『遠く時の環の接する処で』【完結】   作:OKAMEPON

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『彼の願い』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ルフレには、記憶が無い。クロムと出逢う前、あの草原で目覚める迄の、それまでの一切をルフレは喪失していた。

 自分が何処の誰であるのか、何をして生きていたのか、何をしようとしていたのか。

 自分の名前以外に、それまでの自分を辿る為の縁となるものは何一つとして無くて。

 それを辛いとか哀しいとか思える様な感傷も、そう想起する為の最低限の記憶や経験ですら、ルフレは全て喪ってしまっていた。

 

 何も無かったからこそ。

 ルフレにとって、クロムとの、クロムとの出逢いによって生まれた仲間達との数多の絆は、何よりも掛替えの無いもので。

 自分が生きる意味、命の『価値』にまで、なっていた。

 それも当然であろう。空っぽだったルフレに居場所を、役割を、存在理由をくれたのは、クロム達なのだから。

 だからこそ、ルフレにとってクロムは、そして仲間達は何よりも大切な存在で。

 自らよりも優先させるべき、優先する事が当然の存在であった。

 

 それなのに、ルフレは『夢』を見るのだ。

 眠りに落ちる度に、ルフレは変わらずに同じ『夢』を見続ける。

 クロムをこの手で殺す……そんな夢を。

 

 何度止めようとしても、何度足掻いても、何一つ変わらない。

 ルフレはクロムを殺す。

 クロムを穿った雷の名残がその手に纏わり付いている感覚も、人の肉が焦げ付く臭いも、抱き起こしたクロムから命の砂が止める事も叶わず零れ落ちていくその感覚も。

 何もかも、本当にその場で実際に経験したかの様に、ルフレの中に焼き付いていて。

 狂ってしまいそうな程の後悔や絶望、自分への憎悪や破壊衝動。

 感じるそのどれもが、自分自身のものであった。

 何処までも現実である様な、確たる『質量』を伴ったその『夢』。

 それは己の芯となるべきものすらも喪失していたルフレの心の奥深くに撃ち込まれ、ルフレの認識をまるで鎖の様に縛り始めた。

 

 今となっては、記憶が喪われたのはこの世界に『未来のギムレー』が辿り着いた際に、ルフレと『ギムレー』が『同じ』存在であるが故に互いに混ざり合い、流れ込んできた『ギムレー』の力によって記憶が消し飛んでしまったからであると言う事も。

 繰り返し見続けていた『夢』は、『未来のルフレ』の身に実際に起きていた事で、ルフレと『ギムレー』が混ざった際に『未来のルフレ』の記憶が僅かながら流れ込んでいたからだと言う事も。

 そのどちらをもルフレは理解しているけれど。

 しかし、クロムと出会った当初にそんな事は知る由も無くて。

 ルフレの思考は、自分に対する捉え方は、『夢』と喪失によって歪んでしまっていった。

 

 ルフレにとって、クロムや仲間達は絶対の存在である。

 クロム達の為ならば死ぬ事など惜しくも恐ろしくも無い。

 だが、ルフレを必要としてくれるクロム達を哀しませない為にも、自分の身を大切にしなくてはならないとも思っていた。

 そして、ルフレは軍師としての才覚を奮う事でクロム達の役に立つ事を、自分の『存在価値』であると心から思っている。

 しかし同時に、終わりの見えない繰り返しを続ける『夢』が、ルフレの心を蝕んでいた。

 

 クロム達から必要とされている限り、ルフレは何としてでも生き延びようとするだろう。だが、もしも。

 ルフレの存在がクロム達にとって禍にしかならないのであれば、何れ程クロム達から必要とされてようとも、ルフレは死を選ぶのは間違いない。

 況してや、『夢』の様にクロムを裏切り殺すなど、ルフレにとっては自らの命を躊躇わずに擲ってでも阻止しなくてはならない事である。

 ただ……。自分の死を厭わない様に心が歪に縛られているルフレではあるけれども、それ以上にルフレの胸を満たすのは、『クロム達の役に立ちたい』と言う思いであった。

 その欲求は、時に冷静な判断を狂わせてでも、ルフレに「生きていたい」と思わせてしまうものであった。

 

 だからこそ。ルフレは、自分が『死ななければならない時』に死ねなくなる事を恐れた。

 死に時を見失う事を、そしてその所為でクロム達を害し……殺してしまう事を、何よりも恐れていた。

 だから、ルフレは常に『必要な時に自分を殺してくれる』誰かを求めていた。

 

 最初は、フレデリクなら適任だと、そんな事を思っていたのだ。

 フレデリクならば、クロムに害となるならば、迷わずにルフレの命を断ってくれるだろう……と。

 だけれども、当初こそルフレを警戒していたフレデリクも、何時しかルフレに心を許していて。

 堅物であるが情に厚い彼に、一度懐に入れてしまった相手を殺す事は出来ないであろう。

 例え、そうする事が最善であり、主君であるクロムを守る事になるのだとしても。いや、出来たとしても、それはフレデリクの心を何処までも苦しめてしまう。

 ルフレにとって、フレデリクも掛替えの無い大切な仲間であり、そんなフレデリクを苦しめる事など当然出来る筈もなくて。

 だからこそルフレは、自分を殺しても苦しまず、そして『殺さなくてはならない時』を逃さないでいてくれる人を、ずっと探していた。そんな中で現れたのが、ルキナだったのだ。

 

 当時は『マルス』を名乗っていたルキナと初めて出会った時は、まだルフレはクロムに拾われた直後の空っぽに等しい状態で。

 だからこそ、彼女が密かに自分に向けていた殺意には、戸惑うしか無かった。

 その後も『マルス』を名乗る彼女とは二度・三度顔を合わせる機会はあったのだが、『マルス』がルフレに向ける殺意には僅か程の揺らぎも無いのに、それでいて自分を襲おうとする素振りすら見せないのが不思議で仕方が無かった。

 

 だが、ヴァルム帝国との戦争が始まった直後、ルキナがクロムの前に現れてその本当の身の上を語ったその時。

 ルフレは、彼女の殺意の理由を全て悟った。

 そして、ルキナならば、と……。そう、思ったのだ。

 

 ルキナがルフレへと強い殺意を向け続けているのは、ルフレが彼女の父であるクロムを殺した怨敵であるから。

 だが、親の仇である筈なのに、ルフレを早々に始末しようとはしないのは、ルフレにまだ『利用価値』がある事を……ルフレがクロム達の役に立つ事を知っているからだ。

『未来』を知っているルキナならば、ルフレに『利用価値』が無くなりクロム達の害になる時を知っているのであろうし。

 ルフレを殺し本懐を遂げた所で心を痛める事などあるまい。

 

 ルフレへの情に流され、判断を間違える事も無く。

 そしてルフレを殺す事でそれに心を痛める事も無い。

 ルフレにとって、ルキナは何処までも好都合な人物であった。

 だからこそ、ルフレはルキナが常に自分の傍に居る様にした。

 何時でも、必要な時にルキナが自分を殺せる様に。

 ……ルキナがルフレに並々ならぬ『何か』を抱いている事をうっすらとだが感じ取ったクロムからは、酷く心配された事もあったけれど。『必要な事』なのだとルフレはクロムを説き伏せて、ルキナの傍に居続けた。

 勿論、嘘は言ってない。

 ルフレにとって、ルキナは何よりも大切な存在だ。

 他でも無いクロム達を守る為に、絶対に喪ってはいけない存在であった。

 

 …………だけれども、結局ルフレはルキナを見誤っていたのだ。

 ルキナはルフレを憎悪しているのだから、ルフレを殺す事を躊躇う筈など無いと、そう思ってしまっていた。

 ……ルキナが、クロムと同じかそれ以上に、情が厚く根が誠実で善良である事に、ルフレは最初の内は気付かなかった。

 気付いても、それが何になるのだろうと思ってしまったのだ。

 ルフレが大切な親の仇である事は間違いないのだから、何を迷う事があるのだろうと。

 ……だがルキナは……ルフレが親の仇と知っていても尚、ルフレへの憎しみを持ち続ける事が出来なかったのだ。

 必要な時に殺される為にと、傍に居続けた事が。

 そして共に過ごした時間が、結果として裏目に出てしまった。

 憎悪を喪ってしまったルキナは『使命』以外に自分の行為を正当化出来るものを、持っていなかったのだ。

 それは、一度懐に入れてしまったものを切り捨てられない程情に厚いルキナを、却って酷く苦しめる事になってしまった。

 

 殺して貰う為にルキナの傍に居たルフレではあるけれど、ルフレにとってルキナも大切な仲間である事には変わり無い。

 ルキナの幸せを願う気持ちは本当だし、自分の身勝手な目的の為にルキナを利用している自覚があったからこそ、せめて『その時』が来るまでは、自分が出来る精一杯の事をルキナにしなくてはならないとも思っていた。

 ルキナに伝えた言葉は、何れも紛れもない本心である。

 ……結局はその所為で、ルキナはルフレを憎めなくなってしまったのだけれど。

 ルキナがルフレへの憎悪を喪ってしまったのには薄々気が付いていたのだけれども、それが何れ程残酷な事を強いてしまったのかをルフレがハッキリと理解出来たのは、よりにもよって『その時』が来てしまってからであった。

 

 良心の呵責と『使命』との板挟みになり、今にも壊れてしまいそうになりながらも必死にファルシオンをルフレの喉元に突き付けるルキナを見て、そこでやっとルフレは自分がしてしまった事を後悔した。

 あの時のルキナは、ルフレを殺してしまった後に心を壊してしまいかねなかった。

 いや、そうでなくとも一生自分を赦せなくなっていただろう。

 ……そんな事すら事前に見抜く事が出来なかった自分の浅はかさを、あの時程呪った事は無い。

 

 だから、ルフレはせめて自分の手で決着を着けようとしたのだ。

 元々、ルキナの手で殺させようとしていたのは、ルキナがルフレを憎んでいたからで。

 せめて仇討ちを果たさせてあげなくてはと思ったからであった。

『死ななければならない時』さえ見失わずにすむのなら、なにも他者の手を煩わせる必要もない。自死を選べば良いだけだ。

 ……だけれどもそれは他でもないルキナに止められてしまって。

 そして、クロムの心をも傷付けてしまった。

 ルフレは、クロムとの絆を信じていない訳ではない。

 寧ろ、この世の何よりも強くそれを信じているし、それこそがルフレの生きる意味なのだ。

 勿論、あの『夢』を現実にさせない為に打てる手は全て打ってきていた。

 ……それでも、この世に『絶対』などなくて。

 クロムを自分の意思とは関係無く殺してしまう可能性が、決して完全には無くならないからこそ、自分は死ぬべきだと……そう思っていた。

 しかしその思いが、ルキナを深く傷付けてしまった。

 身勝手な願望で、ルキナの心の柔らかな場所に消えぬ傷を刻んでしまった。その罪は、『運命』を変えても償える事ではない。

 

 ……だから、ルフレはルキナから距離を置いた。

 せめて、これ以上ルキナを傷付けない為に。

 それが、ルキナにしてやれる最善だと、そう思っていたのだ。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ルフレが静かに語ったその胸に秘めて続けていた想いを、ルキナは掛ける言葉も喪いながら聞いていた。

 

 ルキナは、知らなかった。

 ルフレがその微笑みの下に隠し続けていた苦しみを、その心を戒め続けていた呪詛の様な枷を。

 ……何一つとして、知りはしなかったのだ。

 

 ルフレの苦悩を知る由は無かったとは言え、ルキナがルフレに向けていた殺意は、そして剣を向けてしまった事実は、彼を更に追い詰めてしまっていたのだろう。

 ルキナは、苦悩の海の中で独り溺れて声無き声で助けを求めていたルフレの心を、知らぬ内に切り捨ててしまっていたのだ。

 誰よりも仲間を、クロムを大切にしているルフレにとって、眠りと共に夜毎に訪れるその『悪夢』は、何れ程その心を抉っていたのだろうか。

 

 ルフレは、ずっと追い詰められ続けていたのだ。

 そして、優しく仲間思いであったからこそ、ルフレは自らを責め苛む鎖に囚われて歪んでいってしまった。

『自分は生きていれば何時か必ず仲間を殺してしまう。

 仲間の為に死ぬべきである』と、自らの死を厭う事が出来ない処かそれを望んでしまう程に。

 クロム達の『役に立つ』と言う『価値』がなければ、「生きたい」と……ただそう思う事すら出来なくなってしまう程に。

 

 ルフレ自身はそれを『歪み』とは思っていないのだろう。

 それ程までに、深い場所に刷り込まれたそれは、最早無意識下での信念に近しくなっていた。

 ……クロム達ですら、その鎖を断ち切ってやれない程に。

 

 

「僕は、君を酷く傷付けてしまった。僕の身勝手な願いの所為で。

 君に、僕なんかの『命』を、それを奪う重みを、背負わせようと……。……君が、何れ程僕を憎んでいたのだとしても、僕を殺してしまえば罪の意識を感じずにはいられない程に優しい人だと、知っていたのに。僕は、君になんて酷い事を……」

 

 

 その深い苦悩がそのままそこに表れているかの様にその瞳に深い翳りを写しながら、ルフレはそう力無く呟く。

 何処までも優しいルフレは、より傷付いているのは彼の方だと言うのにも関わらず、ルキナの事ばかりを気に掛ける。

 その心を縛り付ける鎖の所為なのか、ルフレは自身を勘定に入れる事が出来ないのだ。

 何れ程傷付いていても、何れ程苦しくても、それを自覚していたとしても自分を顧みる事が出来ない。

 それは、あまりにも……。

 

 

「だから、ルキナ。

 君が僕に謝る必要なんて、何処にも無いんだ。

 ……赦しを乞わねばならないのは、僕の方だ。

 いや、僕にはそんな資格すら無い……」

 

「資格だなんて、そんなの……」

 

「無いさ、有る訳がない。

 僕は……『僕』がクロムを殺し、ルキナが本来は生きるべきだった世界を滅ぼし、君が享受するべきだった幸せを、何もかも奪い壊してしまった……。

 それどころか、『過去』を変えさせまいと……『僕』は、本当なら助けられていた筈の命を……エメリナ様の命を奪った。

 ……いや、そもそも……。

 ペレジアとの戦争も、ヴァルムとの戦争も、全てその裏で、ギムレーを蘇らせようとしていたギムレー教団と『僕』が糸を引いていたんだ。

 あの戦争で喪われた全ての命が、元を辿ればギムレーの……僕の所為で奪われた様なものだ……。

 それでどうして、よりにもよって君に赦しが乞える?」

 

 

 生きている事そのものが、その存在自体が、罪であると。

 まるで自分がこの世の何者よりも罪深い咎人であるかの様に、ルフレは言う。

 

 ルフレは、何よりも自分自身を、その存在を赦せないのだろう。

 決して悲劇を直接的に引き起こしたのが自分自身ではなく、またそんな意思はなかったのだとしても、その悲劇を引き起こす引き金になってしまっていた事を、そしてそれを知らずに生きていた事を、赦せないのだ。

 

 

「ですが、ルフレさん……。

 それは、あなたの所為じゃないです。

 あなたは何も知らなかったし、そこにあなたの意思も無かった。

 ……操られてお父様を殺したのはあの『ルフレ』さんだったのは確かですけれど、でも、今ここに居るルフレさんは運命を変えたじゃないですか。

 あなたは、お父様を殺していないし、ギムレーになっていない。

 それなのに、自分を赦せないのですか?」

 

「……『知らなかった』なんて、何の言い訳にもならないよ。

 それどころか、無知であった事こそが罪だ。

 僕がクロムを殺さずに済んだ事も、この身がギムレーに成り果ててはいない事も、全ては君がこうして過去にやって来てくれたからに過ぎない。

 それに……僕がこうして生きている事自体が、君やクロム達にとって大きなリスクになっている。

 僕の意思一つでギムレーに成り果てる事を拒めるなら、そもそも君が居た『未来』でもギムレーは甦ってなんていない。

 ギムレーの『覚醒の儀』を誰かに行われるだけで、僕の意思の所在とは無関係に僕はギムレーになる。

 僕がギムレーと化すのを免れたのは、僕がそれを拒めたからと言うよりは、あの『僕』……いや、『ギムレー』にとっては、僕を取り込み更なる力を得る際に意識の主導権を得る為には、僕をギムレーに『覚醒』させない方が都合が良かったからだ」

 

 

 餌に『力』を持たせる意味は無いから、とルフレはそう零す。

 その心に在るのは、変える事が出来ぬ事実への絶望か。

 ルフレ自身は何一つとしてそんな事は望んではいないと言うのに、生まれながらに絡み付いた宿命は、ルフレがルフレであり続ける事を赦さない。

 

 

「……それでも、ルフレさんはルフレさんです。

 例えギムレーの器なのだとしても、あなたはギムレーとは違う。

 優しくて、仲間想いで、私では想像もつかない程に賢くて、戦術で皆を守り続けてくれて、自分が傷付く事を厭わずに誰かを守る事が出来て、この世界を……人々の営みを慈しんでいる。

 私達の、大切な……仲間です。私は、あなたを……ルフレさんがルフレさんであり続ける事を、信じます。

 今度は、絶対に……何があろうとも、最後まで」

 

 

 ルフレが生まれ持ってしまった宿命を変えてやる事はルキナには出来ない。

 それでも、ルフレを信じる事ならば出来る。

 今目の前にいるこのルフレは、ギムレーなどに成り果てないと。

 どんな悪意が、どんな祈りが、ルフレの身を邪竜へと堕とそうとするのだとしても。

 ルキナは……否、ルキナ達は、絶対にルフレの手を離さない、信じ続ける。

 ルフレがルフレであり続けられる様に、悪意の祈りに絡め取られてしまわない様に。

 

 大局的に見れば、その決意は間違っているのかもしれない。

 ルフレは生きている限りギムレーとなる可能性が無くなる事はないのであれば、リスクを完全に排除する為にはルフレは生きていてはいけないのだろう。

 だが、そんな『もしも』やら『可能性』に何の意味があると言うのだろうか。

 

 ルキナはもう、世界の為であろうともルフレの命を奪う事など出来ない事には気付いてしまっているのに。

 ルフレが『ギムレーの器』であると……ある意味でギムレーその物であると知っても尚、ルキナがルフレに対して嫌悪感や忌避感を懐く事は無くて。

 ルキナがルフレに向ける想いは、微塵も揺るがなかった。

 

 いや、それはルキナに限った話ではない。

 クロムも、そして共に戦い続けてきた仲間達も。

 ルフレと確かな絆を得ていた者達は、その身の上の全てが明かされた後でも誰一人としてルフレを拒絶する事は無かったのだ。

 イーリスにとって怨敵の子であるのだとしても、邪竜の血族であるのだとしても、ある意味で邪竜その物であるのだとしても。

 それでも、ルフレは決して邪竜などではないのだと、ルフレはルフレなのだと、仲間の誰もが受け入れていた。

 だが、ルキナ達は誰一人として拒んでいないのだとしても、ルフレ自身が自分を拒絶しようとしている。

 今のルフレには、自分自身が悍ましく恐ろしい化け物である様に思えてしまっているのだろう。

 自分の手で仲間を殺してしまうのかもしれない『何時か』を恐れて、だからこそ、死を選ぶ免罪符を得る為に、ルキナから拒絶されようとして、自らがさも全ての悪の根源であったかの様に語っているのだろう。

 いや、ルフレ自身の心の中では、彼は「諸悪の根源」であり、死ぬ事こそが「世界の望み」である存在なのだろう。

 心が生み出した絶望の泥濘を、彼自身は振り払えない。

 …………彼は、自らが生み出した『地獄』に囚われている。

 

 その全てを思い込みだと否定する事は、ルキナにも出来ない。

「真実」もまた、そこに僅かなりとも存在するだろうから。

 だが、だから何だと言うのだ。そんな言葉を吐露された程度で、今更この気持ちが揺らぐとでも本気で思っているのだろうか。

 それは剰りにも『読みが浅い』と言わざるを得ない。

 神軍師とも讃えられているルフレには、有り得べからざる程の失敗であろう。

 

 今となっては少し遠く感じるヴァルムとの戦争が終わったあの日の夜のクロムの言葉が脳裏に過る。

 一度だけでも良いから何があってもルフレを信じて欲しい、と言うその願いは、ルフレを信じられずに剣を向けてしまった自分には叶える資格など無いと思っていたけれど。

 きっとあの言葉は、今この時の為にあったのだ。

 自ら離れようとするルフレの手を、離さない様に掴む為に。

 

 

「ルフレさん……あなたは私にとって大切な人なんです。

 あなたに剣を向けてしまったあの日に、やっと気付きました。

 例え世界の為であるのだとしても、いえ……何の為であるのだとしても。

 私は……ルフレさんの命を奪えないと、ルフレさんの命の方が大切であるのだと。

 何時の間にか、『使命』とであっても秤に掛けられない程に、私にとってあなたが掛替えの無い存在になっていて……。

 ……だから、私はあなたを信じます。あなたを、守ります。

 悪意が誰かの祈りが、ルフレさんをギムレーにするのであれば、その祈りから。誰かの恐怖があなたを排するなら、その恐怖から。

 この命ある限り、私があなたを守ります。

 だからルフレさん。

 どうか、自ら死を選ぼうとなんてしないで下さい。

 生きて下さい。生きようと、生きたいと……そう、願って──」

 

 

 言葉にするよりも先に想いが溢れ出してしまって、そこから先はもう言葉には出来ず、ただ唇を震わせるだけだった。

 言葉よりも先に心があるのだから、感情の全てを言葉にする事など到底不可能で。この胸を満たす想いを、一体どんな言葉に託して伝えられると言うのだろう。

 それでも、視線だけは決してルフレから離さない。

 言葉で表す事が出来なかった想いが、質量と熱を伴って視線に混ざっていく様な錯覚すら感じる。

 ルフレもまた、ルキナから視線を逸らさなかった。

 

 熱さと激しさが秘められたルキナのそれとは対称的な深い海の底を覗く様な眼差しが、瞬きすら惜しむ様にルキナを見詰め返して。

 何かを言おうとルフレは口を開くが、言葉がまだ見付からなかったかの様に、静かな吐息が幾度かその唇を僅かに震わせる。

 そして、ほんの僅かにその視線がルキナから逸らされた。

 

 

「……僕は、……。

 ……『僕』が、君の『お父様』を殺したんだよ……? 

 ……『僕』の所為で、君の未来は『絶望の未来』になってしまった……。

『僕』は……僕が、君に……」

 

 

 赦される訳など無いのだ、と。

 そう力無く呟かれたそれは、ルキナには心の悲鳴に聞こえた。

 その心を縛り続ける枷に阻まれて、自ら助けを求める事が出来ないルフレが、必死にあげた悲鳴なのだと。

 だから、ルキナは。

 

 

「……ルフレさん。

 私を、自分を責め続ける言い訳にするのは、もう止めましょう。

 確かに、『未来』の『あなた』はお父様の仇なのでしょう。

 あの『ギムレー』が私達の未来を奪ったのも、事実です。

 でもそれは、今私の目の前に居るあなたではないんです。

 同じ『ルフレ』と言う存在であっても、あの『ギムレー』とあなたは、もう違う存在です。

 ……私と、この世界で産まれた小さな『ルキナ』が、決して同じになる事は無いように」

 

 

 そう、ルキナはそれを誰よりもよく知っている。

 例え『同じ』存在であったとしても、ルキナはあの幼子ではない、同じになれる筈もない。

 今のルキナを形作るものも、あの『未来』で喪ったものも、何れ一つとして、同じにはならないのだ。

 魂の双子と呼べる存在なのだとしても、それは全くの同一と言う意味にはならない。

 それは勿論、ルフレとあの『ギムレー』にも当てはまる。

 

 

「あなたには、最初から誰からの赦しなど必要ないんです。

 いえ、『生きる事』に赦しが要る者など、この世には居ません。

 それは、あの『ギムレー』であったとしても。

 ……それでも、赦されなければ生きられないと、死ななければならないのだと、そうルフレさんが思うのならば。

 私が、赦します。

 あなたがギムレーの器である事も、あなたの何もかもを、あの『絶望の未来』を経た上で、私は受け入れ赦します。

 だから、ルフレさん。もう、良いんです……」

 

 

 赦しなど、本当は必要ないのだけれども。

 もし、それでもルフレの心を縛る枷を破る為にそれが必要であるのならば。

 それを与えるに於いて、ルキナよりも適した者は居ないだろう。

 父を奪われ……何もかもを『ギムレー』に奪われて、あの『絶望の未来』をこの目で見詰め続け『使命』を抱えてここまでやって来たルキナだからこそ、そこにある赦しには意味がある。

 逆に、その赦しを得て尚も自らを傷付け続けられる程、ルフレは愚かしくも無い。

 ルキナの言葉にルフレは僅かに目を見開き、小さく息を吸った。

 そして感情を無理に抑えようとした様な戦慄く様な声で訊ねる。

 

 

「……僕、は……。

 ここに居ても、皆の傍に、君の傍に居ても、良いんだろうか。

 ……僕なんかが、生きていても、本当に良いんだろうか……。

 僕が、何時か皆を、君を傷付けてしまうかも、殺してしまうかもしれないのに……。

 僕の所為で、皆が傷付いてしまうかもしれないのに……。

 ……それでも。

 ……皆と、君と、『生きていたい』と……傍に居たいと。

 思う事は、願う事が……赦されるのなら……、僕は……」

 

 

 しかしそこで、急に言葉が詰まってしまったかの様にルフレは黙ってしまった。

 何かを言おうとしては、何かを躊躇う様に吐息だけを溢す。

 ただ、その手が微かに震え、何かに触れようとしているかの様に僅かに開かれているのを見て。

 ルキナは、そっとその手に己の手を重ねた。

 驚いた様にルキナを見るルフレに、何も言わずに。ただ。

 その言葉の続きを促す様に、その心を戒め縛り付ける鎖をそっと緩めようとするかの様に、重ねたその手を優しく包み込む。

 すると、目の端に僅かに光る滴を浮かべたルフレは、今度はそこにある感情を隠そうともせずに、涙声に近い震える声を上げた。

 

 

 

「僕は、生きたい……生きていたい……っ! 

 君と、クロムと、皆と……、生きたいんだ。

 笑って、泣いて、共に……ずっと、生きて……。

 僕は……っ」

 

 

 

 そこで溢れる想いを堪えきれなくなった様に、ルフレの頬を光る滴が後から後から溢れ落ちていった。

 身を震わせて泣くルフレの身体を、ルキナはそっと全てを包み込む様にして抱き締める。

 今漸く心を戒める鎖を断ち切ってその想いを涙と共に溢す事が出来たルフレに、思う存分に泣かせてやりたかった。

 今まで何れ程苦しくても辛くても泣く事が出来なかったルフレの、誰にも知られる事無く飲み込み続けてきた涙が全て溢れ出ようとしているかの様に、その涙は止まる事を知らない。

 震える手でルキナに縋り付く様に抱き締め返してくるルフレの、その温もりを感じながら。

 ルキナは、やっとルフレが心の望みを見付けられた事に、満たされた様な幸せを感じていた。

 

 

 

 

 

 

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