夏はいつも懐かしい匂いがする。あぜ道を歩いて風を感じるだけで胸にスっと夏が吹き込んでくるような気がするのだ。田んぼに水を引いている用水路の水を撫でるとキラキラと輝く太陽がそれを照らしだし雫のひとつひとつを宝石色に染めていく。そんな綺麗の色の正体を知りたくて手のひらで大きく掬っても透明な水がするすると指の隙間からこぼれ落ちてゆくだけ…きっと何もかもをそのままの状態で留めておくなんて出来ないのだろう
それでもセピア色の思い出はきっとずっと…変わっていない
君が連れ去ってくれたあの時。車窓がどんどん都会に切り替わっていく高揚感と君がくれたドキドキで私の心臓はもう張り裂けて爆発しそうなんだよ?
「君とひまわり畑が見たい?そんな藪から棒に」
「うん。ひと夏の思い出にね」
「まぁ…明日姉が言うのならいいんだけど」
こういう風にいきなり誘うのは私の特権だ。君にとって不思議な人であったが故に無茶無謀も多少はキいてしまうというものだ
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電車にこうして揺られるのは慣れたものだけど君とこうして揺られるとあの逃避行を思い出して顔に熱が集まっていく感覚を覚える。ロングシートに2人並んで座って当たり障りのない会話をしているだけで幸せだと感じられるのならもうこの世に嗜好品なんていらないんじゃないかと感じてしまうくらい今の私はトリップしていた
「明日姉のワンピース」
「なにかな?」
「似合ってるよ」
「そういうとこ…ちょっとずるいよ」
前髪の毛先を少し弄ぶようにして恥ずかしさを霧散させる。女心を分かってやっているのかそれとも無自覚なのかは分からないけど少なくとも私の女心には響くのだと
「何か言った?」
「何も」
カタンコトンと揺れる電車。過ぎ去る踏切の音がドップラー効果によって歪んで聞こえる。緑が切れ間なく流れ続けるこの景色と比べて、東京の車窓からみた世界は凄かった。ビルが立ち並んでいて見上げても見上げても届かなかった
「向日葵って正しく夏みたいな花だよな。漢字はその通りだし英語でもsunflower。夏の花だ」
太陽のオレンジ色のイメージもあいまってまるで君の心に火をつけたあの子みたいだって少し心の中で思った?何だかそんな顔をしている
「確かにそうだね。ちなみに花言葉は君だけを見つめる…太陽に一途な花」
「な、何か言いたげですか明日姉」
バツの悪そうな顔に私は少しふくれっ面で嫉妬を漏らす。あの日
「別に?君が野球をしだした影響が私じゃないこととか全然気にしてないよ?」
「めちゃめちゃ気にしてるじゃん…」
それでも野球をしている君のことは大好きだ。誰よりも大好きだ。それは火を付けたあの子にも負けていない。昔から好きだ。
この思い出作りを悲恋で終わらせたくない。数年後に写真を見て泣いたり結婚式の招待状が来て胸が締め付けられたりしたくない。私が一番好きだと伝えたい。トモダチで終わりたくない
「あと何駅だろ」
「さぁね。このままノンストップかも」
夏は特別な季節だ。クリスマスやバレンタインがある冬は落ち着いた恋のイメージがあるけど夏はなんというなVividな恋の予感がする
この電車はきっとその終点へ連れて行ってくれる
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既に車窓から見えていたが駅の改札を抜けると直ぐにそれは現れた
「綺麗」
あぁそうだと明日姉がこぼした言葉に心の中で相槌を打った。声に出なかったのはそれが文字通り声を出す空気すら飲み込んでしまうほどの光景だからだ。一面の花畑は満開の黄色で埋めつくされていて花の色なのに眩しいと感じてしまうほどだった。
「きっとこの感情が思い出に結びつくんだろうね」
「そうだな。これはきっと何年経っても忘れない」
写真のフィルムが連なるようにこの美しい風景は記憶に刻まれ続ける。心の中にいつまでも残るものだからだ。思い出とはそういうものなのだ
「こっちにおいでよ!」
ひまわり畑を背景に耳に髪をかけながらこちらに手招きをする明日姉を見てノスタルジックな感情が洪水のように心に流れ込んできた。“あぁそういえばいつも手招きするのは俺だったな”と。そしてその光景を1枚の美術品の絵みたいに綺麗だと思ったのだ
「明日姉待ってよ」
「早く早く!」
ひまわりの妖精がそこに降臨したみたいだ。人と喋る時はなんて事ないのに“トクベツ”な存在と喋る時はなんだか調子がおかしくなる
「写真撮って」
「はいはい」
ポケットから携帯を取り出し起動したカメラを明日姉に向けた。自動でピントを合わせる機能が働きくっきりと明日姉が画面に映し出されている
「何でそうなの」
「何が」
「こうして」
スマホを取り上げられぐっと身体を寄せられると明日姉の細い身体が密着されて体温が上がるのが分かる。およそ駄肉なんてなさそうなスタイルなのにそれでも柔らかいと感じるのは何故なのだろうか。ってこれを優空に言うと白い目(絶対零度)で見られるだろうな
「2人で撮るに決まってるでしょ?」
「じゃあピース」
全く…明日姉には敵わない。ペースをいつの間にか捕まれ引き摺りこまれる。けれどそれはどこか嫌じゃなくむしろ高揚するというか言葉にできないがその感覚は楽しいと思えるのだ
「これLINEのアイコンにしてよ」
「え?」
「今日1日だけでいいから」
「いや…」
「お願い…朔兄」
あの一件からどうも明日姉は距離感が近くなったり遠くなったり感覚がバグってしまっているようだ。不思議できれいなお姉さんからポンコツ美少女になったり田舎の妹分になったり配役が忙しい
「はいやったよ」
「じゃあ私も」
「え」
バイブと共にLINEの音が鳴った。あーなんだろスタバとかかな新作気になってたんだよなぁそれとも宅急便かもしれないなそうだなそれに違いない。はいはい画面を見ませんいい事ないからね!
「あ、早速LINE来てる愛されてるね」
「…やっぱりずっとこのまま逃げない?明日姉」
「逃避行にはいつか終わりが来るものなんだよ?」
「ここでそうやって躱されるのなんだかなぁ…」
『綺麗な先輩に鼻の下伸びすぎ』
『アイコン変えたの?朔くん』
『ひまわり畑いいねぇ旦那。私も千歳と撮ったやつにかーえよ』
『朔!』『私!』『ちゃんとトーク画面朔にしてるから!』
「…」
「あはは通知が鳴り止まないね」
「明日姉こうなるの分かってたろ」
向日葵にも負けないいい笑顔。それは笑顔が良いだけで本質的には悪どい笑みであることは分かりきっているのだが
「もちろん」
「じゃあなんで…」
「こういう思い出も1つくらい欲しいでしょ?」
夏の妖精が悪戯好きなのを知って仕方ないとため息を吐いた。こんな二度と忘れない光景を貰っただけで有難いのだ。LINEで攻撃されるくらいどうってことはないだろう。というかさっきから通知うるさいな
「俺へのダメージも考慮してくれると助かります」
「君はそれくらいでへこなれないのも知ってる」
「何でも知られてるわけだ」
「うん。君が私をなんでも知ってるみたいに」
何でもは知らない。ただ明日姉とあの子を知っているだけだ
──────
楽しい時間を過ごすと時計が意地悪をして針を早く回す。朝に君を連れ出してからもう夕暮れになってしまった。あぁ一日が48時間あれば君と倍の時間を過ごせるのにな
「夕焼けって何でも塗りつぶしちゃうよな」
「うん。オレンジ色が君にかかってまるでオレンジの妖精みたいだよ」
「妖精ってガラじゃないと思うけど」
「じゃあドワーフだ」
「ドワーフも定義上は妖精じゃない?」
「確かに」
「ま、明日姉は白いから雪の妖精って感じだけど」
「夏になったら溶けちゃうんだ」
「そしたら俺が日除けになってあげるよ」
「こういう風に?」
田舎を走る電車のロングシートには誰もいない。こうして覆いかぶさっても視線なんてない
「明日姉」
「何?」
「田舎の匂いがする」
「そっか」
君の心に少し触れられたらと思ったけど、なんだか少し空回りしちゃったかな。綺麗な先輩で可愛い妹分でいたかったけどきっとそれでは…君の隣には立てない
車窓は何処までも流れていく。私たちの未来へノンストップで