怪人出現率の嫌に高いZ市は、建物の破壊率もまた同じく高い。
アキラはぴとぴとと降り止まぬ水滴を眺め、腕組みしてう〜んと渋く唸る日々を送っていた。
崩壊こそしなかったが、怪人の暴走の余波で天井が崩れ、雨漏りするようになったのだ。
このマンションに愛着もあったし、色々と思うところはあったため多少の不便は気にせずに住んでいた。ぽたぽたと降る程度だったのが、雨の日には家のなかで傘が必要なレベルになってきて、あまりの鬱陶しさにとうとう引っ越しを決めた。
それなりに金も溜まってきたし、地価は大暴落しているので、もう少し小マシな場所に住めそうだ。次は頑丈な作りのマンションにしよう。あとは管理人とすぐ連絡がついて修理してもらえるところがいい。
口座を持たないアキラは現金を家に貯めておくことしかできなかった。引っ越し業者が入る前に、さすがに不用心か、と巻き散らかしていた金を一まとめに衣装ケースのなかへと収納した。
無用心に変わりはない。
部屋のなかに散らばっていた金を一まとめにしてみると、日々積み重なっていっていた金は、慣れ親しんだ節制生活のおかげで随分と増えていた。
ケースのなかぎっしりと詰まる札束を見て、そろそろ収納場所にも困るレベルだ、と週に3日のバイトをさらに週1日に減らした。発泡酒何本買えるかな、としか考えていない。つくづく物欲のない男であった。
さすがに週に1日だと鳶の仕事は貰えず、仕事場も変わったし丁度いい時期だ。
新しい職場で出会った子たちが、妙に鼻の下を伸ばして「俺たちタダで運びますよ」なんて言ってきてくれたのだが、ちゃんとした引っ越し会社に頼んだ。なにせ金はあるのだ。
鳶から離れるときには壮大に送別会まで開いてもらえて、初めてリア充気分を味わった。
楽しい時間はあっという間であった。親方以外とはあまり関わりをもっていなかったのだが、タンクトップ集団(なぜかアキラと親方以外の全員タンクトップを着ている)はアキラのために宴会芸を準備してくれていた。酒に酔って笑いのツボが浅くなったアキラはまわりを憚ることなくゲラゲラと大笑いながらガバガバと酒を飲んだ。
最後の挨拶なんて考えていなかったのに突然振られて「お世話になりましたぁ」とぺこりと頭を下げると、親方が滂沱の涙を流して「こちらこそ、ありがとな。お前がいてくれて本当に助かったぜ」としんみりしながらアキラの肩を叩くものだから、つられて泣きそうになった。
随分と可愛がってもらったのでお礼に簡単な贈り物をして、親方のついでにタンクトップ集団にもプレゼントをしてまわった。やつらの中身はウニクロのタンクトップである。
特になにをしたわけでもないのに、タンクトップ集団は大号泣していた。なんか関わりあったっけ? まあ、つられ泣きってやつだろう。夏でも冬でも変わらずタンクトップの変な奴らであったが、いいやつらだった。
いつかタンクトップの似合う男になって迎えに来る、と言っていたが、なにを迎えるつもりだろうか。タンクトップ……似合う男……迎える? ウニクロの広告待ちか? よくわからないが、うん頑張れよと適当に返事をしておいた。アキラの行き当たりばったりな性格は変わらない。
辞めてからしばらくはタンクトップ集団がアキラの小汚いワンルームマンションに何度も遊びに来てくれていた。筋肉隆々の男たちがみっちりと詰まったワンルームはめちゃくちゃ狭く思えた。タンクトップの女子も暑苦しそうにしていたが、迷惑そうにしながらいつも来てくれていた。
2週に1度程度は食材や食器を持ち寄って遊びに来てくれていたのだが、ある時ぱったりとその来訪もなくなった。
すこし寂しい気はしたが、なんの約束もしていなければ、連絡先の交換もしていない。向こうはアキラの家を知っているが、アキラは向こうの家も知らないし名前も知らない。
職場が違えばそんなもんか。
アキラも自分では気づいていなかったが、いつの間にかタンクトップ集団のことを待っていたらしく、彼らのためにたくさん買い込んでいた酒をすっかり飲み切ってから、そういえば最近来てないな、なんて気づいた。気づくまではなにも思っていなかったのに、胸にぽっかりと穴があいたような気分になった。
そもそも、遊びに来てくれていたことだって今までのアキラの人生を想えばラッキーなことだった。なんか友達っぽくて嬉しかったなあ。いい思い出だ。
来訪者もいないことだし。
引っ越しを決意したのは、それもあってだ。
小汚いワンルームマンションから、頑丈なマンションへ。
今の職場は鳶よりも女子が多い。多いといっても事務職ほど多くはないのだろうが、タンクトップの女の子1人としか関わったことがなかったアキラにとっては十分多い。
かわいい女子を見ているのは楽しい。41歳にもなれば年下のピチピチギャル(死語)に恋愛感情なんてまるで芽生えないが、女の子たちはアキラのなにを警戒しているのか毒蛇のように威嚇してくる。だがそれさえも可愛らしい。シャー! て感じがめちゃくちゃかわいい。仲良くなりたいのだが、未だに友達はいない。
その頃くらいから、アキラはサングラスをかけることを覚えた。メドゥーサのごとく目から変なビームでも出ていたのか、サングラスをかければ、むやみやたらに襲い掛かってくる男はいなくなった。
そうか俺はメドゥーサだったのか、と外出のおともには財布とサングラスを持ち歩くようになった。サングラスは安い300円、財布は100円均一で買ったものだが、アキラはしみじみと悦に浸っていた。
サングラスなんて一生かけることがないと思っていた。財布なんて一生持つことがないと思っていた。ポケットに小銭を突っ込んでいた時代から考えると、めちゃくちゃ文明人だ。
サングラスを手に入れたアキラは、外での活動が若干増えた。休日は引きこもっていたのが、3日に1回程度は外に出て情報収集をするようになったのだ。
町はすっかり様変わりしており、仕事上必要なルートしか頭にいれていなかったアキラは町内散策を楽しんだ。
人目を気にせず買い食いできるようになって、あまりにも嬉しすぎてシークくんにクレープを奢ってやった。嬉しさのおすそ分けだ。
え、シークくんって誰って?
仮面の青年――アキラは心のなかでシークレット仮面、略してシークくんと呼んでいた――は、誰かが心なくポイ捨てしたゴミを率先して拾ったり、重い荷物をもった老婆の代わりに荷物を持ってやったり、道に迷っているらしい人に声をかけたりと、朝から晩まで身を粉にして善行を尽くす若者だ。彼はアキラがよくいくスーパーの近くで活動していたものだから、その存在をなんとなく認識していた。感心な子だ、と常々思っていたのだ。
だから、彼に自ら声をかけてクレープを奢った。
僕のことを知っているんですか? と嬉しそうに尋ねられたので、ずっと見ていたとストーカーじみたことを言った。
シークくんは、引くでもなく、むしろちょっと残念そうにしていた。
なんでもヒーロー活動をしているらしくて、ファンかと思ったらしいのだ。ある意味ファンのようなものだというと、仮面で表情はわからないながらも嬉しそうにしていた。
世のため人のため働く若者の姿は見ていて気持ちがいい。
クレープの後からは会う度に会話くらいはするようになり、世間一般で言う知り合いくらいにはなれたと思う。
品行方正を絵にかいたようなシークくんは、アキラが勝手に心のなかで名付けたシークくん、という呼びかけに普通に反応してくれるようになっていた。いつだったか彼の名前を聞いたことがあったのだが、その日のうちに忘れた。彼の性格や行動どおりの素敵な名前だった気がする。忘れたけど。アキラにとって彼はシークくんなのだ。
ヒーロー協会という民営会社に勤めているらしく、シークくんは熱心にアキラを勧誘してくれた。せっかく勧誘してくれたが、アキラは崇高な目的もなければ、人一倍強い正義感もないダメ人間だ。前よりマシになっているかもしれないが、根っから面倒くさがり屋のため、俺には務まらないと断りを入れた。その後も何度か誘いをかけてくれた。
アキラ的には友達になれるのではないかと思っていたのだが、1度食事をしに行った後からシークくんはアキラの前から姿を消した。
サングラスを外したアキラを見て、シークくんはぴたっと黙りこくり、仮面も取らず、食事もしないままに解散することになった。なにやら気まずいまま別れることになってしまったが、アキラはなにをした覚えもなかった。強いていうならば、初めて一緒に食事しにいったくらいだ。中華嫌いだったのかな。なら、行く前に言ってくれればよかったのに。
連絡先は交換していなかったが、道を歩いていればよく会っていた。きっとまた明日会えるだろう。そのときには元気になっていたらいいな。そう思っていたのだが、1日経っても2日経っても彼の姿はない。少し遠くまで彼の姿を探しにいったが、仮面の青年を見つけることは叶わなかった。知らぬ間に、彼を傷つけてしまっていたのかもしれない。愛想を尽かされてしまったのだろう。
少しならず寂しかったが、アキラは男の身体を取り戻す、という本来の目的を思い出して町中を歩き回った。目では、いなくなってしまったシークくんを探しながら。
それから1か月も経つと感傷的な気持ちはすっかり消えて、なにも言わずに去ったシークくんを一発殴ってやろうとすら思っていた。
アキラはそろそろ、自分が男に戻れる日は来ないのではないかと思い始めていた。アキラと同じように男から女に変わった症例は、ないこともなかった。少数例であるが、怪人の情報として。
物理的に性転換手術をすることはできるらしいが、薬1錠ではそうなれない。
調べられることは10年のあいだにほぼ調べ尽くしていた。あとは進化の家の天才博士にこの身を委ねるくらいしか方法はない。まだその踏ん切りはつかない。なにせ彼の家にいるのは変な生物ばっかりだ。やっぱり面白い形にしよう、とアキラの身体が好き勝手に変な形態にかえられる可能性は大いにある。カニ怪人にもブタ怪人にもメデューサにもなりたくなかった。
よくアキラに情報提供してくれていたミルクセーキの男は、拠点場所を変えたのか、めっきりと会うことがなくなった。Z市は人口が急激に減少しているし無理もない。
もしかして自分は怪人になってしまったのだろうかとも考えた。だが怪人は破壊衝動やら欲望やらが顕著に目立つという。今のところそういった心の揺れは感じておらず、昔と変わらない。と自分では思っている。
稀に見る鏡には、昔と変わらない気がする若い女性が映っている。鏡なんてまじまじとは見ないが、未だに皺ひとつない。
それがなにやら空恐ろしい。
朝から酒を飲み、ぐだぐだと過ごすいつも通りの日。
「タマナシ師匠~いるか?」
今日も変わらずのんべんだらりとくつろいでいたアキラに、珍しくも来客があった。
どうやら自分の名前を知っているようだが、部屋に訪れた人間でアキラの名前を知っているのは借金取りとセールスマンとタンクトップ集団くらいのものだった。家を訪ねてくる友達なんていないし(別に寂しくない)ご飯を作りに来てくれる幼馴染もいない。
目が覚めてしまったので仕方なく、寝落ちして飲みかのまま放置されたぬるくなったビールを飲んでいると、ガチャリと扉が開かれた。
ここ最近借金取りなど来なかったため、カギを閉める習慣がすっかりなくなっていたのだった。
「あ、師匠!」
嬉しそうに部屋に入ってくるのは黒髪の青年だ。
おいおい家間違えたのか、と危機感の欠片もない。
白いパーカーにジーンズと普通の格好ではあるが、パーカーにはでかでかと"玉無し"と書かれている。アキラの気分は一気に下がった。なんっつーパーカーを着ているんだ。
なんで俺のことを知ってるんだ。
「誰ぇ?」
「俺だ。俺、俺」
「詐欺ぃ?」
「違う。丁度1年前に約束した、サイタマだ」
「あー……?」
寝起きなうえにアルコールに侵された頭でしばらく考る。
誰だっけ。
「あぁー、カマタマくんね、あーあーいたいたぁ」
「サイタマだ」
「カニタマくんかぁ。ごめんごめん。で、どうしたのぉ?」
「サイタマだ。約束通り1年間修行を続けた。俺を弟子にしてくれ」
「弟子ぃ? ンな約束したっけかぁ……?」
41歳の誕生日を迎えたアキラは物覚えが非常に悪かった。昔から悪かったが、ここのところさらに悪い。1年前に約束したなどといわれても、まったく思い出すことができない。
見たことあるっけか。没個性的なよくある顔だ。会ったことはあるのかもしれない。
週1のバイト先の人間さえ覚えられないアキラが、1年前に会った人間のことをすんなりと思い出せるはずもなく、うぅんと唸った。
「師匠のことを調べて、剣豪だということを知った。だからあれほどまでに身のこなしがスムーズだったんだな」
「調べたぁ? どやってぇ」
「普通にググったら出てきた」
「ググッタ? 新しいカップ麺~?」
「検索サイトで検索したってことだ」
情報化社会ってやつは凄いものだ。そんな簡単に個人情報がでてくるのかとおののく。
若干おでこの広めなこの青年はまだまだ若そうに見えるが、若禿のきらいがある。デブにデブと言ってはいけないように、ハゲにハゲと言ってはならない。そう思ったアキラは、寂しくなりつつある彼の頭をちらりと盗み見ただけでなにも言わなかった。
で、誰だ。
「約束通り、1日も休まずに修行した」
「んん~……ん~?」
「怠けたい心に負けそうになる日もあったが、1日も絶やさず修行した」
「そりゃ凄いねえ」
素直に感嘆して間をつなぎながら、アキラは必死に彼のことを思い出そうとしていた。
黒髪、若禿……いや、だめだ。全然思い出せない。絶望的なまでに思い出せない。なんか見たことはあるんだけど。
魚の骨が喉に刺さって取れないときくらい気持ち悪い。
「で、そのカキタマくんは……えぇとなんで俺なんかに弟子入りしようと思ったのぉ?」
「サイタマだ。わかっててやってるだろ。
言わなかったっけか。俺が中学生の頃に師匠に助けてもらったんだ」
(すっかり師匠呼びだしぃ……)
中学生、学ラン――――世紀末!
はっとアキラは、世紀末ファッションの学ランを思い出し、続けて1年前の出来事もようやく思い出した。
「ああ、ああ、サイタマくんねぇ! 覚えてる覚えてるぅ」
「やっと思い出したか」
じぃっと見つめる死んだ魚の目……の奥にある謎の煌めき。なんだこのむずかゆくなる視線は。ぞわぞわと身体中にウジ虫が這いまわるような気色悪さにアキラは身じろぎした。
ようやく身体を起こし、座って向かい合う。
「ま、立ってるのもなんだしぃ。座ればぁ?」
(約束したなぁ……しちゃったなぁ……今更ナシとか言えない雰囲気だよこれぇ)
しゅたっと座ったサイタマは真っすぐにアキラを見ている。
期待するようなサイタマの目にアキラは頬をぽりぽりと掻く。驚きと焦りですっかり酒精は抜け、酒を飲む気にもならずため息を吐く。
「師匠、俺は何をすればいい?」
(帰ればいいと思うよぉ)
「あー……うん……そだねぇ……えとねぇ……てゆかほんとに毎日やったの? マジで?」
若干焦り気味に話を蒸し返したアキラに、サイタマは気を悪くした様子もなく頷く。
「マジだ」
「そかそかぁ、うん。1年間で君の情熱を確かめたかったんだけど、しっかり伝わったよぉ。
けどやり方はどうかな?」
「やり方……?」
突然立ち上がったアキラは無駄に拳を突き上げつつ早口でまくし立てた。
「そりゃそうさ! 大原則として、型が大事だ。ぐちゃぐちゃの型で回数を稼いだところで意味はない。
腕立て伏せであれば頭から足先まで一直線に体幹をブラさないようにして、肘を伸ばしきってはならない。同じようにスクワットは膝を伸ばしきってはならない。
100回をいかに早く終わらせるかと速さを求める練成もあれば、ゆっくりとスロートレーニングでの100回の日も。10kmだってだらだらと健康ジョギングをしてちゃあ意味がない。キロ3分どころかキロ1分、もっというとキロ30秒くらいのタイムは叩きださないとね」
(言うに事欠いて1キロ30秒て……ンな人間いねえよなぁ。いや、時速になおされない限りバレないはずだぁ)
最低限の息継ぎで早口に言い募り、だらだらと汗をかくアキラだったが、サイタマは表情の読めない顔で真剣に頷いている。
よし、これは聞いてない顔だ。
「スロートレーニングも、タイム計測もしたことがなかった……。さすがは師匠だ」
(ちゃんと聞いてたぁ……!)
「わかった。明日からのトレーニングでは師匠の助言を取り入れてみる。きちんとタイムも計って報告しにくる。
やはり弟子たるもの、まずは片付けからか」
「えぇ……いいよぉ」
「俺も一人暮らしで慣れてるし、この部屋より酷くはならないだろ」
座ったばかりだというのにすぐに立ち上がり、サイタマは足の踏み場もないゴミだらけの部屋を嫌な顔ひとつせずに片付けだす。
道場掃除じゃあるまいし、師匠の部屋の片づけなんて。今の子どもたちにやらせたらパワハラで訴えられるだろうな。
せっかく片付けてくれているのでありがたく邪魔にならない壁際へと寄ったアキラだったが(押しに弱い)、内心では滝のような汗をかいてどうしようかと悩んでいた。
え、明日も来るつもりなのかな。引っ越ししたばっかなのに、どうやって家知ったんだ? などと疑問はむくむくと湧き出ていたが、どれもこれも言葉にはならない。
師匠らしいことなんてできようはずもない。
アキラはここ十数年で身についた独り身エンジョイだらだら生活を手放す気はなかった。アキラは格闘家ではなく剣術家である。
彼の身体の筋肉のつき方からして、剣術家ではなさそうだ。手にタコはできていないし、手の皮も厚くない。なにか得物を手にしての戦闘タイプではないだろう。
アキラとて軽く体術もかじってはいるが、人に教えられるほどのものではない。
(なんで安請け合いしたのぉ……俺ぇ……! バカバカバカバカすかぽんたん!!! まっじダメ人間! 俺の駄目さ加減が全世界の人間に通じるわけねぇだろぉぉぉぉ)
過去の自分を激しく詰る。
ぷすん、と煙をあげたアキラは突如として、左手で皿を作り、右手をグーにしてぐりぐりと擦るゴマすり体勢に入った。
「あー……とぉ。鍋はお好きぃ?」
「大好物だ」
「そ。ちょと具材買ってくるねぇ~」
逃げた、ともいう。財布をズボンにツッコミ、サングラスを引っ付かんで外へと飛び出た。
無駄にタクシーに乗って遠くまで買い物に来てしまったのは、現実逃避の表れである。適当に車を走らせてくれと疲れた表情でタクシーに乗り込んだアキラが言うと、気のよさそうなおっちゃんは「姉さんなんかあったのか?」と心配そうに声をかけてくれる。おっと、サングラスをかけるのを忘れていた。おっちゃんを見る前にアキラは慌ててサングラスをかける。
近くの住人らしき男がゾンビ化してよたよたとタクシーへ歩み寄っている。一見して不気味なその男に、一も二もなく扉は閉められた。
「ストーカーでもされてるのかい? おっちゃんに任せておきな」
ギュオン! とタイヤがから滑りするほどのスタートダッシュ。なんちゃらの法則で後部座席に身体が押しつけられる。ミラーに映った男がみるみるうちに小さくなっていく。
タクシーにあるまじき凄まじいスピードで車を走らせてくれた。時速120kmこれって、キロなん分なんだろう。学生時代にキロ3分でへいへいぜいぜい言いながら走っていた体感速度を考えると、それよりは早いのだろうとはわかるのだが。
(キロ30秒て……どんくらい?)
額に手を当て物憂げなため息を吐くアキラは、どこからどう見ても迷える美女であった。ストーカーに悩まされていると思い込んでいるタクシーの運転手はかわいそうにな、と心から同情してアクセルべた踏みで走り続けた。
実際は簡単な算数ができずに頭を悩ませているだけだ。
景色がびゅんびゅんと過ぎ去っていく。信号無視など当たり前だ。近頃の警察は信号無視なんてちいさなことでは逮捕しない。それよりももっと凶悪な怪人たちに追われて手がいっぱいなのだ。公務員っていいよなぁ、なんて思っていた時期もあったが、今となってはフリーター生活万歳である。
「この町はヒーロー協会の本部ビルもあるから、安全だよ。なんならQ市に行ってもいいが、どうする?」
「あ、ここで」
タクシーのメーターは8350円となっていた。なにこれスピード加算とかされるのか? タクシーなど滅多に乗らないためいまいち仕組みがわからないが、財布のなかから1万円札をとりだして渡すと5000円が返された。
「姉ちゃん、応援してるぜ。気を強く持てよ。高速も使ってないし、これはおっちゃんからの激励だ」
「マジ? ありがとぉ」
「おっちゃんにも姉ちゃんくらいの娘がいるからどうにも他人事に思えなくてよ。美人さんは大変だな」
アキラの年齢は娘さんよりもおっちゃんと近い。
微妙な顔をしたアキラは、ぱかっと扉が開かれてタクシーから降りる。気のいいおっちゃんはぐっと親指を突き上げて、爽やかに去っていった。
ここは何市だろうか。ヒーロー協会ってなんだっけ。聞いたことあるな。
高層ビルが立ち並び、店も多い。土地勘はまるでなかったが、適当に歩いていればなんとかなるだろう精神でぷらぷらと歩く。照り付ける日光は眩しく、露出の多いタンクトップでは肌が痛いくらいだ。
なんとなく、であれば家の方向もわかるので、運動がてら町を散策する。
「あの人貧血かなぁ?」
「しっ、大きな声でそんなこと言わないの!」
「……あ」
トレンチコートに身を包む、やたらめったら顔色の悪い青年。子どもに指をさされながらも特に気にした風もなく歩く彼は随分と久しぶりに見る。
(普通に歩いてるぅ)
人目につかないように歩いていた彼は、アキラが喫茶店に誘ったときくらいしか一般人の前に顔をだそうとしていなかった。堂々と日中も歩くようになったらしい。こそこそする必要なんてなかろうに、と口惜しく思いながら見守っていたアキラは、数年ぶりに見た彼の元気そうな姿に満足した。
そういえば彼もまた、アキラに負けず劣らず顔が変わっていない。サイタマ少年はすっかり大人になっていたけれど、アキラもミルクセーキの人も全然見た目が変わらない。
(……元気そう? だなぁ)
相変わらず顔色は悪い。
ミルクセーキはアキラに気づいた様子もなく、さりげなくあたりを警戒しつつ、しゅたっと路地裏へと身を翻して進んでいく。きっと仕事中なのだろう。
この辺りに仕事場を移したのかもしれない。なにはともあれ元気そうでなによりだった。
声をかけるのもなんだし、アキラはミルクセーキの無事を確認するだけに留めた。
だらだらと歩いているとすっかり見慣れた街並みに戻ってきており、結局スーパーはいつものところになった。
若者はたくさん食べるだろうと大量の具材を買う。カートに乗せたカゴが2つ分埋まるくらいの大量買いである。我ながらレジの時に引いた。愛想のいい店員が「パーティーですか?」なんて声をかけてくれたが、アキラは「うん」と答えてすんなりと会話を終了させてしまった。コミュ障か。それからは、ピ、ピ、ピとレジを通す音だけが響いた。
いやだって、2人でパーティーってのも変な話だしなぁ。内心で言い訳をしているが、その表情は気だるそうなままである。
袋にして4枚分にもなり、酒類も入ったずっしりと重いそれらを軽々と運ぶアキラに、店員は唖然とした表情を向けていた。
「ただ~いまぁ~」
買いたいものを好きなだけ詰め込んで、少し幸せな気分になっていたアキラは見違えるほどに綺麗になった部屋に瞠目した。
「おぉ……すげぇ……」
「お帰り。遅かったな、師匠」
(師匠……! 忘れてた!)
すっかり現実逃避で終わってしまっていた。どうやって弟子入りを断るかを考えようと思っていたんだった。愕然とするアキラの手から袋を取り上げて「おーすげぇあるなぁ」と嬉し気に笑う。
「あ、俺海藻類も好きなんだ」
だろうな。寂しくなりつつある頭髪を眺めて間髪入れずにそう返しかけたが「そうなんだぁ~遠慮せず食べてねぇ。余ったら持って帰っていいしぃ」と視線を逸らす。
師匠などになる気はさらさらなかったのだが、師匠と言われているのだからきちんとしないといけないような気もして、そういえばすっかりサイタマにはダメダメなところを見られていたことを思い出す。
あ、なんだ今更じゃん。
そう気づいてからは、ぐでぇっと綺麗になった床に寝転んだ。背筋をなくした動物のごとくぬるりと床に倒れ込んだアキラをサイタマはまるで気にした様子はない。
アキラもまた、まるで料理を手伝うつもりはない。
「お酒飲むぅ?」
「いや」
「下戸?」
「いいや。酒を飲むと判断が鈍るからな。俺は師匠みたいに強くないから、なにかあったときに万全の状態でいたいんだ」
すでにプシュッとやっていたアキラは「おほぉ~意識高すぎぃ~」と気持ち悪い声で思わず本音をぶちまけたが「そうでもない」とサイタマは気にした様子もない。
意外と料理はするようで、手際よく鍋の具材を切っている。アキラが2本目を飲み終わる頃にはぐつぐつと煮込みが始まっていた。部屋のなかに文明的な香りがする。部屋を新しく借りてから初めて使われた調理器具が喜んでいる気がする。料理をしないのに鍋やら皿やらが揃っているのはすべてタンクトップ集団の置き土産をそのまま新居に持ち込んだからだ。調味料もそうである。
折り畳みのテーブルをどこからか出してきた(そういやこんなの見たことあるな)サイタマは鍋敷きのうえにぐつぐつと煮えた鍋を乗せた。
「ふわぁぁぁああああ、すげぇ。うっまそぉ」
「誰でもできる。師匠が良い素材買ってきてくれたし。肉めっちゃ高いやつだな」
「値段見てないやぁ。いっただっきま~す」
しゅたりと椅子に座ったアキラは器に具材を盛った。鍋はセルフサービスで、なんて言わなくてもサイタマも自分でよそっており、もりもりと平らげていく。猫舌のアキラが1杯食べ終わる頃には5杯ほど食べていた。酒が生活動力となっているアキラにとっては多すぎる量だ。まだ食べれるのか。やっぱり若者はよく食べるなあ。おいちゃんは見てるだけで腹が苦しくなるよ。
「師匠、全然食ってないが」
「俺はこれがあるからぁ~。食って食ってぇ」
5本目の缶ビールに直接口をつけるアキラに、サイタマは素直に頷いた。
これが師弟関係じゃなくて友達だったらよかったのに。胡坐をかいて頬杖を突きながら思う。まあ、友達みたいなもんか。ちょっと呼び方が特殊なだけで。そういうことにしておこう。
「一つ気になっていたことがあるんだ」
「ん~?」
「師匠は、男? それとも女か?」
「どっちに見えるぅ?」
むむむと極限まで首を傾げたサイタマは、いやらしさの全く感じさせない目つきで胸を見て「女?」と答えた。
「乳で判断すなぁ」
「しかし師匠はかなりわかり辛い。中身は完璧に男だし、初めて見た時は男だったと思ってたけど、なにせ昔のことだからな」
「え、俺男に見えるぅ?」
「見えない。中身だ」
「そんな男らしいかぁ~そっかそっかぁ」
「男らしいというかオッサン」
手際よく締めのうどんを作っていたサイタマが器によそいでずぞぞぞぞと麺をすする。彼に悪気は一切なく、思ったことをそのまま口にしている様子だ。
「そりゃぁ41歳だものぉ~」
「にしちゃあ若い見た目だな」
「いろいろあるのよぉ」
「なにかあったのか?」
「うん~。俺昔借金取りに追われる日々で毎日金欠でさぁ、夢も希望もなく生きてたからとりあえず童貞卒業しようと思ってさぁ。
ソープ行く前にムスコが心配になって露店でハ〇イアグラもどきの試供品を貰ったわけぇ。その薬飲んだらぶっ倒れて、起きたらこの姿になってたんだよねぇ」
「ぶはッ、ソープは童貞卒業にはならねえだろ」
「そこ? てゆか、そなのぉ?」
「シロート童貞だ」
けらけらと笑うサイタマにそうなのね、と頷く。
童貞卒業ではなく、別種類の童貞にランクアップだったのか。
「だからやけに見た目が変わったんだな。整形でもしたのかと思ってた」
「まさかぁ」
ぐいっとビールを最後まで飲み切り、アキラは立ち上がって冷蔵庫で冷やしていた秘蔵の日本酒を取り出した。誕生日にはこの酒を飲むと決めているのだ。
「サイタマくん! 君が俺の弟子になった記念だぁ! 1杯でいいから飲め飲めぇ」
「祝い酒か。ありがたくいただく」
麦茶が空になったグラスに日本酒をなみなみ注ぐ。
サイタマは特に表情を変えることなく、いただきますと淡々と日本酒を飲む。
「お、なんだこれ。めちゃくちゃ美味ぇ!」
「だろだろぉ? ふつーにゃ売ってないんだが、めちゃくちゃ美味ぇだろ! ほら、怪人が出たら俺が出てやるし、遠慮せず飲め飲めぇ」
ほぼ強制的に酒を飲ませたが、サイタマは最高級日本酒ににんまりと笑っている。うまい酒を飲めばみんなハッピーになれる。
アキラのマンションは、越してきてから初めて楽し気な笑い声が始終響き渡ることとなった。
タンクトップ集団はヒーロー活動が忙しくなって家に来なくなった。落ち着いて遊びに行ったら、マンションにはどの階にも誰も住んでおらず、絶望。
タンクトップマスター『待たせすぎてしまっただろうか……。いや、いつかきっと会える。タンクトップの絆がある!』
ミルクセーキの男は闇稼業からは足を洗い、アキラの後押しもあって民間企業ヒーロー協会に登録した。時折アキラを探しによくいっていた喫茶店へ赴くのだが、そもそもアキラは喫茶店には滅多にいかないため会えずじまい。
ゾンビマン『いつか会って礼を言いたい……』