◇◇◇◇◇
戦勝を祝う宴は、宴と言う枠を越えて最早祭りと言っても良い程のものになっていた。イーリス兵もフェリア兵も南部諸国の兵もレジスタンスの兵も集まった義勇兵も。
皆己れの所属などお構い無しに、生き残った喜びと戦いの日々からの解放の喜びと、そして散っていた戦友達への弔いを胸に、飲めや歌えやの大騒ぎを起こしている。
彼等の混沌とした騒ぎには混ざりきれないルキナは、喧騒から離れた所からそんな兵達の様子を見ていた。
この場には、ルキナの居場所は無い。
が、かと言ってここ以外に行く場所もない。
クロムは各国の長達との折衝で忙しいし、そちらの宴に招かれているだろうからこの場に居る筈もなく。
先の戦闘で大怪我を負ったルフレはと言うと、イーリスきっての癒し手達の惜しみ無い杖の行使によって傷は跡形もなく消え去り、今は傷病兵用に用意された個室で眠っている筈だ。
戦争が無事にイーリス側の勝利に終わった事は、純粋に喜ばしい事である。しかし、ここまで『知っている』通りに歴史が動いてきた以上、ルキナが『知る』様に、クロムがその命を落とす事になる戦いが………………ルフレがクロムを裏切る瞬間は、刻一刻と近付いてきている筈である。
この世界の未来を、『絶望の未来』にする訳にはいかない。
その為には、ルフレの裏切りを阻止する必要がある。
だけれども……そもそも何故ルフレがクロムを裏切ったのか、裏切る事になるのか、その理由に皆目見当が付かなかった。
ここに来ては、ルキナもルフレがクロムを心から信頼し大切にしている事を認めざるを得なかった。
あれが全て演技だと言うのならば、親から子への愛ですら欺瞞に満ち溢れているものでしかないと疑わなくてはならない程に、この世から信じられるものなど無くなってしまうだろう。
何にせよ、その点に於いてルフレを疑う事をルキナは諦めた。
しかしだからと言ってそれで問題が解決する訳でもなく。
寧ろ、ルフレの裏切りの理由の謎が深まるばかりとなった。
ルフレは記憶を喪っているそうなので、その消え去った記憶にその手懸かりがあるのだろうか……?
だがクロム達が手を尽くしても、ルフレの身元は……記憶を喪う前のその足取りは、何一つとして掴めなかった。
まるで、クロムが出逢う直前に忽然と現れたかの様である。
無論そんな筈はないので、単純に記憶を喪う前の『ルフレ』がまるで『そこに居ない者』であるかの如く……まさに透明な人間であるかの様に生きていたのだろう。
誰の記憶にも留まらず、人目を忍ぶ様にして。
何故そんな生き方をしていたのか、何故その必要があったのか。
それはルキナには分からないし、今のルフレに問うた所で分からないだろう。
喪われたルフレの記憶。そこに全ての謎の答えが隠されているのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
当のルフレ本人は、喪われた記憶の事を多少は気に掛けつつも戻らないものであろうと割り切っている様ではあるけれども。
……ルキナとしては、もしその喪われた記憶が戻った事が裏切りへと繋がったのであれば、それはもうそのまま永遠に喪われていて欲しいと思ってしまう。
喪われた記憶が戻った時に、ルフレがルキナ達が知るルフレではなくなってしまうのならば。
ルフレが、……クロムや仲間達に囲まれて幸せそうに笑っている彼が、消えてしまうのならば。
それが『ルフレ』自身にとっては残酷な事になるのだとしても、ルキナはそれを望まない。
ルキナはルフレについて多くの事は知らなかった。
あの『未来』に居た筈の彼の事は既に記憶の彼方であり、ルフレが記憶を喪っていたと言う事ですらルキナは知りもしなかった。
だけれども、こうして共に時を過ごし、共に戦い、その傍で見続けてきた今は違う。
まだまだ知らない事は多いであろうけれど、それでも確実にルキナはルフレを知っていっていた。
それが良い事なのかそうでないのかは、まだルキナには判別し切れない。
ルフレの事を知らなかった時と違い、今のルキナには迷いが生じてしまっているからだ。
……こうして、『ルフレを殺さなくても良い理由』を、探してしまう程に。
迷えば迷う程、決断が遅れれば遅れる程、世界は『絶望の未来』へと向かってしまう。
戦争が終わり、軍師としての役目を果たしたルフレを『殺してはならない理由』は無くなった。
万全を期す為ならば裏切りの芽は完全に摘むべきであるのだし、その為にルフレを殺す覚悟はもう決めていた筈だった。
『ルフレ』が『父の仇』である以上、躊躇う理由など無い……筈だったのに。
それでも──
「こんな所で考え事か? ルキナ」
優しく大好きな懐かしい声が聞こえる。
少し驚いて振り向くと、そこにはやはりクロムが立っていて。
今は各国の長達との宴に招かれている筈のクロムがここに居る事に戸惑ってしまう。
「ん? ああ、あっちの宴の方はさっき抜けてきた所なんだ。
どうにもああ言う場は好かん。
これからのヴァルム大陸の利権争いに巻き込まれるのはごめん被りたいしな。
ヴァルハルトとの死闘の疲れを癒す為……とか言っておけばあちらもそう強くは引き止められなかったみたいだ」
そう言って肩を竦めたクロムは少し遠い目をして、兵達の宴を見やった。
宴の席で中々の量の酒を飲まされたのか、横に立てば分かる程の酒精の匂いが漂ってくる。
クロムは酒にはそこそこに強いのでまだ完全に酔っている訳ではないだろうが、所謂ほろ酔い状態ではあるのだろう。
だからこそ、恐らく普段は語る事などないであろう想いを、ルキナへと溢す。
「……一つの戦争が終わり、今度こ『平和』をと願っていても、こうして直ぐにまた別の戦が起こってしまう……。
過去の過ちと消えない憎しみから始まってしまった先の戦争も、そしてヴァルハルトの覇道が引き起こしたこの戦争も……。
武器と武器を手に殺し合うのではなく、先ずは対話と理解による『平和』をと望んでいても、その対話ですら儘ならない。
姉さんが描いていた理想は、まだ剰りにも遠い。
……それでも、俺はその理想を諦められないんだ。
……だが、ヴァルハルトがその覇道の下に多くの血を流した様に、俺もまた理想の下に多くの血を流すのかもしれない……」
それを望んでいたのではなくとも『国』や『世界』と言った大きなモノが動く時に血が流れてしまう事は剰りにも多い。
良かれと願い成した事が本当に『正しい道』であるのかは、それを選択するその時にその行く末の全てが分かるものでもない。
過去に『正義』や『理想』といった大義の名の下に繰り返されてきた人の業。
それを自分だけは犯さぬなどと自惚れられる程の傲慢さは持ち合わせていない。
ポツリポツリとそう語るクロムの姿は、幼い頃に見上げ憧れていた絶対的な存在ではなく、悩み苦しみながらも精一杯に世界を『良く』しようと足掻き続ける……そんな一人の人間であった。
『未来』でも、こうして『父』は悩み苦しんでいたのだろうか。
そしてその上で、聖王として国を守り人々を率いたのだろうか。
最早遠い遠い記憶となってしまったその背中にそっと問い掛けるが、記憶の中からは答えなど返ってはこない。
もしも、あの『未来』で父が死ぬ事もギムレーが甦る事も無ければ、何時か有り得たのかもしれない未来の先で、そこでもこうして絶対だと幼心に信じていた父も悩み迷う一人の人間である事を……その姿を、知る事が出来ていたのだろうか?
今となってはそれが決して叶わぬ事が、こうして遠い「あの日々」を想うルキナには何故だかとても無性に寂しく感じた。
「でも……お父様には、お母様やルフレさん達が居ます。
お父様が間違えてしまいそうになった時は、きっとそれを止めてくれると……私は思います」
「……そう、だな。俺は、多くの仲間達に支えられてきた……。
それは、きっとこれからも。俺は独りでは無い。
ヴァルハルトと俺に決定的な違いがあるなら、そこなんだろう」
ヴァルハルトは強かった。
故に人々を強く惹き付け、民を導いてきた。
それが血塗られた覇道であるのだとしても、そこにある強さと輝きは紛れもない本物であった。
だが……ヴァルハルトの強さは、何処まで突き詰めても『個』でしかなかった。
ヴァルハルトに絶対の忠誠を誓う臣下は大勢居ても、ヴァルハルトと肩を並べ共に歩み立つ者は居なかったし、ヴァルハルト自身もそれを求める事は無かった。
本来は圧倒的な勝者側であった筈のヴァルハルトに敗因があるとすれば、恐らくはそこなのだろう。
クロムはヴァルハルトとは違う。
関係性としては主君と臣下であるのだとしても、仲間達はクロムにとっては肩を並べ共に戦う戦友であるし、何より互いを『半身』と認め合うルフレが居る。
何れ程の光を放っていようとも孤独な巨星でしかなかったヴァルハルトとは違い、クロムは多くの星々を統べる巨星であり、一つ一つの輝きはヴァルハルトよりも小さくともクロムを中心として皆が集えば何よりも明るく輝き人々を導いてくれる。
そして独りではないからこそ、共に道を行く者が過ちを犯そうとした時にはそれを止める事が出来る。
それは、何よりも得難い繋がり……絆である。
そして、その要に居るのは、恐らく……。
「そうだ、ルフレの見舞いにはもう行ったか?」
突然のその言葉に、無意識にルキナの肩が跳ねる。
ヴァルハルトとの戦いを終えてルフレが衛生兵達に運ばれて行ってからは一度もルフレの姿を見ていない。
傷がすっかり治った事も、傷病兵用の部屋で寝ている事も、全て人伝に聞いた事だった。
ルキナを庇った所為でルフレは負傷したのだから、お見舞に行くべきだとは思ってはいるけれど、どんな言葉を掛けるべきなのか迷い、中々足が向かなかったのだ。
「いえ、実はまだです……」
「そうか。出来れば、一度顔を見せに行ってやって欲しい。
あいつの方が負傷していると言うのに、しきりにルキナの事を気にしていてな」
「私の事を、ですか?」
「まあ、そう言うヤツなんだ。
一度顔を見せてやれば、あいつも安心するだろう。
ルフレが寝てる部屋は分かるか?」
クロムに言われ、ルキナは頷く。
場所は既に、ルキナに気を利かせたつもりであったのだろう者達から聞いていた。
それでも、中々踏ん切りが着かなかったのであるけれど。
こうしてクロムに背を押された今、行かない訳にもいかない。
……それでも、どんな顔をして会えばいいのか迷ってしまう。
そんなルキナに優しい眼差しを向けたクロムは、一度何かを考えるかの様に少しの間目を閉じる。
「そうか。
…………なあ、ルキナ。
たった一度で良い。
どんな事があっても、ルフレを信じてやって欲しい」
「え……? それは、一体どう言う……」
クロムの意図が掴めず、その言葉にルキナは戸惑った。
クロムの目から見て、ルキナはルフレを信頼していない様に見えていたのだろうか。
確かに、ルキナはルフレへの殺意をその胸に秘め続けてはきたけれど、少なくとも『その時』まではそれを隠し通せると思っていたし、現に軍の人々は誰もそれに気付いていなかったのに。
困惑するルキナを置いて、クロムは言葉を続けた。
「ルフレは……俺や仲間達の事を何よりも大切にしている。
だが……俺には時折、あいつは自分自身の命を度外視している様に見えるんだ。
それはきっと、俺達でも触れる事が出来ない『何か』が、あいつの心を縛っているからなんだろう……。
だがルキナ、お前ならもしかしたら、あいつの心を縛る『何か』を変えられるかもしれない。
だから、頼む」
「そんな……。お父様にも出来ないのに、私がなんて……」
『半身』であるクロムに出来ない事を、どうしてルキナが出来ると言うのだろうか。
それに、ルキナはルフレを殺そうとしている人間だ。
そんな人間が、一体何を変えてやれると言うのか。
だが、そんな事を言える訳がない。
「いや、ルキナだからこそ、出来るかもしれないんだ」
何を根拠にそんな事を信じているのかはルキナには分からないけれど。
しかし、クロムのその眼差しには「否」とは言わせない何かがあった。
クロムがルフレの中に何を見出だしているのか、ルキナに何を託そうとしているのか。
それは、『絶望の未来』を変える為の鍵になるのか。
何一つとして、今のルキナには分かりようも無い事であった。
◇◇◇◇◇
緊張で震えそうになる手を何とか抑えて、ルキナは控え目に扉を叩いた。
傷病兵用に割り当てられた区画の奥の方にある少し上等なこの個室に、ルフレは寝かされている筈である。
起きていなくては到底聞こえやしないであろう小さなその音に、部屋の中から返事が返ってきた。
あれ程の深手を負っていたのだから、きっと眠っているだろうと思っていたルキナの思惑は早くも外れて。
こうして返事まで返ってきてしまった以上は、今更立ち去るなんて出来やしない。
だから、ルキナは遠慮がちに扉をそっと開けて中に入った。
中に入って先ず目に付いたのは、ベッドサイドのテーブルの上に溢れんばかりに置かれた様々な物だ。
いや、恐らくはそこに収まりきらなかったのだろう分が、備え付けの棚にもぎっしりと詰められている。
果物や菓子と言った食べ物や、やたらと分厚い本やら手編みの肩掛けやら、何とも統一感が無い。
そして、そんな様々な物に囲まれながら、ベッドの上で身を起こしたルフレは手慣れた手付きで林檎の皮を向いていた。
「やっぱり、ルキナだったんだね。
こんばんは、と言ったところかな。
良かったらそこに座ってね」
そう言ってルフレはベッドサイドに置かれた椅子を指す。
断る理由もなかったので言われるままにルキナはその椅子に座るが、椅子に座った状態だとベッドの上で身体を起こしているルフレと目線が同じになる事にふと気が付いてしまい、どうしてだか気まずさの様な居心地の悪さの様な、何処と無くフワフワと浮わついた感じがしてしまう。
だからと言って急に席を立ってもルフレに不審に思われるだけなのだが。
仕方無くルキナは、ルフレから視線を外してその手の中で皮を剥かれている林檎に目を向ける。
「ああ、これかい? ソールがくれたんだ。
他にも皆から沢山貰っていてね、一人では食べきれない位だから、良かったらルキナも一緒に食べてくれると嬉しいな」
綺麗に切り分けた林檎を、恐らくはお見舞いに来た誰かが置いていったのだろう皿に乗せ、ルフレは穏やかに微笑みながらルキナに差し出してきた。
一つ取って口にすると、瑞々しく優しい甘さが口に広がる。
程好く熟れた上質な林檎だったのだろう。
ルフレも、一口食べては綻ぶ様な笑顔を浮かべる。
「うん、とても美味しい林檎だ、後でソールにお礼を言わなくちゃ」
幸せそうに林檎を食べるルフレに、ルキナは遠慮がちに訊ねた。
「あの、怪我の方はもう大丈夫なのですか……?」
「うん、リズとマリアベルとリベラが治してくれたからね。
元々、僕ってこう見えて頑丈な事が取り柄の一つだし、あれ位じゃ死んだりしないさ。
だから、心配しないでね。
で、傷口はすっかり塞がったんだけど、二・三日はこのままベッドで寝てろってリズ達に言われてしまったんだ。
戦争は終わったとは言え事後処理は山積みだから色々と片付けておきたかったんだけど……、ベッドから抜け出した所を運悪くフレデリクに見付かって、ベッドに叩き込まれてしまってね。
その後でリズ達からお説教を貰ってしまったよ」
そう言いながらも、ルフレは嬉しそうに微笑みを浮かべていた。
仲間達の事を語る時のルフレの目は、一等優しさに溢れていて。
ルフレが何れ程彼等の事を大切に想っているのかを、まざまざとルキナに見せ付けるのだ。
ルフレの目を見ていると何だか落ち着かなくて、ルキナはベッドサイドテーブルに積まれた品々へと目を向けた。
すると、ルフレが優しい笑みを浮かべて、積み上げられたそれらへと一つ一つ優しく撫でる様に触れていく。
「皆、心配性なんだよね。
次から次にお見舞いに来ては、色々と置いていくし。
大体は果物とかお菓子なんだけど……流石に僕一人じゃこんな量を食べきれないのにね。
フレデリクなんて、手編みの肩掛けをくれたんだよ。
クロムとリズだけじゃなくて、僕にまで世話を焼き始めるつもりなのかな? 皆がひっきりなしに来るから、寝るのが惜しくって全然眠れてないんだよね。
きっと、リズ達に見付かったらまた怒られてしまうだろうけど」
まるで大切な宝物の様に仲間達の事を語るルフレのその表情が、そして彼等がルフレを想う心の形が表れた様な贈り物が、酷くルキナの心を揺らした。
ルフレを殺すと言う事は、彼等からルフレを未来永劫奪うと言う事なのだと、それを改めて思い知らされるかの様で。
そこにどんな大義名分があろうとも、大切な何かを奪われる苦しみは変わらないであろう。
『世界』を救う為だと訴えた所で、それに何の意味があろうか。
例えクロムを救う為であっても、クロム自身がそれを赦すまい。
だが、それでも…………。
クロムを裏切り殺す前にルフレを殺す以外に、どうすれば『絶望の未来』を回避出来るのか、ルキナには分からないのだ。
いや、そもそもルフレを殺したからと言って、それで『絶望の未来』を回避出来ると言う保証もなかった。
それなのにルフレを殺す事に拘ってしまうのは、父を奪われた事への復讐の念からなのだろうか。
その憎悪がルキナの眼を曇らせ、『正しい答え』に辿り着けなくさせているのだろうか。
しかし、ならば他にどうすれば良いと言うのだろう。
全知の神ならぬ人の子でしかないルキナには、全ての因果の糸を見通し解き解す事など出来よう筈もない。
ルキナが知り得るのは、あの『未来』でルフレがクロムを裏切り殺し、ギムレーが甦り世界が滅んだと言う、ただそれだけだ。
ギムレーが甦った事の原因はルキナには分からない。
かつて初代聖王が施した封印が何らかの要因で解けてしまったからなのか、或いはまた何か別の要因があったのか。
何かを仕出かした者が居るのだとすれば、それは間違いなくギムレー教団の者であろうけれども。
当時は幼く、ギムレー教団の内情を知る者など周りには居らず。
ギムレー復活の立役者があの教団に居るのだとしても、それが誰かなのは全く分からない。
ギムレー教団に潜入し教団員一人一人を調べ回って怪しいと目した相手を殺していくのだとして、ギムレー復活に関わる者を全員始末するのに何れ程の時間が掛かるのか見当も付かないし、例え教団員を皆殺しにしたとしてそれでギムレーの復活を防げるのかも分からない。
時を跳躍し遡っても、ルキナに残されている時間は有限で。
だからこそ、ルキナは自分が考え付く、『絶望の未来』へと至る分岐点を……クロムの死を変えようと思ったのだ。
そこには『父』を死なせたくなかった、『父』に生きていて欲しかったと言う、ルキナ自身の最早叶わぬ願望も含まれてはいるのだけれど。
その為には、裏切者であるルフレを殺す。殺さねばならない。
ルフレの裏切りの理由が分からないルキナには、ルフレに裏切らせない方法が分からない。
故に、取れる手立ては一つだけだ。
しかし、今のルキナにルフレを殺せるのだろうか。
例えば、今、この瞬間。
ルキナを前にして無防備にベッドから身体を起こしているルフレのその首を落とす事は、きっと造作も無いのだろう。
だが、実際にそれを実行する自分と言うものをルキナは思い描けないし、やろうとすら思えない。
殺す機会を得る為にルフレに近付いたと言うのに、その所為で却ってルフレを殺せなくなってしまっていた。
何も知らなければ。
ルフレを、憎んだままで居られたのなら。
きっと、何も迷わずに済んだと言うのに。
まるで出口の無い迷宮に迷い込み、光を探し求めて彷徨っているかの様であった。
もし、ルフレを殺さずにクロムを救い世界を救う方法が何者かから提示されたのなら、きっとルキナは直ぐ様それに飛び付いてしまうだろう。
しかし、『正しい答え』を教えてくれる様な、そんな都合の良い存在は居ない。
ナーガは今この瞬間もこの世を、聖王の血に連なる者達を見守っているのかもしれないが、その苦悩を取り除く為の『神託』を下す事は無い。
苦悩に沈んだまま、ルキナは少し視線を彷徨わせた。
そして、ルフレの胸元に僅かに見える包帯に気が付いてしまう。
負傷したのは背中だから、その痕跡は服に隠されていてその殆どは見えないけれども。
それでも、とても深く大きな傷だったのだ。
あの時の光景が、ヴァルハルトの戦斧がルフレの背中を抉った瞬間が、一瞬だけだがルキナの視界に甦ったかの様で。
思わず、息をするのを忘れてしまう。
再び脳裏を過るのは、『どうして?』と言う疑問。
それは、今度は喉を震わせて音となって溢れ落ちる。
「…………どうして」
「? どうかした?」
「……どうして、ルフレさんは私を庇ったりしたんですか?
あんな事をしなければ、あなたは負傷する事も無かったのに。
……死ぬかもしれなかった様な、大怪我をせずに済んだのに。
どうして、私なんかを……」
どうして、自分を殺そうとしている者を命を張ってまで助けようとしたのか、と。
言葉には出来ない想いは、押し殺して。
ルキナは、問わずにはいられなかった。
ルフレはその言葉に驚いた様に幾度か瞬いて、それから、ふわりと優しい微笑みを浮かべた。
「どうして、か。
それは、うーん……ちょっと説明し難いんだけど。
ルキナが危ないって、思ったからかな。
そう思ったら、身体が勝手に動いてた」
「でも、あの時ルフレさんはヴァルハルトと戦っていて」
「うん、そうだね。
でも、きっと僕は大怪我をすると分かっていたとしても、同じ事をしたよ。
どんな結果が待っていたとしても、何度やり直したってあの瞬間に僕は同じ事をする。
だからね、ルキナはもう気にしなくて良いんだよ」
その思いがけない言葉に、その言葉の意味を問う事も忘れてルキナはルフレを見る。
ルフレの、優しいけれど何処か底の知れない、全てを見通しているかの様な目が、ルキナを静かに見詰めていた。
「ずっと、気にしていたんだろう?
だから、治療が終わっても中々ここには来なかったし、ここに来てからはずっと僕の目を見ようとはしない。
普段のルキナなら、直ぐにやって来ただろうし、もっと僕の目を真っ直ぐ見てくるからね。
罪悪感か、それに近い後ろめたい気持ちを感じていたのかな。
でもね、ルキナが気にする様な事じゃないんだ。
僕が怪我をしたのは、あの場にルキナが居たからじゃない。
僕が勝手に自分の好きな様に選んで行動したその結果だ。
君の所為じゃない」
ルキナが何も言えないままでいると、ルフレは柔らかく笑って、サイドテーブルに置かれた果物籠から新しく果物を取り出した。
「……と、言う訳で、この話はここでお仕舞い。
所で、お腹空いてたりする?
だったら、もうちょっと色々と一緒に食べて貰えると助かるんだけど」
ルフレがそう言うのも仕方がない程に、果物だけでもかなりの量がある。
日持ちしないものだけでもこれだけあるのだ。
幾らよく食べる方であるルフレでも、これには流石に困っているのだろう。
断る事も出来ず、ルキナはルフレと二人して、その大量の果物を分け合って食べたのであった。
◇◇◇◇◇
戦争が終わり、イーリスへと帰還して。
しかしそれで全てが終わったと言う訳ではなく、寧ろここからが運命の分水嶺となるのだ。
ギムレーの復活を阻止する為。
そして、それに対抗する為に『覚醒の儀』を行う為に。
ルキナ達は日夜情報収集に追われているのであった。
『覚醒の儀』に必要な『炎の紋章』。
それを構成する、『炎の台座』と五つの『宝玉』。
それらの内、台座と四つの宝玉はクロムの手にある。
『絶望の未来』へと至ってしまったかつてのあの『未来』では、ヴァルム帝国との戦争が終わった時点でイーリスには『台座』も『宝玉』も存在していなかった。イーリスに伝わっていた『炎の台座』と『白炎』は、聖王エメリナが暗殺された時に賊に奪われ。
この度フェリアに伝わっていた事が判明した『緋炎』も、ヴァルム大陸に伝わっていた『蒼炎』も『碧炎』も、戦争の混乱の最中に杳として行方が分からなくなっていたのだった。
今この瞬間に、あの『未来』では失われていたそれらがイーリスの手の内にある事が、『絶望の未来』への回避に何れ程意味がある事なのかは分からないが。
少なくとも悪い方へと進んでいるのではないのだと、信じたい。
しかし、残された最後の『宝玉』──『黒炎』。
その行方は、イーリスとフェリアが手を尽くしていても、未だに掴めないままであった。
運命の瞬間が近付きつつある事に焦りを感じつつも、ルキナが出来る事は剰りにも限られていた。
『黒炎』の行方を捜索するにしても、イーリスとフェリアが国を挙げて合同で行っている為、ルキナが出る幕は無い。
クロムの死や、ギムレーの復活。
そして、その後に訪れる『絶望の未来』。
伝えるべき事は既に全てクロムに伝えてしまっている。
『絶望の未来』を回避し世界を救うその瞬間まで、ルキナの使命は終わらないし戦いも終わらない。
使命を成し遂げる上でルフレの命を奪う必要があるのなら、ルキナは何があろうともそれを成し遂げなければならない。
世界と、ルフレ一人の命。
そのどちらが重いのかなど、秤に掛けるまでも無いだろう。
否、躊躇わずに選ばねばならないのだ。
あの『未来』を見捨て、既に一つの世界を見殺しにしたルキナには、そもそも『選ぶ』だなんて事が赦されている筈もない。
『過去』に飛び、本来有ってはならぬ『やり直し』をしてしまっている以上、何を犠牲にしても、何を対価としても、ルキナは必ず世界を救わなければならないのだから。
自分の命を捧げる必要があるのだとしても、ルキナはそれを迷わない、迷ってはならない。
仲間の命を奪う必要があるのだとしても、成し遂げなくてはならない。
ほんの僅かにでも天秤が揺れる事など、あってはならぬのだ。
……ルフレを殺せるのかは、その時が来なくては分からない。
それでも、その時が来てしまったら、きっと──
「何か思い詰めているのかい?」
突然に声を掛けられて、無意識にルキナの肩が僅かに跳ねた。
横を歩いていたルフレが自然な動作でルキナの顔を覗き込む様に見てきていて、思考が中断されて初めてそれに気が付いたルキナは思わず息を飲む。
少し気遣わしそうな目でルキナを見るルフレのその声音は、紛れもなく心底ルキナを気遣っていて。
直前に考えていた事が、そしてその迷いと後ろめたさが。
余計にルキナの心を責め立てる様に波立たせる。
ルフレに気遣われる資格など、ルキナには無いのに。
だが、それを止めてくれとも、言える訳もない。
「ここ最近、前よりも難しい顔をしている事が増えたよね。
『絶望の未来』の事かい?
……でもそれなら、ルキナが一人でそう思い詰めなくても大丈夫なんだよ?
ここには、クロムも居るし、皆も……僕だって居るんだから。
君一人で何もかもを背負わなくたって良いんだ。
世界を救うと言う『使命』があるのだとしても、ずっとそうやって張り詰めていたら、ルキナの心が先に壊れてしまうよ。
時にはゆっくりと心を休める事も、大切な事さ」
「……ですが、今この瞬間も、この世界はあの『未来』に近付いているのかもしれなくて。
それなのに、私は何も…………。
私には、何を置いても成し遂げなくてはならない『使命』があるのに……」
あなたを本当に殺せるのか、迷っているのだと。
そんな事を言える筈もなくて。ルキナは言葉を濁す様に答えた。
ヴァルムとの戦争が終わり、イーリスに帰った今、この先暫くは戦いになる事はない。
それでも、何故かルフレとルキナは何かと行動を共にする事が多かった。
何時か殺さなくてはならない相手であるとは言え、その一点を除けばルフレは本当に良い人で。
時の異邦人であり本来ならばこの世界に居るべきではない、居場所など存在しないルキナが、不自由をしない様に何かと心を砕いてくれている。
ルキナの事情を完璧に理解した上で、こうもそれを気遣ってくれるのは本当に有り難い事だった。
ルキナにとっても、ルフレは大切な仲間であり、何時しか失ってはならぬ人となっていた。
だからこそ余計に、ルフレを殺さなければならない事が、ルキナを苛んでしまう。
「そうか……。でも、そんな事は無いよ。
ルキナのお陰で、沢山の事が変わっている、変わった筈だ。
それは直接的には目に触れる形ではないのだとしても、確実に。
こうして僕と君が出会って共に戦っている事だって、君が諦めずに戦ってきた結果だろう? 大丈夫。
クロムも、僕も、この世界の未来を『絶望の未来』になんてさせやしない。
君が、こうして『過去』にまで渡ってきて戦い続けてきてくれたその結果を、無駄になんかしたりはしない、必ずこの世界の未来を繋げて見せるから。
でもそうやってチャンスを得る事が出来たのも、君がこうして戦ってきてくれたからだ。
それだけの事を既に成し遂げてくれているんだ。
君は、もう少しだけ自分の事を認めてあげるべきだと思うよ」
ルフレはそう言って、優しく微笑んだ。
……ルフレにそんな言葉を掛けてもらう資格なんてないのに。
それでも、その言葉がどうしても嬉しくて。
だからこそ、何処までも哀しく苦しく、心を切り付けられたかの様な痛みを感じてしまう。
「私は……」
だが、それ以上の言葉は続かず。どうしたら良いのか途方に暮れてしまったかの様に、その場に立ち竦んでしまう。
私は、どうだと言うのだろう。
こんなにも優しい人を殺して、そうまでして『未来』を変えようとしている。
未来の為、世界の為、使命の為。
そう、その為に『過去』にまでやって来た。
でも、もしその『大義』の為にクロムの──父の命を捧げなければならないとしたら、果たしてそれを許容出来るのだろうか?
それは……どれ程考えても、「否」としか言えなかった。
結局の所、ルキナは『世界』を大義名分として、ルフレの命を切り捨ててクロムを救う事を選ぼうとしているだけなのだ。
それを承知の上で、ルキナは『過去』へと来た筈だったのに。
ルフレが憎い仇のままならば、ルキナが憎悪し復讐するに値する様な存在であったのなら。
きっと、こうも悩む事は無かったのだろう。
例え誰に憎まれたのだとしても、父から赦されなくとも、それでもルキナは自分自身を、その行いを、肯定出来たのだろう。
でも、こうして出逢い繋がりを育み、そうして理解していったルフレと言う存在は、何処までも優しくて温かくて。
きっともう、ルフレを殺した事で世界を本当に救えたのだとしても、ルキナは一生涯自分を認める事も赦す事も出来ない。
それでも、ルキナはやらなくてはならないのだ。その先にあるのが、終わる事の無い後悔と懺悔の日々になるのだとしても。
黙ってしまったルキナを見て、ルフレは何処か「しょうがないなぁ……」とでも言いた気な、少し困った様な優しい顔をした。
その眼差しがあまりにも優しくて、だからこそ尚の事それを受け入れられない、受け入れてはならない。
何時か『その時』には、自分なんかに向けられたその優しさすらも、殺さなくてはならないのだから。
「あのね、ルキナ。君がどんな道を選んでも、君が自分の意志で決めた事ならば、僕はそれを肯定するよ。
例え、この世界の誰もがその選択を否定しても。
だって君は、何時だって悩んで苦しんで、足掻いてもがいて、絶望なんて生温い程の地獄を見てきて、それでも戦い続ける事を選んだ凄い人だ。誰よりも強い意志で、誰よりも真っ直ぐに『運命』に向かい合って勝とうとしている。
……でも、だからこそ。
君が背負うモノで、誰かと共に背負う事が出来るモノがあるのなら、それを僕にも背負わせて欲しい。
君が『過去』へ来た事を罪であると思うのなら、その罪を。
君が選んだ道の先で咎人になるのだとしたら、その咎を。
僕にも、背負わせて欲しい。……君が、背負ったモノの重さに押し潰されてしまわない様に、どうか」
「……どうして、そこまで……」
ルフレの言葉は余りにも優しくて、傷付き果て今も痛みと苦しみに悲鳴を上げるルキナの心をそっと包み込む様で。
だからこそ、ルキナには耐え難い、耐えられないのだ。
「どうして? ……それはね、ルキナ。
これは僕にとっては、罪滅ぼしの様なものなんだよ。
君の居た『未来』で、『僕』は皆を……クロム達を守れなかった。
世界を、君の未来も守れなかった。
『僕』は、守るべきものを何一つ守れなかったんだ。
『僕』は軍師として、皆を守り勝利へと導く為の存在なのに。
だから、全部『僕』の所為だ。
……それは僕じゃないだろうって? ……そうだね。
でも、それでも『僕』の責任だ。だからね、ルキナ。
君が世界を守る為に……使命を果たす為に負う罪も咎も、全部僕のモノでもある。
だから、そんなに苦しまなくても良いんだ。
罪も何もかも、君の手ではどうしようも無かった事は、全部僕に押し付けてしまえば良い。
それで君が自分を許してあげられるのなら、僕はそれで良い。
君は、誰よりも幸せになっても良いんだよ。
だからどうか、幸せになる事を、自分に許してあげてね」
ルフレは、何処までも優しくて。
それ故にその言葉は、ルキナの心を本当の意味で救う事は出来ず、余計にルキナを苛み傷付ける。
ルフレの優しさは、今のルキナには心を殺す猛毒の様ですらあった。
だが……離れなければより傷付くと分かっていて尚、ルキナはルフレの傍を離れる事は出来なかった。
殺さなくてはならない瞬間を見逃さない為であるのか、それとももっと違う理由であるからなのか。
それは、ルキナ自身にも、最早理解しようの無い事であったのだった。
最後の宝玉である『黒炎』の行方が判明したのは、それから少し経ってからの事であった。
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