ヒマそうなヤツがいた。 作:上半身ウマ・サピエンス(やる気:絶頂)
Q.トレーナーとの出会いは?
──なんかすげーヒマそうなヤツがヤラしい目で見てんなって。
──おい(怒)
〈『月刊トゥインクル増刊号』から一部抜粋〉
***
可憐だと思った。
初春の柔らかな陽光に注がれて、銀色の長髪が美しい光輝を帯びていた。それは海面に散らばる
すらりと伸びた長身の肢体は程よく発達した筋肉によって、彼女の屹立とした存在感をより一層際立たせている。芯の通った力強さが儚げな美貌から覗いている。僕の眼に刻まれた彼女の第一印象はそれだった。
溢美な表現ではない。降って湧いたように突如として巡り合った絶景を前に、多少の冷静さを欠いていたとはいえ、僕は純粋な気持ちで彼女の
夢かと疑いもした。
実際のところ、どこか夢見心地な気分だ。
しかし、鼻先を撫ぜる珈琲の芳醇な香りがそれを否定する。コーヒーカップの熱がじんわりと指を焦がすように意識に伝わり、これは紛うことなき現実であることを改めて認識した。
胃腸の調子を加味したヘルシーな朝食を済ませて、
暗みのある
なんてことのない日常の風景がいつもそこにあった。
それが今はどうだろう。
ありふれた日常が音も立てずに瓦解してしまったかのように、非日常が突然転がり込んできたではないか。
銀髪の美少女。
たった一人の少女によって、世界が一つ変わってしまうような、そんな予感──……。
「………………」
──銀髪の、美少女……は間違って……ない。うん。間違ってない。
歯切れの悪い思考を流す僕の表情はきっと引き攣っているだろう。
どれほど美辞麗句を並べたところで、目の前にある光景は変わらない。確かに〝銀髪の美少女〟なんて言葉で締め括っておけば、小さな幸運に巡り合わせた穏やかな美談に終わることはできる。
だが、こうして状況を整理していると僕の気持ちもだいぶ落ち着きを取り戻していくわけであって、なるべく見ないようにしていたモノの輪郭が鮮明になっていき、頑なに無視を決め込もうにも限界は訪れてしまう。現実から目を逸らしていても、前には進めないものだ。僕はそれに直面すべきなのだろう。
恣意的に意識から外していた情報を飲み込み、僕は改めてカフェテラスから見える異常な光景を受け止めた。
キラキラと輝く銀色の髪──と、銀色の
睫毛の下で細まる憂愁の双眸──と、ギャロッとした魚眼。
ただ立っているだけで美しい──はずなのに、どうしてこんなに近寄りがたいほどの
それは簡単な話だ。僕もようやく現実を捉えることができた。もはや長々と遠回りする必要もなくなった。
だから、はっきり言おう。
銀髪の美少女が、カジキマグロを担いでいる。
「……いや、意味わかんねぇよ」
思わず口に出てしまうほど、意味がわからなかった。
彼女は眉目の整った可憐な風貌をしている。モデルのような理想的な体型。脚光を浴びて然るべき艶やかな銀髪。全会一致の完璧な美少女だろう。なのに、なぜ1mぐらいあるカジキマグロを担いでいるのだ。ここオフィス街だぞ。海は遠いぞ。てかそれ生きてんのか。尾
彼女の周囲に偶然居合わせた善良な通行人は危険を察知したというか海鮮の
正しい判断だろう。アレと接触できるのは武装した警察官ぐらいだ。
意味不明が形を得たような彼女を下手に刺激すれば、どんなに恐ろしいものが返ってくるか──いやカジキマグロしか返ってこないんだろうけど──想像に
………。
そう言い聞かせるようにして、どうにか正気を保った僕は怪訝な情動を黙殺するために無糖の珈琲を喉奥へと嚥下した。少し冷めている。それでも一瞬の内に疲弊した脳にとっては心安らぐ一杯に違いなかった。
朝からとんでもないものを見てしまった。
今日が休日で良かった。錯乱の一歩手前まで迫った最悪のコンディションでは仕事など手につかないだろう。しばらく頭から銀髪とカジキのカオティックなペアは離れてくれないだろうけれど、衝撃的な異常と
折角の休日が台無し──とは言っても、僕の休暇は存外つまらない。朝っぱらからカフェテラスに入り浸っているのが何よりの証拠だ。
コーヒーカップを置いて、新聞紙を両手で捲る。記事に載せられた大きな写真には
〝ウマ娘〟
彼女たちはそう呼ばれている。
「なあ、オマエ」
唐突に声をかけられたのは僕の意識が新聞記事に張りつけになって
それは嗅覚であった。
魚類特有の潮っぽい生臭さが鼻孔を貫くように襲いかかり、悪寒めいたものが背筋を走った。
──まさか。
慎重に目線を上げると、
何やら嫌な予感がする──と、後退るように椅子を引いて視野が広くなると、その時はじめて彼女の正体に気がつくことができた。
頭頂部にぴょこんと佇む二つの耳。
尾骶骨あたりから左右に揺れ
どれも人類の特徴には当然として見受けられない特徴的な器官だ。僕らの祖先に尻尾は無いし、耳介は頭上ではなく下顎骨の横から突き出ている。では彼女は猿人ではない他の哺乳類なのかと問われれば、身体的構造の九割は人間としか言い表せず、何よりも遺伝子の片方は必ずしも純正の人間である事実がある故に、彼女たちは生物学的にもヒト科にカテゴライズされている。
ウマ娘。
その存在を端的に説明するならば、生来の身体能力が一般的な人間と比肩して格段に高く、殊更に脚力においては生物界のトップに名を連ねるとさえ言われている優性の種である。その遺伝子は未だ完全に解明されていない。ただ一つ確固たる事実として、その特質は女性にのみ遺伝されるため、彼女たちは〝ウマ娘〟と呼称されている。
とはいえ、ウマ娘はそこまで珍しいものではない。現代において希少性は高くはない。普通に暮らしている。街中を歩けば、確実と言っていいほどに出会える。ウマ娘の出生確率はさして変わらない。一般的な人種に比べて、数こそ劣っているだけに過ぎない。
僕が目前のウマ娘に対して興味を持った理由は別にある。無論、都会の喧騒に気にもせず、イキイキとしたカジキマグロを所持しているだけで注目せざるを得ないのだが──それは一先ず置いといて、今は彼女の服装がライラックのセーラー服であることに驚きを隠せなかった。
遠目からではどうしても魚の方に目がいって気付かなかったが、彼女は〝トレセン学園〟の生徒であった。輝かしい青春の大半を
──この子が、トレセン学園の生徒……ウマ娘か……。
感嘆の吐息を漏らしながら、半ば他人事のような気持ちで銀髪のウマ娘が持つ肢体を目でなぞるように観察する。はっきり言って、良い脚だと思った。筋肉の質感は未完成ではあるが、持って生まれた足の長さは走力においてこれ以上ない武器になる。
これは力強い走りが期待できる。
と、そこまで査定してから、僕らは薄く伸びた沈黙の空間を共有していたことを思い出した。声を掛けてきたはずの彼女もまた僕のことを敵意とは異なる鋭い眼光で見据えており、目線が合わさると破顔するようにニッと快活な笑みを浮かべた。
「なんかすげーヒマそうにしてんな」
「……はい?」
「このゴールドシップ様の暇潰しに付き合わねーか?」
それは一体どういう──頭に浮かんだ言葉を喉から捻り出す前に、僕の視界は暗転したかのように一面の黒に覆われていた。
感触からして麻袋だと思う。
それをいきなり頭から被せられた。
「むごぉーっ⁉︎」
「よっしゃトレーナーGETだぜ! ゴッゴルチュウウーッ!(裏声」
それはトレーナー側が言うべきセリフではないだろうか──⁉︎
「ここを縄で縛って、と……ヘヘッ、こんなところに野良トレーナーがいたとはな……! カジキで受付を脅す手間が省けちまった! ツイてるツイてる。ゴルシちゃんツイてる!」
「むごむごむごぉー⁉︎(訳:降ろせ! 誘拐つーか拉致じゃねぇかこれ⁉︎」
「暴れんなって。別に海外とかに売り飛ばしゃしねーよ。ただ、ちょ〜っと──オマエの人生が欲しいだけなんだ」
「むごおおおーッ⁉︎(訳:想像よりも過酷だー⁉︎」
あれよあれよという間に僕は簀巻きにされてしまった。今ならハムの気持ちが分かるほどキツく縛られている。抵抗は死ぬ物狂いで頑張ってみたものの、ウマ娘の未発達の筋力ですら平均的な成人男性のそれと雲泥の差があると言われるほどなのだ。襲われた時点でどこか諦めていた。
それでも声は出し続ける。ここにはカフェテラスの
「な、なにをしてるんだね君たち⁉︎」
ま、マスター⁉︎ 来ちゃダメだ! このウマ娘、カジキマグロという凶器を持っているんだ! ドントカムヒアー‼︎
「おっと。マスター。 悪いがコイツ借りていくぜ。代わりにー……そうだな。アタシが釣ったカジキマグロ置いてやっから! これで勘弁な☆」
「い、いらないよ⁉︎ ちょっ⁉︎ 座らせないで⁉︎ カジキマグロをお行儀よく椅子に座らせないで⁉︎ 臭くなるでしょお⁉︎」
いやいや。僕の心配をしてくれないか
「やっべぇー。このカジキマグロ思いの
いや、食べねぇのかよ。
「うおっ⁉︎ マグロのくせになんてアクロバティックな暴れ方をしやがるんだ⁉︎ さてはサメ映画のエキストラに出てたなテメー?
いいぜ。アタシが台風でもなんでも受け止めてやるよ。お前の全力を正面からブチ抜いてやるぜ! オラァあああ‼︎ かかってこォォォい‼︎ ────あっ」
視界を塞がれているせいで何が起こっているかサッパリわからないが、僕の意識はウマ娘の「あっ」という何とも間抜けな声を境にして、急に絶たれてしまった。
気絶する寸前に、頭部に猛烈な痛みを感じたので、暴れ回るカジキマグロに
──僕が何をしたって言うんだ。
***
「おーい。起きろよ。はやく起きねーと髪の毛にハチミツ塗りたくって髪型リーゼントにすんぞー」
ぼんやりとした意識の底に地獄みたいな言葉が鳴り響く。
身の危険を沸々と感じ取って、考えるよりも先に肉体が動いた。悪夢から目覚めたかのような猛然とした勢いで起き上がった僕は額に汗を流しながら、両手で頭を
大丈夫なようだ。蜂蜜の甘ったるいスメルもしなければ、特攻服が似合いそうな旧世代のヘアスタイルにもなっていない。とりあえずの危機は脱せたようだ。
「おっ。目ぇ覚ましたか。ンだよ……あともう少し寝てりゃ立派なツッパリデビューかましてやれたのによ……」
僕の真横で、腰を落とした銀髪のウマ娘が市販のハチミツボトルとヘアブラシを携えて残念そうに肩を落としていた。なんとも恐ろしいことに彼女は本気だったらしい。心底から震える。
とにかく、とても許容しがたい僕の
「で、ここはどこだ」
「なんだそのつまんねー反応はよお。誘拐されて人質にでもされたか?」
ほぼその通りなんだが……。
『──続いてのレースは午後の部からとなります。出走予定の選手は予め受付を完了させ、係の指示に従い、待機するようお願い致します。繰り返します。続いての──……』
どこからかアナウンスが聴こえてくる。
「レース場なのか、ここ」
やっと脳が正常に動作し始めて、
そして、僕が目覚めたこの場所は選手──詰まるところウマ娘の共同の控室のようだ。
それでも酸味の強い発汗特有の刺激的な臭いは誤魔化せない。どうやらレースは既に幾度も行われているらしい。部屋に僕ら二人しか残っていないのは、他の選手が観客席でレースの模様を見物しているからだろう。
その一同も午後の部に向けてそろそろ戻ってくるのではないか──と、思考がそこまで行き着いて僕は酷く焦った。本来なら、ここは関係者以外は立ち入り禁止であるはずだ。男子禁制というわけではないが、常識的に考えれば、僕のような俗人が我が物顔で居座っているのはマズい。
──このウマ娘、なにを考えてるんだ……?
「こんなところに連れてきて、何をするつもりなんだ」
「おいおいおい。察しが悪ィな。勘鈍太郎かよテメー。レース場に来てやることなんて1つしかねーだろ」
なぜか得意げな相貌に微かな闘争心の炎を宿し、無駄に大きい胸を誇らしく張って、彼女は断言してみせた。
「走んだよ、トレーナー。レースだぜ、レース。ゴールドシップのデビュー戦だ」
執筆から逃げるように競馬場へ辿り着いたと思ったら、いつのまにか新作を書いていた。何を言ってるかわからねぇと思うが、作者にもよくわからなかった。頭がうまぴょいになりそうだっち。(以上、言い訳)