)
どう考えてもロープウェイは制服姿の少女に勧めるような遊具ではない。決意を固めたかのような一花の真面目な表情はそういうことだったのかと、風太郎は気付いてしまう。これはよろしくない。すぐに訂正しなければ変態のレッテルを貼られてしまうだろう。仮にそうだとして応じる一花も一花なのだが、今の風太郎にそれを指摘できる冷静な判断力は失われている。
もはや風太郎の脳内は一花の下着のことで埋め尽くされていた。何が私の勇姿だ。勇姿とは下着のことだったのか。そして、男としては一花の勇姿(下着)を見て、どんな反応をするのが正解なのか。見なかったことにするべきか、それとも追求するべきなのか。もう何もわからない。先ほどの目に焼き付けろという発言をそういう意味でしか捉えられないほどに混乱してしまっている。それほどに一花の勇姿(下着)は風太郎にとって強烈なインパクトであった。
思考がまとまらないうちに一花はショックから立ち直ったようで、風太郎の元へとゆっくり歩いてきた。
「フータロー、くん……」
「ち、違うんだ、一花……」
風太郎は一花の震えた声を聞いて正気を取り戻し、弁明を行おうとする。しかし全くもってうまい言葉は思い浮かばない。この後の展開は容易に想像できる。正月の時のように罵倒される未来が風太郎には見えていた。
一花は俯いており、かなりの羞恥心を感じているようだ。どう声をかければいいのかわからず風太郎が焦っていたところ、一花は頬を染めて上目遣いで風太郎を見つめ、並の男なら惚れてしまいそうな甘い声で言葉を発した。
「こーふん……した?」
「……す、するわけねぇだろ! アホかお前は!」
「えへへ……正直、すごい恥ずかしかったけど……でも、フータロー君がドキドキしてくれたのなら……私、嬉しいなっ♡」
「ぐっ……!」
照れ臭そうにしながらも笑顔の一花。そんな彼女の捨て身の攻撃に風太郎もたじろいでしまう。未だ顔が真っ赤なあたり、一花も恥ずかしいと感じているのだろう。それでも、嬉しいという言葉の通り笑みを浮かべる一花に、風太郎は心を乱されてしまっている。
結局、ここでもいいようにやられてしまった。悔しくはあるが、反撃する気力は風太郎には残っていない。
「いっぱい遊んだねー! そろそろお昼にしよっか」
「あぁ、賛成だ……もう休みてぇ……」
ようやく心の休まるであろう時間が訪れることに風太郎は安堵した。二人は荷物を置いたベンチへ戻り、春の陽気を感じながらコンビニで買った昼食を食べ始める。
やいのやいのと騒いでいた先ほどとは打って変わって、静かな時間を過ごすことになる風太郎と一花。そよ風がとても心地よい。一花がお昼寝を楽しめるのも納得だ。
安らぎを得られる憩いの場であることに間違いはなく、風太郎はこの場所を知れて良かったと思えている。いい気分なこともあって食が進み、あっという間にランチタイムは終了する。
「うーん、まんぞくっ! ごちそうさまでしたー」
「ごちそうさん。……しかし、本当にのどかな空間だな。人の声も車の音もなんもしないぞ」
「でしょ? 田舎な上に、平日の真昼間だからね。小学校が終わる時間帯を過ぎると、近所に住んでる子供たちがいっぱい遊びにくるよ」
「そうか、静かなのはこの時間だけなのか。それは貴重だな……ふぅ」
「フータロー君、なんだかお疲れだね。ちょっと私、振り回しすぎちゃったかな」
「今更すぎるわ。お前たちに振り回されるのはもう慣れたさ」
「ふむ……ではでは、そんなお人好しなフータロー君には、お姉さんが癒しを授けましょう」
「いらん。どうせロクなもんじゃないだろ」
「むっ、ホントにそんなこと言える? 感触覚えてたくらいだし、気にいると思うんだけどなー。ということで……えいっ!」
「!?」
風太郎の体力は五つ子の中で最も体力の劣る三玖と同レベル。ゆえに、三玖より体力のある一花に力で敵わないのは当然である。
風太郎は一花に身体を掴まれ、そのまま横に倒されて───頭をがっちりと、一花のふとももの上に固定された。
「おっ、お前……!」
「ふふっ、どう? 気持ちイイ?」
「あぁそうだな、この感触、いい具合に懐かしい…………って、違う! そんなことは思ってねぇ!」
乙女の柔肌の威力は凄まじく、風太郎も思わず同意しかけてしまうほどの弾力と安心感である。そのうっかりを一花が聞き逃すはずもなく、さらに畳み掛けてくる。
「またまたー。私のふともも、あんなに堪能してたじゃん! 今更私に、遠慮なんてしないでっ♪」
心はともかく身体のことは気遣ってくれているのか、幸いにも一花の頭を抑える力は強くない。一花の言葉に反論しようと、風太郎は頭の向きを変えて彼女を見上げる。しかし、そこには中野家の五つ子特有の凶器、一花のぼんっ・きゅっ・ぼんっの最初のぼんっの部分が───
(─────!!)
反論の言葉は一瞬で消し飛び、風太郎は思わず声にならない悲鳴をあげそうになる。滑り台で背中に当たっていたものがこれほどまでに大きいものだったのかということを再確認してしまう。
そして、風太郎が一花の胸を見上げて連想してしまうのは先ほどのロープウェイでの一花の勇姿(下着)。なぜならデパートで買った下着を着用していることが判明した以上、その特大のたわわを包み込んでいるのも同じ───と、そこで風太郎は無理矢理思考を中断する。これ以上は考えてはいけない。
とにかく、頭をこの位置で固定されるのは精神衛生上よろしくない。そう判断した風太郎は頭を動かし、目線を変えようとするが───
「ちょっ、どうしたの、フータロー君!? 顔、すっごい真っ赤だよ!? やっぱり、私が無理させすぎちゃったから……!」
「!!?!?!」
一花は風太郎の頭と顎を手でがっしりと抑えつつ、顔を覗き込む。見事に絶妙な力加減だ。痛くはないがこれでは頭を動かせない。さらにそれだけではなく、仰向けで固定された風太郎の顔に一花の特盛メロンが急接近する。
(待て待て待て! 本当、何考えてんだこいつは! いくらなんでも無防備すぎるだろ!?)
いくら女体に関心のない風太郎でもこの場面で冷静でいることはできない。らしくもなく狼狽えてしまうが、どうにか一花に手を離してもらうように言葉を投げかける。
「お、俺は問題ない! 五体満足、健康そのものだ! だからお前、とりあえず手を───」
「動いちゃダメっ! 私、本当に心配なんだよ。……大丈夫、落ち着いて。ゆっくり休めば、すぐ良くなるから。お姉さんが、ずっとそばで見守ってるからね」
「いやっ、ちょっ、待ってくれって……!」
あまりにも目に毒なこの状況に風太郎はパニック状態になってしまう。わざとなのかそうでないのか判断がつかない。表情と声のトーンからすると本気で心配しているように見えるが、先ほどまでの一花の行動と彼女の女優としての演技力を考えるとシロとは言えない。
しかし力で敵わないうえに確信犯かどうかもわからない以上、全国三位の学力を誇る上杉風太郎の頭脳を持ってしてもこの問題の回答は思い浮かばない。
(……もう、このままでいいか……)
このような状態で平常心を保てるわけもなく、さらにこれまでの疲労と風太郎の体力の無さもあって、すぐに抵抗する気力はなくなってしまった。思考を停止させて無言になった風太郎を見て一花は落ち着いたと判断したのか、顔を遠ざける。風太郎の体勢の都合上胸が視界に映ることに変わりはないが、先ほどよりはいくらか改善された。これにより、心も少しばかり平静を取り戻す。
この際、体力の回復に務めるのも悪くはないだろうと風太郎は結論づけた。この感触を味わうのは風太郎にとって三度目である。花火大会のあの時は熟睡していたというのに一花を肩車した時に覚えていたあたり、よほど彼女のふとももの感触は風太郎の脳に刻み込まれていたのだろう。
そうして風太郎が再びひっそりと一花の素肌の柔らかさに安心感を覚えていたところ、一花が話しかけてきた。
「どう? 楽になった?」
「あ、あぁ……すまなかった」
「もうっ、そんな気にしないで。これはいつも私たちのために頑張ってくれてるフータロー君への恩返しなんだから。私でよければ、いくらでも甘えてくれていいんだからね」
「…………」
一花は風太郎を労いつつ、頭を抑えていた手を移動させて、そのまま優しく撫で始めた。長女としての自覚がある一花らしく、その手つきは堅物な風太郎ですらとても安心できるものだった。
(……こうやって人の温もりに甘えるのは、いつ以来だろうか)
先ほどまでの緊張が嘘のように和らいでいく。食後で眠気が増幅したことに加え日々の疲れも合わさって、次第に風太郎の意識は微睡んでいった。
◇
一花はすやすやと自分の膝の上で寝息をたてている風太郎を見て、穏やかな笑みを浮かべていた。自分の演技が上手くなっていることに加えて彼の可愛い反応を見ることができて、とても楽しい時間を過ごすことができた。意識してもらえていることが、一花には嬉しかった。
(言葉こそ直球でも、誘惑は変化球……うん、効果アリだったね)
一花は今までの経験から、風太郎には露骨に誘うような言葉よりも、無自覚、天然を装った誘惑の方が効果があると考えていた。無論彼には普段の自分のキャラクター的に天然かどうかは疑われていたのかもしれないが、それでもなんとか強引に押し通して上手く風太郎をドキドキさせることができたと一花は思っている。
妹たちも自分と同じモノを持っているが、一番彼に上手く使えるのは自分だという自信が一花にはあった。一花自身も好きな異性を墜とすために自分の身体や衣類を利用した本格的なアプローチをするのは始めてで、当然羞恥心を感じていた。けれども、その感情をほとんど風太郎に感づかれなかったのは成長と言っていいのではないだろうか。
(でも、やっぱお姉さんじゃない自分の欲に素直な私は、ホント勝手だよね。だけど、こうでもしないと、私は……)
しかし、一花には風太郎をここまで心身ともに疲れさせてしまったことに対して、少なからず罪悪感もあった。ここ最近の風太郎は本当に勉強漬けだったことは一花も把握しており、その反動か今日もいつもより喫茶店の前を通るのが遅かったのだ。それなのに、一花は自分の恋を優先し、風太郎にわがままを聞いてもらってばかりである。結局、彼の優しさに甘えてしまっている。
せめてこの時間だけでも、風太郎に安らぎを与えることができたらなと一花は思っている。本音を言えば花火大会の時のように寝顔を撮影したいのだが、気持ちを抑える。間違っても、自分がきっかけで起こすようなことはしたくない。ずっと家族のために頑張り続けてきた風太郎に、甘えてほしい。
(かわいい寝顔……これだけは、私だけが知ってるんだ……)
一花は風太郎を独り占めできるこの時間に心から幸せを感じていた。風太郎に自覚などないだろうが、一花にとって今日は二人だけの秘密のデートなのだ。こんなにも彼と二人でいられる時間が素敵で楽しいものだとは思わなかった。もし彼氏彼女の関係になれたら、毎日こんな思いをすることができるのだろうか。
仮に恋人になれたとしてもシャイな彼にイチャイチャしたいなんて注文は難しいだろうなと思いつつも、一花は今日という一日をくれた風太郎に感謝している。
「いつもいつも、私たちのためにありがとう……大好きだよ、フータロー君」
溢れる想いを抑えられず、言葉が出てしまう。聞かれていたらどうしようという不安がよぎり口元を抑えるも、すぐに一花は手を離す。この数時間で一花の心は成長していた。聞かれていても、それなら改めて気持ちを伝えるだけだと開き直れる強さを身につけた。
すでに直球勝負に迷いはない。風太郎が受け止めてくれるまで、何度でも挑む覚悟ができた。自分の想いを知って欲しいという気持ちが、一花に勇気を与えている。
(この流れなら、十分に勝機はあるはず。今日で告白まで、やってみせるんだから! 覚悟しててよね、フータロー君!)
◇
「んー……」
風太郎が目を覚ますと、視界に映るのは雲ひとつない青空。そして、膝枕をしてくれた少女の胸。一瞬その存在感に驚くが、さすがに風太郎も多少の慣れを感じていた。先ほどのように取り乱したりはしない。一花も目覚めた風太郎に気づいたようで、声をかけてきた。
「おっはー。熟睡してましたなぁ」
「すまん、完全に寝ちまってたぜ。今何時だ?」
「今は午後一時をちょっと過ぎたくらいだよ。だいたい一時間くらい寝てたかな?」
「そうか……悪いな。膝、疲れただろ。すぐ起きるわ」
「はーい」
風太郎は起き上がり伸びをする。短時間とはいえど休息を取れたことで、気持ちがリフレッシュできていた。
「どう? 少しは休めた?」
「そうだな、よく眠れたよ。ありがとな」
「全然お礼を言われるようなことじゃないよ。私の方こそ、フータロー君が素直に私に甘えてくれて嬉しかったんだから!」
とびきりの笑顔を風太郎に向ける一花。笑顔のバリエーションに事欠かない中野一花という少女ではあるが、今の笑顔は風太郎の心を乱すことのない、純粋なものだ。
それを受けて風太郎も自然と笑みがこぼれ、温かい気持ちになる。振り回されてばかりではあるが、一花の心からの笑顔を見られたならそれもまたいいかと風太郎は思う。
(本当に嬉しそうだな、こいつ)
勉強のことしか考えていなかった自分がこんな時間を居心地の良いものだと思っていることが、風太郎には驚きである。教科書を読破し、その内容を理解することが全てだと思っていた、かつての風太郎では知ることのなかったであろう未知の世界。
日常に彩りを与えてくれたのは一花だけではなく、二乃、三玖、四葉、そして五月。誰一人欠けてはいけない、中野家の五つ子全員だ。生徒でもあり友達でもある彼女たちに、風太郎もまた支えられている。
(でも、いつかは……)
だが、徐々にこの関係に変化が訪れていることは風太郎も気がついている。告白してきた二乃はもちろんのこと、今日は一花からも熱烈なアタックを受けている。まだ本人から直接好きという言葉を聞いたわけではないが、すでに彼女の恋心は本物だと風太郎は確信している。三玖はよくわからない。応援すると言っていたが、本当なのだろうか。
どうあれ、少なくとも二人以上の生徒が、自分に好意を寄せてきているということ。この事実から逃げるわけにはいかない。いずれ、決着をつける必要がある。誰か一人を選ぶのか、もしくは誰も選ばないのか。今はまだ結論が出ないが、彼女たち一人一人の気持ちと向き合い、決断を下さねばならない。
そんな決心を風太郎が密かに固めていると、ベンチから立ち上がった一花が風太郎の方を向き、先ほどと同じ純粋な笑みを浮かべながら話しかけてきた。
「フータロー君、今日は本当にありがとう。私のわがままに付き合ってもらってばっかりで、大変だったよね」
「お前に任せるって言ったのは俺だ。今日だけの特別だし多少はな。友達として、一緒にサボるのは今回限りだ」
「もちろんだよ。だけど、もうひとつ。聞いてほしいわがままがあるの」
「聞くだけならタダだ。勿体ぶらずとっとと言え」
「……うん」
話しているうちに一花の表情から笑顔が消え、真剣な表情に変わる。そのまま表情を変えることなく、風太郎に手を差し伸べてきた。
「フータロー君……お願いです。今日ここで、私と一緒に……踊って、くれませんか?」
「…………」
踊る、という言葉を聞いて、上杉風太郎が思い浮かぶのは災難続きだった秋の記憶である。
散々な目にあった林間学校。楽しい思い出もあったとはいえど、それ以上にトラブル続きで落ち着かない出来事が多すぎたと風太郎は記憶している。
その中でも特に印象に残っているのは一花と二人して倉庫に閉じ込められた時のことだ。あんな出来事はなかなか起こらないだろう、というのもあるのだが、忘れられない理由はそれだけではない。
真面目ではなくてもしっかりと長女をしていて周りをよく見ている、頼りになる一花。
そんな彼女の、涙を見てしまったからだ。
あの時は一花が泣いた理由など考えてもわからなかった。デリカシーがないとは言われるが、風太郎自身は一花は自分と踊ることに抵抗を感じていると思っていたのである。
人気者の一花と、学校では変人扱いの風太郎。そんな正反対の二人が一緒に踊っている場面を見られたら、周りから怪訝な視線を向けられることは間違いない。お互いに都合の悪い噂が立つ可能性もある。ゆえに、一花も本心では踊りたくないと考えているのだと信じて疑わなかった。
でも、今ならそれは間違いだとわかる。
あの時、一花が流した涙の理由は───
(───あぁ、そうか)
風太郎の目の前の少女はかつて花火を一緒に見られない、と宣言した時と同じ、真剣な表情だ。だが、あの時と同様にどこか震えているようにも見える。風太郎のスタンスをよく理解しているがゆえに、断られることに怯えているのだろうか。
そして、風太郎は気づく。一花は心の底ではずっと、信頼できる誰かに寄り添いたかったのだと。
(きっと、お前は───どんな時でも、長女だからって強がって、我慢して。誰にも頼らないで、ひとりで戦ってきたんだな)
思えば新居に住み始めた時もそうだった。三年生に進級して家賃を五等分するまでは、すべて一花がひとりで生活費を稼いでいたのだ。一花は姉として不平不満何一つこぼさずに、私生活に影響が出るレベルで働いていた。妹たちには当然見抜かれていたが、そんな頼りになる一花だからこそ、妹たちからの信頼も厚いのだろう。
性別は違えど、一花と自分の妹を大切に思う気持ちは相違ないと風太郎は思っている。愛しい妹に心配はかけたくないという気持ちは風太郎も持っているものだ。しかし。
(同じ一番上の兄姉でも俺とは全然違う。こいつは偶然、五人の中で一番最初に産まれたってだけなんだよな。それなのに、お前は……)
一般的な二人兄妹の風太郎とは違い、一花の場合は妹といっても同い年の五つ子なのだ。おそらく一花には、普通の姉妹とは違う多くの苦悩や葛藤があったのだろう。
あの時の涙は、一花の苦しみの象徴と言える。大切な友人であり心からの親愛を向けられる風太郎に、拒絶されたことが悲しかったのだ。基本的に明るい一花ではあるが、姉として妹たちを引っ張っていくなかで、彼女はわがままを言わず自分の本心、望みを隠すことが当たり前になっていたのかもしれない。
しかし、それでも一花は妹たちの前では一度も弱い姿を見せずに、五つ子の長女であり続けた。そんな一花の強い姿に、風太郎は心からの敬意を表する。
(一花。今まで本当に、よく頑張ったな)
答えは決まった。結局この場所でも最初から最後まで心をこの少女に乱されてばかりではあるが、そんなことは関係ない。今日一日は友達として、一花と同じ時間を過ごしているのだ。
一花がありのままで、心から笑顔でいられるこの時間を、大切にしてあげたい。そんな想いから風太郎もベンチから立ち上がる。手を差し伸べている一花の手を取って、優しい声色で言葉を発する。
「いいぞ、一花。踊ろうぜ。だから、もうちょっと肩の力抜けよ」
「えっ、私……で、でも、ホント!? フータロー君、一緒に、踊ってくれるの!?」
「あぁ、付き合ってやるよ。だけど誰か来たら即中断だからな」
「いいのいいの! 嬉しいな……ありがとう!」
「ったく……お前、そんなにあの時踊りたかったのかよ。ていうか俺、踊り方なんて知らんぞ」
「大丈夫だよ! なんとなーく、それっぽくでいいの! こういうのは雰囲気が大事なんだよっ」
不安もあった反動か、朝の笑顔に匹敵する嬉しそうな笑みを見せる一花。どうか、せめて自分といる時だけでもその表情が曇らないでいてほしいと風太郎は思う。二人は芝生が広がる公園の中央まで移動し、向かい合う。
一花のスマートフォンからスローテンポな洋楽が流れ出し、彼女のリードに合わせて風太郎もゆっくりと動き出す。フォークダンスとはいえど人生で初めてということもあって風太郎の動きはぎこちなく、素人感丸出しのものである。
だが、一方で一花はまるで不慣れさを感じさせない軽やかな動きを見せている。お遊戯とはいえどさすがの風太郎も男として恥ずかしさを感じる。周りに誰もいないのは幸運であった。
「お前、全然動けるじゃねーか……」
「えへへ、ありがとっ。いつかリベンジしたいなって思ってて、密かに動画とか見て鏡の前で練習してたんだ。役作りにもなるかもだしね」
「…………そうかよ」
ぶっきらぼうに返すも、風太郎は一花が如何にこの時間を夢見ていたかを思い知る。二乃のことも放置してはおけなかったとはいえ、林間学校の時は本当に軽率な判断をしてしまったと今更ながらに思う。勝手に一人で結論を出さずに、一花としっかり話し合うべきだった。事情を話せば、中野一花という少女は親身になって聞いてくれるのだから。
(それでも、きっと、一花は……)
だが、それで一花が納得できる結論が出るかと言われると疑問が残る。風太郎が思うに、仮に自分の事象を打ち明けたとしても、一花は間違いなく姉として妹を優先し、二乃のところに行ってあげてと言っていたであろう。並の人間には見抜けない、偽物の笑顔を浮かべながら。
今まで姉であろうとして自分の本心や弱さを隠し、妹を優先してきた一花。もしも風太郎が、一花と出会わなければ。花火大会のあの時、彼女の作り笑いに気づかなければ。未だ一花は姉としての在り方に囚われ続け、すべてをひとりで抱え込んでいたままだったのかもしれない。
かつて風太郎は五つ子の絆の枷に囚われているのは四葉だけだと思い込んでいたが、違う。五つ子の長女である一花もまた、一番上の姉であるがゆえのジレンマを抱えていたのだ。
そんな妹たちには決して弱みを見せようとしない一花ではあるが、風太郎になら全てをさらけ出せると語っていた。風太郎は今日だけでこれでもかというほどにぶつけられた、一花の真剣な気持ちを思い返す。
『ありがとっ、フータロー君!』
『この世でただ一人、君だけなんだよ』
『私にとって君はただの友達なんかじゃない。心からの信頼を寄せられる、とても大切な存在なの』
(あ─────)
そうか。そういうことなのか。
少年はようやく理解した。クラスの人気者であり、すでに自分で夢を叶えつつある姉としても人としても立派な彼女が、こんな勉強しか能のない自分を好いていてくれる理由。
中野一花にとって、上杉風太郎とは。姉ではないありのままの姿を見せることができる、見せたいとさえ思える、たったひとりの対等な存在なのだ。
そしてまたひとつ、確信できた。嬉しさで胸が高鳴るのを感じる。ずっとこうありたいと思って、そのために家族以外の人間関係をすべて断ち切ってまで目指していた、理想の自分。
お前はずっと、俺を必要としてくれていたんだな───
君が必要。少年に戦うきっかけをくれたその言葉を、一花は口にしたわけではない。しかし、風太郎の心は昂ぶっている。かつて憧れていた少女と、病院で五月から直接言葉で伝えられた、あの時以上に。この違いはなんなのだろうか───いや、考えるまでもない。これが、家族旅行の時にはやたらと耳にするもわからなかったものである。
(四葉みたいに協力的じゃなかったし不真面目なやつではあるけれど、最初から俺に親しげに接してきて)
それは、溢れんばかりの一花からの愛だ。この世で上杉風太郎というただひとりの男にのみ向けられる、真剣な気持ち。姉として妹を優先し続けてきたであろう彼女が、それでも欲しいと願ったわがままなのだ。
(喧嘩した五月と向き合うにあたって、気持ちを察して場を整えてくれて)
そんな強く優しく頼りになる一花が想いを寄せてくれていることが、風太郎にはすごく嬉しい。かつては学業から最もかけ離れた愚かな行為と馬鹿にしていたものを、もう否定などはしない。
教師として、友達として。そして、男として。彼女の想いに応えたい。
(林間学校では、あいつらとのコミュニケーションのアドバイスをくれて)
鈍感な風太郎でも今ならわかる。姉としての面倒見の良さなど関係なしに、一花はずっと前から気にかけてくれていたのだと。それはおそらく、他でもない風太郎を、ずっと心の底で必要な存在だと思ってくれていたからだ。
(俺を必要としてくれて、家を出てでも引き止めて、生活を維持するためにひとりで頑張ってお金を稼いで───)
彼女の愛に触れて、風太郎自身の気持ちもはっきりした。出会ってそう経っていないにもかかわらず一花の笑顔は見分けられたのも、きっとなんとなくではない。
姉としての一花の姿を見る前から、俺もお前を、心のどこかで───
「フータロー君、フータローくんっ!」
「ん、あぁ……」
一花の愛を思い返し、思考を巡らせているうちに足を止めてしまっていた風太郎。気づけば、一花が心配そうな顔で声をかけてくれていた。心配をかけさせてしまったことによる謝罪をするべきなのだろうが、少年にはどうしても今、少女に伝えたい気持ちがあった。
「ごめんね、疲れさせちゃったよね。うん、十分楽しめたし、そろそろやめ───ふえっ!?」
風太郎の突発的な静止に驚くも、気遣いを向ける一花。そんな思いやり溢れる一花に風太郎は手を伸ばし、彼女の頭を優しく撫でた。
「どっ、どうしたの……?」
「……嫌だったか?」
「そっ、そんなこと、ない、けど……」
狼狽えている一花が愛らしい。一花が自分の想いを伝える度に笑顔を見せていた理由を、風太郎は理解することができた。
とても心が温かい。間違いない。これが───
「急に止めて悪かったな。俺は全然大丈夫だから、仕切り直そうぜ」
「うっ、うん……」
今度は風太郎自ら手を差し出す。一花としては予想外だったのか、頬を赤く染めながら風太郎の手を取った。
一曲目とは別の洋楽をかけ直し、再び二人は踊り出す。一花はどこか緊張した顔持ちで、風太郎はらしくもなく穏やかな気持ちのまましばらく踊っていたが、突然変化が訪れた。
ステップを踏み外した一花が、よろけそうになったのだ。
「きゃっ……!」
「おっと」
至近距離だったため、風太郎はとっさに一花の腰に手を回して支えることに成功する。
偶然にも、これはダンスの締めにはふさわしいのではないだろうか。風太郎自身体力もなくなってきたところであり、これは好都合だ。
「おいおい、大丈夫かよ? ったく、お前は」
ふと、風太郎は今の自分たちの状態は、林間学校の時の倉庫で丸太が倒れてきた際に、一花を支えた時と似たシチュエーションであることに気づく。
先程頭を撫でた時の一花の反応を見てから、どこか胸の奥で悪戯心も芽生えている風太郎。ならば当然、この後に続く言葉は一つだ。
「相変わらず、ド───えっ?」
しかし、風太郎は対一花専用の煽り文句を最後まで言うことはできなかった。なぜか自分の身体が目の前の一花とともに、芝生へ倒れこもうとしているのだ。すでに一花を支える力は緩めていたが、それでも支えきれないなんてことはないと───原因が判明した。
いつのまにか、一花の手は風太郎の首の後ろに回されている。一花はそのまま体重をかけてきたのだろう。滑り台の時のように先手を取られたかと焦る風太郎は、彼女の上気した赤い顔にはまだ気がつかない。
そうして少年と少女は、ゆっくりと芝生に倒れこむ。
そしてそのまま、少年は何も考えられなくなった。頭が真っ白になる。いきなり倒されたことによる抗議の言葉も浮かばない。浮かんでいたとしても、口にすることもできない。
風太郎の唇に、一花の柔らかな唇が重なっているためだ。
一花のいきなりのその行為に、風太郎は目を見開いたままだ。目をつぶりながらも、風太郎の唇を堪能している一花の姿が視界に映る。
二度目とはいえど風太郎はこの感触はまだ慣れていない。身体がふわふわ宙に浮いているような、現実味のない不思議な感じだ。しかし、一花の唇の感触はしっかりと風太郎に伝わっている。
どれくらい時間が経ったのかわからない。まだ、ふわふわしている。柔らかい。心地よい。ずっと、このとろけるような甘い感覚に浸っていたい。以前の旅行でのキス以上に真剣で強い想い、愛を感じる今回のキスに、らしくもなく風太郎はそんなことを考えていた。
だが、そんな優しい時間も永遠ではない。長いキスに息苦しさを感じて、ようやく風太郎は現実に引き戻される。それは目の前の一花も同じのようで、二人の呼吸は息ぴったりと言わんばかりのタイミングで唇が離れた。そして───
「フータローくん……すき。だいすき。あいしてるの」
余韻に浸る暇などない。頬を赤く染め、藍色の瞳を潤ませて、少女はゆっくりと告げる。
「あなたと、であえて、よかった。あなたを、すきになって、ほんとうによかった」
さらに続けて一花の口から紡がれる愛のこもった言葉。それはかつて風太郎が、彼女の演技の練習に付き合ったあの時間を思い返させるセリフだった。
瞳も、髪も、唇も。何もかもが愛おしく思える。少年は少女の全てから目が離せなくなり、魅了されるがままであった。
「ねぇ、フータローくん。わたし、フータローくんのいえ、いきたい……」
彼女の言葉の内容は理解できたが、未だに頭は覚醒していない。長時間のキスで酸素を奪われたせいか、それとも胸のドキドキが収まらないせいか。おそらくどちらもなのだろう。
少年は言葉を発することができず、ただただ少女に見惚れることしかできなかった。
しかし、少年の答えはすでに決まっていた。言葉で示せないなら、行動で示せばいい。
今度は少年から少女に唇を重ねることで、少女のおねだりに応えた。
◇
少年の行動に少女が驚いたのは一瞬だけであった。嬉しい。大好き。幸せ。様々な好感情が胸の中から湧き上がる。その少女の心情たるや、舌を絡ませてしまおうか悩んだほどであった。
今度は絶対に唇を離さない。この時間を、いつまでも忘れないために。少しでも長く、大好きな彼とつながっていたい。
苦しくなったのか、風太郎の唇が離れる。柔らかくも温かい感触が薄れていくことに寂しさはあるが、一花の心は満たされていた。
本当に、勇気を振り絞ってよかった。両想いなのを確信できる風太郎からのキスが、一花にはなによりも嬉しいのだ。もう誰の手にも渡したくない。このままずっと、独り占めしたい。
だが、そうはいかない。キスの余韻に浸りつつも、一花はこれから自分がやらなければならないことを考えていた。確かに少女は少年への真摯な想いを伝えて、少年はそれに答えてくれた。しかし、まだこれだけでは二人のハッピーエンドを迎えることはできない。
忘れてはいけない。自分が、嘘をついているということを。
告げなくてはならない。今の自分は、上杉風太郎が好きになってくれた中野一花とは大きくかけ離れているということを。
風太郎と正式に恋人関係になる上で打ち明けなくてはならない隠し事は多く、その過程で彼に嫌われてしまうのではないかという一花の不安は大きい。しかし、すべて自分で蒔いたものだ。責任を持って、嘘偽りなく己の全てをさらけ出す必要がある。変化球でかわすことは許されない。
少女のキスの相手はすでに余韻から冷めたようで、顔を赤く染めながらも立ち上がり、少女へ手を差し伸べてくれた。一花は風太郎の手を取り微笑み返すも、一つの決意を胸に秘める。
───大好きな君の前では、後ろめたいことなんてなにひとつない、ありのままの私でいたい。
中野一花、最後の直球勝負だ。