「今日は良いレースにしましょう」
他意は無い。お互いがお互いに勝つべく全力を出し切れば、自ずとそのレースは美しき善き物となるだろう。
「ええ。此方こそ」
対するスズカ先輩も同じ気持ちで、握手に応じてくれた。
……でも。分かってはいても、やはり現実は私に否応なく突き付けてくる。
(私は、敵として見られていない)
スズカ先輩が、そういう風に相手に敵意を燃やすタイプのウマ娘ではないのは理解してるつもりだった。しかし今目の前の彼女は、私の事を意識しているのかすら怪しく思える。
この疎外感が、私の色眼鏡である事を願いたい。その焦燥すら自分の視界を曇らせそうで、焦りが焦りを呼ぶ。
と、ここで思い出されたのは桐生院さんの特別講座だった。
『サイレンススズカさんのレース運びはタイムアタック形式です。レースというより独走形式、自分の中で完結しています。これはレース前の態度などにも表れていて、その中における“他者”の介在する余地が極めて少ない』
直近である宝塚記念、エアグルーヴ先輩が敗れたレース映像を背に語る桐生院さん。
『なので、レース前・最中での圧力や駆け引きは効果が薄いです。暖簾に腕押しなので、無闇に相手に関わってペースを崩さないようにしましょう』
その言葉を今一度、脳内に反芻させて。私はようやく平静を取り戻せたのだった。そうだ、彼女が私を敵として見ていないのは今に始まった話じゃないんだ。だって私以外の誰にだってそうなんだから。
…いや、それはそれで物申したくはなるが。少なくとも我慢出来る範疇にはギリギリ収まってくれる。
「2人でバタバタしてる所、申し訳無いのデスが」
そんな所に割り込んできたのはエル。いつぞやのダービー敗戦での消沈など微塵も感じさせない、自信に満ちた瞳で私たちを見据えてくる。
「同世代でジュニアチャンピオンのグラス」
私を指差して。
「既に世界級の実力を持ち、一足先に飛び立とうとしてるスズカ先輩」
スズカ先輩を指差して。
最後に、自分自身を。
「そして、世界最強を目指す私ことエルコンドルパサー!クラシックで暴れたスペちゃん達がいないのは残念ですが、これが暫定的な最強決定戦デス。全員撫で切って、エルこそが頂点だと示して差し上げマァス!!」
「嘘でしょ…いつの間にそんな大変なレースに」
「ふふっ。エルったら大袈裟な…っ!?」
思わず微笑んでしまった私だが、次の瞬間に強い緊張にその顔を歪めてしまった。エルから放たれた視線に、強く射抜かれてしまったから。
「……ま。病み上がりで腑抜けたグラスには負ける気しないデスけどねー」
「むっ…!言いましたね、エル」
次の瞬間にはお茶らけた調子ではぐらかされるが、先刻までの強い意識は誤魔化せない。同時に、それに応えねば、超えねばという思いが私の中で燃え上がる。それを見てどこか満ち足りたように、エルは笑みを浮かべて私の横を通り過ぎて行ってしまった。
その、すれ違い様。
「It's hard to see what is under your nose. 」
「!」
私にだけ聞こえるように、私にだけ分かるように告げられた言葉。その意味は、“灯台下暗し”。
そこに込められた意味は、考えるまでも無い。
「……ありがとう、エル」
彼女のおかげで、漸く本当の意味で頭が冷えた。これまでに無いほどの集中力で以て、レースに臨めそうだ。
「スズカ先輩」
「不肖グラスワンダー。このレースを勝たせていただきます」
「……私こそ」
そう言い放ってから、次に目を向けたのは観客席。私たちを見守ってくれているおハナさんと桐生院さん達、そしてスズカ先輩を見守っているであろう凱夏さん。
成果を見せて差し上げねば、と。私は彼らの姿を視界に入れて、より強く決意を固めたのだった。
ーーーー
「秘密の特訓、成果はあったかしら?」
「あばばばばばば」
「いやパニクり過ぎでしょう…」
ふと突き付けられた問い、その意図を瞬時に汲み取った桐生院葵は頭が真っ白になった。間違いない、おハナさんはグラスさんとの賢さ集中講座の件を知っている。バレてた!……と。
「勘違いして欲しくないのは、別に責めたい訳じゃないって事。いえ出来れば体制的には予め伝えて欲しかったけれど」
「すみません…正直に申しますと、グラスちゃんのおハナさんへの反骨心を煽った形となります……」
「…貴女、見かけより
普段はあんなにポワポワした雰囲気を漂わせながらも、自分のグラスへの叱責を起点として利用してみせる目敏さ。しかしその秘密特訓も体に負担を掛ける物ではなく、次のレースに向けたスケジュールに支障を来さないよう入念な回復措置が取られていた事もあり、東条は今回の事を不問にするつもりでいる。まぁ今度、桐生院が今までやってきたポカを面白おかしく可愛くまとめてリギルメンバー相手にプレゼンしてやろうかぐらいは考えているが。
しかし、同時に疑問点もあった。
「…貴女も把握している筈だけれど、グラスの現時点での目標は有馬記念よ。どうして重賞かつスズカと戦うチャンスとはいえ、GⅡ止まりの毎日王冠にそこまで力を入れるのかしら」
「ケジメを付けさせる、ただそれだけの為です」
その即答で、東条は彼女の論き一定の理がある事を察した。肯定沈黙で表し、続きを待つ。
「グラスちゃんは未だ、凱夏先輩の件を振り切れていません。だから、その遠因となったスズカさんとの戦いは良い好機だと考えました」
「スズカを通して牧路君と全力でぶつかり、後腐れを無くそう……という判断ね」
「はい。でもその為には、グラスちゃん本人の中に“言い訳”が残っていては効果を望めない。そんな状況では今後のトレーニング成果にも影響を及ぼしかねないでしょう」
病み上がりだから。
調整レースだから。
万全じゃないから。
…そんな“ダメだった理由”を用意出来る状況では、どんな結果でも尾を引いてしまう。故にこそ、現状で用意出来る100%を彼女に発揮させてあげるべきだと、桐生院家の娘は述べた。
それに対し東条は、納得を示しながらも最後の疑問を突きつける。
「……貴女。グラスに“勝ちに行く”と言ったのよね?」
「ええ、そうですが」
「その言い草だと
“言い訳”というのは敗者が使う言葉だ。それを前提にして行動するのは、グラスに言った事と矛盾するのでは?と東条。対する桐生院は、笑う。
「東条さん。コインが4枚あるとして、全部放り投げて表が上に来る確率はどれ程でしょうか」
「……1/2を4回。1/16ね」
「
獰猛な笑みだ、と東条は思った。子猫を拾ったつもりが目覚めに向けて牙を砥ぐ獅子を拾っていたらしい、とも。
「負けを見越しても、その上で勝ちに行くのはまた別の話…か」
「そういう事です。何か問題ありましたか?」
「それはこの後のグラスが示してくれるだろう。見てきてやれ、一番近くで」
「……はい!」
ペコリと頭を下げて、桐生院は定位置であろうバ道に向かった。どうやら彼女の父もかつてそこで担当ウマ娘を待っていたそうで、その習慣に
(やれやれ、従順な
何にせよ、良い風がチームに入った物だと。そう思う事にして、東条は空を仰いだ。
「…あら?」
その人物に気が付いたのは、視線を水平に戻した時の事。
視界の隅。斜め前方向に、半年前まで見慣れていた白髪の一纏め。
「牧路君…?」
属するスピカの面々は最前席の定位置にいる筈なのに、その痩躯がポツンと座しているのは後方の席。どうして1人でそんな所に、と声を掛けようとする。
だが、ファンファーレ。もう始まる、始まってしまう。見逃す訳にはいかない。
「グラス、エル…!」
魅せつけてくれと、東条ハナは切に願うばかりだった。