【急募】俺が同僚の前カノと普通に接する方法 作:タン塩レモンティー
柔らかな鈴の音が来客を告げ、初夏の爽やかな風と共にドアをくぐって来た彼女の片手には鮮やかな緑の傘。それを入口脇の傘立てに置いてから、彼女は鞄の中を探りだす。肩が少し濡れているからハンカチを探しているのだろうと察した俺は、迷わず彼女へ近付いた。
「良かったらタオル、使って」
「すみません」
雨対策だろう濃紺の長靴姿の彼女へ、俺はタオルを差し出した。
「助かります」
穏やかな笑顔で褒められ、じんわり胸が温かくなる。同時に膝のあたりがずぶ濡れになっているのを見て、俺は苦笑した。
「やっぱり転んでる」
「やっぱりって失礼ですね。油断したんですっ!」
鼻も頬も真っ赤で何故なのか傘を持っていない彼女。被っているコートのフードは濡れていて、痛そうに開いた掌は擦り剥け血が滲んでいる。ジーンズの脛の部分も濡れていて、膝も擦り剥いていそうだ。
「びしょ濡れじゃないか。ほら、濡れたコート脱いで。掌消毒するから」
涙目で反省をはじめた彼女を促し、脱がせたコートはハンガーへ掛けた。タオルで水気を拭ってみたけどびしょ濡れ過ぎて、彼女が帰るまでには乾きそうもない。
この人マジで可愛い。
「足は? 擦り剥いてない?」
「じんじんします。でも大丈夫です」
座布団を敷いた床に座らせた彼女の掌を消毒して絆創膏を貼った。膝も気になったけど、裾が捲れそうにない。彼女を見下ろして、俺は苦笑するしかない。
「これでよしっと。でも、また転んで怪我しそうだ」
「そんなドジじゃ、ないですよ……多分」
自信無さそうに視線を彷徨わせている。この人、抜けてる所がありそうだもんな。肩を震わせて笑っている俺を不満そうな表情の彼女が見上げて来た。
「はい、これ、先日の忘れ物です」
大橋は俺の手に~を差し出す。会社で渡せばいいのにわざわざ来るとか。
「ありがとう、わざわざ」
「いえいえ」
「お礼にケーキをご馳走しよう。もし困ったらここに来て」
目を見開いて固まった彼女を置いて、なんとか平静を装いながらもキッチンへ逃げ込んだ。
――何言ってんだ俺!
自分が口にした言葉に動揺して狼狽えながらも、彼女は微笑みを浮かべて座っていた。ケーキを運んできた時に頬がほんのり赤く見えたのは、寒いからだろう。
俺は彼女へ視線を向けた。目が合うとふんわり笑う。あまりの可愛さに思考が沸騰しかけた。首を傾げる俺を見上げた彼女は、穏やかに笑っている。
彼女の細い指がフォークを持ち上げ、皿の上のケーキを一口サイズに切ってから添えられた生クリームを付け口に運ぶ。ゆっくり咀嚼して味わった彼女は俺の目の前で、口の中で溶け出す綿菓子のような笑みを浮かべた。
「とっても美味しいです。でも嫉妬しちゃいます」
「光栄だ」
俺の事、何も知らない彼女は手放しで俺を褒めてくれた。それはこそばゆくて嬉しい。けど、今までの俺を知っても、変わらず接してくれるだろうか。
それでも心配だったので、俺は彼女の自宅まで送ることにした。大橋は不満げに唇を尖らせてるけど、埒が明かないと判断したらしく、大人しくなった。
「入江さんにとっては貧乏くじでしょ」
「いやぁ、得しかないって」
ゆるゆるに締まりのない表情で首を傾げて見せたら、大橋の顔が真っ赤に染まった。
「な……なんですか! 女性をからかうものではありません!」
「まぁ大橋」
一人パニックに陥り出した大橋の頭を咄嗟に撫でる。
「転びそうなので気を付けて」
「……もう!」
俺は溢れた笑いを拳で隠す。でもバレた。
「また失礼な事考えていそうです……」
「あなたが、可愛いと思っただけ」
「ほらぁ」
真っ赤な顔で俯いた彼女。俺の心臓が、存在を主張する。俺は彼女に笑顔を向ける。
「家、どの辺?」
「すぐそこです。近いんです」
立っていると大橋の顔は意外に近い。寒さで赤くなってる耳に触れたくなるような近さだ。
「そんなに恐々進まないとダメ?」
「だって、痛かったです」
「帰ったら膝も消毒すること」
「はい。ちゃんとします。お風呂染みそうですよね」
「ええ」
俺の顔を見上げて、大橋は白く柔らかな雪のように無垢な表情で笑った。他愛のない会話をしながら辿り着いたのは、近くにあるセキュリティー万全のマンション。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい。入江さんも、気を付けて帰って下さいね」
「……分かった」
俺は眉をㇵの字にする。彼女は小さく手を振って、柔らかに笑った彼女は澄んだ鈴の音と共に帰って行った。彼女の背中が見えなくなるまで見送って、俺は引き返した。
今まで意識してなかった彼女の笑顔に会社で会える事が、堪らなく楽しみになった。
あれ、俺、どうした?
いかがだったでしょうか。