身体が重い。
「うーん…………」
スマホの画面には、「7:46」と表示されている。
頭が重い。
「起きるのやだ…………」
とはいえ、貴重な日中を寝過ごすのは勿体ない気がする。眠い目を擦り、上体を起こす。風邪を引いたのだろうかと思うくらい、今日は何だか身体が重い。冬の厳寒に当てられ、冷たくなった寝室の空気が肺に染みる。
「今日はどこ行こっかな……」
SNSを確認しようとスマホのロックを解除した。すると、一件のリマインドが表示された。毎朝恒例の、「昨晩の自分からのメッセージ」である。起きてから日が暮れるまでに私に起こるトラブルを回避するため、寝る前の『アタシ』が簡単な未来視をしてくれる。
「『昼間から雨が降る』……雨降るんだ……」
まだ日が上りきっていない薄暗い部屋の中を見渡し、折り畳み傘があったかどうか確認する。大きな傘は持っていくと邪魔になるからだ。
「ん……?」
雨予報の後には、短い一文があった。
『5じまでにはいえにかえれ』
漢字変換がされていない文は珍しかった。背筋が一瞬ピクッと痙攣したような感覚を覚えたが、特に気にしないことにした。
「コップ……水でも飲んだのかな……?」
ベッドの近くにある小さなテーブルの上には、飲みかけの水が入ったコップが置かれていた。周りに置いてあるカフェのクーポン券付きチラシには、水滴が溢れた痕跡があった。
〜〜
「うわぁ……降ってきた……」
家で朝食を取り、テーブルの上にあったクーポン券を使うために隣町のブックカフェまで歩いてきた。ブックカフェに入って窓際の日の当たる席で昼食のケーキと紅茶を嗜んでいると、予言通り急な土砂降りに見舞われた。スマホで天気予報を確認すると、16時過ぎには雨雲が通過するとのこと。スマホの現在時刻は13:20。
「まあ、いっか」
家からの片道移動に1時間半も掛かるこのブックカフェ。土砂降りの中帰るには長い道のりだ。雨が止むまでゆっくりと本を読んでいよう。そういえば5時までには帰るようにと忠告があったな。3時半くらいには店を出よう。私は、読んでいた小説の続きの章に目を向けた。
「ん…………あれ!?」
気が付くと、窓の外の雨は止み、空は赤く染まり始めていた。激しくなる鼓動を感じながら慌ててスマホの時刻を確認する。16:40。
「まずい……っ!!」
急いで片付けを済ませ、店を出た。行きは徒歩だったが、帰りはどうするか。タクシーを使おうにもそこまでお金を持っていないし、バスや電車でルート検索をしても5時の帰宅には間に合わないようだった。それでも一番早く着くであろうバスに乗るために最寄りのバス停に向かった。
「嘘…………何で…………?」
地図にあったバス停の位置と実際の位置がずれていた。探しても見つかるのは逆方向のバス停のみ。まさかと思い、近くの交差点を渡った先に目的のバス停はあった。
「過ぎてる…………」
迷っている間に、バスは定刻通り発車してしまったようだ。仕方なく、徒歩で帰ることにした。
「初めてだな……『アタシ』の忠告無視したの……」
少しずつ紅に染まっていく静かな街を歩く。地図アプリに表示されているルートに従い、人気の無い住宅街へと踏み入れる。確か、あの角を曲がると大きな通りに出るはず───────。
「───────あ」
地図アプリでは、確かに大きな通りに出ると書かれていた。しかし目の前に広がる景色は何故か行き止まりであり、その手前には紫色の髪をした少女の背中があった。時刻は5時を回っていた。
「………………間違えたかな?」
スマホの画面に向き直り、方向転換しようとする。しかしその時、少女のいる方から声が聞こえてきた。
「合ってるよ」
優しく透き通るような、穏やかな声だった。
「合ってるよ……シャトー」
その声を聞くと、不思議と安心する。まるで、長い時間を一緒に過ごしてきたかのような、懐かしい感覚に包まれる。
「うん……」
歩き出す少女の背中を、私は追いかける。スマホをしまおうとしたが、うまくバッグに入らない。何故だろう。何度やってもスマホを落としそうになってしまう。そこで、はたと気付いた。
「手が、震えてる…………」
指先が、見たことないくらい激しく震えていた。全身から汗が吹き出すような感覚に襲われた。呼吸が荒くなる。本能的に、直感的に。私は悟った。この少女の後を追ってはいけないことを───────。
「シャトー、帰ろう?」
駄目だ。
「帰ろう」
ダメだ。
「『還ろう』」
だめだ───────!!!
「か え ろ う」
「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」
反対方向に身を翻し、全速力で走り出した。少女はこちらを振り向こうとしていた。
その顔は───────絶対に見てはいけない気がした。
〜〜
コンビニに駆け込む。聴き慣れた入店音と女性店員のぶっきらぼうな挨拶が、焼き切れそうな私の脳に安らかな癒しをくれた。
「はぁ…………はぁ…………はぁ…………」
「あれ?君、大丈夫?」
レジに立っていた女性店員が、こちらに気付いて声を掛けてくれた。手足が震えている。声が出せない。言い表せない恐怖が、脳を支配しているような感覚だった。
「えっ、ほんとに大丈夫?ちょっと待ってね。レジ代わってもらうから」
そう言って女性店員は店の裏に入っていってしまった。呼び止めようとしたが、息が詰まって声が出ない。お願い。私をひとりにしないで…………。
ピロリン
「───────っ!!!」
スマホに通知が入った。
ピロリン ピロリン ピロリン ピロリン ピロリン ピロリン ピロリン ピロリン ピロリン ピロリン ピロリン ピロリン ピロリン ピロリン ピロリン ピロリン ピロリン ピロリン
「嫌……………………やめて……………………」
通知が止んだ。誰もいないコンビニで、私の荒れた呼吸音だけが残る。
「はぁ…………はぁ…………」
周囲を見渡す。誰もいない。日が沈んできた。今のうちにここを出て───────。
「お い て か な い で」
誰もいないと確認したはずの自動ドアの前には、死んだはずの『親友』が立っていた。見るも無惨な、損壊の激しい身体で───────。
「シャトー!?大丈夫か??」
声が聞こえる。男の声だ。意識がゆっくりと明瞭になっていく。
「あぁ……そっか……帰れなかったんだ」
「えっ?」
円卓の騎士ケイ卿殿がどうしてこんなところにいるのか。それは大した事じゃない。どうやら『私』は5時までの帰宅に失敗したらしい。目から頬にかけて熱い雫が溢れているし、服は汗でびしょ濡れだ。ケイの背後にある自動ドアの向こう側では、ヘルサタンの姿をしたシャロンが心配そうに覗き込んでいた。
「たまたま近くを歩いてたら、シャロンがオビラプの姿で助けを呼んでて駆けつけたんだ。何があったの?」
「…………アタシが聞きたいよ。でも、ありがとう」
アタシは、店の奥から現れた先程の女性店員を確認すると、近くの棚のモンブランケーキを一つ買って、会計を済ませた。
「ねぇ。助けてもらったついでに、わがまま、言っていいかな……?」
「良いよ。シャトーの力になる」
心根の優しい騎士さんを呼んできてくれたのはファインプレーと言うべきか。店を出てシャロンをメダルに戻し、すっかり暗くなった空の下、些細な『わがまま』をひとつだけ。
「家まで送って」
「ま た あ お う ね」
今後は思いついたら書くことにします。