死のう。
くだらない人生だった。体が小さく気弱で人見知りな彼女は子供のころから「米粒コメコ」と馬鹿にされ執拗ないじめを受けていた。勉強も運動もできる方ではなく、両親は出来のいい兄にかかりっぱなし。高卒で就職した会社でも内気な性格が災いし、友人も作れず上司からパワハラやセクハラを受ける毎日。会社の同期に無理矢理参加させられた合コンで意気投合して付き合い始めた彼氏が唯一心のよりどころだったが、米子の誕生日を前にして浮気をしていたことが発覚した。
もう、生き続ける理由が見いだせなかった。せめて最後、少ない給料をためつづけた貯金で豪遊してから死のう。そう思って貯金全額を引き出した。しかし、食事ものどを通らないような精神状態の米子は、金の使い道に検討もつかなかった。ふらふらと一晩中当てもなく歩いていると、いつの間にかひときわ大きな建物の前にたどり着いていた。
京都競馬場。今まで競馬なんて一片の興味もなかった彼女だったが、どうせなら最後に一度くらいギャンブルをしてみるのも悪くないと考え、おぼつかない足取りのまま足を運んだ。建物内は11月の涼しさを埋め尽くすほどの人の熱気で溢れかえっていた。米子はとりあえず出走する馬の名前が表示されているモニターに目を向ける。なんだかなんだかよくわからない名前が並ぶ中、米子の目はある一つの名前で止まった。
2番人気・8番・ライスシャワー。
ライス。米。自分と同じ名前を持つ馬。米子にはもうその名前しか見えなかった。気づけば全財産をつぎ込んだライスシャワーの馬券を握りしめていた。レース場に出ると、そこには溢れんばかりの人、人、人。とても前の席には行けそうになかった米子は人ごみの最後尾で、必死に背伸びしてレース場の巨大モニターを見る。せめて自分の人生を駆けた馬の姿くらいは見てみたかった。
そして、実況がライスシャワーの名前を呼び、モニターに8番の番号を背につけた黒い馬が映る。その瞬間、米子は背伸びをやめため息をついた。ライスシャワーの体は、明らかに他の競走馬たちに比べて小さかった。競馬初心者の米子にとってはその馬がとても強くは見えず、ひどく落胆した。
しかし、そのレース―――菊花賞の終盤、米子はその光景に釘付けになっていた。
『――― 外からライスシャワー! ライスシャワーかわしたか!?』
ライスシャワーが、小っちゃかったあの馬が、大きい馬たちを置き去りにして駆け抜けていき、先頭争いをしている。米子は人ごみに突っ込む。怒号を浴びせられながらも人の波をかき分け、なんとかレースが直接観える位置にたどり着いた。
「―――行けぇえええええっ!!」
今まで出したことのない大声が、自分の口から飛び出す。口の端が切れ、喉の奥から鉄の味がしても、米子は叫び続けた。
「―――走れぇっ!ライスシャワァアアアアアアッ!!」
『―――ライスシャワー先頭に立った! ミホノブルボンは三冠にならず!ライスシャワーです!!』
そしてライスシャワーが一位でゴールした瞬間、米子は興奮して大声で歓声を上げた。そして気づけば大粒の涙を流していた。こんなに心から何かを応援したことなんてなかった。周りの反応なんて気にならないほど、米子の中の何かが弾けて、満たされていた。「君も戦っていいんだ」と、そんなメッセージを受け取った気がした。
その日から、米子の生活は一変した。上司に退職願を叩きつけ、彼氏に罵詈雑言を浴びせて引っぱたいてから別れ、菊花賞で得た配当金を資金に子供のころの夢だった花屋を開業した。一年としないうちにフラワー装飾技能士の資格も取り、自殺を考えていたのが嘘のように充実した日々を送っていた。
その間も、米子は競馬場に度々足を運んでいた。ただしギャンブルが目的ではなく、ただライスシャワーのレースを見るために。苦しい時や悲しい時、ライスシャワーのレースを見るだけで、彼女は頑張ろうと思えた。米子にとって、ライスシャワーはまさにヒーローだった。
だが、その日は突然訪れた―――。
『―――おぉっと!? 一頭落馬! 一頭落馬!! これは何が落馬したのでしょうか!? ライスシャワー落馬! ライスシャワー落馬であります!!』
何が起きたのか、理解するのに時間がかかった。ただいつものようにライスシャワーを目で追っていたら、馬群の中からその漆黒の姿が急に消えた。
頭が真っ白になった。悲鳴のような声が、まるで分厚いガラス越しに聞こえてくるような感覚。もう米子にとってレースの勝敗はどうでもよくて、ただレース場の後方で痛々しい様子で立ち上がるライスシャワーを凝視していた。その美しい漆黒の足から、“何か”が突き出ているのが遠目にもわかった。それの正体を理解した瞬間。米子の視界が真っ黒になった。
ライスシャワーが死んだ。その事実が受け止められず、米子はふさぎ込んでしまった。店を休み、競馬新聞を買い集めて作ったライスシャワーのスクラップをひたすら眺める日々。あの日立ち直ったはずの心が、再び音を立てて壊れていくようだった。ふと、つけっぱなしのテレビから、ライスシャワーの慰霊碑が立てられたことを報じていた。
せめて、花を添えてあげたい。そう思い、米子は外に出る。淀駅を降りてから、花屋のくせに献花を用意してなかったことに気付いた。花屋で献花を買い、再び京都競馬場を目指す。その日、空はどんよりと曇っていた。
米子は、数日間飲まず食わずな上、睡眠もまったくとっていなかった。そんな状態の彼女だったが、その時の歩行者用信号は、確かに青だった。それなのに、なぜ大型のトラックが自分に向かって突っ込んできているのか。そんな疑問を抱く間もなく、米子の身体は花びらと共に宙を舞った―――。
******
西宮ソラはあまりの寝苦しさに目を覚ました。見慣れない天井を視界に確認し、ゆっくりと体を起こす。バキバキとあちこちの関節が音を立てた。ぼやける頭で周りを確認すると、そこは自室のベッドの上でなく、トレーナー室のソファの上だった。そうだ、昨日はチームのメンバーのリストを更新する作業をしていたはずだ。それが終わったころには終電も終わってしまい、しかたなく始発までトレーナー室で眠ることにしたことを思い出した。
スマホの画面を開くと、セットしたアラームの10分前の時間が表示される。まだ少し眠気はあるが、二度寝するにしては時間が短すぎる。寝汗で湿るスーツの感触に顔をしかめながら、ソラは洗面台に向かい、顔を洗う。鏡の中では目の下にクマを作った不機嫌そうな自分が睨みつけていた。
「……また、あの夢か……」
喉からこぼれたか細い言葉が、水と一緒に流れていく。生まれたころから持っていた前世の記憶。まさに悪夢と言えるその記憶をまた夢に見た理由は、きっと寝苦しさからだけではない。
タオルで顔を拭きながら、スマホの画面を操作し、「トレーナー向けのお知らせ。選抜レース開催に際してのご連絡」と書かれたメールを開く。メールが届いてからたぶん数百回は見直した。見間違いではないかと、何度も目を擦っては一文字ずつ確認した。なのに、今でもその名前を見ると心臓が飛び出すのではと思うほど強く跳ね上がる。
「ライスシャワー……」
今日の選抜レースの出走登録表に、確かにその名前が記されていた。
―――
☆次回、7月10日午前9時!