肺が灼ける。
心臓は早鐘のように跳ねまわり、胸を叩く。
汗で霞んだ視界に、届かない背が滲む。
焦りと苛立ちから追いすがろうと地面を蹴り足掻く私を、嘲笑うようにその影は空を駆けるかのように置いてゆく。
足りない、たりない、タリナイ―――何もかも、足りなかった。
それでも、振り絞るように雄たけびを上げて全てを振り絞る。
だが、結果は残酷で誰も捕える事の出来ないままゴールのフラッグは無慈悲に私だけがバ場に残されたまま高々と風にはためいた。
また、 “一番” になれなかった。
それ以外に意味なんてないのに。
それに手を掠める事も出来ない自分の価値は砂のように崩れ、私の身体もソレを追うように崩れ、
「――――っヒ!」
自分を置いて行くその背に絶叫をあげながら必死に手を伸ばした所で目を覚ました。
また、この夢だ。
嫌な汗に塗れた体はベタベタと気持ち悪く、未だに暴れる心臓はレース後のように頭に響くくらいに高鳴ってはいるが、見慣れた寮の天井に窓から差し込む穏やかな朝日。ソレとマヌケな寝息を立てている同室の“ライバル”がココは現実だという事を私に教えてくれる。
何とか整えた呼吸と、未だに頭にこびりつく恐怖感を必死に宥め込んだ私は顔を覆い小さく呟く。
「私は、よわくない。私は、はやい。わたしが――― 一番なのっ!」
何度も、何度も。
そんな空虚な言葉を糧に私は、“チーム最弱の私”を否定して起き上がる。
誰にも追い付けていない今の現状なんて、許すわけにはいかなかったから。
私“ダイワスカーレット”は今日も夜が明けきる間に走り出す。
それ以外に、私は自分を守る方法を知らなかったから。
―――――――――――――――
「はーい、今日の朝練メニューかんりょ~! みんなサキサキから朝ご飯の献立貰って遅刻しないようにねっ!」
少し肌寒いくらいの早朝。皆が最後のランを終えたのを見届けて私“由比ヶ浜 結衣”がそう号令をかけると皆が運動の熱が残っているのか湯気を立てたまま思い思いに練習を切り上げて応えてくれる。
いまだに朝早い練習になれず眠気がとり切れてない自分とは違って溌溂としているので凄いなぁと毎日思う。
ヒッキーに誘われてこのトレセン学園に来てから早いものでもう3か月ちょっと。慣れない事も、分からない事も多いけれども生徒のみんなは良い娘ばかりだし、皆のマネージャーぽいお仕事も個人的には苦も無くやれているので総合的にはいい転職だったと思える。
そう思いつつ立ったまま居眠りしている中二を蹴っ飛ばして起こしかたずけに向かわせていると――― 一人の女の子が目に留まる。
皆が明るく笑いながらグランドを去る中で一人だけ俯く赤毛の彼女。
“ダイワスカーレット”ちゃん。
真面目で、礼儀正しくて――でも、ちょっぴり怒りっぽい少女。
気にかけては、いた。
いつもは練習が終わった後に必ずヒッキーに噛みついて、周りに宥められていた彼女が最近はすっかり元気がなくなり機械的にメニューをこなすだけになっていたのは素人の私でも分かる程だったから。
多分、ヒッキーに相談したって『自分で乗り越えるしかない』とか言うに決まってる。
厳しい勝負の世界に生きる人間の理屈はそうなのかもしれない。
でも、そんなの、私の知った事ではないのだ。
若い子が悩んで、苦しんでいるのを見て見ぬ振りなんて出来ない。
それが、お節介だったとしても―――私はかつてそうやって救われたのだから。
だから、私は。“由比ヶ浜 結衣”は俯く少女の手を迷わず取って引き留めた。
「ダスカちゃん、今日は一緒に学校サボっちゃおっか?」
「―――ふえ?」
彼女の間の抜けた声が朝焼けのグランドに小さく響いたのであった、とさ。
―――――――――――――――
「えへへ、学校サボって遊ぶのって何歳になってもドキドキするよね~」
「え、まぁ、はい……」
澄み渡った青空に多くの人が行きかう公園でそんな事を言うのはピンクの髪をお団子に可愛らしく纏めた『チームカウンセラー』の“結衣”さんだ。
その柔らかい人柄と憎めない可愛らしさを供え持つ彼女に朝練から強制的に連れ出された“サボり”。
どんだけ固辞をしても“だいじょーぶ、だいじょーぶ”なんて言ってあちこちに電話を掛け私の休みを取りつけてしまった彼女につれられるままこんな所にまで来てしまったけれども、何が目的なのか未だに分からない。
街の中を適当にぶらつき、気になった甘いものを突いて―――公園で寝転んで今に至る。
意図は全く見えない彼女の行動に困惑されっぱなしでいたが、腰を下ろしてゆっくりする時間が出来れば湧き上がるのはやるべきだったはずのトレーニングや授業の事ばかりが脳内を埋め尽くしていく。
「……あ、あの、やっぱり私今からでも」
「ソレはチームのカウンセラーとして許可出来ない、かなぁ。………ダスカちゃん、最近もしかして碌に眠れてないんじゃない?」
「―――っ」
起こそうとした身体を緩く引き寄せられ、抱きしめた彼女がそんな事を呟くのに思わず息を呑んだ。
見透かされ、強張った身体を彼女はクスリと笑っただけで受け止めてそのまま芝の上に私を抱きしめたまま寝転んで言葉を紡いでいく。
「私は、レースの事は素人だから分かってあげる事は出来ないけど、その焦りも苦しみも共感してあげられないけど、だから、なんでも言っていいんだよ。アドバイスは出来ないけど聞いて、受け止めて、抱きしめてあげるくらいは出来るから――――私は貴方の味方だよ」
「―――な、によ、それ。むせきにん、よ」
「うん。でも、だから、我慢しなくていいんだ。そのために私はココにいるの」
「――――っつ、あっ、う“ぇ……ぁ、あぁぁぁっ!!」
抱きしめられたその温もりと、本当になんでも受け止めてくれる柔らかな笑顔でただただ労わってくれるその優しさに―――私の張りつめていた何かはゆっくりと溶かされて、そこからはもうよく覚えていない。
おっきな声で子供みたいに大泣きして、唯さんの胸で思い切り叫びたかった何かをずっと吐き出した。
“わたしははやいもん” “うん、ダスカちゃんは凄いよ”
“みんなにまけたくない” “大丈夫、勝てるよ”
“一番になりたい” “がんばろ。今日をちゃんと休んだら明日からも~っとがんばろう!”
“さびしいよっ” “家族と離れて辛いよね、ダスカちゃんは偉いよ”
“あいつきらいっ” “ヒッキーは本当にお馬鹿さんだもんね?”
そんな、ヘドロのように溜まった鬱屈をひたすらに涙と共に吐き出し続ける私を、結衣さんはずっと抱きしめて頭を撫でてくれる。
大好きな母とは違うその安らぎ。
でも、だからこそ、期待してるお母さんに挫けそうな“弱い自分”を見せちゃいけないという負い目も無く素直に子供のように弱音を吐けた。
最後にはただただ唸って、思い切り抱きしめるだけとなった私をただただ彼女はずっと抱きしめ返して優しく励ましてくれる。そんな、ここに来てから始めて見つけた安らげる場所に私はいつの間にか微睡んで、久々に深い眠りへと堕ちていったのであった。
―――――――――――――――
「………結衣さん、ここって」
「うん、トレセンの夜間用トレーニンググランド。本当は定時以降の練習は厳禁なんだけど――すっごい“お人好し”が毎日ココで希望者のトレーニング出来るように理事長に掛け合ったんだって」
そのまま寝入ってしまった私を起こすことも無く抱きしめてくれていた結衣さんの胸元で目を覚ましたのはとっぷりと日も暮れた夕方の事で、何度も謝る私に彼女は“皆には秘密ね?”なんて言ってオススメのオシャレなパスタまでご馳走してくれた。
泣いて、喚いて、弱音を吐き切った上に睡眠と美味しいごはんでお腹を満たした私は現金なモノであれだけ胸の奥底にこびりついていた懊悩なんか無かった様に澄み渡った気分でトレセンへの帰途へ着いたのだが―――最後に付き合って欲しいという彼女につれられたのがそこであったのだ。
定時以降だというのに多くのウマ娘がレッスンに取り組む中心で佇むのは―――自分の大嫌いな“あの男”。
「………なによ、普通の指導もできるんじゃない」
「うん、ヒッキーは毎日自分のチームのトレーニングが終わったらずっとココで“トレーナーのいない娘”達に指導をしてるんだ。……自分の実績にはならないのにね」
「…………いみ、分かんない」
遠目で見ているだけでも見知らぬ彼女達にしている指導は的確で、効率的なのが分かる。ソレは、一般的に言えば一流といってもいい指導だろう。
だが、それでも―――余りに遅い。
そんな指導を受けていても、誰もがG2で入賞できればいいだろうという程度。
新米トレーナーがステップアップのためにギリギリ選ぶかどうかというレベルでしかない彼女達の全てに彼は手を抜かず、ネチネチといつもと変わらないしつこさで改善点を叩きつけ真剣に改善を促す。
「バカだなぁ、て私は性格悪いから思っちゃう。自分の寝る間も削って真剣に向き合って――自分のチームだけ見てればこんな苦労も恨みも買わなくていいのにヒッキーは彼女達にトレーナーがつくまで絶対に指導を辞めないの」
なら自分が拾ってやればいいじゃないか、と言葉にしかけてその現実感の無さに言葉は力なく消えていく。
ベテランでも十全に見れるのは2人程度。更に言えば、“あの指導”に耐えられる基礎能力がココにいる全員にない事が嫌でも分かってしまった。
自分の“全力”以外の指導で彼女達が埋もれて行ってしまう事が、あの男には許せないのだろう。
身勝手だけど、不器用だけど、アイツが―――どこまでも真摯に自分達に向き合っている証左が目の前に出されて何を言えるというのか。
「………なんでコレを私に?」
「好きな人のことを、好きな娘にちゃんと知ってて欲しいっていう私のわがまま、かなぁ?」
「……結衣さんって、けっこうずるいわよね」
「えへへ、自分でもそう思う」
私のちくりとした嫌味にも、はにかみながら笑う結衣さん。
そんな彼女にまだまだ全然敵いそうもないと白旗をあげて、私はその柔らかな方に頭をこつりと乗せて小さく息を吐いた。
「……ありがと」
「うん、明日からまたがんばろーね」
まだまだ冷え込む風にアイツの檄と、私達の気の抜けた声が流れて消えていった。
=翌日=
「んじゃ、ミーティング始めるぞー」
「「「「うーい」」」」
午後一番、恒例の掛け声と気の抜けた返事がミーティングルームに響き、それぞれのメニューや改善点、予定について通達している中で最近はめっぽう記録が伸び悩んでいた“スカーレット”に移った時に少しだけ目を見張った。
「……何よ」
「………いや、今日は元気が有り余ってそうだからな。特別にメニューを二割増しにしてやろう。材木座、ウエイト追加だ」
「はぁっ、アンタふざけんじゃないわよ!? まだウエイト増やす気!!?」
「ほむぅ、もう全身ガチガチに巻いてるのにどこに巻き付けるのだ…?」
ぎゃんぎゃんと最近はなりを潜めていた反骨精神満載で噛みついてくる彼女とドン引きしている材木座にケラケラ笑いながらいなしていると――――ミーティングルームの扉が轟音と共に吹き飛んだ。
比喩とか、そういうのは抜きで分厚いその扉はひしゃげて向こう側の壁へと吹っ飛んでいき、綺麗にロッカーへと突き刺さる。
俺に掴みかかっていたスカーレットも止めに入っていた奴も、ゲラゲラ観戦に徹していた奴らも誰もが息を呑み、埃煙が立ち込める入り口に目をくぎ付けにさせられたのであった。
果たして、その奥から現れたのは―――――
「ゲートの開閉に支障があったので強行突破に移行。………ココがチーム“コルヴィス”のミーティングルームで相違ない事を確認したします」
流れる栗毛に、無機質な表情と声。
その顔はこの学園に類するものなら誰もが知っている。
ルドルフが7冠以降に出場を控えてから“最強”とその名をあげたウマ娘。
『ミホノブルボン』
そんな怪物が、何事も無かったかのように入室をしてきたが―――もし、違ったらどうするつもりだったんだコイツ、なんて能天気な事を俺は心の中で思わずつぶやいてしまったのであった、とさ。