平凡なにんじん農家の一人娘、それが西宮ソラという少女だった。立って歩くのも、言葉をしゃべるのも周りより少し早かったけれど、どこにでもいる普通の女の子。少なくともソラの両親はそう思っているが、彼女には誰にも言っていない秘密がある。それは、前世「黒沢米子」としての記憶をもっているということ。病院で産声を上げた瞬間から、それは明確にソラの頭の中にあった。ソラは最初、現実を受け止められずにいた。しかし時間が経つにつれ、その意識も変わっていく。どうせならこの本当の意味でのセカンドライフを楽しもうと思った。
ソラは前世で、転生した人間が剣と魔法の世界で戦うという内容の本を読んだことがある。しかし転生した世界は、物理現象を無視した魔法やスライムみたいな魔物なんてものは存在せず、ほとんどが前世の世界と同じだった。しかし、一つだけ前世との違いがある。それが、“ウマ娘”と呼ばれる少女たちの存在だ。
この世界には、所謂ウマ目ウマ科であるところの「馬」という動物は存在しない。代わりに馬と同等の身体能力をもつ少女。それがウマ娘だ。
曰く、「彼女たちは別世界の名前と共に生まれ、その魂を受け継ぎ、走るために生まれてくる」とされている。別世界、というのはソラの前世の世界のことだろう。事実、前世の世界で聞いたことのある名前のウマ娘をいくつか見かけたことがあった。
可愛い女の子たちが競馬よろしくターフを駆ける姿と言うものは、実際の競馬を知っているソラにとってなかなかシュールな光景だった。しかし競馬と違い、人間の姿をしている彼女たちの勝利して歓喜する姿や、敗北して涙を流す姿に、彼女は心を打たれてしまった。
ウマ娘のトレーナーになりたい。彼女がそう思うのに時間はかからなかった。黒沢米子が、ライスシャワーに勇気をもらったように、誰かの生きる希望となれるようなウマ娘を育てたい、と。
世界中で注目されるウマ娘。そのトレーナーになるためには、専門のライセンスを取得する必要があるのだが、それを取るのには相当な学力が必要だった。しかし前世の記憶、つまりは知識をまるまる持っていたソラは小・中・高校生の時間をほぼ勉強に費やし、最難関とされるシリーズのライセンスを23歳という若さで取得した。
そして日本ウマ娘トレーニングセンター学園、通称トレセン学園に所属する強豪チーム、『レグルス』のサブトレーナーとなる。そして2ヶ月が経過したある日のこと、ソラはレグルスのメイントレーナーの
「そろそろ担当ウマ娘を持ってみる?」
まるで夕食にでも誘うような気軽さの言葉に、ソラは言葉を失う。通常サブトレーナーが担当のウマ娘を持つまで、最低でも1年は経験を積む必要があるといわれている。ソラもそのつもりで日々の雑用やトレーナー業の補佐を続けてきたつもりだった。それをたったの2ヶ月で、しかも「彼女の指導は鬼も裸足で逃げ出す」と噂されるほど厳しい田芝トレーナーからのまさかの提案に、ソラはなんとか声を絞り出す。
「……そのっ、はや、すぎません? だって、まだ私は……」
「この2ヶ月間あなたの仕事ぶりを見て、1年も必要ないと判断したわ。仕事は完璧にこなしてくれているし、早いうちにもうワンランク上の経験を積んだ方がいいと思ったの」
意外だった。田芝がまさか自分をそこまで評価してくれていたとは。ウマ娘のトレーニングよりも厳しいパワハラぎりぎりの指導に何度引っぱたいてやろうかと思ったことか。そのたびに負けるもんかと奮起し、努力を続けた。田芝はそんな自分をしっかりと見てくれていたのだ。その事実にソラは目頭が熱くなる。泣き虫なのは転生しても変わっていなかった。
「っ……やります! やらせてくださいっ!!」
その期待に応えたい。瞳を潤ませながらも力強く返事を返すソラに、田芝はめったに見せない笑顔を返す。
数か月後に海外からレグルスに移籍してくるウマ娘の担当になることが決まり、家でその娘のデータをまとめていた時、“それ”は届いた。数日後に開催される選抜レースに関するメール。サブトレーナーには独断でウマ娘をスカウトする権限はないが、ソラは毎回勉強と人脈を広げるためになるべく足を運ぶようにはしていた。しかし今回は業務が重なっているため行くのは難しいかもしれない。そんなことを思いながらも、なんとなく出走登録表を確認する。出走登録表に目を通した瞬間、ソラは後ろにひっくり返った。
そこには、ソラの前世に多大な影響を与えた馬、ライスシャワーの名前が記されていた。
*****
選抜レース当日。の、夜。
トレーナー室で仕事をしながら、昼間のことを思い出す。ソラはライスシャワーの姿を目にすることができなかった。行かなかったわけではない。むしろレース開始の2時間前に先頭を陣取っていたのだが、選抜レースにライスシャワーが現れなかったのだ。
「……ライスシャワー、とうとう選抜レースまでボイコットか。資質としてはいいものを持っている子なんだがなぁ」
「そもそもレースに出たがらないのでは……資質以前の問題ですね」
「あ、あのっ、それってどういうことですか?」
近くで話していたトレーナーの会話に割り込む。どうやらライスシャワーがレースをボイコットしたのはこれが初めてではないらしい。授業の模擬レースですら何度も欠席しているようだった。ライスシャワーを知っているトレーナーからの評価は『非常に臆病でレースに出る勇気がないウマ娘』というものだった。
―――そんなわけない。
ソラは頭の中でその評価を真っ向から否定する。それは生前、別の世界でのライスシャワーを知っている彼女だからこその結論だった。
(臆病なもんか。ライスシャワーは、どんな強敵にだって立ち向かっていく、強い馬だった……!)
今でも脳裏に焼き付いている、初めてライスシャワーをみたレース。雄々しく猛々しい競走馬たちの中を、小さい体で駆け抜けるあの姿を。だから、きっと何か理由があるはずなんだ。一片の疑いも持たずそう信じきっているソラ。選抜レースは今回だけではない。きっとまたライスシャワーと会える機会はあるだろう。そう思いながら今日の分の仕事を終わらせ、暗くなった学園内を歩いていたその時だった。
「ぐすっ、ふえぇ……うぇぇぇぇーん!!」
少女の泣き声が廊下にこだまする。ソラは一瞬幽霊かと思い体を強張らせるが、その声は外から聞こえてきていた。窓の外に目を移すと、中庭の切り株で誰かがうずくまっている。頭の上に耳があることから、ウマ娘であることがわかった。もしかしてなにか怪我でもしたのだろうか。廊下を走り、渡り廊下から外へ出てそのウマ娘へと駆けよる。
「ねぇ、あなた大丈夫?」
「ふぇっ……!?」
少女は涙でぬれた顔をソラに向ける。その瞬間、ソラの心臓が大きく跳ねた。ウマ娘の中でも小柄な体。腰まで伸びた黒髪に青い薔薇の髪飾り。その顔は学園の生徒にしてはすこし幼く見える。
なぜ、そう思ったのかはソラ自身にもわからない。しかし月明かりに照らされた彼女を見た瞬間、直観がそうだと告げていた。
「ライス、シャワー……?」
思わず口からこぼれたその言葉に、その娘はきょとんと首を傾げる。
「えっ……どうしてライスの名前を……?」
雷に打たれたような衝撃がソラに走った。まさかこんな形で、こんな唐突に、ウマ娘としてのライスシャワーに会えるなんて思っても見なかった。頭の中が軽くパニックに陥る。固まったソラをライスは不思議そうな顔で見つめるが、ソラの胸元に飾られたバッジに目を向ける。
「あっ……そのバッジ、もしかして学園のトレーナーさん……?」
ソラはハッと我に返る。返事をしようとするが、喉が渇いて上手く声が出ない。代わりに風を切る音が聞こえるほど勢いよく何度も首を振って肯定の意を示した。檻に繋がれた凶暴な獣のように、心臓が暴れ回る。なんとか声を絞り出すが、口から出てきたのは「あ、う。お……」という声とも呼べない妙な音。
ソラは更にテンパる。まずい、このままではライスシャワーに変な奴だと思われてしまう。早く、何か話さなければ!しかしその焦りが更にソラの言葉を封じてしまう。声が全く出せない彼女はせめてライスを安心させようと必死に笑顔を作りながらジリジリと距離を詰める。
「ぐすっ……うぅ。あの、ごめんなさい……それ以上、こっちに来ないで……?」
何かにおびえたように体を震わせるライスシャワー。ガツゥーンッ!と後頭部をハンマーで叩かれたような衝撃がソラを襲う。遅かった。もうライスの中でソラは近寄られたくもないほどの変質者に認定されてしまった。露骨にショックを受けた顔をするソラに、しかしライスは慌てたように両手をブンブンと振った。
「あっ! ごめんなさい違うんです! そういう意味じゃなくって……ライスの傍にいたら、迷惑かけちゃうから……」
ライスの言葉尻と共に、頭の上の細長い耳が枯れた花のように垂れる。さっきまでパニック状態だったソラの脳内は、そんなライスの状態を見て冷静になる。
「迷惑って、どういうこと……?」
「……ライスはすぐみんなを不幸にしちゃう、ダメな子だから……」
その姿も、声も、儚く弱々しい。これがあのライスシャワー?前世の自分を絶望の淵から救い出してくれた、あのヒーローの姿だというのか。ソラはただ茫然とライスを見つめていた。
「ライスも、ダメじゃないライスになりたかったけど……がんばろうって、レースに出ようって思ったけど、結局……!」
涙を流すライスシャワー。その姿に、ソラは足元が急に消え、奈落の底に落ちていくような感覚に襲われた。それは、失望にも似た感情。噂は本当だった。彼女は臆病で、こんなにも弱くて―――。
自分に、自信がない。それはまるで、前世の自分のようだった。前世で、ライスシャワーに出会う前の、すべてに絶望していた自分に。弱い自分が、泣き虫な自分が大っ嫌いな黒沢米子。なんで自分はこんなにダメなんだろう。惨めで情けなくて……。自分のヒーローと同じ名前の少女が……その魂を受け継いでいるはずの少女が、
「うぅ……ぐすっ。やっぱり……やっぱり、ライスなんか……!」
眼に涙を浮かべ、何かにおびえるように体を震わせるライスシャワー。まるで声と一緒に、存在ごと消えてしまいそうで……。
―――ダメだ。その言葉の先を言わせてはいけないっ!
「―――ライスシャワー、あなたをスカウトさせて!」
閑散とした中庭に、ソラの声が響き渡る。目を見開き、ライスシャワーはソラを見つめている。しかしそれ以上に、ソラは自分の口から飛び出した言葉に驚いていた。考えて言ったわけではない。ただこれ以上、彼女を放っておくわけにはいかないと思った。それは同情か、はたまた憐憫か。しかし胸の内に湧き上がるこの熱い想いは、そのどちらでもないと断言できる。そしてきっとこの想いこそが、この決意こそが、自分がこの世界に現れた意味なのだと理解した。
―――私が教えてあげればいいんだ。貴女はすごいウマ娘なんだって。
「あなたは、人を不幸にする存在なんかじゃない」
―――あの日、私に生きる希望を与えてくれたライスシャワーのように、今度は私が……!
「人を絶望の底から救い出して、その名前のように人を幸せにできるような、そんなヒーローみたいなウマ娘にきっと……絶対、なれるっ!」
それはただの励ましのための虚言じゃない。少なくともここに一人、救われた人間がいるのだから。
「それを、私が教えてあげる。だから、私をあなたのトレーナーにしてっ!」
さっきまで緊張で固まっていたのが嘘のように、ソラは自然にライスシャワーに歩み寄り手を差し出す。ライスシャワーにとって、ソラの言葉はただの根拠のない自信に過ぎない。けれど、まるでライスがそうなることを一片も疑わないその瞳に、笑顔に、ライスは引き寄せられた。
―――『お姉さま』みたいだ。と思った。子供のころから大好きな絵本『しあわせの青いバラ』。人々から気味悪がられ、しおれていく青いバラを、その笑顔で救ってくれたお姉様。ダメな自分に手を差し伸べてくれるソラの姿が、絵本の『お姉さま』と重なる。
この人の隣なら、きっとライスも青いバラのように咲ける。そんな確信にも似た想いが、ライスの胸で花開いた。
雲一つない晴天の夜空。宝石を散りばめたような星々の中心の三日月が、二人を照らしている。ライスシャワーはおそるおそる、差し出された手を取った。
この時、ソラは気づかなかった。前世の、違う世界のライスシャワーを知ってなお、ウマ娘のライスシャワーのトレーナーになる、その意味を。
ソラは今、とても強大なものを敵に回したのだということを―――。
―――運命が今、駆けだす。
☆次回、7月26日、午前9時!