火の鳥、燃ゆ
「エル?」
「……」
「こっちを見て下さい、エル」
「………」
「何で私が怒っているか分かりますか、エル」
「…ダービーに負けたから、デス」
貸し切られた体育館。その中心に、場違いに設けられた畳2枚。
目に見えて意気消沈したエルの為に、グラスがおハナさんに頼み込んで作った説教空間であった。怪鳥は正座で縮こまるしか無かった。
向かい合う2人の間に、静謐でありながら一触即発の空気が流れる。爆発しそうなのはグラスの方だけだが。エルの方は、手痛い敗北もあって落ち込んドルパサーである。
「間違ってはいませんが、厳密には違います……けれど、この際まずはそこを起点に話を進めますね」
「ハイ」
「エル」
「ハイ」
「最終直線50m。なんですか、あの体たらくは」
日本ダービーでのスパートにおけるエルの突然の失速は、リギルメンバーの殆どにとって目を剥くような予想外の事態だった。序盤から中盤にかけて囲まれた事を危惧していたおハナさんですら驚愕したレベルで。
スペに差し返される直前までは、問題無く最高速だったからこそ尚更だ。
全てを分かっていたのは、グラスだけだった。
「ち、力が急に入らなくなって…」
「力?何も故障は無いのでしょう」
「だから、私自身も分かんなくて……」
「分からない筈がありません。エル、貴方は何を目指してましたか?」
一刀両断されたその言葉に、エルはついカッとなる。本当に分からないのに、勝手に決めつけられても困ると。
「スペちゃんデスよ!あの娘に勝ちたいから、勝つ為に彼女を抜かそうと…!!」
「見据えるべきはゴールでしょう、エル」
ハッとした。冷静になった頭で見返すと、グラスの鋭い視線がエルの背筋を貫いていた。
「スペちゃんを抜かした時点で満足しましたか?そこで貴女のレースは終わってしまったんですか?」
「あ、あ…っ」
「エル」
もう何度目かも分からない呼びかけ。それを皮切りに、グラスもまた己の内心を吐き出した。
「私、嬉しかったんです。リハビリしか出来ない私を励ましてくれる事、私の為にダービー制覇を約束してくれた事。本当に、本当に嬉しかったんです。今もありがたいと、心から思っています……
……でもそれ以上に、由緒あるダービーにそんな態度で臨んだ事が許せないんです」
共に研鑽する貴女だからこそ。という念を込めて告げられた言葉に、エルは反論出来ない。
数瞬の沈黙を経てやっと、ポツリポツリと理由を零すのがやっとだった。
凱夏がリギルを抜けた事。
グラスを勧誘したのは彼にも関わらず、彼女を見放したようにエルの目には映った事。
それ以来、グラスが寂しそうに見えた事。
だから、ダービーでスペちゃんに勝って、その奥にいる凱夏に目に物を見せてやろうと思った事。
全てをグラスは静かに聞いていた。打ち明けてくれたエルに、感謝の微笑みを向けながら……
「エル」
「ハイ…」
ブッピガァンッ!!
「ブエノーーー‼︎‼︎」
関節を極めた。ご丁寧に、絶妙に畳を荒らさないまま体育館の床に移動して。
「エル?」
「ナンデスカー!?」
「貴女は私の為を思ってくれていたようですが、ハッキリ言って余計なお世話です。私の因縁は私が決着をつけますし、何より私と凱夏さんはお互い納得の上で離別しました。そんな事で気を惑わせるくらいなら、寧ろ私の事なんて気にも留めてくれない方が余程ありがたかった」
「ア°ア°ア°ア°!デ、デモ!寂シソウニ見エタノハ、ドウシヨウモ無カッタデェェェス!!」
「ええ、その事に関しては私の落ち度でしょう。知らず知らずの内にそんな甘さが滲み出ていた自分の至らなさに、腹ワタが煮え繰り返りそうです」
「な、なら…」
「でもそれはまた別の話。よりにもよって本番で、スペちゃんに八つ当たりをやらかした貴女の責とは何の関係も無い」
「アイエェェェ!!」
いよいよ曲がってはいけない方向に曲がり始める関節に、エルの悲鳴はより鋭さを増していく。それ以上いけない。
「グラスちゃん、それ以上いけないわ」
実際にそう言って止めたのは、お目付役として抜擢されたマルゼンスキーだった。流石に彼女に止められてしまっては、グラスも引き下がる他無い。
解放されたエルは、寸前まで抜け出そうと藻掻いていたのもあって勢いよく倒れた。コンドル、地に墜つ。
「すみませんマルゼンスキー先輩。私、頭を冷やしてきますね」
「グラスちゃん」
エルを畳の上に寝かせて去ろうとする背中に、マルゼンスキーは声を掛ける。
「自分の所為だなんて、間違っても思うんじゃないわよ」
「……心得ています」
理屈で分かって他人に説いても、それを自分にも適用出来るとは限らない。
今、グラスの中には「私の所為でエルが負けた」という思いが少なからず発生していた。怪我をしていなければ、ダービーに出ていれば、弱い自分を見せなければ、心配させなければ……と。
目敏く咎めたは良いものの、どこまで払拭できたやら。グラスの背を見送りながら、マルゼンスキーは自分の言葉の薄っぺらさに心底辟易とするのだった。
〜Side:グラス〜
『リギルで鍛える気は無いか?』
思い出す。
『えっマジかぁ…まぁ気が向いたらいつでも口利きするから』
初めて会った日を思い出す。
『根詰め過ぎるなよ。後悔するのはお前だからな』
2度目の邂逅を思い出す。
『待ってるよ。お前が這い上がってくるのを』
幾度目かに交わした会話を思い出す。
『おめでとさん。これで晴れてリギル部員だな』
待っててくれた貴方を、思い出す。
『俺は飽くまでサブだから、こんな重いのを受け取るなんて出来ん……が、重ねる事ぐらいなら』
私の不退転に、あの4文字を添えてくれた事を思い出す。
『怪我からの復帰プランの草案、その後のレース日程に関する提案、全部しっかりおハナさんに伝えた。グラス、お前は彼女の下で輝ける。絶対に』
嗚呼、遅かった。
リギルに入るのが遅かった。
彼を
気付くのが遅かった。。
伝えるのが遅かった。
嗚呼、遅かった。
私が、スズカ先輩より早く生まれ、入学していれば……。
全ては机上の空論、後の祭り。結局私は、彼が背負うスズカ先輩の影を払えなかった。一緒に歩む存在には選ばれなかったのだ。
けれど、予想出来た話でもあった。最初から彼は“
でも、こう考えてしまう。
私があと一歩踏み込んでいれば、何か変えられたんじゃないかと。
言われた通りに、意地を張らずにすぐリギルに入部して律されたトレーニングをしていれば、蓄積疲労で怪我なんてせずに彼とレースの道を往く時間が増えたかも知れない。
彼が私を理解してくれているのだと早期に信頼しておけば、その分心の距離を詰めれたかも知れない。
彼に惹かれていく自分の心に早く気付いていれば、自分の行動を変えられたかも知れない。
彼に自分の心をもっと素直に伝えていれば、彼に自分をより意識させる事が出来たかもしれない。スズカさんとの件で自分を責める彼を癒せたかも知れない。
そうすれば、彼は私に寄り添ってくれただろうか。
そんな傲慢な考えが、よぎってしまう。
「…“一意専心”」
私の不退転に、彼が添えてくれた筆。
ああ、変えられなかった。変わらなかった。この言葉の通りだ。
凱夏さんがどこを目指しているかなど知らない。だがそれは少なくとも私の目指す道から逸れた位置にあって、そして彼は一意専心にその先を目指している。リギルを離れたのもその一環だと、直観が告げている。
だから、どう足掻いてもこうなったのだ。彼は私のトレーナーにはならない運命だったのだ。
「不退転ーー」
そう思って、私は自ら書いた『不退転』の和紙を取り出し。
「ーー何が、不退転か」
引き裂いた。
何もかもが烏滸がましい。こんな未練がましく醜くのたうち回る姿が、大和撫子だとほざくつもりかグラスワンダー?
エルにどれだけ心労を掛けた?
如何程の心配をおハナさんや先輩方に掛けさせた?
そんな軟弱な不退転で、彼の一意専心に顔向け出来るか?
「…変わります」
否。変わらなければならない。怒りの劫火で自らの身を焼き、その中で生まれ変わろう。
誇れる自分である為に。
皆に誇られる自分である為に。
瞳に燃える青い炎の中で、不死鳥はその翼を伸ばし続ける。いずれ来たる“その時”を見据えて。
ダービー直後の話はウンス&キングや桐生院&ミークも含めて1話に纏めたかったんだけど、グラスに設定盛り過ぎてこのザマです