末っ子、襲来。
一瞬にして一花の苛立ちは忘却の彼方へ吹き飛んだ。独占欲の強いわがまま少女の一花でも、修羅場待ったなしのこの状況でむしろ見せつけてやりたい、と思えるようなメンタルは所持していない。
一花は外したボタンを付け直し服装を整える。あまり五月を待たせると、風太郎の家族が帰ってきて鉢合わせしてしまう可能性もあるのだ。先ほどまではお構いなしと考えていたが、続行不可能となると話は別である。
「い、五月……なんでこのタイミングで……でも、他のやつらじゃないだけマシか……?」
予想外の来客に、風太郎はまだ気持ちの整理がついていないようだ。だが、うろたえている姿も一花にはとても可愛らしく見えている。
ならば、ここは彼女として愛する彼氏の為に人肌脱ぐ場面だ。一花はお姉さん&女優モードにスイッチを切り替えて、風太郎に話しかける。
「うーん、さすがにこれは中断しなきゃだね……大丈夫、お姉さんにまかせてっ、フータロー君」
「……一花? い、いや、ここは俺が行く。お前は急いで靴と荷物持って、風呂場にでも隠れて───」
一花はウインクをしながら人差し指を風太郎の唇に当てる。指に伝わる風太郎の唇の感触に再びキスしたい欲を抑えつつ、お茶目な笑みを浮かべ一花は告げる。
「心配無用だよっ。だって私は、嘘つきだもん。だ・か・ら……おとなしく、してるんだぞ♡」
今こそ風太郎が褒めてくれた、立派な嘘つきとしての女優魂を見せる時だ。一花は立ち上がり、玄関へ向かう。そして、自分がこの場にいるのが当然と言わんばかりの堂々とした素振りで、ドアを開けて五月を出迎えた。
「はーい五月ちゃん、いらっしゃーい」
「!? ええっ、いっ、一花!? どうして、上杉君の家に……?」
「えへへー。なんででしょーかっ」
「まっ、待ってください! あなた、今日お仕事だったはずでは……?」
「もうとっくに終わったよー。だから、フータロー君と、ふたりっきりで……きゃっ♡」
「ど、どういうことですか!?」
風太郎との時間を思い出し、自分の右頬に手を当てて余韻に浸る一花。その蠱惑的な姿に、真面目な五月は顔を赤くし一花を問い詰める。それが一花の狡猾な罠だとも知らずに。
「えー、五月ちゃんだってわかるでしょ? 男と女が二人きりでヤることなんて、そんなの決まってるじゃん♡ フータロー君が私を求めてくれて、嬉しかったなぁ……♡」
「!!」
この状況で、風太郎との情事を匂わす言葉を五月に伝える理由。五月を煽るだけでメリットはないように思えるが、嘘つきの一花はよく理解している。
嘘を信じ込ませる時のコツは、ある程度の真実を交えて説得力を持たせることだ。一花が応じた時点で、いくら否定しようが五月の心にはサボりなのではないか、という疑念が少なからず生じているであろう。
そこをあえてすぐには否定しない。五月が危惧した通りになってしまった、という焦りを見せたところですかさず本命を切り出すのだ。
「そ、そんな、あなた、まさか……はっ!?」
「もうっ、相変わらず五月ちゃんはカワイイなー。じょーだんだよっ、じょーだん。仕事終わってフータロー君に連絡したら風邪で休みって聞いたから、看病してたの」
大胆な発言の後に、一花は四葉のような歯を見せる悪戯っぽい笑みを浮かべる。この表情によって、五月は一花の発言をただからかっただけだと誤認するであろう。
なにより、このような大胆な発言は中野一花という普段のキャラクター的にもまったく違和感はない。長女として妹をよく理解しているだけでなく、女優としての演技力を兼ね揃えている一花だからこそできる芸当だ。
「よ、よかった、そういうことでしたか……でも、心臓に悪すぎます! いくら冗談でもタチが悪いです!」
「えへへ、からかっちゃってごめんね。もちろん私も何もなければ学校行こうと思ったんだけど、らいはちゃんも学校じゃない? 誰も看病できる人がいないから、フータロー君が心配で……」
「……むぅ、学業を疎かにするのはともかく……気持ちはわかります。そういうことなら、しかたないですね」
実際に、効果は抜群のようだ。青ざめていた表情の五月だったが、すでに落ち着いて平静を取り戻している。
表情は心配の色を浮かべている一花だが、本心はそんなことはない。表情と声の抑揚に変化をつけることは、女優として朝飯前である。このままうまく誘導すれば、やり過ごせる。あとは彼女と一緒に帰宅すれば、一花の完全勝利だ。今日はもう風太郎の顔を見ることは叶いそうにないが、しかたない。
仮に来訪者が警戒されている二乃であれば一花に反論の余地はなく即修羅場なのだが、今回は彼女にとって相性の良い相手だった。無事に思惑通りに事が進みそうで、一花は心の中でほくそ笑む。
しかし、油断は禁物である。一花は慎重に五月を安心させるような言葉を選び、何事もなかったことをアピールする。
「そういうこと。五月ちゃんも、フータロー君を心配して来てくれたんでしょ? 二人がすっかり仲良くなったみたいで、お姉さん嬉しいなー」
「……ま、まぁ……上杉君は友達、ですから。ついでにらいはちゃんお手製のカレーも食べられたらなーなんて、思ってませんからね」
「あれ、そっちが本命? とりあえず、フータロー君今は落ち着いて寝てるから、大丈夫だと思うよ。だから五月ちゃん、カレーはまた次の機会にして一緒に───」
「そういうわけだ。悪いな、五月。無駄足運ばせちまったみたいだな。あと、らいははまだ帰ってきてないぞ」
「!?」
彼氏、参上。
「えっ、ちょっ、フータロー君!? あっ、おっ、起こし、ちゃった……?」
「う、上杉君……体調は、大丈夫なのですか?」
「聞いての通りだ。授業に勤しんでいるお前たちに頼るのは申し訳なくて、一花に甘えることにしたんだ。ありがとな。でも、おかげですっかり回復した」
「え、えっと……うん。元気になったみたいで、よかったよ」
「…………」
玄関で五月の相手をすることで風太郎の仮病を悟られないように考えていた一花にとって、風太郎の登場は想定外であった。動揺が声にも表情にも表れてしまうが、それでもなんとかアドリブでこの場を取り繕う。
でも、厳しいかもしれない。一花自身、彼氏の姿を見れたこととそばにいてくれることに嬉しさを感じてしまい、顔が赤くなっている自覚がある。そのせいか、五月が向ける視線は訝しげなものに変化している気がしてならないのだ。
「まぁ、そんなわけで俺はもう大丈夫だ。心配かけさせたようで、すまなかった。明日からは普通に登校できると思う」
「……わかりました。お大事になさってくださいね」
「せっかく来てくれたのに悪いな。あいつらによろしく言っといてくれ」
「……じゃあ、私も帰ろうかな」
「……そうか」
風太郎と二人きりの時間を手放すのは心苦しいが、五月を一人で家に帰らせるわけにはいかない。五月は姉たちに風太郎と一花が二人でいたことを話す可能性がある。一花はそれを望んでいない。
(なんとしても、それだけは絶対に避けなきゃ。まだ私たちの関係がバレるのは困るし……なによりフータロー君の目標のためにも、私も含めてみんな仲良し五つ子の生徒でいなくちゃいけないんだから。だけど、いざとなったら……)
不安の芽は潰さなければならない。看病という嘘の出来事であっても、自分が風太郎といたことを二乃や三玖に知られてしまったら、かなり厄介なことになると一花は認識している。五月に関係を知られて揉め事が起きてしまっては、風太郎の目標の達成が遠のくことは間違いない。
ゆえに、五月から怪しまれているこの状況。一花はたとえ五月に嫌われてでも口止めさせて、生徒でいることを強要する決意を固める。幸い五月の夢の話を持ち出せば、彼女はそう簡単にカードを切り出すことはできないだろう。
様々な考えを巡らせつつ一花も五月に続き、靴を整えて上杉家を去ろうとしたのだが、そこに彼氏の声が突き刺さる。
「一花、ちょっと来てくれ」
「んー? どうかした?」
「今日は本当にありがとな。お前のおかげで、良い一日を過ごせたわ」
「そ、そう、かな?……えっと、どうしたしまして」
「気をつけて帰れよ。もしお前が体調崩したら、今度は俺が看病してやるからな」
一花は風太郎に腕を引き寄せられる。妹も見ているのに、これはマズい。そんな一花の心境を知らない風太郎は、耳元で───
「……その、続きは……また今度な」
◇
「一花、聞きたいことがあるのですが」
「…………」
「……一花? 聞こえていますか?」
「は、はいっ! どうしたの、五月ちゃん?」
「上杉君とは、本当に何もなかったのですか?」
「え、えー? ひょっとして私、信用ない?」
「そんな、拗ねないでください。そういうわけではありませんよ」
上杉家からの帰り道。同じ顔の少女が二人、横並びで歩いている。姉妹とわからない者には異様な光景に見えるだろう。
一花の疑問に対し優しい笑みを浮かべる五月。母らしくありたいと願う末っ子は、長女である一花に確認したいことがあった。立ち止まり、五月は一花への感謝を彼女に語る。
「私は、一花のことを本当に尊敬しています。この数ヶ月間あなたはずっと、私たちのために生活費をひとりで負担してくれていました。私も働くようになって、一花がどれほど大変な思いをしていたのかを知りました」
「そ、そう? 五月ちゃんも無事お仕事が見つかって、よかったよ」
「はい。年明けからひとりだけずっと仕事と勉強の両立を頑張っていたあなたは、とても立派な長女です。だから、みんなのために頑張れる一花には、幸せになってほしい。心からそう思っています」
「……ありがと」
無論、一花だけではない。姉全員の幸せを、五月は願っている。だけど、一花は。
「昔はあんなにやんちゃだったのに、変わりましたね。ですが、そんな率先して変わってくれた一花だからこそ、みんな信頼しているのですよ」
「……私は、何も変わってなんかないよ」
「もう、謙遜しないでください。でも、私たちは……そんな一花の優しさ、在り方……そして、その強さに、甘えすぎていたのかもしれませんね」
「……五月ちゃん?」
五月は今までの一花の姿を思い浮かべる。考えてみれば、姉としての責任感が強い一花が自分の弱さを妹たちに晒すことは、五月の記憶にはなかった。昔はまだしも、母を失って以降は皆無である。それなのに一花はいつも笑顔で、優しく五月たちを包み込んでくれた。
風太郎の家で彼に呼ばれて腕を引き寄せられた後、帰り際にも頬を赤く染めて、風太郎を見つめていた一花。さすがに恋愛と縁のない五月にもわかる。彼女は、家族以上に風太郎を求めているのだと。妹に向けるそれとは、全然違うものだと。
(一花は少なくとも林間学校の時から、上杉君を好きだった。それでも一花は自分より、私たちのことを……)
最近こそ違うようだが、進級するまでは間違いなく一花は姉であった。風太郎への恋心を顕著にはせず、自分のしたいことより仕事を優先し、妹を養っていた。その姿はとても立派で、妹である五月としても誇らしい、自慢の姉であった。
だが、今の五月にはそれが辛い。五つ子なのに、五等分なのに、一花の立場になって考えてあげることができなかった。姉である一花なら自分でなんとかするだろうと、それが一花の当たり前なのだろうと、決めつけていたのだ。それは、見方によっては突き放すような無慈悲な信頼である。本当は、一花だって頼りたいと思うことがあったかもしれないのに。
五月は自分の心を見つめ直す。母としてではなく、妹として。今まで支えてくれた大切な姉の幸せのために何ができるか。そんなの、決まっている。
「一花、私たちは五つ子です。五つ子は喜びも悲しみも、全て五等分です。それなのに、あなたは……ずっと、私たちの姉でいてくれました。きっと、だからなんですよね。一花が上杉君を好きになった理由、さきほどのあなたを見て、ようやくわかりました」
「!!」
「やはり、そうなのですね。仕事というのも嘘なのでしょう? 今日はずっと二人だけで、過ごしていたとみました」
驚愕と焦りの入り混じる表情を見せる一花。いくら女優として演技に慣れていても、核心をつけば動揺を見せるのはまだ彼女が年頃の少女であるという証明だ。
一花が嘘をついていたことに対する怒りは一切ない。むしろずっと遠くへ行ってしまったと思っていたばっかりに、少し五月は安心感を覚える。
「……やっぱ、気づいてたんだ」
「はい。あなたたちの様子を見る限り、関係が進展したということは察しがつきます。そもそも、あなたは林間学校の時には、すでに彼に多大なる信頼を寄せていましたものね。……おめでとうございます、でいいのでしょうか」
「……そういえば、あれも五月ちゃんには見られてたっけね。で、どうするの?」
困惑混じりの笑みを浮かべつつも、素直に祝福の言葉を口にする五月。だが、それを受けた一花が五月に向ける視線はとても冷ややかなものだ。
「どうするの、とは?」
「みんなに、私とフータロー君のこと、言うの? 悪いけどお姉さん、それは絶対に認めないから」
冷徹な瞳と声で五月に圧をかける一花。五月が初めて見た、普段の一花からは想像もできない顔である。
しかし、五月が臆することはない。答えなど、最初から決まっているのだ。
「フータロー君の目標のためにも、今はまだあの子たちに、私たちの関係を知られるわけにはいかないの。だからたとえ五月ちゃんがどう思ったって、絶対に話させは───」
「安心してください、そんな今すぐ言うつもりはありません。それがあなたたちにとって不都合だってことは、私にもわかります」
「え……なっ、なんで? そんな、あっさり……」
五月の言葉が予想外なものだったのか、一花は虚を突かれたような反応を見せる。今まで決して妹たちに見せなかった表情を披露したあたり、一花の本気の想いなのは五月に伝わっている。だからこそ、受け止めたい。
「そんなの当然です。だって、私は一花が大好きですから」
「えっ……」
「そして、上杉君のことも信頼しています。確かにかつては警戒していましたが……今は違います。彼は、私たち全員に誠実に向き合ってくれる男の子だと信じています。だから」
一呼吸つき、笑顔で告げる。母としてではなく、妹として長女を想う五月の本心だ。
「私は、あなたたちを応援しますよ。絶対に、何があっても、私は一花と上杉君の味方です」
「……!」
「私も、自分の夢のために彼が必要なんです。でも、私の一存であなたたちの関係を暴露してみんなが仲違いしてしまうと、家庭教師が解消になるかもしれません。私はそんなこと、望んでいません。それに、これでも私、二人にはとっても感謝しているんですよ?」
「五月、ちゃん……」
三玖はかつて自分の恋のために風太郎を独断で解雇しようとした。五月はそれを望んでいなかったが、彼女を否定しなかった。結果的に良い方向に行き着いたとはいえど、今後もこのような家庭教師継続のトラブルがまたないとはいえない。
ゆえに、風太郎のことを考えている一花は五月の夢の妨げになることはない。これは、五月が一花を応援するには十分な理由だ。それに加え今まで一花が姉として頑張っていた姿を知っている以上、彼女の幸せを願わないわけがない。
しかし、そんや五月が今見聞きしているのは戸惑いを隠せない一花の表情と、その声色。風太郎との関係を認めてもらえるとは思っていなかったことの証明である。やはり、信頼されていなかったのだ。一花への言葉こそ優しい五月ではあるが、心では今までの自分の考えの甘さに悔しさでいっぱいだった。
(本当に、私は何も、一花のことを知らないで……!)
一花の在り方に甘え続けてずっと姉でいさせてしまったという事実が、苦しい。妹たちを気遣って自分の本心や悩みを相談しないというのは、結局心を許せていないのと変わらない。人生に大きく関わる女優の活動ですら事後報告なのも、自分たちが一花に頼りきりだったということがあったからだろうと、五月は考えている。
そんな一花が、五月たち妹ではなく、長女としての役割関係なしに心に寄り添える風太郎を必要とし、求めるのは至極当然といえよう。
(こんなことにも、気づかないだなんて……これでは、母親として失格ですね)
でも、これからは違う。一花の様子を見る限り、風太郎によって姉という鎖はすでに緩められている。先ほどの威圧は、今までの自分を棄ててでも風太郎を求めていることを意味しているのだから。
ならば、五月も一花の心に歩み寄ることに遠慮はしない。一花を大切に思っているのは風太郎だけではなく、五月も同じなのだ。
ゆえに五月は願う。一花も、自分の気持ちを遠慮なくぶつけてほしいと。
「上杉君と一花、長男と、長女……きっと、二人にしか通じないものが、あるのでしょうね。すごく、お似合いだと思いますよ」
「っ……ありがとう。そう言ってもらえて、すっごく嬉しい。ホント五月ちゃん、私よりずっと大人だよ。お姉さん失格の私とは、全然違う」
思うことがあるのか、未だ一花の表情は明るくない。それでも、五月の純粋な想いは通じたようだ。感謝の言葉と共に、一花も真剣な眼差しを五月に向ける。
「……なら、私も五月ちゃんと向き合わないとだよね。応援するって発言、撤回していいから。私たちの関係のことを言うなって強制もしない。どうするか自分で考えて、自分で決めて。どんな答えだろうと、私の意思は変わらない」
無言で頷き、一花の瞳を見つめる。どんな内容であろうと、姉としてではない、中野一花というひとりの少女としての言葉を、五月は全て受け止める覚悟だ。
「私、フータロー君が好き。はっきり言って、みんなより大切。たとえみんなに嫌われたとしても、私はこれから私自身と、フータロー君の幸せのために生きる。もう私は、五月ちゃんたちのお姉さんではいられない」
そこにはもう、五月の知る妹を気遣う優しい長女の姿はなく。
「誰が相手でも、こんな私を好きになってくれたフータロー君は、絶対に譲らない。だって、フータロー君は私の全て……お姉さんでない醜い心すらも受け止めてくれた、たったひとりの男の子だから」
ただの女としての、家族への一方的な決別である。しかしそれを受けた五月は気分を害することはなく、一花が本心を話してくれたという事実に嬉しさを感じていた。
今まで姉であり続けてわがままを言わなかったからこそ、しっかりと伝わっているのだ。そこには一花の風太郎へのありったけの愛が篭っている、本気の恋なのだと。そして、一花の裏の顔を風太郎は認めたということ。二人はきっと、強い絆で結ばれているのだ。ゆえに、五月の気持ちは変わることはない。
「私にはまだ、恋がどんなものかわかりません。それでも、真剣な気持ちなんだってことはわかります。二乃も三玖も、自分の恋を大切にしています。そして……彼も、なんでしょうね。だけど、私が言いたいことはただひとつです」
穏やかな表情のまま五月は両手で一花の手を包み込み、告げる。
「一花だけはお姉さんだから駄目だなんて、そんな道理はありません。一花だって、自分のためにわがままになっていいんです。だって、あなたが姉としてみんなを導いてくれたおかげで、私たちは私たちらしくいられたのですから!」
「……!」
妹のためにずっと姉であり続けてくれた、彼女への卒業。愛と、感謝を込めた賛辞を。
「だから、私にも協力させてください。上杉君は私にとっても信頼できる教師で、大切な友達なんです。全員笑顔で卒業するために、あなたたちの幸せのために。乗り越えなければならない壁は、まだまだ多いでしょう?」
「……ホントに? ホントに、いいの?」
「もちろんです。課題は山積みですが……私と一花と上杉君が力を合わせれば、きっと大丈夫です! みんなが笑顔で卒業できる私たちの、あなたのハッピーエンド。頑張って一緒に目指しましょう!」
「五月、ちゃん……! っ……ごめん、ごめんね……ありがとう……!」
涙を流し嗚咽を漏らす一花を見て、ようやく対等な存在と見てくれたのだなと、五月は思う。そして、一花を姉としての鎖から解き放った風太郎は、やはり自分たちに必要な存在だと確信できた。
二乃や三玖の恋心、四葉の過去。全てを清算するのはとても困難だろう。上手くいくかもわからない。それでも、風太郎と一花となら、きっとできる。二人の新たな旅立ちを祝いたいという祈りが、五月を前向きにさせている。
(上杉君、本当にありがとうございます。……どうか、一花を、よろしくお願いします)
今こそ、あなたたちに感謝を込めたスタンプを。
◇
「お兄ちゃん、昨日一花さんと何してたの?」
「は? 別になんもねー……ちょっと待て。なんで知ってんだ、お前」
「夕方帰ってきたら、お兄ちゃんが一花さんと愛を語り合ってた声が聞こえてきたから、お取り込み中だってわかって、引き返して公園で時間潰してたの。ナイス判断でしょ」
「昨日からなんかやけにニヤニヤしてると思ったら、バレてたのかよ……遅くまで放置することになって、悪かったな。プレゼントあるから、後で見てくれ」
「えー、ホント!? ありがとう! それにしても、お兄ちゃんにもようやく春が訪れたみたいで、私は嬉しいよ!」
中学生になったらいはは、風太郎から見て少し茶目っ気が増したように思う。それでも上杉家においては母親代わりの、ただいてくれるだけで風太郎の心を癒すとても大切な妹だ。そんならいはは、昨日は家に帰ってきていたにもかかわらず風太郎に気を遣い、一花と二人きりの時間を過ごさせてくれていたようだ。
「だけどお前、絶対にあいつらに一花のこと言うなよ。バイトクビになりかねないからな」
「りょーかいです。そしたらお腹いっぱい、ご飯が食べれなくなっちゃうもんね」
「そういうことだ。まぁそんなわけで彼女ができたわけだが、妬くんじゃねぇぞ」
「何言ってるの、むしろ一花さんがお気の毒だよ」
「……さすがにその反応は傷つくぞ……」
「まあいいじゃねーか! 頑固なお前に、晴れて彼女ができたんだ。五月ちゃんじゃないとは驚いたが、一花ちゃんだっけか? 旅行で少し見た程度だったが、可愛い子だったな!」
堅物魔神の風太郎に彼女ができたということで、上杉家の食卓は盛り上がっていた。しかし二人のテンションに反して風太郎の気分は控えめである。一花が彼女になったことによるこれからの日常の変化に対する好奇心と、それゆえに生じるであろう懸念が交差しているのだ。学校では自分たちの関係は秘密ということもあって昨日のような時間を過ごすことは難しいだろうが、それでも意識せずにはいられない。
家庭教師の仕事中は私情を挟むこと、つまり贔屓は許されない。たとえ生徒の中に風太郎が愛する彼女が紛れ込んでいようと、全員公平だ。
しかし、それが終われば話は別である。風太郎は今後プライベートでも、一花の国語の個人レッスンの予定を企てている。苦手な科目の成績を伸ばしたいという一花の前向きな姿勢は、勉強を習わしとしてきた風太郎としては嬉しい限りである。だが、無視できない問題がひとつ。
(誰にもバレず、二人きりになれる安全な場所……やっぱ、ウチくらいしか、ないよな……)
姉妹に関係を見抜かれないようにするとなると、やはり都合の良い場所は我が家しか思い浮かばない。外は危険がいっぱいなのだ。姉妹と遭遇したら修羅場一直線である。
家で普通に国語の勉強をするだけなら問題は何もない。だが、未遂に終わったとはいえど昨日の一花の誘惑は風太郎の脳裏にしっかりと焼き付いている。さらに、それだけではない。あろうことか、去ろうとする一花に風太郎自ら誘いをかけてしまったのだ。
(やっぱ、もうちょっと言葉を選ぶべきだったぜ……だが……)
あの時風太郎は男として、彼氏として、一花一人に五月の相手をさせることに情けなさを感じていた。頼りきりは嫌だった。自分たちはお互いに支え合える、対等な関係でありたい。その想いが、風太郎を動かしたのである。そこまではよかった。
だが、彼女を引き止めた際に発してしまった己の言葉は、悪い意味で頭から離れることはない。五月が来る前に一花が見せた、妖艶な笑み。柔らかい唇。豊満な胸の感触。誘うような言動。昨日の出来事は風太郎の幻想ではなく、まごうことなき現実である。
自分とまぐわうなかで披露するであろう一花の痴態を風太郎は想像してしまい、下半身に熱が篭るのを自覚する。こんなことを彼女に知られたら、授業が問答無用で一花主体の保健体育に変更になってしまう。
いずれくるであろう、初体験。男としてはカッコ悪い姿を見せないために予習(意味深)をしておくべきなのか風太郎が悩み始めていたところ、らいはの声によって思考を中断させられる。
「お兄ちゃーん? 何考えてるんですかー?」
「っ! い、いや、なんでも……」
「もー、どうせ一花さんのことでしょ。恋をすると、人は変わるんだね」
「やっと風太郎も真人間に戻れたんだな……これぞ、青春を謳歌する普通の高校生の姿だ。らいはもよく覚えとけよ」
「自分の息子をなんだと思ってんだよ……」
呆れつつも、風太郎は愛する彼女の言葉を思い出す。青春をエンジョイ。ただの日常会話ででてきたその言葉を一花は覚えているかわからないが、確かに風太郎は記憶している。
「……でも、そうだな。受験に不安はねーし、少しくらい一花と寄り道してもいいかもな」
自然に緩む、風太郎の頬。一花と過ごす学園生活が、たまの二人だけの放課後が、楽しみでしかたない。心に優しく灯る一花への愛は、風太郎の価値観を大きく変えている。
「なん……だと……?」
「お兄ちゃんが……そんな……!」
しかし、本人はよくても周りには惚気る風太郎は異常としか捉えられない。らいはも勇也も、まるで別人の風太郎の姿に絶句するばかりであった。
「風太郎……ようやく、勉強を辞めるんだな……! 俺は……俺は……!」
「みっともねぇな、何泣いてんだよ……勉強しねぇわけじゃねぇし……」
「お母さん、勉強オバケのお兄ちゃんがついに成仏しました。これで上杉家は安泰です」
「成仏ってなんだよ! まだまだ俺はこれからの男だ!」
「こうしちゃいられねぇ! 今日はお祝いだ!」
「おー!」
「お前ら学校と仕事はどうすんだ! とっとと支度しろ! ったく……」
どんちゃん騒ぎの上杉家。呆れてこそいるが、風太郎はどこか安心感を覚えていた。家族には心を開いていたつもりではあった風太郎だが、らいはも勇也も、勉強に全てを注ぐそのあり方をどこか心配に思っていた部分があったのかもしれない。
驚きこそあったものの、生まれ変わった自分を祝福してもらえたことが嬉しい。そのきっかけをくれた一花に風太郎が心の中で感謝していたところ、父親の大きな声が耳に届いた。
「風太郎! まだいるな! ちょっとこっちこい!」
「あーもうなんだよ……」
「お前に渡したいものがあんだよ」
風太郎は強引に勇也に連れられて、ガレージの中へと移動する。
「よしきたな。会社の同期から、もう新しいの買ったから使わないってことで、譲ってもらったんだよ。新品じゃなくて悪いが、ちゃんと動くことは確認済みだ」
そこには、大きな布に包まれた巨大な物体があった。形状的に、どのようなものなのか大体想像できてしまう。珍しく、年頃の少年のような、期待に満ちた表情を浮かべる風太郎。もし、これが本当に想像するものであるならば、一花と───
「お、親父、これって……」
「ああ、お前の想像通りだ。風太郎、遅くなったが誕生日おめでとう。いつも頑張ってるお前に感謝の気持ちを込めて、今年は俺から、とっておきだ!」
「───!!」
◇
父親からのプレゼントを受け取った風太郎は逸る気持ちを抑えられず、急いで支度を終えて自宅を後にする。連絡はしていないが、いつものあの場所に、おそらく彼女は現れるだろう。
まだ登校時間に余裕はあるが、今日はこちらが待ち伏せして驚かせてやろうと、風太郎は企んでいた。喫茶店で昨日一花にご馳走になったフラペチーノでも堪能しながら気長に一花を待とうと思っていたのだが、そんな少年の目論見は到着と同時にあっさり崩れ去る。
「あ、フータロー君だー……おっはー……」
風太郎と一花にとってもはやお馴染みの場所と化している、通学路途中の喫茶店前。昨日より三十分以上早く到着したというのに、一花はすでに到着していた。今日も眼鏡を装着している。
昨日と百八十度違う一花のテンション。口元を左手で抑えあくびをしている一花は明らかに眠気全開だ。彼女が右手に持っているのは、コーヒーだろうか。うっかりこぼしてしまいそうな一花の姿に風太郎の悪戯心は静まり、一花への憂慮へと切り替わる。
「お、おう、おはようさん。えらく眠そうだが、大丈夫か?」
「う、うん。まぁ、なんとか。ただ、昨日全然眠れなくて……」
「それは全くもって大丈夫じゃねーだろ……でも、よくこんな早くこれたな。連絡もしてねぇのに」
「寝坊したら大変だもん……少しでもフータロー君と二人きりで一緒にいたかったし、いてもたってもいられなくって早出しちゃった。喫茶店だと寝かねないし、私も連絡しようかなーって思ってたタイミングだったから、ホントばっちりだよ」
「なるほどな。気持ちは嬉しいが、無理すんなよ……?」
「はーい……カフェイン摂取して、頑張るよ」
ぼんやりしながらもコーヒーを口にする一花。しかしすぐに眠気が吹き飛ぶわけはない。学校は近いために歩行はスローペースでも遅刻の心配はないのだが、足取りのおぼつかない一花の様子は気がかりだ。
言葉のキャッチボールでなんとか一花の意識を覚醒させようと風太郎は考え、一花に話しかける。
「にしても、なんだってそんな眠気マックスなんだよ。お前が寝不足だなんて……」
「そんなの決まってるじゃん。フータロー君のこと考えてたの」
「ま、またお前は……」
「だって、フータロー君、あんなこと言うから……」
上目遣いで風太郎を見上げる一花は、頬を赤く染め膨らませている。可愛らしくもあるが何か言いたげなその表情。風太郎の心拍数は乱れつつある。あんなこと、というのは間違いなく一花の去り際に風太郎が囁いたあの発言だろう。
「もー、ホント大変だったんだよ。今の家が嫌なわけじゃないけど、昨日ほど自分の部屋がないことを苦しんだ時間はないよ」
「は? 部屋の有無になんの関係があるんだよ」
「……わからない?」
立ち止まった一花は眼鏡を外し、懇願するような表情を風太郎に向ける。それを受けた風太郎の緊張は爆発寸前だ。動揺する風太郎を尻目に、一花は風太郎の耳元で───
「……みんなが寝静まった部屋の中、ひとり眠れない私は、フータロー君と過ごしたあの時間を思い出すの。私の脳から切っても切り離せない、フータロー君の眼差し。優しい声。そして私とは違う、大きな手。大好きな人が私の胸に触れてくれたんだって事実を思い返すだけで、私のカラダは熱くなって、もうどうしようもなくなっちゃって。我慢できずに私は、服を脱い───」
「わかったわかった俺が悪かった! 心臓に悪すぎるからやめてくれ!」
丁寧に、詳細に、具体的に。甘い声で自らの就寝背景を口にする一花。いくら昨日一線を超えそうになったとはいえど、昨日とは破壊力が段違いのそのボールを、風太郎が受け止められるわけもない。
「えー……まだまだ、これからが本番なのに……」
「まだ朝なんだぞ! お前は恥ずかしくねぇのかよ!」
「こんなこと言うのもあんな姿を見せるのも、この世界でフータロー君だけだからなんの問題もないよ。ていうかそもそも私、寝る時裸なのフータロー君も知ってるでしょ? ただ、それだけだよっ」
「あっ……!」
「ドキドキした? 私の一糸まとわぬ姿、想像しちゃった……? それとも……」
「だっ、黙れ! 朝からそんな変なこと、俺が考えるわけねぇだろ!」
時間帯にそぐわない過激すぎる発言をしているというのに、一花に動揺は見られない。対して風太郎は恥ずかしさで顔を真っ赤にしている。いくら心を通わせても、保健体育は専門外の風太郎にはオトナな展開を匂わせるトークは致命傷だ。
(くそっ、こいつめ……! だけど……)
それでも、風太郎の心は羞恥のみで埋め尽くされているわけではない。胸の鼓動が収まらない。心を翻弄されつつも、一花の大胆な言葉に宿る強い愛は、真実なことがわかっているからだ。
だが、まだ一花のターンは終了していない。再度眼鏡を装着して、素敵な未来予想図を言葉で表現する。
「一人暮らし、始めよっかなー……ベッドも置けるし誰にも邪魔されないし、これならフータロー君と毎日……」
「な、何言ってんだ、お前は片付け苦手だろ。一人暮らしなんて始めたらゴミ屋敷待ったなしだ。認めんぞ」
「うー……ならフータロー君、一緒に住もうよ。同棲だよ同棲。収入は私のがあるんだし、そうすれば全部解決じゃん」
「……せめて卒業してからにしてくれ……」
「えっ、ホント? それならいいの?」
一花は期待を込めた眼差しで風太郎を見つめる。もう絶対に撤回は認めないという、強い意思の篭る一花の眼差し。
風太郎は頬を掻きつつも、恥ずかしさを振り払い彼女の言葉に同意する。金銭的に現実的かどうかはともかく、一花の提案に風太郎は少なからず憧れを感じているのだ。
「ま、まぁ選択肢のひとつとして可能性はあるってだけだ。過度な期待はすんなよ」
「! ……やる気出てきた。昨日サボった分、今日は勉強頑張るぞー!」
「話聞いてんのかよ……単純なヤツめ……」
先ほどまでの不調が嘘のようなご機嫌の一花。そんな彼女に呆れつつも、笑顔の一花に風太郎の気分も上々である。学校ではなかなか作れないであろうこの二人きりの時間に、価値をおいている。
そして、会話がひと段落したこのタイミングだ。風太郎は一花に、会ったらずっと聞きたいと思っていたことを言葉に出す。初体験どうこうはさておき、今こそ勇気を振り絞る時だ。
「い、一花。その、聞きたいことがあるんだが」
「? なになに、どうしたの?」
「えっとだな……あれだ、いきなりで申し訳ないんだが……今日の放課後、空いてないか?」
緊張による動揺が声に漏れてしまう風太郎。昨日自分に誘いをかけてきた一花は表面上は普段と変わらなかったが、実際に誘う立場になって風太郎は理解することができた。
断られることに、少なからず恐怖を覚える。風太郎らしくない、顔色を伺うような問い方だ。だが───
「んー? 今日もオフだけど……って、まさか、フータロー君……! ひょっとしてそれは、デートのお誘いですか……!?」
「……そう解釈してもらって構わない。ちょっと見せたいものがあるんだ。それで、お前としたいことがある」
「えっ、なにそれ気になるっ!」
喜びに加え興味津々、といった一花の笑顔が風太郎の目の前に広がる。ウキウキ度満点のその表情に、風太郎は勇気をもらう。彼女が笑顔でいてくれることが、とても嬉しい。
「お前が喜ぶかはわからないが……いや、きっといい思い出になるはずだ。大丈夫か?」
「もっちろん! お仕事被ってない限り、私がフータロー君のお誘いを断るなんてありえないから。どこで待ち合わせする? この付近だと危険だよね」
「あいつらに見つかる可能性が低いところ……昨日の公園の、駅前とかがいいか。ちょっと準備に時間かかるから、終わり次第連絡するわ」
「おっけー! なら、それに合わせて向かえば問題ないね。だいたい着く時間目処ついたら、電話なりなんなりしてねっ♪」
「あいよ。……楽しみに、しててくれ」
無事に約束を取り付けることに成功した風太郎。表情には表れていないが、実の所安心感で胸がいっぱいだった。
そして、話しながら歩いていたこともあってか、早くも遠目に校舎が見えてきた。いつも以上に早い登校ということもあって、生徒は辺りに誰もいない。
校門が近づくにつれ、風太郎の心に欲が湧き出してくる。一花と一緒にしたいこと。せっかくの二人だけの貴重な時間。もっと彼女と共に、青春をエンジョイしたい。
(昨日だってやったんだ。今更、これくらい……!)
羞恥心以上に、己の欲が勝った。風太郎は一花の手を握り、指を絡ませる。男の手とは違う柔らかい一花の手の感触が、今日もまた風太郎の手に伝わる。
「フータロー君……! 嬉しいっ!」
積極的な風太郎に、満面の笑みで答える一花。またしても彼女の笑顔を受けて、風太郎の心は多幸感で満たされる。一花の笑顔が本当に大好きなのだと、改めて風太郎は再確認した。
「……まだ早いし、誰も見てないだろ。ゆっくり、行こうぜ」
「うん! 大好きっ、フータロー君♡」
リア充であろうと誰もが呪詛を紡ぎたくなるような、相思相愛の二人。恋は、人を大きく変えるという証明である。
◇
(やっと、二度目のお昼寝タイムだ……長かった……)
昼休み。多くの学生にとって至福の時となるこの時間を、例に漏れず一花も望んでいた。学校に到着してから朝のホームルームまでは睡眠に時間を費やすことができたのだが、授業の合間の休み時間はそうはいかなかった。昨日の欠席を心配したクラスメイトが男女問わずに話しかけてきて、周りに人が絶えない状況が続いていたのだ。特に男子はノートをとっておいたから頼ってほしいという声が跡を立たず、姫扱いを受けていた。
生憎その役割は他の姉妹が果たしてくれたおかげで、男子のご厚意に甘える必要はなかった。溢れていた人の波もようやくランチタイムのこの時間には落ち着き、念願の睡眠時間を稼ぐ機会が到来したわけである。しかし、いざ寝ようと机に伏せて目を瞑るも、一花の脳内は風太郎で埋め尽くされていた。
(フータロー君と、デートかぁ……しかも、フータロー君から誘ってくれるなんて……二人きりの時間、嬉しいな……♪)
一花が机から動けないこの時間も二乃や三玖が積極的に風太郎に声をかけてはいたが、もはやその程度では一花は嫉妬の炎を燃え上がらせはしない。学校では二人きりの時間を作れなくとも、一花は風太郎と恋人なのだ。何があっても揺るがないその事実に、一花はちょっぴり優越感を感じてしまう。そして自己嫌悪するまでがワンセットだ。
(……余裕が出来たらすぐこれだよ。まだ決着がついたわけじゃないんだから、浮かれてちゃダメなのに……でも、フータロー君とのデート、楽しみすぎるよ……)
断じて子供のようにマウントを取りたいわけではない。一花にとって風太郎は大切な恩人であり恋人であって、決して力を誇示するための道具ではないのだ。だが頭ではそれを理解していても、風太郎に尽くしたいという愛だけではなく、自分も風太郎の愛で満たされたいという欲望が一花の中で渦巻いている。
昨日の一日で、一花の目指す方向性は定まった。姉であることをやめて妹たちより自分の幸せを優先する以上、目指すのは百点満点だ。ひとりでは叶うことのない野望だが、今の一花には同じ志を持つ存在がいる。
愛する彼氏の掲げる目標のために。自分たちを応援すると言ってくれた末っ子のために。妹たちを心から納得させて、全員揃って笑顔で卒業。難しくとも、成し遂げなければならない。しかし───
(うぅ、今日だけ、今日だけは許して……! だって、フータロー君とのデートが、最高の時間が、私を待ってるんだから!)
所詮はまだまだ恋に仕事に青春真っ盛りな女子高生。大好きな風太郎と過ごす時間は一花にとって極上の癒しなのだ。大人なように見えて、実は自分の欲には忠実なのが中野一花という少女なのである。
「一花、ご飯いらないの? 私たち学食行くけど……」
「私眠たいからパス……昼休み終わったら起こして……あと、パン適当に五つくらい買っておいてほしい……」
「おぉ、結構食べるね……オッケー。ゆっくり休んでね?」
「ごめん、これお金……お釣りいらないから……ありがと……」
だが、デートにかまけて大事なことを見失ってはいけない。愛する風太郎の教えを無駄にしないためにも、授業中に眠るなどという失態は絶対に許されない。一花は気にかけてくれた四葉に謝罪と依頼をしつつ、午後からの授業に備えて夢の世界へと旅立つことにした。
(やっと終わったー……頑張ったよー……)
睡眠時間を少しでも稼いだことが功を奏したのか、なんとか一度も眠ることなく、午後の授業を一花は無事に乗り切ることができた。人間は心の持ちよう次第でいくらでも集中できる生き物だということを、一花は再確認できた。
当然、この後に待ち構えている風太郎とのデートも一花のモチベーションを高めている要因であることは間違いない。しかし、それ以上に一花を動かしているのは、大好きな彼氏の信頼を裏切りたくない。こんなわがままな自分の全てを受け入れて、好きと言ってくれた風太郎の愛に応えたいという、一途な想いであった。
(うん、これだけは絶対。フータロー君が、私にとっての一番だから。でも……)
何があっても一花の優先順位は変わらない。それでも、一花は自分の欲をなかなかコントロールできない。風太郎が我慢しなくていいと言ってくれたことはたまらなく嬉しいのだが、自分がありのままのわがまま少女でいると、風太郎の目標の妨げになってしまうのではないかという不安を一花は抱えている。
昨日も五月に圧をかけて、自分の都合を強制させようとしたのだ。五月は暖かく包み込んでくれたが、その優しさは一花の心に響いた。姉でない自分の性格の悪さなど振り返るまでもない。そもそも自分の欲に忠実であることは姉失格なのだと、今も一花は思っている。
(二乃や三玖、そして四葉……みんなは今のお姉さんじゃない私を、認めてくれるのかな)
そうして考え込んでいる間にもホームルームが終わり待ち望んでいた放課後が到来したのだが、一花の心のモヤモヤは晴れていない。だが、風太郎とのデートで沈んだ表情を浮かべていては心配をかけさせてしまう。
(こんなんじゃダメ……今日は今日で、楽しまないと!)
気持ちを切り替え、一花は席を立つ。気を緩めてはいけない。まずは妹たちにバレないように、風太郎と合流しなければならないのだ。
風太郎自身病み上がり(という設定)のため、すでに本日も放課後の勉強会は中止で決定している。いつも通り、一花は妹たちと共に下校することにした。妹たちの動向を伺ってから外出を試みれば、リスクは少ないという判断からだ。
幸いにも今日は一花は非番である。アルバイトなり買い出しなりに向かう妹たちを一花は見送り、家に到着する。四葉が買ってきてくれたパンをある程度食し、後は着替えて出るだけかと思いきや、ここで一花は抱えている懸念が吹き飛んでしまうほどの厄介な難題に直面してしまう。
(服……どれにしよう……!)
即ち、己との戦い。
これはいけない。下手すると解答を見つけ出すのに丸一日かかってしまう。なんていったって恋人になってからの初デートなのだ。一生モノの記念日になることは間違いないのだから、当然一花は気合を入れて臨むつもりである。つまり。
(うう、少し汗かいちゃったからシャワーも浴びたい、だけど服もじっくり厳選したい……どうしようどうしよう、時間ないよー!)
一花が慌てふためくのは必然といえる。昨日のデートも大変有意義な時間であったのだが、今日は今日で大事な勝負所だ。一花は昨日去り際に風太郎が囁いた一言を思い出す。おそらく、今日のデートの締めは───
(フータロー君と、エッチするかもしれないんだから……!)
そう、初体験である。彼氏のあんな発言があった以上、一花は風太郎と交わることを期待している。実際にヤるかどうかはともかく、いざヤる流れになった時にヤる気のない格好で風太郎のヤる気を削ぐわけにはいかないのだ。
(失敗した……下着も昨日フータロー君が選んでくれたの、今日洗濯しちゃってるし……全然決まらないんだけどー!)
現在時刻は十七時。風太郎も準備があるとはいえど、家には到着しているであろう時間だ。一花としても風太郎を待たせてしまうことは避けたいのだが、妥協もしたくはない。
そんな焦りから思考をまとめられずに一花の頭がパニックを起こしそうになったところ、彼女のスマートフォンの振動が響く。確認してみたところメールを受信したようで、発信主は風太郎のようだ。すかさず一花が内容をチェックすると、その内容は───
『すまん、かなり遅くなりそうだ。少なくともあと一時間はかかっちまうかもしれない』
愛しき彼氏による、シンキングタイム延長許可証であった。救いの神は、一花のすぐそこに存在したのだ。
「ナイス! ナイスすぎるよフータロー君!」
これほどありがたい話もない。家に自分以外誰もいないこともあって、思わず独り言が出てしまうほどに舞い上がる一花。即座に風太郎からのメールを保護し、返信をする。内容など関係ない。基本的に五つ子へのメールは一斉送信なため、個人に送られるメールは一花にとってとても貴重なものなのだ。
『全然気にしないで、大丈夫だよ! 焦らないで、ゆっくりでいいからねっ♡』
尋常ではないフリック速度で感謝と愛を込めたメールを返信しつつ、一花は仕切り直す。とりあえず、身も心もリフレッシュするのが最優先だ。
(駅へ向かう時間、電車乗ってる時間を考えると三十分はあるかな。とりあえずシャワー浴びてスッキリしよっと)
愛する風太郎に、もっともっと愛されたい。完璧な自分で、愛を囁いてもらいたい。そして、愛してもらえた分、愛をあげたい、尽くしたい。暴走しがちな乙女心をなんとか制御しつつ、一花は風呂場へと向かう。
すべては、風太郎に喜んでもらうために。
「あー、さっぱりしたー。時間は……あ、またフータロー君からメール来てる」
シャワーから上がった一花は時間を確認するためにスマートフォンを開く。すると、またしても風太郎からのメールを受信していたことに気づき、内容を確認する。
『悪い、可能ならスキニーパンツ? とやらで来てもらえるか? あと鞄はショルダーのやつで頼む』
「!?」
その内容はあまりにも予想外な、風太郎のファッションリクエスト。内容に衝撃を受けた一花はしばし瞬きすらできなかったが、しばらくすると笑みを浮かべ、当然の結論に行き着く。
「ふーん……フータロー君、こういうのが好きなんだー……ふふっ♡」
ドキドキとトキメキが交差する。風太郎の好みを把握できた一花の気分は最高にハイだ。いつだって一花は、風太郎に魅力的と思ってもらえる女でいたいのである。
『りょーかいですっ! 楽しみにしててね♡』
好きを伝えたくて、毎回ハートマークをつけてしまう。こんなに乱発すると効果が薄れないだろうかと思いつつも、一花の愛は止まらない。都合の悪いことはひとまず放置して、着々と身支度を調える。
(今日もたーっぷり、ドキドキさせてあげちゃうんだから! 待っててね、フータロー君!)
◇
「ふぅ、間に合った……」
無事に戦闘準備を整えて、電車に乗車できた一花。ここまでくればこちらのものだ。
(移動時間を考えるとちょうどフータロー君と合流できる時間なんだけど……大丈夫かな、待たせてないかな……)
時刻は十八時。日は延びてきている春であっても、辺りも暗くなりつつある時間帯である。プライベートでの外出ということで当然一花は変装用の眼鏡を装着しているが、彼女の美貌にまったく変化はなく、効果は今ひとつのようだ。
一花のトップスは黒の肩出しブラウスと、ボトムスは風太郎の要望通りの青のスキニーパンツである。自分の正体がバレてないか、風太郎はこの格好に喜んでくれるだろうかなどという心配事が付き纏い、落ち着かない時間を車内で過ごす。だが目的地は遠くはない。十分ほど電車に揺られているうちに、目的地に到着した。
駅員のいない駅なこともあってこの時間でも利用者はほとんどいない。一花が駅の改札を出たその時、聞き慣れた彼氏の声が聞こえてきた。
「来たか。待ってたぞ、一花」
「ごめんねフータロー君、おまたせー……って、ええっ!?」
一花が驚くのも無理はない。風太郎は、二輪乗用車───すなわち、バイクに乗って、待ち構えていたのだ。風太郎が語っていた見せたいものとはこれで間違いないだろう。
「ふっ、驚いたか。俺、バイクは免許持ってるんだぜ」
ドヤ顔で得意げに話す風太郎。実は免許を所持していることはすでに五つ子全員把握済みなのだが、一花はそれを口にしない。たまに見せるちょっぴり子供っぽい風太郎は一花にはとても可愛らしく思える。真実を話してその表情を曇らせたくはない。
このような嘘なら許されるだろうと一花は自分を納得させ、初耳を装う。
「へぇー、そうなんだー……お姉さん、びっくりだよ。でも、どうしたの、それ?」
「あぁ、今日になって、親父から誕生日プレゼントってことでもらったんだよ」
「ウソっ、すっごい豪華じゃん! よかったね、フータロー君!」
「まぁ親父と仲良い同僚が譲ってくれた、中古のヤツなんだけどな。でも……乗り心地は悪くねぇわ。ほらよ一花、お前の分だ」
「えっ、いいの!? ありがとー!」
ヘルメットを一花に手渡す風太郎。風太郎はこれで一花とのタンデムツーリングを企てていたようだ。魅力溢れるデートのワクワクに加え風太郎の嬉しそうな様子で一花の心は満たされて、自然と笑顔になる。
「あっ、そうだ。フータロー君、服、これで大丈夫? 似合ってる?」
「おっ、頼んだの着てくれたのか。二人乗りするには、女はこの格好がいいらしいんだよ。ヘルメット買うついでにいろいろ聞いたんだが、そしたら遅くなっちまった」
「そっか、そういう意図があったんだ……」.
一花は風太郎がこのような格好が好みなのだと思っていたが、どうやら違うようだ。
てっきり自分の欲を風太郎が素直に言葉にしてくれたものかと考えていた一花は、自分の勘違いを少しばかり恥ずかしく思う。だが、風太郎もどこか落ち着きがない様子である。
「その……似合ってるぞ。今回はこういう形だから、安全を考えてお前には丈の長いの着てもらったが、バイク使わねー時は、できれば……」
「?」
風太郎はチラチラと一花の足を見ている。褒めてもらえた嬉しさはさておき、一花は何か言いたそうな風太郎の視線が気がかりだ。
「フータロー君?」
「…………」
頬を染めつつも、意を決したような瞳の風太郎。そこから告げられる言葉は───
「……ふとも……足が見えてる格好だと、嬉しい……」
「えっ」
一花がこんな間抜けな反応をしてしまうのは当然といえる。いくら両想いの恋人同士といえど、普段の風太郎のキャラクターからは想像もできない発言なのだ。そんな風太郎は一花の反応を見て引かれたと感じたのか、慌てて己の発言を撤回する。
「やっ、やっぱナシだ! 今のは忘れろ!」
「フータロー君……! もう、えっちぃ♡」
好きな人が正直な好みを話してくれて驚きこそあれど、一花としては引くなどありえない。
普段は堅物で、女性に興味など全くない風太郎。そんな彼が信頼を寄せて、愛している存在からこそ打ち明けてくれたのだと、一花には伝わっているのだ。もっと積極的でいいよという思惑も胸に、一花は笑顔で風太郎を受け入れる。
「でも私、嫌じゃないよー。おっけー、次のデートの時はばっちりふともも露出してるの着てくるから、楽しみにしててね♪」
「ろ、露出って……! 俺は別に───」
「あっ、スカートがいいかショーパンがいいかは、ちゃーんとメールで送ってよねっ♡」
「だーっ! 時間もったいねぇしもう行くぞ!これ羽織ってろ!」
ヤケクソ気味に言いながらも風太郎は一花の肩出しブラウスは冷えると思ったのか、自分の羽織っていたジャケットを彼女に手渡す。そんな風太郎の気遣いは一花の心まで温かくする。
次回のデートでは絶対に柔肌の感触を味わえる膝枕を堪能させてあげようと決意して、一花は風太郎の言葉に甘える。
「あったかーい。ありがとっ、フータロー君」
「しっかり掴まってろよ」
互いにヘルメットを装着し、バイクが発進する。五つ子の中で二乃だけが経験していた、風太郎とのタンデムツーリング。普段の風太郎とのイメージと違いすぎるとは思いつつも、可笑しげに話す二乃を一花は羨ましいと思っていた。
(うわぁ……夢みたい……!)
それを自分が、彼女として風太郎の後ろで経験できているという事実。一花の幸せ度数は限界突破し、心は風太郎への愛でいっぱいになる。積極的に胸を押しつけてメロメロ具合をアピールしたいところではあるが、いかんせん運転中の風太郎の集中力を乱すわけにもいかない。風太郎にもっと甘えたいのに甘えられないむず痒い思いが、一花の全身を駆け巡る。
「ていうか、行き先とか決まってねぇな……一花、どっか行きたいところあるか?」
「どこでもいいよー。フータロー君とこうしてられるだけで、私とっても幸せだもん♡」
それでも、一花にとってこの時間が幸せなのは間違いない。風太郎からは見えるわけがないが、一花の表情は非常に緩んだものとなっている。しかし、すぐに一花は己の発言を後悔した。
(……失敗した。むしろフータロー君考えこんじゃうかな)
紛れもない一花の本心なのだが、自分のわがままで余計な考え事をさせたくないのもまた事実。しかし家の近所まで出るとお忍びデートが五つ子の誰かに見られる可能性がある。だけどこんな時間からホテルはさすがにはしたないだろうし、そもそもこの時間から入れるのかとか、彼にその気はあるのかなどと考えを張り巡らせていたが、風太郎の声によって強制的に現実に引き戻される。
「そうか。なら軽くその辺走ったら、ファミレスかなんか行って休憩しようぜ。なんだかんだ飯にもいい時間だろ」
「えっ!? う、うん。わかりましたっ」
てっきりそういうのが一番困る、などと返されるものかと思っていたばかり、一花の返答はどもったものになってしまう。
だが、雰囲気は十分に良い。周りは車通りの少ない住宅街。夕方を過ぎていることもあって町の住民はすでに家の中。響くのはバイクの走行音のみ。正真正銘、一花と風太郎の二人だけの世界が広がっている。
(ホント、幸せ……大好き、フータロー君……)
一花は今がある幸せを噛みしめる。数えきれないほどに間違いを犯した。愚かで馬鹿な自分には風太郎と結ばれる資格はないと思っていた。それなのに、今こうして一花は風太郎と同じ時間を恋人として過ごしている。もう何があっても、手放したくない。
想いにふけていた一花はしばらく沈黙を貫いていたが、何かに気づいたのか風太郎に声をかける。
「あっ、見て! フータロー君! 向こうの方、まだ桜咲いてるよー!」
「おお、ホントだな。だいぶ散りかけのが増えてる中、珍しいな。……行ってみるか?」
「いいの!? ありがとっ」
クラスメイトが見たら驚くであろう、子供のようにはしゃぐ一花。少なくとも異性では風太郎しか知らないであろう一花の顔だ。
風太郎に身を任せバイクが細い道に抜けると、突き当たりに桜の木のある広場が見えた。
「おつかれさまっ、フータロー君」
「おう」
バイクを道の傍に置く風太郎を待ち、一花は風太郎と共に二人して桜の木によりかかる。二人だけの静かな空間に、心があらわれるのを感じる。
「静かだねー。とっても落ち着くなぁ」
「そうだな。思えば、一花とはこういう人気のない場所で二人きりになることが多いな」
「あっ、確かに。しかも今日も含めて、大体夜だよね。フータロー君、よく覚えてるねー」
作り笑いを見抜いてくれたあの日。自宅のベランダで風太郎にアドバイスをしたあの日。風太郎に夢を応援してもらったあの日。一花が一生忘れることのない、風太郎と心を通わせた場所、その記憶。全てが一花にとって、かけがえのない大切なものだ。
「忘れるわけないだろ。ていうか、お前こそちゃんと覚えてるじゃねぇか。もっとその記憶力を勉強に活かしてほしいもんだぜ」
「えへへー♪ でも今度から、フータロー君が個人レッスンもしてくれるんでしょ? 私、頑張っちゃうんだから!」
「おう、期待してるぜ」
そして、その思い出は風太郎の記憶にもしっかりと刻まれている。優しく微笑む風太郎は一花から見ても、高校で再開した頃の仏頂面からは考えられない姿だ。時を重ねて絆を深め、お互いの愛を知ったからこそ、今の二人の時間がある。
「なぁ、一花。修学旅行の件で提案があるんだが」
「なーに? 聞かせて聞かせてっ」
「俺たちにもいろいろあるから難しいかもしれないが、最後の一日くらい、一緒に回らないか?」
「!?」
「最終日はコース選択式だ。Eコースだったか? お前にピッタリの映画村、候補にあっただろ。よかったらいろいろ教えてくれよ」
「えっ、ええっ!?」
そして、唐突に一花に降り注ぐ、修学旅行でもお忍びデートをしようという風太郎の提案。恋人になったとはいえど、普段のドライな印象と正反対の、積極的な今日の風太郎に一花は驚かされてばかりである。
一方風太郎は喜んでくれると思ったばかりに戸惑う一花に不安を覚えたのか、自信のない声で一花に問いかける。
「なんだよ、嫌だったか? あいつらと一緒にいたいなら、無理強いはしないが……」
「ちっ、違うの、すっごい嬉しいんだけど……でも、班決まっちゃってるでしょ?」
「幸いにも前田も武田も去年のお前のクラスメイトだ。話はスムーズだろ、前田はまだ俺たちの関係を誤解してる可能性もあるしな」
すでに風太郎と二人きりで同じ時間を過ごすだけで十分満たされている一花の心に、まだまだ風太郎から愛が注がれる。それでも、満腹には程遠い。スイーツと同じように、大好きな彼氏からの愛は別腹なのだ。
「いいの? 私と、一緒で……」
「俺は一花と一緒がいいんだ。せっかくの京都なんだぜ、お前と思い出を作りたいんだよ」
「……!」
「だから、嫌じゃないなら……俺に、付き合ってほしい」
一花に断る理由など一ミリもない。恋人になれて浮かれているのは一花だけではないということに、喜びを感じる。
「うん、いいよ! 誘ってくれてありがとう。楽しい思い出、いっぱい作ろうねっ♡」
「おう。俺の方こそ、ありがとな」
お互いに感謝を伝えつつ、優しい笑顔を恋人に向ける。高校生らしい、青春を謳歌するカップル。まさしく、一花が自分の本心を自覚してからずっと望んでいた光景である。このままふたりで、いつまでも一緒にいたい。永遠に、甘い時間に浸っていたい。だけど。
(……うん。浮かれてるだけじゃ、ダメだよね)
たくさん愛を伝えてくれた風太郎。だが、そんな風太郎には為さねばならない目標があるのだ。
「ねぇ、フータロー君。私も話さなくちゃいけないことがあるんだけど、聞いてくれる?」
「ん? どうしたよ、一花」
自分の心の迷いは間違いなく風太郎の足枷になる。それを理解している一花はひとりで抱え込まず、正直に己の弱さをさらけ出す。風太郎と出会うまでの一花ではまずなかったであろう、彼女の成長のひとつである。
「あのね……私たちが恋人になったこと、五月ちゃんにバレちゃった」
「! まさか、俺のせいか……? すまん。……五月は、なんて言ったんだ?」
「……応援してくれるって。今までの私を認めてくれて、あなたたちの味方ですよって、言ってくれたの。私、五月ちゃんに私たちのこと話すのやめろって脅したのに、お姉さんでない自分を見せたのに。嫌な顔一つせず、笑顔で受け入れてくれたんだ」
昨日五月に対して、姉である自分との決別を告げた一花。今までの自分を棄てることに躊躇いはなくとも、そこに後ろめたさがないわけではない。長年長女として在り続けた一花の妹たちへの想いは風太郎への愛にこそ負けるとはいえど、完全に消えてはいないのだ。
「マジでか……ありがたいことだな」
「うん。本当にとっても嬉しかったんだけど……他のみんなはどうだろうって、思わずにはいられないの」
「!」
風太郎が隣にいてくれるのに、一花は自分に自信が持てない。自分に前科があるという事実が、彼女をネガティブにさせている。
「ごめんね、フータロー君……今まで何度も励ましてくれたのに、まだウジウジしてて……めんどくさいよね、私。だけど……お姉さんじゃない私が、自分勝手で最低な女なのは事実。だから、みんなは認めてくれないんじゃないかって、どうしても考えちゃうんだ」
「……そうか。今までずっと、長女としてあいつらを導いてきたんだ。お前の不安は、当然なのかもな」
「うん……それに、私がしたことは所詮抜け駆け。しかも君に好意を知ってもらうために、三玖の姿を利用した。二人とも、真実を知ったら私を軽蔑すると思う。そんなの、二乃たちの立場になってみたら当然だよ。気付いたら勝負が終わってるだなんて、私だったら耐えられない」
「……一花……」
「それに私、フータロー君に認めてもらえたからこんなことが言えるんだってみんなに疑われると思うと、不安なんだ。フータロー君のおかげで自分が間違えてたことに気付けたと言っても、きっかけが抜け駆けなのは違いない。そもそも、君にすら汚い本性を隠していたわけだし。お姉さんでない私は、やっぱ卑怯なんだよ」
「……なんというか、難しいな……いくら俺がいいといったところで、あいつらがすんなり納得するかはわからないし、それに、お前もスッキリしないよな」
一花は頷く。何があっても一花が五つ子の長女という事実は消えない。今まで辛いと思ったことはほとんどないが、最近は悩まされがちである。
一花は話を聞いてくれる風太郎の優しさをありがたく思いつつも、弱い姿を見せていることに申し訳なさを感じている。自分の心の弱さをひた隠しにしていた一花は、弱音を吐くことに慣れていないのだ。
それを受けた風太郎も考え込む仕草を見せたのち、要点をまとめ持論を展開する。
「そうだな……二乃や三玖の感情は、当然それぞれあいつらだけのものだ。俺たちのことを知って二人がどう思うかはわからないし、二人の意思を無視して強制する権利もない。あいつらがお前の抜け駆けを絶対的な悪だと断じるなら、俺たちの目標は成し遂げられないだろうな」
「…………」
その通りだなと一花は思う。ただのアプローチ止まりならまだしも、このやり方で決着がついてしまったのだ。特に一花の卑怯な戦法を目の当たりにした二乃は嫌疑をかける可能性は強いだろう。
あまりにも困難な道のりに気持ちが沈んでしまう一花。しかし、対して風太郎は冷静である。
「でも、俺は別にそれでもいいんだ。だって、俺は一花だからこそ、お前のサボりの提案を受けたんだぜ。仮に二乃や三玖に同じこと言われても、誘いには乗らなかったぞ」
「えっ……?」
「……そんな意外なことか? 確かにあの時はまだ自分の気持ちもよくわかってなかったが、それでもこれは間違いないって言えるな」
どもることなく自分の意見を話す風太郎。一花は彼の言葉に驚きを隠せない。風太郎が自分だからこそ受け入れてくれた理由がわからないのだ。あの時点での一花の葛藤など知るよしもないと思っているからである。
それでも風太郎は自分の考えがまとまっているのか、はきはきと迷いなく語り続ける。
「姉として頑張ってきた姿のお前を、俺はずっと見てきた。そんな一花の、数少ないわがまま。たくさん世話になってるお前に、俺が勉強以外に一花のためにできることとして、お前だけにしてあげたいと思ったんだ。お前の行動の是非もその動機も関係なしに、俺は一花に恩を返したかった。だから誘いを受けたんだよ。悪いのはお前だけだなんて、そんなことはありえない。俺もお前と同罪だ」
「フータロー君……」
「あいつらにだって助けられたこともあるし、それを忘れたわけじゃねぇ。だけどそれ以上に、お前の辛そうな笑顔を見たあの瞬間、こいつはまた本心を隠そうとしてるってわかっちまった。それが、俺には嫌だったんだ。作り笑いじゃない心からの一花の笑顔を、俺は知っているから」
風太郎は一呼吸おいた後、真っ直ぐに一花を見据える。そして───
「俺の気持ちは決まってんだ。俺は一花が好きで、お前に笑顔でいてほしい。二乃や三玖が俺を好いてくれようが、姉でない一花を認めないとしても、絶対に俺はこの気持ちを曲げるつもりはない」
「!」
全力で投じられる、風太郎のストレート。一花のハートを貫くには十分な威力だ。
「もちろん、みんな揃って笑顔で卒業って目標を忘れたわけじゃない。五月が応援してくれるなら、友達としてその信頼を裏切りたくない。あいつの想いに、応えたい。……だけど、もし仮に、あいつらが認めないとしても。なんと思おうと俺は、一花に隣にいてほしい」
「……っ……」
さらに、一花至上主義を曲げるつもりはない、と宣言する風太郎。その強い瞳に、一花は吸い込まれそうになる。
だが、風太郎としては当然のことだ。彼女たちがどう捉えるか以前に、自身に好意を寄せてくれる生徒の中で一人だけ特別な存在がいて、彼女だけしか愛せないにもかかわらず、己の目標のために他の少女にも引き続き生徒でいてもらう。その時点でどうしようもなく自己中心的だ。選ばれない生徒たちがどう思うかを全く考慮していない。
結ばれないのに縛り付けておくなど、彼女たちへの拷問に等しい。だからこそ風太郎は、心から納得してほしいと思っている。それでも無理なら、それはもう仕方のないことだと割り切るしかない。
誰にだって譲れないものがある。仮に二乃たちが絶対に恋人関係を認めないことを信念として示すのであれば、風太郎の一花を手放す気などない、という想いもまた信念だ。
「一花の笑顔を守るためなら、再度家庭教師をクビになっても構わない。今まで掲げてきたものを曲げてでも、一花のそばにいたい。決して蔑ろにしたくはないが、それでも受け入れないっていうなら、俺はあいつらを切り捨てる覚悟だ。軽蔑されても後悔なんてしない。そう思えるほどに、俺は一花からたくさん愛をもらったんだよ」
「うぅ……フータロー、くん……!」
一花の涙腺は限界だった。大好きな彼氏が、隣にいて支えてくれることが。何があっても自分だけを愛してくれるという疑う余地のない事実がたまらなく嬉しくて、感極まって涙がこぼれてしまう。
「っ、一花……でも、これが俺の答えだ。自分勝手なのは俺だって同じなんだ。お前が、こんな俺をどう思うかわからないが、俺は───」
「そんな、悪く思うなんてありえない。私、すごく幸せなの。人として、お姉さんとして最低で失格なの、わかってるのに。大好きなフータロー君が、みんなよりも、ずっと言ってた目標よりも、私を優先するって言ってくれることが、本当に、どうしようもなく嬉しいの」
やはり、この気持ちは曲げられない。飾らずに素直な気持ちを表現することが、風太郎の愛に対する最大の誠意だと一花は理解している。
愛を受け取ったことで、一花には新たな目的ができた。自分の全て、彼が見たわけではない本心を、全部───
「私も、フータロー君といつまでも一緒にいたい。もし妹たちとフータロー君、どっちかしか助けられないなんて状況になっても、私は迷わずフータロー君を選んじゃう。目標が達成できなくたって君を責めたりしないし、それでいいとさえ思っちゃうんだ。だって君が隣にいてさえくれるなら、私は笑えるから」
「一花……」
「でもね、だからこそ私はフータロー君を支えたいの。君が掲げた目標を達成するために、全力を尽くしたい。私だってみんなに認めてもらいたいって気持ちはあるし、なにより、フータロー君が幸せでないと、私は笑えない。君の幸せは、私の幸せなんだよ」
「……そうか。なら、ベストを尽くさないとだな。あいつらひとりひとりの気持ちに向き合った上で、俺の一花への想いをぶつけるまでだ」
独り占めしたい。私だけを見てほしい。一花の強い独占欲は完全に消えたわけではなく、今も心に残り続けている。
しかし、風太郎に触れて、一花も学んだのだ。独りよがりな愛を振りかざすだけでは、相手を苦しめてしまうと。それでは最終的には、誰も幸せになれないと。愛を与えてくれた分、自分からも返したい。この相手を思いやる気持ちこそ、忘れてはいけない大切なものだ。
初めは二乃への対抗心から決意した、一花のスタイルチェンジ。その内に秘めたものは風太郎を誰にも渡したくない、自分と同じ気持ちにさせたいという、自分本位なものでしかなかった。この時点ではまだ、恋を叶えるためになりふり構わないという姿勢は変わっていなかった。
だが、一花は昨日風太郎にアプローチして、彼が自分の愛に救われたということを知った。今まで姉であり続けたからこそ、風太郎に認めてもらえた。風太郎のおかげで、一花は彼に好かれたいと思うあまり忘れかけていた愛、そして、夢を応援してくれたことへの感謝の心───彼自身は無自覚なれど、最初に愛を与えてくれたのは風太郎だということを、思い出すことができたのである。
ゆえに一花は変化球に頼ることをやめるだけでなく、自分の嘘も打ち明けた。ありのままの自分、そして嘘すらも受け入れて許してもらえたのは、風太郎が一花の愛を真実だと確信してくれたからなのだ。
「一花、ありがとな。お前の言葉が、すげぇ嬉しい。だって、俺も特別な人は一花だけなんだからな。もしお前たち全員が同時に危機的状況に陥ったとしても、俺が真っ先に助けるのは一花だ。ひとりを選ぶっていうのは、そういうことなんだろう」
だからこうして、風太郎も一花の想いに応えるのである。身勝手な主張ではあるが、それでも一花にはたまらなく嬉しい。心が通じ合っているという証明。一花と風太郎は、互いに同じ気持ちなのだ。風太郎の愛によって、ようやく一花の心から迷いは消えた。
絶対に風太郎だけは手放さない。たとえ妹に嫌われようと、彼女たちを蹴落としてでも、彼の隣は譲らない。
「すべてを得ようだなんておこがましいんだ。俺たち二人の幸せは、あいつらにとって不幸にあたるのかもしれない。だけど、それでも俺は、一花だけを愛してるんだ。二乃たちに靡くことはもうありえない。だって、俺の幸せは、望みは───」
恋人になってまだ二日目ではあるが、お互いに積み重ねた愛はその比ではない。一花も風太郎も、互いの存在がなければ、女優として輝くことも、家庭教師を続けることも叶わなかったのである。
今の自分は、恋人の存在なくして語れない。二人ともそれがわかっているからこそ、相手の全てを愛で受け止める覚悟が備わっているのだ。
「一花がいつまでも、笑顔でいてくれることなんだ。……叶うなら、俺の隣でな。だから……もっと、俺に甘えてくれ」
「フータロー君……! ありがとう♡」
穏やかな笑みで愛を与えてくれる風太郎。少女が心のどこかで望んでいた、甘えたいという願望。心はすでに風太郎への愛で溢れかえっている。それでも、一滴たりともこぼすつもりはない。風太郎が頬を染めながらも、目線を逸らさずに伝えてくれた真剣な想い。応えなければ、彼女失格だ。
「私たち、ホント自分勝手だね。問題は山積みなのに、こうして二人きりでこっそり会って、イチャイチャしてさ」
「妥当な評価だろ。長男、長女であることをやめた俺たちにはお似合いだ。でも、明日からは切り替えていくぞ。あいつらに認めてもらいたい気持ちがあるなら、遊んでばかりじゃいられねぇ。二乃にも三玖にも失礼だしな。次の休日は五月も交えて作戦会議だ」
「そうだね、頑張らないと! それにしても……ふふっ、フータロー君にお似合いって思ってもらえるだなんて……食堂で出会った頃からは想像もできないな」
一花は両手で風太郎の手を包み込む。たっぷりと、ありったけの愛を込めて。
「フータロー君、好き。大好き。何度言葉にしても、ちっとも足りない。花火大会のあのとき、作り笑いを見抜いてくれた君が」
素直な気持ちを、大切に。
「林間学校の倉庫で夢を否定することなく、応援してくれたあなたが」
君の心を、私の愛で満たしたい。君が私に、してくれたように。
「そして、今。私の全てを受け入れて、愛してくれるフータロー君が。愛おしくて、恋しくってたまらないの」
だから、私は。
「一花……」
「今だってドキドキが抑えられない。フータロー君への想いが、愛が止められないの。だから───聞いて」
手を離し、告げる。君が幸せを感じてくれる、私の笑顔で───
「たくさん私に愛をくれて、ありがとう。だから、私にもいっぱい、甘えてほしいな」
「─────」
直後、風太郎に両手で肩を掴まれる。驚く理由はない。一花は風太郎を見上げたのち、無言で目をつむる。視界は真っ暗でも、男らしい強さを感じる風太郎の眼差しは頭から離れない。真の愛で結ばれている二人に、言葉などいらない。二人の顔が接近し、唇が重なろうとした、その時。
「ぐぅ〜…………」
空腹の知らせを告げる、あまりにも雰囲気にそぐわない音が鳴り響く。一花ではなく、風太郎のお腹からである。
「…………」
「…………」
一花の肩から手が離れる。それに伴い目を開く。少女の視界には冷や汗を掻く風太郎。さすがにこれは堪えきれない。
「ぷっ……あはははっ! もう、ホント締まらないんだから! フータロー君、かわいいなぁ♡」
「う、うるせぇ! からかうなよ……死にてぇ」
「ねー、いい時間だし、お腹空いちゃったもんねー♡ そんなこともあろうかと……」
弄りがいのある風太郎を見たことにより、一花の心の小悪魔スイッチがオンになる。
悪戯心に満ちた彼女が鞄から取り出したのは、風太郎と会う時間帯的にあって損はないと考えて多めに買っておいたパン。外食は風太郎の財布には厳しいと思い、いくつか袋に包んで残しておいたのだ。
「じゃーん! みんな大好き塩バターロールでーす!」
「お、おう……名前からして美味そうだな」
「でしょー? これをフータロー君に差し上げましょう!」
「ん、いいのか? サンキューな、一花」
からかわれた後ではあるが、素直に礼を口にする風太郎。ヘルメット代が想像以上に財布に大打撃を与えたこともあって、一花の気遣いを非常にありがたく感じていた。
しかし、そんな風太郎の感謝の気持ちは一花には正しく伝わっていない。昨日からお預けを二度もくらっているのに、意地悪しないなんて選択肢は彼女にはないのだ。一花の藍色の瞳の奥にはすでにハートが宿っていることに、風太郎はまだ気がついていない。
「……一花? なんで千切るんだよ? ていうか千切るにしては小さすぎないか?」
「これでいいの。あむっ」
一花はパンを咥えて風太郎を見上げ、再び目をつむる。即ち───
「ふぁい、ふーふぁふぉーくん♡」
「!?」
何事も、何度でも挑戦。風太郎に指し示す、ワンモアキスの精神である。
「い、一花……」
「ふぉーぞ、ふぇしぃあがれっ♡」
言葉こそあやふやでパンを咥えているという違いこそあるが、一花のポージングは先ほどと同じだ。鈍感さには定評のある風太郎でも、彼女が何を期待しているか理解できないわけがない。
「んー、んー♡」
「っ……」
暗に早くしろと、もう一度キスしろと促す。声のトーンからして、風太郎が動揺していることは目をつむっている一花にも明らかだ。視界が真っ暗であるがゆえに、どのタイミングでキスするのかわからないというスリルにゾクゾクしてしまう。しかし、風太郎が下す判断は一花には容易に想像できる。ヘタレな風太郎は声を荒らげ、強引にパンを奪うだろう。
(まぁ楽しいしホントもう十分幸せだし、そろそろいっかなー……)
そう結論付けて一花がネタばらししようとした、その矢先。
少女の口先に伝わる感触。咥えたパンが離れ、隙だらけの唇が塞がれる。
「んむっ……!」
自分が仕組んだにも関わらず、一花は思わず目を見開く。しかし、すぐに驚愕は歓喜の渦に飲み込まれる。当然一花は自分から唇を離すつもりはない。限界まで風太郎を感じたい。少しパンの味がするキスではあるが、これもまた一花にはたまらない興奮の材料だ。
「んはっ……はぁ……」
「ぷはぁ……ふふっ……じゅるっ♡」
お互いに息苦しさが極限に達し、唇が離れる。恥ずかしそうに明後日の方向を向く風太郎に対し、キスの味を少しでも長く味わいたくて舌舐めずりをする一花。風太郎との粘膜接触は一花にとって強烈な媚薬なのだ。すでに小悪魔スイッチは切り替え不可能である。一花は誘うような甘い声で、風太郎の脳を刺激する。
「もう、やだぁ、フータローくん……だいたぁん♡」
「……自分で仕掛けといて何言ってんだよ……」
「ふふっ……とっても、美味しかったよっ♡」
昨日から数えてキスは計四回。お互いに二回ずつ試行している。自分が仕向けたことだが、風太郎からのキスは一花には何よりの幸せであった。
だけど、もっともっと満たされたい。風太郎限定のキス魔と化した一花はこれしきでは止まらないのだ。
「じゃあ次は、私のキス……ううん、食事の時間だねっ♡ フータロー君、どーぞ♡」
「はぁ!? もうやんねーよ! おかげさまでお腹いっぱいだ!」
「えー、そんなぁ……せっかく、ウインナーロールがあるんだよ? これはもう、私としては咥え……ヤるしかなくない?」
「さっきから何一つ訂正できてねぇよ! ていうか食べ物で遊ぶな! もったいないだろ!」
「? べつに食べ物じゃなくても、その……フータロー君のウインナーはあるでしょ? も、もしフランクフルトレベルの大きさだとしても、たぶん私のサイズなら、十分挟め───」
「む、胸寄せてんじゃねぇよドアホ! 外でヤるとか非常識すぎるだろ!」
「ダメかー……わかったよ、じゃあ室内で一緒にサンドイッチ(意味深)を───」
「黙れ黙れムッツリスケベ! もう飯食いに移動するぞ! 俺が奢るから許してくれ!」
「えー……無理してない? 私奢るよ?」
「なんでそこで普通の反応に戻るんだよ! 滅多にない俺の奢りだぞ! ありがたく思え! 思ってください!」
「むー、フータロー君のヘタレ……」
昨日のように繰り広げられる夫婦漫才を楽しみつつも、思い通りの展開にならず頬を膨らませる一花。自分の信念をしっかりと持っている風太郎だが、今は必死に一花の誘惑から逃れようとしている。
彼女への愛を言葉で伝えるのは百点満点でも、一花が肉体的接触を匂わせると露骨にたじろぎ情けない姿を晒してしまっている。リア充デビューを果たしても、まだまだ初心な男の子ということだ。
だが、そんな男らしくない姿も一花にはとても愛らしい。幻滅するなどありえない。声も性格も、その在り方も。風太郎の全てを愛しているのだから。
「しょうがないなぁ……でも、ご飯食べに行った後は……ね♡」
「バカ、解散に決まってんだろ! バレるリスク考えたら朝帰りとかありえねぇ!」
「えー、まだ私何も言ってないよ? フータロー君のおちゃめさん♡」
「おちゃめでもなんでもいいわ! 寒くなってきたし早く行くぞ!」
「はーい♪ ぎゅーって抱きしめて、あっためてあげるねっ♡」
「〜っ! もう好きにしろ!」
愛を学んだ長男と長女の恋愛模様。そんなわがままな二人の物語は、まだまだ始まったばかりである。
次回から二部って感じです