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あの瞬間を…大きな入道雲が浮かぶ青空に白球がカキーンと飛んでいくそんな光景をこの夏の音を聞く度に思い出す。千歳が…私のヒーローが輝いてるそんな瞬間を
……
…
「ち・と・せ!!一緒に帰ろ!」
千歳が今日蔵センに呼ばれて遅い時間までいるということを知っていた私は急いで着替えを済ませそう声をかけた。というか飛び出してきたのはいいけど私汗臭くないよね?制汗剤いつもより多めにふりかけたし少し不機嫌な悠月にチェックもしてもらったし!
「お、陽今帰りか?」
「うん!1on1で悠月に勝って権利を手に入れたんだ」
「権利?」
「あぁいや…こっちの話だから!」
どちらが千歳と一緒に帰るかという賭けで始まった1on1はいつもより白熱して、普段ならまたやってるよこいつらみたいな感じで帰ってしまう一年生もあまりの真剣さに黙って見ていたくらいだ。まあそれが痴情のもつれというか1人の男子によって熱くなっているのを一年生は知っているのだろうか
「?まあいいやこの後どうする?8番でもいくか?」
「おぉいいね!旦那はもちろん奢ってくれるんだよね?」
「俺はグラマーな美少女にしか奢らない主義なんだ」
「な!言ったな!このスレンダー代表の陽ちゃんに喧嘩を売ったな!」
「ははっ美少女の部分は否定しないんだな」
からからと笑う千歳に軽い肘打ちをかました。私だって最近は夕湖にメイクを聞いたり悠月に下着とか服とか教えて貰ったりうっちーには女子力そのものを指導していただいているのだ。少しは可愛くなっていると思う
「旦那も奢る条件を美少女にしてくれてもいいんですぜ?」
「陽の成長性も見ながら考えとくよ」
「じゃあ乗りなよ成長性タクシーに」
キザな男のように後ろを指さした。さっき思ったことはなんというか全然撤回だ。私に女子らしいことなんて出来そうにない出来ることは多分こんな風に楽しく千歳と過ごすことだけ
「料金は餃子一人前で」
「合点!」
……
新緑の葉に夕焼けが溶け込んでいく風景はチャリ通&部活生じゃないと味わえない。そしてそれを風で感じる夏の匂いってなんだか独特。もちろん汗の匂いとかもそうなんだけど、やっぱり“青”って感じが匂いがいっぱいする。でもそれはどこか嫌いじゃない。夏は季節の中で最も特別な季節だからだ
「陽」
「何?」
「女の子のうなじってその子特有の匂いがするらしいぞ」
「ふーん」
「嗅いでいいか?」
「いいわけないじゃん!私だって一端の乙女なんですけど!」
動揺してハンドルをぐらりと揺らしてしまった。いや多分嗅ごうとされたら千歳をこのまま振り落としていたと思う。だって恥ずかしいし…匂いとか気にしてるけどなんかヤじゃん
「冗談だよ。それに陽からは何だかバスケットボールの革の匂いがしそうだし」
「てやんでぃちゃんと薔薇の香りがするに決まってんだろう?」
揺れたハンドルを戻し、またぐんぐんと加速していく。なんて心地のいい夏風だろう。いやそれともこの空間が楽しいのか…私にはその正体が分からない。ただペダルをこぐことしか今は出来ることがないのだと
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カウンターに座り見慣れたメニューに粉落としが如くさっと目を通すとすぐに店員を呼んだ。いつもはみんないるからテーブルだけどこうして2人で来るとカウンターになるから何だか新鮮な気分になる
「俺はセットだな。陽は?」
「チャーシュー!」
少し待つと見慣れたどんぶりが目の前に置かれた。こうして何度も食べているのにまた来てしまうのはもうラーメンのスープが血液の一部を形成してるからじゃないだろうか。多分これはもう半分輸血みたいなものなのだ
「それじゃあいただきまーす」
「んじゃ俺もっと」
他愛もない話をしながらラーメンをかきこむ。女子は男子にラーメン屋に誘われるのが嫌だってなんかテレビとかで言ってたけどそんなわけある?と私は思う
「千歳さぁ暇なら女バスのマネージャーにでもなってよ」
「はぁ?何でだよ」
「いやぁスポドリの買い出しとか床をワックスで磨いたりとか、か弱い乙女にはちと厳しいのよ」
「HAHAHAって笑うとこかそれ」
よし千歳を後ではり倒そう。こんなにも可愛くてか弱い美少女を鼻で笑うとはいい度胸だ
「なんなら悠月のたゆんたゆんも見れます」
「ぜひ検討しておこう」
「陽ちゃんも揺れます」
「あーやっぱ8番うめぇー」
「ちょい無視すんな千歳!私の健康的な体にも興味持って!」
カキーンとあの白球の音が店の中に響いた。それは私のヒーローの音で千歳にとって悪夢のような音だ。バッセンとかでは平気そうなのに高校野球の試合とかの場面を見るとバツの悪そうな顔をいつもしている
『甲子園名場面プレイバック』だなんて
どうしてこう間の悪い番組が流れてしまうのだろうか
「千歳。早めに出る?」
「あぁ悪いな陽」
まだ少し熱い麺を私はかき込むようにして食べ店を出たのだった
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夜風がワイシャツの隙間をすっと通り抜ける。昼の暑さからは少し冷えたような涼しい風が肌を撫でた
「キャッチボールってさ単純だけど楽しいね」
「なんかいつもいつも付き合ってもらってる気がする」
グラブをつけた千歳はいつにも増してかっこいい。多分あの時の光景を私がまだ憶えているからだ
「まぁパートナーですから」
「…陽が男で一緒の野球部なら何か変わってたのかもな」
けれどさっきの8番での出来事が千歳を暗くしていた。私はそれを吹き飛ばすかのように大きく振りかぶり千歳に白球を放り投げた
「そんな遠い目しないでよ。ほら笑え!」
「お、ナイスボール」
「そうそう千歳みたいな男前がしょぼくれてたらその辺の草木だってしょぼくれちゃうよ」
「だな。陽」
「おうよ旦那」
にかりと笑った千歳をみて私も笑顔になった。
なんでと聞かれればまだ分からないと答えるこの感情にもきっと名前をつけられる日がくるのだろう
「陽」
「何?」
「月が綺麗だな」
夜空を見上げれば月明かりが雲の隙間から覗いていた。名月とまではいかないけどこの空はどこか美しいと感じた。けれどこないだ授業でやった夏目漱石の話を思い出し心臓がキュッとなる
「え、キモい」
「何でだよ」
「千歳がそんな情緒ある事言い出すとキザすぎて夏なのに鳥肌たってくる」
「俺にだってそんな感傷に浸りたくなる時くらいあるわ」
「えぇーでもそれは陽ちゃんの前だけにしときなよ?」
どこかいつも渇いた千歳が湿っぽくなるのはクラスのみんなで囲んでいる時には見たくない。私とこうして二人でいる時に少しでも私の熱で乾かしてやりたいのだ
「ぬかせ今日はちょっとそんな気分になっただけだ」
「よし千歳!遠くに行くから思いっきり遠投して!」
「馬鹿野郎舐めんなよあの月まで飛ばしてやるわ。それ!」
夜空に浮かんだ白球。あの時とは違うけど千歳が遠くに飛ばす球を取りたい。そんなふうに思ったんだ
そして願わくばあなたのホームランボールが私の元に飛んできたら良いのにと