神よ賛えよ、我今来たる ─ウマ娘プリティーダービー─ 作:嵐牛
切に落ち着きを持ってほしい。
理事長秘書の駿川たづなが理事長に切に願うことはそれのみである。
マツカゼの学校に事の仔細を話してほしいと言うが早いか、秋川やよいは真っ先にグラウンドへと走っていってしまった。
そしてあちらの学校に連絡した結果、至急連絡せねばならない事が出来たので連絡を取ろうと思ったら向こうの喧騒か何かにコールが紛れているのか一向に電話に出る気配がない。
しょうがないのでグラウンドのコースの観客席まで走ったところ、彼女は席には座らず、最上階の踊り場からコースを見下ろしていた。
「理事長。松橋訓練学校に連絡したところ、『マツカゼというウマ娘はここには在籍していない』との・・・・・・事、で・・・・・・・・・」
やよいの隣に並んだたづなの報告が、止まる。
彼女の視線の先にはたった今スタートが切られたらしいレースのその2番手、紋付袴のような勝負服を纏い走るマツカゼがいた。
そこで察した。
理事長が電話に出なかったのは、あの服でコースに現れた彼女を見ていたからなのだと。
たづなが察した通りの、そしてたづなと同じものを、秋川やよいは目を見開いて凝視していた。
「・・・・・・
震える声で、そう
知らず踊り場の手摺りを握り締めていた小さな両手は、ミシリと音が立つほどに力が込められていた。
◆
レースは第1コーナーを回って第2コーナーに差しかかる。
この辺りから向正面の途中までは緩やかな下り坂になっており、スタミナの消耗に気を配らなければならない。
ハナを進むバクシンオーとそれを追うマツカゼ、レースはハイペースで流れていくと思われたが、ここでマツカゼは違和感を覚えた。
(・・・・・・追ってこないねえ)
ちらりと後ろを見れば、2番手につけている自分と3番手の距離は6バ身は離れている。先頭のバクシンオーから測れば10バ身もの差だ。
無論、恐ろしいペースで走るこの先頭を無理に追えば良くて脚が残らない、悪ければ途中で潰れる可能性すらある。ある程度は速度が落ちるだろう終盤に差し切ることを事を考えれば控えておく事は正しい。
しかし、差し切るにしても距離の限界というものがある。
終盤には多少なり下がるだろうが
故に相手の速度と自分の脚の残り具合を鑑みて、どの位置から抜かすにしろある程度の距離は詰めてしかるべきはずなのだが─────
スカーレットたちも追いかけてきていたはずなのだが、ここからでも行けるという自信の表れか?
それとも・・・・・・?
「む」
そこで気付いた。
前方を走るサクラバクシンオーの背中が、数秒前より近い。
まさか自分が
自分のペースを保てなくなっている状態だ。
快調に先頭を飛ばしていくバクシンオーを冷静に追っていたつもりだったが、自分は知らず知らずの内に焦っていたのかもしれない。
マツカゼは直ちにこれを是正、やや巡航速度を落として最初のペースに戻そうとした。
しかし速度を落としてもサクラバクシンオーの背中はどんどん近付いてくる。
それをマツカゼが疑問に思う間もなく、バクシンオーとの距離は加速度的に縮まっていき─────
「え!? 嘘だろ!? バテたのかい!?!?」
「バクシン・・・・・・バクシィィィィン・・・・・・・・・」
素で叫んだ。
威圧するルドルフを前にして一切動じなかったマツカゼが素で叫んだ。
エネルギー切れで詰みましたぁぁ、とか細い声を残しつつ逆噴射するような勢いで後ろに垂れていくバクシンオーに、表情筋が未知の動きをし始める。
そして理解した。後続の彼女らが追ってこなかったのは、『こうなる』事を知っていたからだ。
さっきまでの高揚と冷や汗を返せ─────
やっぱり
しかしあまりズッコケてもいられない。
潰れるのが決まっていたバクシンオーを追う事で余計なスタミナを消費してしまった。
彼女の意図がどうあれ、自分はまんまと嵌められた事になる。
(参ったねえ。あたしは逃げウマじゃないんだよ)
意図しない形で先頭を走る事になってしまったマツカゼは考える。
逃げに必要とされるのは
やれない事は無いだろうが・・・・・・・・・逃げる走りは慣れていない。それにこの先の第3コーナー前は急な登り坂。自分のリズムが崩れた状態で走るのは避けるべきである。
大切な一戦、慣れない事をするよりも自分の得意な形でぶつかるべきだ。
ならばどうリカバリーするか。
「ふむ」
時間にすれば数秒にも満たない思考の後、彼女は即座に動き始めた。
とはいえ、そう難しい事をした訳ではない。
流す程度のスピードまでギアを下げてから少し後、いくつかの足音がマツカゼに近付き、そして追い抜かす。
ダイワスカーレットやトウカイテイオーなど、先行策のウマ娘たちが横を通る瞬間、困惑を色濃く浮かべた目でマツカゼを見る。
何故? どうしてここまで下がってきた?
そんな目線が通り過ぎていく中、5番手まで順位を落としたマツカゼはふと隣のウマと目が合った。
やはり真意を掴みかねているらしい彼女に気さくに笑いかけるマツカゼだが、しかし笑いかけた相手は大した反応も返さない。
それはまるで、自分の心の動きを相手に細波すら掴ませまいと覆い隠すかのように。
「──────っ」
未だ輪郭の定まらない脅威を後ろに振り払うように、シンボリルドルフはマツカゼの前へと抜け出した。
何の因果か学園でも指折りの強者たちが集ったこのレース。
イベントとして大盛況なのは見ての通りだが、観客たちも同じ競走バ。ただお祭り騒ぎしているだけではない。
レースの主導権を握っているのは誰か。
走者たち一人一人の動きにどんな意味があるのか。
そして自分があそこで走るならどう動くか、自分に不足しているものは何か。
歓声を上げるその裏でウマ娘たちは大なり小なりレースの分析を行うものだが、とりわけエアシャカールとアグネスタキオンは分析に偏重するタイプだ。
第1コーナーを回った集団の動きを見て、歓声も上げずにカメラを担いでいるタキオンがふと疑問を口にする。
「ふむ、皆やけに外を回るね。まだ様子見の段階とはいえ、後々な仕掛けるための体力の温存を考えればもっと内を通るべきはずなんだが」
「・・・・・・部屋で実験ばっかしてっから頭から抜けるんだよ。お前の脚の事情は知ってっけどよ。走らなきゃ分からねえデータなんざごまんとあるぞ」
若干呆れ混じりにシャカールが解説する。
「バ場が荒れてんだよ。トレーニングが終わってそのままレースだ、芝なんて捲れまくってる。
まして通る頻度の高いインコースなんざ蹄鉄でさんざん耕されてるみてェなモンだ。あの土を蹴って走んのは骨だぞ」
「成程。言われてみれば確かに。体力を温存するなら少しでも綺麗なまま残っているルートを選んだ方がいい。バクシンオー君まで外側を走っているのが解せなかったが、彼女もそれを理解していた訳だ。しかし・・・・・・」
「ああ。そもそもアイツはこのレースに」
脚質そのものが合ってねえんだよな、とシャカールが言おうとした直後にバクシンオーが逆噴射し始めた。
いくら状態のいいルートを通っても、そもそも圧倒的にスタミナが足りていない。外を回り距離が伸びたせいで第2コーナーで力尽きていた。
距離と歓声に紛れて聞こえないが、たぶんマツカゼが何か文句を言っている。
まあそうなるよなぁ・・・・・・、という生温かい感情を沈黙で共有し、2人はレースの分析を続けていく。
「・・・・・・他の奴らは知ってて控えてたが、そのデータが無えとああなる。あのペースで引き回されちまったらこっからの展開はキツいだろうなァ」
「ん、待て。マツカゼ君がペースを落としたぞ」
タキオンの言葉通り、向正面の先頭を走るマツカゼが一気に速度を落とす。
ずるずると後ろに下がってきた彼女を他のウマ娘が抜かし、先頭が他のウマ娘に入れ替わった。
まさかバクシンオーを追って潰れたかという構図だが、どうやらそうではないらしい。
「フォームに乱れが無い。スタミナ切れではないようだねぇ。となると無駄に消耗させられた分は息を入れておきたいといったところかな?
しかしあそこまで急激に速度を落としてフォームが乱れないというのは驚異的な体幹だ」
「あのペースのまま先頭を走っても脚が残らねェし、判断としちゃ妥当だな。にしても判断が早えェっつーか、あそこまで落とすのは思い切りが良すぎる。・・・・・・『直感』ってか?」
「その辺りはもう直接聞いた方が早いかもしれないな。ほらほら、彼女の走りは君だけでなく私の分野のアプローチにも有用なんだ。分析もいいがしっかり記録してくれたまえよ」
「うっせえな。分かってるっつの・・・・・・ああクソ、身体の動きが分かり辛え! 何だってあんな仰々しい服で走ってやがんだアイツ!!」
カメラを担ぎながら苛立ちを叫ぶエアシャカール。
数式という分野なら走るフォームは大設問もいいところだからねぇ、と彼女の苛立ちに理解を示しつつ、タキオンは改めて5番手まで順位を下げたマツカゼを眺める。
───無駄に消耗させられた体力の回復。
速度を落としたとしても、撹乱されたスタミナ配分のリカバリーは容易ではない。
急激なペースダウンは大胆で的確な判断にも思えるが、『そこまでやらないと体力が保たない』という苦肉の策だったはず。
ましてあのハイペースから急激にギアを落とせば、身体の動きと呼吸が噛み合わなくなる。苦しい状況は終わらない。
ウマ娘の肉体を突き詰めんとするタキオンは運動生理学的な分析を得意としており、またその分析に間違いはない。
正解を導くだけの知識と
(渇望するものを手に入れようとする時に狂気は顔を出すものだ。・・・・・・トレセン学園そのものに勝利しようという狂気を見せた君が、さらにその先で何を覗かせてくれるのか。楽しみだよ、マツカゼ君)
自分を引き入れるために毒性も副作用も何も知らない複数の薬を一気に飲み干したトレーナーの姿を思い浮かべながら、アグネスタキオンはくつくつと笑う。
観客席から遠く眺める、第3コーナー前の急な登り坂に差し掛かった彼女の背中。
第3コーナーを回り、第4コーナーとの間に至るまでの下り坂。
いよいよレースの終盤、ラストスパートに向けた最後の
先頭にいたダイワスカーレットはそのまま押し切る体勢に入り、中段にいたウオッカも先団を目指して加速。
その他のウマ娘も本格的にゴール板を目指す中、マツカゼは未だ動かない。
真の実力者たちが出揃っているこの局面、仕掛けるのが遅れれば誇張無しにそこで終わる。
誰が見てもマツカゼは明らかに出遅れており、まして彼女の前にはシンボリルドルフがいる。少なくとも彼女より先に前に出て良い位置につけていないと、そのまま千切られて終わるだろう。
レースを見ていた全員がそう確信していた。
そしてマツカゼがスパートを掛けたのは、前寄りの位置につけていたルドルフが下り坂が終わり、第4コーナー辺りで仕掛けるのを見てからという、他のメンバーの実力から考えてもあまりにも遅すぎるタイミングで。
そこから先に起こった事は、誰も忘れられないものになる。
見る者全ての脳に焼き付けられたその光景は、1人の少女に未曾有の衝撃を叩き込んだ。
それは起こり得ない現実を罵倒しているのか、それとも自分の正気を必死で確認しようとしているのか。
目の前で確かに起こっているそれに、秋川やよいは目を剥いて叫んでいた。
「
いやしかしっ、あれは!! 彼女はッッッ!!!」
「りっ、理事長、落ち着いて下さい! 私も目を疑っているんです! 似ているとは思っていたんです!!
だけどいくらなんでも似ているだけです!!
だって、だってその方はもう、20年以上も前に!!」
「承知ッッ!! 分かっている、分かっているのだ! 私が余りにも飛躍したことを考えているという事は!! しかし、しかし・・・・・・・・・ッッ!!」
錯乱じみた混乱をしているやよいを諫めるたづなだが、彼女もまた完全に冷静を欠いている。
それ程までに有り得なかったのだ。
外見だけなら他人の空似で済ませられよう。
だけど余りにも根拠が出揃っていた。
整理のつかない混乱と間違いなはずの確信を、トレセン学園理事長は吐き出すように叫んでいた。
「しかしそれでも、そうだとしても!──────