『愛を知らぬ怪物なれど』
◆◆◆◆◆
かつて囚われ続けていた邪竜の居城に、ルキナは一年と少しの時間の後に、再び戻って来ていた。
ギムレーに再び囚われた……とも言えなくも無いが。
だが、再びルキナの前に現れたギムレーのその手を、掴みこそはしなかったが拒まなかったのもルキナ自身である。
……ルキナにとって。この城はかつて囚われていたその時と何一つとして変わらぬ物ではあるけれど、この世で唯一我が子が息を殺す様にして隠れて生きる必要のない場所でもあった。
ルキナにとってはただその事実だけが大切な事であり、心無いケダモノの如き人間達に娘が害される恐れが無いのであれば、それはまさに安息の地とも言える場所である。
……例え、今も尚消える事のない憎悪を向け続けている怨敵の領域であるのだとしても。
その庇護下でしか我が子が生きられないのであれば。
邪竜の翼の下に戻り、そこで生きていく事に否は無かった。
邪竜に隷属する事を誓い身も心も魂までもを縛られている人々にとって、マークは彼等の神の御子であり、ルキナはその神妻と言う扱いになる訳で、この居城に居る限り、マークに危害が加えられる可能性は僅か程も無い。
万が一にもマークに害意を懐いた瞬間、その者はその瞬間に絶命し、屍兵として永遠の隷属を強いられる事になる。
……一年以上の放浪の末に得た結論が、再び此処に戻って来ると言うのは、何とも皮肉なもので無意味なものだけれど。
少なくとも。ルキナが外の世界に……『人間』達の世界に何一つとして『希望』を抱かなくなり、期待すらしなくなった事は、一つ大きな変化なのだろう。それの善し悪しは別にして。
『世界』を救う『使命』よりも、ルキナはマークの母親である事を既に選んでいる。
万が一にも、かつての仲間達がこの城にまでやって来て、そしてルキナを邪竜の手から救おうとするのだとしても。
彼等にとっての救わねばならぬ対象はルキナだけであって。
そこにマークが入る事は無いのだろう。
寧ろギムレー共々『討伐』の対象になっているかもしれない。
そうであるならば……恐らく、その時には。
ルキナは、ギムレーの側に立ち、躊躇う事無くファルシオンをかつての仲間達に向けるだろう。
悔悟に胸を千々に切り裂かれながらでも、その心が絶望と苦しみに泣き叫ぶのだとしても。
マークを守る事こそが、我が子の存在だけが。
何もかもを奪い去られたルキナにたった一つ残された、暖かな絶望なのだから。
例えそれが誰であっても、ルキナからマークを奪おうとするのであれば、ルキナは剣を向ける。
有り得ない事ではあるが……もし父が目の前に現れたとしても、ルキナはマークを守る事を選ぶであろう。
……マークは。まだこの城での生活に慣れぬ様であった。
だが、それも無理も無い話であろう。
この城の中で生まれたとは言え、この城を脱け出し逃亡した時点ではまだ乳離れが済んだ直後だったマークが、かつて自分が城に居た間の事を覚えている筈も無い。
マークにとって此処は、見知らぬ場所でしかないのだろう。
それでも僅かながら記憶の片隅に残るモノはあるのか、何処となく懐かしさの様なモノは感じている様であるのだが……。
何にせよ、これまで姿を隠し域を潜める様にしながらの旅から旅への根無し草の生活だったのが、これまでの生活からは考えられない様な立派な城を「今日からここがお前の住む場所だ」と言われた様なものなのだ。
今までの生活とは全く違うそれに、戸惑いが先に立つのも仕方が無いし、更に言えば母親以外の存在が自分と同じ生活空間に居ると言うのも落ち着かないのだろう。
だからなのか。
ここでは誰に脅かされると言う事も無いのだけれども。
マークは外の世界を放浪していた時以上に、四六時中と言っても良い程にルキナの傍に居た。
城の使用人として使われている人々にも怯えているが。
マークが何よりも距離を置いているのは、彼女にとって実の父親に当たる筈の邪竜に対してであった。
母親と恐ろしい『人間達』しか存在しなかったマークの世界に、突然現れた自身の同族であり父親であると言うギムレーは、まさに未知の存在であり、警戒するべき対象なのだろう。
……それには、マークにそれとは悟られぬ様に隠してはいるとは言え、それでもルキナがギムレーに対し向けてしまう憎悪や殺意と言った負の感情を、それの感情の中身を詳しくは理解出来なくても、マークが無意識の内にでも敏感に感じ取ってしまっているからなのだろうか。
……邪竜、ギムレー。
ルキナにとっては自分から全てを奪い去ったこの世の何よりも憎い仇であると同時に。
マークにとっては間違いなく『父親』であるその存在を、どう扱えば良いのか……どう接すれば良いのか。
ルキナには、未だその答えを出せないでいる。
ルキナにとって、ギムレーが自身の愛していたモノ全てに対しての仇である事は、例え今彼の庇護下でルキナ達親子が生きているのだとしても絶対に変わらないし、この先どれ程の時間が過ぎ去ろうとも何が起きようとも、ルキナがギムレーのその所業を赦す事は未来永劫無いであろう。
この憎悪と悲嘆は、永遠に消せはしない。
ギムレーがルフレの姿で人を殺戮している事を、世界を滅ぼしていく事を、ルキナは何があっても赦さない。
愛している者の全てを奪い、全てを貶めている邪竜のその存在全てを、叶うのならば永劫の時の彼方まで魂の欠片まで消し去ってしまいたいし、邪竜がルキナ達にして来た事をそっくりそのまま同じ目に遭わせた上で辿り着く彼岸すら無い無限の虚無の中に突き落としてしまいたい。
ルキナは、人間が持つ悪性の中でも過剰な程の悪意と害意の全てを邪竜に向けているし、そんな醜さを自覚した上でも清廉潔白さを装う事など考えたくも無い程に邪竜を憎悪している。
しかし、それ程の強過ぎる憎悪や憤怒を向けている一方で。
それだけではない感情も、僅かだがギムレーに向けていた。
それは、決して愛慕の様なモノなどではなく……深い深い哀しみとそこを源とする諦念とある種の虚無感……。
そう言ったモノが綯い交ぜになったそれを、どう扱えば良いのかルキナ自身が持て余していた。
自身の憎悪や憤怒と矛盾こそしないものの、甘い砂糖菓子の中に僅かに混じった苦みの様に、確かにそこにある感情。
それは。どれ程憎かろうとも、ギムレーがマークの『父親』に他ならないからであろうか。
それとも、邪竜の娘であるマークにとっては、この世で唯一の『同朋』とも言える相手であるからだろうか。
…………例え何れ程憎くても、マークから『父親』を奪う事は、許されて良い事では無いのだろう。
マーク自身がギムレーを『父親』として認識するかどうかはともかく、少なくともギムレーの側にはマークが我が子であり自身が『父親』である認識はあるらしい。
母親であるルキナでは与えてやれぬものも、マークにとって必要なモノであるかもしれないのだ。
それを得る機会を奪う事は。マークを心から愛し想うからこそ、ルキナに出来る筈も無かった。
それに、『人間』でしかないルキナには、『竜』としてのマークの全てを理解してはやれない時が来てしまうかもしれない。
無論、何が起きても、ルキナはマークの全てを受け入れて抱き締めるだろうけれども……それと何もかもを『理解出来る』のかと言う問題は、また別の話である。
『人間』と『邪竜』の間に産まれたマークが、今後どのように成長していくのかなんてルキナには分からないし、何がマークにとって危険な事で何はそうでないのかすらも分からない。
……かつて、仲間であったシャンブレーは、彼自身がタグエルの血を引く者の最後の生き残りである事を、誇りに思うと同時に……間違いなく恐れていた。
自身が死ねばタグエルと言う存在の系譜が絶えてしまう事もその恐怖の一つではあったけれど、正真正銘最後の純粋なタグエルであった彼の母が亡くなった後は、タグエルとしての彼を導いてくれる者が居なかったと言うのもまた、傷付く事を厭い戦いから逃げる彼の臆病な性格に拍車を掛けていたのだろう。
『人間』である仲間達や周囲の者達では気付かない理解出来ない対処出来ない問題が起きた時に、タグエルとしてその対処法を教えてくれる者はもう居なかったのだから。
……それはきっと、とても恐ろしい事だと、そう思うのだ。
……だからこそ、マークにとっては、『竜』としての『同胞』はきっと必要なモノなのだ。
……例えそれが、世界を滅ぼす邪竜であるのだとしても。
ギムレーとて、マークに『竜』としての助けが必要になった時、それを無碍にする事もあるまい。
そして。ルキナがギムレーへの接し方について迷っている原因はそれだけではなかった。
時折。……そう、本当に時折ではあるのだけれども。
ギムレーの中に、確かにルフレの存在を感じるのだ。
その仕草の中に、その表情の中に、その声の中に、その言葉の中に、その気配の中に……ルキナは『ルフレ』を感じる。
ギムレーの演技……と言う訳では無いのだろう。
ルキナがその存在をより強く感じるのは、何時もギムレーがそれと意識していない時の事が殆どであったから。
……ルフレを求める余り、存在しないモノの影をルキナが其処に見てしまっている可能性は否定しきれないのだけれど。
それでも……邪竜の内に、そこに囚われた最愛の人の姿を見付けてしまうのだ。
喰われても尚、そこに彼は居るのだろうか。
滅び行く世界を、魂の牢獄の中で見詰めているのだろうか。
もしそうならば、彼の魂に安息が訪れる事は無いのだろう。
ルキナ以外は誰も、そこに囚われた彼の魂の事を知らない。
ルキナ以外の誰も、彼の救いを願わない。
それは……とても哀しい事だと、寂しい事だと、そう思う。
ルキナは邪竜に全てを奪われ踏み躙られた。
だけれども今は、マークが居てくれる。
邪竜の娘であるけれど、それ以上に愛おしい我が子が。
ルキナだけの優しく暖かな絶望が、そこに在る。
だけれども、もしルフレが邪竜の内に囚われているのならば。
ルフレには文字通り、「何一つとして」救いは無い。
……そんな事を、今も尚彼を愛し続けているルキナが許容できる筈も無かった。
それもあって、ルキナは邪竜に……より正確にはその中に居るルフレに、寄り添う事を選んでしまったのだろう。
どうせルキナはもう、命の尽き果てる場所に辿り着いたとしても、父たちの様な安息の彼岸には辿り着けまい。
良くて、行く先は地獄である。
ならば、邪竜に囚われた彼と共に何処までも地獄を堕ちていく事も、また一つの道だ。
少なくともルキナにとって、今尚最愛の人である彼を、独り地獄の釜底に置き去りにする位ならば。共にその業火に焼かれる方が自分自身にとっても『救い』になるのだ。
孤独である事以上に、恐ろしく苦しく寂しい事は無い。
何もかもを奪われて邪竜に囚われたルキナはその恐ろしさをよく知っている。
叶うのならば、ルフレをギムレーから解放してあげたいが、それはもうこの世界で叶う事では無いだろう。
だからこそ、それがルキナの欺瞞でしか無いのだとしても。
せめて、共に死が訪れるその日まで、彼の傍に居るのだ。
◆◆◆◆◆
一年以上の放浪の果てに、再びこの手の中に戻って来た妻と娘の存在は、ギムレーにとって多くの戸惑いを齎していた。
自分の血を引く……『邪竜』の娘たるマークと、そして今や邪竜の眷属となったルキナと。
かつてはギムレーの下からマークを連れて逃げ出したルキナであったが、再びその身を捕らえたその時には、彼女はギムレーの手を自ら掴みこそしなかったものの、かつての様に必死に抵抗すると言う事も無く受け入れて再びこの城に戻った。
……それは、ルキナがマークと共に生きられる場所が此処にしかないからと言う理由が大きいのだろう。
何故なら、ルキナはギムレーを恐れると同時に憎悪している。
邪竜であるギムレーには、そう言った人の悪性など例え隠していたとしても手に取る様に分かるのだから。
だがそれは当然の事であろうし、憎悪されたからと言ってルキナにギムレーが害せる筈も無く、ギムレーにとってその憎悪は寧ろ心地い程に『愛』の媚薬の様なモノであった。
ギムレーには、『人間』達の言う『愛』と言うモノは理解出来ないが、何かに強く執着する感情は分かる。
独占欲の様なその執着心の向かう先、誰にも奪わせたくない『特別』な何か。それがギムレーにとってのルキナ達であった。
それを『愛』と呼ぶのかは、ギムレーは知らない。
知らないし、理解し得ないもの、そしてギムレー自身には必要のないモノ。それが『愛』だ。
しかし、『人間』の番は往々にして相手に『愛』を求め、そして相手にそれを与えるのだとも「知っている」。
その認識が、理解が、何処から生まれたものなのか、「誰」が持っていたモノなのかはギムレーにも分からないが。
とにかく、そう言うものであるらしいと言う事は知っている。
だからこそ、ギムレーは自らの妻として選んだ彼女に、『人間』達の流儀に則って、自分では理解出来ない『愛』なるモノを与えようと思ったのだ。
その為にも、ギムレーは捕らえた彼女に、自由以外の全てを満たし、彼女を毎夜の如く抱いた。
そう言う「行為」を行う事が、『人間』達にとって『愛』の証明であり『愛』その物なのだろうと、そうギムレーは解釈していたからだった。しかし、それが本当に『愛』なのかはギムレー本人にも理解出来ない事だった。
そもそも、この世に『同族』など存在しない、己の存在ただ一つで「生命」として完結してしまっているギムレーにとって、他の種族が自らの因子を継ぐ子孫を残す為に行う行為に価値を見出す筈も無く。だからこそ、自身にとって「無価値」な繁殖の為の行為に何かと意味を見出そうとし、その為に感じる一連の情動に『愛』だのと名付けて執着するのは、ギムレーにとって未知の価値観であり、本当に理解出来ない事であったのだ。
それは、正直今も何一つとして変わらない。
行為を行っている最中の彼女は、まさに絶望と憎悪だけにその心を燃やしていて。それでも生理的な「ただの反応」で零れ出てしまうものを、より憎んでいるようであった。
ルキナを絶望させる、と言う意味でならそれは間違いなく良い手段だったのかもしれないが……少なくともギムレーの行為に彼女が『愛』なるものを感じている様には見えなかった。
まあ事実、ギムレーが『愛』を理解出来ない以上、そこに『愛』などと言うモノは無かっただろうとは自分でも思うが……。
ギムレーとしても、ルキナが絶望しつつもまだ心だけは屈しないとばかりにその意志だけは抗おうと、無意味ながらも見ていて飽きない足掻きを続けていたのを見れた事は愉しかったが。
そもそもの行為自体には、あまり感じるモノは無かった。
嫌では無いが、それだけで愉しくなれたのかと言うとまあ間違いなく違うだろうとは思う。
しかし。ギムレーに囚われてからはずっと、行為の時以外は人形よりも生気の無い顔で何処かをぼんやり見ているか、或いは夢の中に逃げるかの様に眠るしかしてこなかったルキナが。
行為の時だけは例え負の感情にであってもその表情や心を動かし反応してくれていた事に、ギムレーは価値を見出していた。
絶望するのは良い、憎悪するのも良い、怒りから破滅的な願いを抱くのも構わない。
だが、ルキナが虚無に心を喰われる事だけは承服しかねた。
ギムレーは、ルキナを妻としたからには少なくとも、その形式的には番として大切にしようとは思ったし、況してや心を完全に消し去って人形にしたかった訳では無い。
そして、この世の破滅と絶望を望むギムレーであるからこそ、破壊する事の容易さと……そしてその容易さに相反するかの様な、『治す』事の難しさもよく知っていた。
一度跡形もなく壊してしまえば、もうそれは元には戻らない。
完全に虚無の中へと消えてしまったのなら、ギムレーの力を以てしてもそれを完全に元の状態に戻す事は出来ない。
最初から壊してしまうつもりで、弄んだ後はそのまま捨てるか壊したまま遊ぶのならそれで良いのだろうけども。
少なくともギムレーは、ルキナにそんな事をするつもりは無かったし、もし彼女にとっては自身はギムレーの玩具でしかないように感じられたのだとしても、それは人間風に例えるならば『代替不可能なお気に入りの玩具』に対するものであり、寧ろ丁重な扱いをしていたとはギムレー自身は思っていた。
……ただ、ギムレーと『人間』の価値観の違いや視点の違いと言うものは、例え互いにそれを理解していても尚埋める事など出来ぬものであり、況してやルキナとギムレーの間のそれは深まるばかりのものなのだろう。
ギムレーは、例え彼女を己の眷属にしようとも、自分がルキナのその心や価値観を真に理解出来る事などありはしないだろうと考えているし、それで構わないとも思っている。
ルキナの場合は、ギムレーの心や価値観などそもそも最初から理解しようとすらしないだろう。
故に、二人の間に、『愛』と解釈出来る行為があった所で、それを二人が『愛』だと感じる事は、互いに無い。
それでも、ギムレー自らの妻にルキナを選んだのだ。
それ故に、ギムレーは自身の価値観と行動で、自分なりにルキナの事を気遣っていた。
その結果、例え憎しみと絶望を抱える方向性であってもルキナは心を喪わずに済んだ。そして、その行為の果てで。
ギムレーの予想すら超えたのが、マークの存在であった。
「完全なる生命」として生まれたが故に、ギムレーは唯一個体だけで完結している筈であったのに。
生まれてはただ死んでいく不完全な生命の様に、自らの因子を本当の意味で最初から生まれ持った「子供」が生まれるとは、ギムレー自身にも想定外の事だったのだ。
『ルフレ』の様に、自分自身と言う訳ではない。
自分とは異なる個体であり当然ながら異なる魂を持つ……しかし紛れもなく『同族』である存在。
それはギムレーにとっては間違いなく、未知なる者であった。
この世に存在して幾千年経った果てで初めて得る『同族』に、ギムレーですら平静ではいられなかったのだ。
……それが胎に宿ったと知った直後のルキナは、それはもう酷い有様ではあったのだが。
しかし、それを産み落とした後の彼女の変貌の仕方と言ったら、もしかして別人がすり替わったのではないかと一瞬ギムレーの脳裏にすら過る程であった。
それまでの不安定さなど見る影もなく。
ギムレーの前では決して見せる事の無い様な表情を、ルキナはマークにだけ向けていた。
……いや、……正確には。
『二周目』の記憶を探っていると、ルキナは『二周目』に対してはその様な表情をよく浮かべていた。
恐らく、ギムレーでは何をしても見る事が出来ない様な、穏やかな顔を……安心しきった顔を……何かを慈しむ様なその微笑みを……かつてのルキナはよく浮かべていた様だ。
……娘であるマークに感じている感情と、『二周目』に向けていたそれは同じものではないだろうけれども……。
しかしそこに彼女が感じていた『安らぎ』は、似ているモノなのだろう。それを考えると、僅かにではあるが心に靄が掛かったかの様に、名状し難い何かを感じる。
……まあ何にせよ。マークの存在はルキナにとっては「良い」方向に働いた様だ。
生まれ落ちた直後のマークの姿が、かなり人間に寄っていたのもその心の安定に一役買っていたのかもしれない。
もし、かつてのギムレーの様な姿でマークがこの世に生まれ落ちていたのだとしたら、ルキナはどう反応していたのだろう。
マークが胎の中に居た頃の様に、マークを殺そうとしたのだろうか、或いは拒絶したのだろうか、……かつてギムレーを造り出したあの狂った醜悪な錬金術師の様に、失望と恐怖の眼差しを向けていたのだろうか……。
今となってはそれは確かめようが無いし、そんな詰まらない仮定と推測にも意味は無い。
ルキナはマークを愛したと言う現実だけが、全てである。
今にも吹き消えてしまいそうな程の小さな小さな命。
だが、確かにギムレーと同じ力と血を継ぐ『同族』。
その「素材」を考えてみれば、ギムレーとマークにそう大きな違いは無いのだろうけれども。
少なくとも、この世に生まれた後に辿った道は異なり。
そして自分とは異なる心の在り方と価値観を獲得している。
少なくともギムレーがマーク位の年頃の時には、既に創造主を殺していたし破壊と殺戮を求める衝動のままにそれを成していたのだが……マークにはその様な衝動の片鱗も無い様だ。
外の世界で散々『人間』の悪意に晒されていても、マークは『人間』に対し恐怖心や怯えは懐いてはいても、『人間』を殺戮しようなどとは欠片も考えた事すらなかった。
その違いは、その容姿によるものなのだろうか。
或いは、眷属ではあるが『人間』としての要素が強かったルキナの血も濃く混ざったからなのか。
もしかすると、生まれ落ちたその直後から、ルキナと言う『母』が居たからこそなのかもしれない。
何にせよ、同じ血を持つ『同族』でありながらも、既に随分とギムレーとマークには違いがある様だ。
その内には完全に『竜』の姿を取れる様になるとは思うが、そうなった時もやはり違いは生まれるのだろうか。
そう考えると、マークへの疑問は尽きない。
そして、そう言った事について考えを巡らせると言う事はギムレーにとっては決して不愉快なモノでは無かった。
不思議な事に、寧ろ楽しみさえそこに見出していた。
これが、『親』と言うモノなのだろうか?
ギムレーにとってはこの世で最も縁の無いモノだとすら思っていたが、存外悪くは無いモノだ。
そう考えると、益々ルキナを妻とした自分の判断は間違ってはいなかったと思うのだ。
二つの時間のギムレーが融け合って手に入れた強大に過ぎる力の前には、最早神竜ですら相手にならず。
全ての滅びは予定調和と化したが故に、その先に待っているのは『退屈』に心を蝕まれた生だろうかと思ってはいたが、ルキナを妻にした事で何かと興味と愉しみは尽きない。
そう、興味は尽きないのだけれども。
ふと、最近のルキナの視線を思い起こし、ギムレーは僅かにその眉を顰めた。
ルキナは近頃、ギムレーへとかつて程の強い拒絶を向けなくなった……がそれと同時にどうにも不思議な目をギムレーへと向けてくる事があるのだ。
ギムレーを通して、別の誰かを見ているかの様な……。
……まあ恐らくは、『二周目』の存在をギムレーの内に見ているのだろう。そもそも同じ存在ではあるのだが。
同じ存在である『二周目』の事を想っていると言うのは、即ちギムレーを見ている事と何も変わらないが。
しかし、大海に堕とした一滴のインクの様に、何故だかは分からないが、ギムレーの心は僅かに曇るのであった。
◆◆◆◆◆
突然村人達に襲われて、恐ろしくて震える内に何時の間にか眠ってしまっていたマークが目覚めた時には。
気が付けば今まで見た事も無い様な、物凄く立派な『お城』にマーク達は居て。今日からここがマーク達の家だと言われ。
更には、覚えも無い『おとうさん』が現れたマークは、酷く混乱したし、恐ろしくてずっとルキナにしがみついていた。
そして、周囲を警戒するあまり、マークは唯一信頼出来る最愛の『おかあさん』であるルキナの傍から片時も離れなかった。
それには、城に来る直前の恐ろしい出来事も大いに関係しているし、そしてそれ以上に。この城に来た時から『おかあさん』の表情が暗く何かを強く思い詰めたモノになっていて。
そしてそれはこの城の主であると言う『おとうさん』の前で特に顕著になっていたからである。
マークは年の頃を考えると他の子供達よりも遥かに聡明で、そして子供特有の洞察力もあった。
だからこそ、『おかあさん』にとってこの『おとうさん』は歓迎出来ない存在なのだろうと無意識ながらに見抜いていた。
しかし、四六時中ルキナの傍を離れない、と言う訳にもいかなくて。時折マークはルキナの傍を離れて城を見て回っていた。
万が一この城から逃げ出さなくてはならなくなった時に、その逃げ出す為のルートを把握しておく為である。
『人間』から隠れての放浪生活の中で身に付いた習慣だった。
そして今日も、うたた寝している『おかあさん』の傍を離れたマークは、独り冒険に出かけた。
この城の中では、マークの姿を隠す必要は無いらしく、角も翼も出したままである。
時折遠目に姿が見える人々も、マークの姿を見ても何も言わない。彼等は『おとうさん』の「しようにん」であるらしい。
その意味は幼いマークには良くは分からなかったが、どうやらマーク達に悪意は無い事だけは確かなのだろう。
だけれども、大好きな『おかあさん』を悩ませる『おとうさん』の関係者である以上マークが彼等に気を許す事は無かった。
マークは、とことこと歩いて城のあちこちを探検し、そして初めて見かける大きな扉の付いた部屋に辿り着き、慎重にそこをそっと扉を押し開いてみようとすると、重い扉はゆっくりと開いていく。どうやら鍵は掛かっていなかったらしい。
一体何の部屋なのだろうと、中を覗くと。
そこにはマークには数えきれない程の本が所狭しと沢山の棚に並べられている場所だった。
本なんて高価なモノ、マークは今まで数回しか見た事が無かったしそれもかなり粗末なモノで。此処に在る様な「立派な」本は、まさに生まれて初めて見るモノであった。
それがこんなにも大量に存在するなんて、マークにとってはまさに理解を越えた場所である。
城に元々在った図書室に、部屋の用途は知らぬままに本に誘われる様に入り込んだマークはきょろきょろと辺りを見回す。
どうにも、マークにはまだ読めぬ字で何やら難しそうな事が沢山書いてある本ばかりである。
試しに近くにあった本を手に取って見ても、何が書いてあるのか全く分からずちんぷんかんぷんになった。
何か自分が見ても面白そうなものはないかとよく見回していると、マークの背ではどう頑張っても届かない位置に、可愛らしい絵が表紙に付いた本があるのを見付けた。
あれならもしかして読めるのではないかと思って一生懸命背伸びしながら手を伸ばしてみるが、全く届かなくて。
もしかしたらちょっと浮けないだろうかと思って翼をパタパタと羽ばたかせるも、マークの足は床から少しも離れなかった。
「うぅ……もうちょっと……」
「……何だ、これが読みたいのか?」
諦め悪くマークが本を手に取ろうと、手を伸ばしていると。
マークの後ろから伸びてきた手が、あっさり本を手に取った。
驚いて後ろに振り返ると。そこに居たのは。
あの、マークの『おとうさん』であった。
気配も無く背後に居た事に驚いたマークが固まっていると。
「さっきのは……飛ぼうとしていたのか? その翼で」
と、『おとうさん』は不思議そうな顔をする。
かつての苦い経験から、この城が姿を隠さなくても良い場所であった事も忘れて、反射的に翼を手で隠そうとしたマークに。
『おとうさん』は小さく溜息を吐いて。
その次の瞬間にはその背中にはマークと同じ様な……だけれどもそれ以上にもっと大きくて立派な翼が広がっていて。
そしてその頭にはマークと同じく角が現れていた。
尤も、こちらもマークのそれとは比べ物にならない程大きく立派なモノであるのだけれども。
「一々隠さなくていい。僕は君と同じだ。
僕は君の父親なんだからね」
嘘だと思うのなら、とそう言った『おとうさん』はその翼をふわりと動かして浮いた。
飛ぶと言う感じよりは浮いているの方が近いけれども、確かにその身体は床から大分離れている。
驚いたマークは、思わず目の前に居るのが大好きな『おかあさん』を苦しめているのだろう『おとうさん』である事も忘れて、思わず身を乗り出した。
「すごい! とんでる! マークも! マークもとべる?」
翼をパタパタと羽ばたかせながらマークがそう言うと。
「飛べるだろうね。少し練習は必要だろうけど」
「ほんと!? マークもとびたい!」
空をこの翼で飛べるかもしれない、と言うその衝撃は、用心深いマークの心から『おとうさん』への警戒心を吹き飛ばしてしまう程のものであった。
もし自由に空を飛べたら、『おかあさん』が恐い『人間』達に酷い事をされそうになった時は一緒に空に逃げられるのに、と何度も考えてきたし、そんな事も出来ないのに厄介事のタネにはなる翼を、マーク自身時折疎ましく思っていたのだ。
だが、この翼に空を飛ぶ力があるのなら話は別である。
「とびかた、マークにおしえて!」
「教える? この僕が……?
……まあ良いだろう、確かにそれを教えてあげられるのは僕だけだろうからね……。
なら、ここは手狭だし少し場所を移そうか……。
あと、この本はどうするんだい?」
「あとでおかーさんによんでもらうから、ちょうだい!」
マークが差し出した手に、『おとうさん』は少しだけその表情を柔らかくして、手にしていた本を渡す。
そして、『おとうさん』は、優しくマークの手を引いて図書室を後にしたのであった。
◆◆◆◆◆
ルキナは物思いに沈む内に、ふとうたた寝をしてしまっていた様で、気が付けばマークの姿が近くになかった。
この城の中に、マークを傷付けようとする者は居ない事は知っているけれども。
それでも、『もしも』と言う不安は尽きない。
……外の世界での経験は、ルキナから安易な信頼と言うものを根刮ぎ奪い取り、そして根深い不安を植え付けていた。
だから、ルキナはマークの姿を探して城の中を彷徨う。
すると程無くして、城の中庭にマークの姿と、そしてその傍に居るギムレーの姿を見付けた。
思わず、一瞬最悪の想像に胸が押し潰されかけたけれども、よくよく見てみればギムレーがマークを傷付けようとしている訳ではなさそうで。
二人の声は聞こえぬ程の遠目から見ても、決して緊迫した雰囲気の様なものは無さそうであった。
故に、少しだけ何をしているのか観察していると。
どうやらマークはパタパタとその翼を必死に動かしている。
だが、ギムレーはそれに首を横に振って、何事かを言った。
そして、お手本を見せるかの様に。
その翼をゆるりと動かしてふわりと浮いた。
すると、それを見たマークは益々必死になって翼を動かしているが、その身体は微動だにしなくて。
終には疲れたのか、マークはその場にへたりこんだ。
そんなマークの頭を、ギムレーは優しく撫でていた。
ルキナの位置では何と言っているのかは分からないが。
マークを見る、ギムレーのその表情は。
世界を滅ぼす邪竜のモノとは思えない程に穏やかなもので。
優しく、柔らかなものであった。
……そこにルフレの欠片を見たルキナは、息を詰まらせる様にして静かに涙を零した。
ギムレーに元より『愛』なんて無く、そしてまたルキナも『愛』を向ける事は無い。
ギムレーとルキナは、互いに『愛』なんて最初から存在しない関係性ではあるけれども。それでも。
ギムレーがマークに向けるその眼差しを、そこに宿る想いを、親から子への『愛』と呼ばずに何と呼べばいいのだろう。
ルキナもまた、ギムレーが見せたそれ以上の『愛』を持った眼差しでマークを見詰めている自覚はあるのだ。
そしてルキナのそこには我が子への『愛』が確実にある。
ならばギムレーもまた、と思う。
……だが、そんな感情をギムレーが持っていたからと言って、最早どうにもならない。
万が一ギムレーが『愛を知る怪物』であるのだとしても。
『マーク』と過ごす中で、ギムレーが少しずつでも『愛』を獲得していていようとも。
ギムレーが世界を滅ぼす事には、何一つ変わらないのだ。
邪竜が『愛』を知ろうが、この世界には何の意味も無い。
そして、邪竜からルキナが受けた仕打ちも変わらない。
今更『愛』なんて囁かれたとしても、もうルキナの心には『ルフレ』ではない邪竜の言葉など響きもしない。
『愛』が有ろうと無かろうと、変えられないものなのだ。
……ただそれでも、マークにとっては、母親であるルキナからの『愛』ではなく、『父親』であるギムレーからも『愛』を与えられ、それを感じられる事には、きっと意味はある筈だ。
この絶望すら果て行く世界でも、ただマークが『幸い』で在るのならばもうそれ以上は何も望まない。
ルキナの、暖かな絶望の闇が、『愛』を知らぬ怪物に成り果てない事だけを、今のルキナは願っていた。
……故に。この歪な『家族』の在り方が、マークにとって少しでも『幸い』なものであれば良いと。
ルキナはそう思って、その場を静かに離れたのであった。
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