◇◇◇◇◇◇
彼に特別な感情を抱いたのは、何時の事だったのだろうか。
何か決定的な瞬間でもあっただろうかと思い返しても、あたしにはよく分からない。
ああ、でもきっと。
一番初めに彼と出会ったその時から。
もしかしたら、それよりもずっとずっと前から。
彼は、あたしにとっては何よりも『特別』だったのだろう。
空白の眠りから目覚めて一番最初にこの目に映ったのは、晴れ渡る青空と空の蒼さよりも濃く深い……まるで夜明けの空の様な深い蒼だったのだから。
居場所をくれた、役割をくれた、必要としてくれた。
この身体と僅かに残された知識以外は何一つとして持っていなかったあたしは、彼から与えられてばかりだった。
ほんの少しでも、あたしは彼から与えられたそれらに見合うモノを返せているのだろうか。
そうであれば良いのだけれど、しかし。
彼から与えられるモノは日々この手から溢れ落ちてしまいそうな程に積み上げられていっているのに、あたしが出来る事など取るに足らない事ばかりで……日々雪の様に降り積もるそれらにはちっとも見合ってなどいないのだろう。
何時も傍に居た、ずっとその姿を目で追っていた。
それは、産まれ落ちたばかりの雛鳥が産まれて初めて見たモノを親と定めてその後を一生懸命に追っているのと似たようなものだったのかもしれない。
何処の誰だかも分からないあたしと、この国を導くべき立場にある彼とでは、本来ならば同じ場所に立つ事も叶わない事なのだろうけれど。
あたしがそうやって傍に居る事を、彼は笑って赦してくれた。
それは、一番最初にあたしを拾った事への責任感故であったのだろうし、彼の懐の深さ故であるのかもしれない。
時が経つのも忘れて二人して戦術についての議論を交わし、幾度も共に戦場を駆け抜けた。
何気無い一時も、重い選択を課された時も、国と国と言うとても大きなモノが動いたその時も。
あたしは彼と共に過ごした。
過去すら持たなかったあたしの中に、彼と過ごした時間が、その思い出が、想いが、空の器を満たす様に降り積もって。
彼を中心として世界が鮮やかに彩られていた。
そうやって世界に鮮やかな色を付けてくれた『それ』を、人はきっと『恋』だと言うのだろう。
ただ、『恋』と言うには、あたしの中の彼の存在は、彼へと向けるこの“想い”は、そんな矮小な概念で括れる筈も無かった。
どうしても言葉で定義するならば、彼は『あたしの“価値”』のその全てであるのだろう。
あたしがこの身この命の全てを以て差し出せる一切合切を差し出したとしても、到底彼には釣り合わないだろうけれど。
それでも、彼の為ならば、この身を投げ出す事だって怖くはない。
彼の為ならば、何だって出来るだろう。
……だけど、あたしは。
そんな彼の、何よりも大切な彼の、一番の願いを叶えてあげられなかった。
大切な人を助けたいと言うその尊い願いを、彼が必死に伸ばしたその手を、彼が助けたいと心から願ったその人の元へと届かせる事が出来なかった。
あたしは、彼の願いに応える為にそこに居たのに。
それでも、何も出来なかったのだ。
あたしは無力だった、愚かだった、自惚れていたのだ。
このちっぽけな命一つで、彼の願い全てを十全に叶えてやれるのだと、そんな途方もなく無謀な夢を見ていた。
そして、その傲慢はその代償として、彼の心を大きく傷付けたのだ。
だからこそあたしは、この“想い”を戒めた。
何よりも大切な彼に伸ばそうとしたその手を、彼の『特別』になりたいなどとそんな傲慢で恥知らずな“想い”を。
グルグルと鎖で縛り付けて心の奥底へと沈めたのだ。
『特別』になんてなれなくても良い、何時か彼に寄り添い立つ“誰か”があたしでなくても良い。
例え何時かその傍に居られなくなる日が来るのだとしても、それでもずっと彼はあたしの『特別』なのだから、彼の為に生きる事が許されるのならばそれで良かった。
だけれども──。
◇◇◇◇◇◇
ペレジアとの戦争は終わったが、それで即座に国に平穏が戻ると言う事はない。
王都にまで侵攻されたイーリスに残された傷痕は深く、戦争時の混乱を狙って跋扈した賊達や屍兵の群れは未だ民の生活を脅かしている。
そんな由々しき事態を前にして、戦後復興を行う為にも、クロムは自ら兵を率いて賊や屍兵の大規模な掃討作戦を実行した。
掃討作戦は既に相当な成果を修め、国内に残存する賊達も最早掃討を開始した当初の二割程度も残っていないだろう。
山一つを根城にした大規模な盗賊団のこの掃討作戦が終われば、国内の治安回復にも一先ずの目処が立つ予定であった。
これが終われば王都に帰還出来ると言う事もあって兵達の士気は高く、次々に賊は捕縛され倒れていく。
クロムと共に作戦に加わっているルフレは、兵達を指揮しつつ自らも剣と魔法を以て戦っている。
戦場を盤上の如く把握出来る千里眼の如き『眼』で戦況を分析しながら戦っていたルフレは、賊の討伐の完了が近い事を察し、そろそろ撤収の為の指示を出すべきかと足を止めた。
勿論、付近には賊が居ない事を確認してから立ち止まったのだが。
「ルフレっ!」
焦った様な叫び声が耳に届くと共に、ルフレは突然背後から押し飛ばされて地面を転がる。
何とか地面にぶつかる前に咄嗟に受け身を取る事は出来たのだが、突然の出来事に驚きながら振り返ったルフレは絶句した。
ルフレが振り返ったそこには、クロムが倒れていて。
何かに苦悶しているかの様な唸り声を上げて、地面をもがき苦しむがままに掻いていたのだ。
血の匂いはしていないから何らかの傷を負った訳ではないのだろうが、尋常ではないクロムのその様子に、ルフレもまた平静を喪う。
「クロム──」
そう震える声で呼び掛けても、返ってくるのは荒い吐息だけ。
何が起きたのか把握出来ず半ば呆然としながらも、こうしてクロムが何らかの外的要因によって倒れた以上は周囲に敵が居る筈だと、混乱する頭の片隅でそう思考したルフレは反射的に周囲を探り、そして少し離れた場所で賊の一味であろう呪術師が身を翻して逃げようとしているのを発見した。
呪術師──呪い。
クロムは、この呪術師から何らかの『呪い』を受けたのだ。
半ば直感的にそう理解した瞬間、ルフレは自らを突き動かす衝動のままに立ち上がり、手元の魔導書にありったけの魔力を込めて、一条の雷光として解き放つ。
耳が潰れそうな轟音と共に呪術師の身を貫いた雷撃は、呪術師の命を断末魔の悲鳴を上げさせる暇すら与えずに一瞬で刈り取った。
『呪い』の多くは、術師の死を以て解けるのだとルフレはサーリャから聞いた事があった。
クロムの身を蝕む『呪い』がそうであれば良いのだが……。
そう思いながらルフレはクロムへと振り返ったのだが、そこにクロムの姿は無かった。
「えっ──!?」
クロムが身に付けていた衣服だけが地に落ちていて、クロムは何処にも居ない。
しかしよく見ると、マントが妙に膨らみモゾモゾと動いている。
「クロム……?」
そう声を掛けて恐る恐る地に落ちた服に近付き、その下を覗き込んだそこには。
……一匹の狼が服の中に埋もれる様にしてもがいていた。
その毛並みの色が、ルフレを見て驚いた様に見開かれた目の色が。
強烈にクロムの姿を想起させる。
そんな事は有り得ないと、そんな訳ないと、そう心の中で叫びつつ、ルフレは恐る恐るその狼に訊ねた。
「……あなた、もしかして、クロムなの……?」
返ってきたのは、「ガウッ!」と言う紛れもない狼の鳴き声で。
だが、そう鳴いた瞬間に狼が呆然とした様な顔をし、次の瞬間何かを訴える様に吠えたててきた。
しかし、何れ程吠えてもルフレには狼の吠え声にしか聞こえないし、それは狼も理解したのだろう。
狼は吠える事を止め、呆然を通り越して何かに絶望した様な顔になった。
ルフレには未だに信じ難いが、この狼は恐らくクロムなのだろう。
『呪い』で狼の姿にされるなどと言う事が有り得るのかはルフレには分からないし、出来れば夢であって欲しいのだが、この狼には確かに獣とは違う知性を感じるし、この狼からクロムの気配を感じるのだ。
混乱しながらも取り敢えず、ルフレは狼となったクロムを服から解放してやるべく脱がせ始める。
身体の形が変わってしまった所為で妙な引っ掛かり方をしていた為に脱がせるのも一筋縄ではいかなかったが、ルフレは何とか服を全て脱がせる事に成功した。
しかし、脱がせた服を手にこれからどうするべきかと途方に暮れてしまう。
先ず第一に、呪術の専門家であるサーリャに協力を仰ぐべきなのは確かだろう。
もしかしたらサーリャならあっさり解呪してくれるかもしれないし、そうでなくとも何らかの対処法を知っている可能性は高い。
しかし、直ぐにクロムを元の姿に戻せるならば良いのだが、問題はクロムに掛けられた『呪い』を解くのに時間が掛かる場合や、『呪い』を解く方法が見付からない場合だ。
それらの場合、この事をルフレとサーリャの間だけで留めておく事は不可能だろう。
少なくともフレデリクとリズ辺りにはこの事を話しておく必要がある。
場合によっては、自警団の主だった仲間達の幾人かには事情を説明しておいた方が良いのかもしれない。
だが少なくとも、一般の兵にはこの事は隠し通しておくべきであろう。
彼等が主君と仰ぐべき聖王代理が呪われて獣になってしまったなどと知られれば、どんな事態になるか想像するだに恐ろしい。
前途多難な事態に頭を悩ませ、ルフレは重く重く溜め息を吐いた。
◇◇◇◇◇◇
結論から言えば、クロムの『呪い』はサーリャでさえも直ぐ様解呪する事は出来なかった。
どうにもかなり強力かつ複雑な『呪い』であるらしく、無理に解呪しようとするとどの様な不具合が出るか分からないらしい。
何らかの特定の手順や手段を踏めば解呪出来るタイプであるらしいのだが、その手順の手懸かりすら掴めてない現状では下手に解呪するべきではないとも。
ただ、姿形こそ狼であれどその心は間違いなくクロムのそれそのままであるそうだし、これ以上悪化したりする様な『呪い』ではないのが判明した事はせめて喜ぶべきなのだろう。
サーリャは、過去の文献などから解呪の手懸かりを探してくれている。
が、少なくとも今日明日で何とか出来る様なものでも無い。
当分の間は何とかして誤魔化していくしかないのだろう。
とにかくリズとフレデリクに説明しなくては、と。
サーリャの天幕を後にしたルフレは足取りも重く二人の天幕へ向かおうとする。
が、歩き出そうとしたルフレのその服の裾にクイっと引っ張る力が加わった。
振り返ると、クロムが服の裾を軽く噛んで引き留めていた。
「クロム、どうかしたの?」
クロムと目線を合わせる様にルフレがしゃがむと、クロムは小さく鳴く。
その耳はペタンと伏せられ、尻尾は力無く垂れていた。
ルフレには今のクロムの言葉は分からないが、「すまない」とかそう言った感じの事を伝えようとしているのだろうか?
「良いのよクロム、こうなったのはあなたの所為じゃないもの。
寧ろ、クロムだって突然狼にされて混乱しているだろうし恐いだろうに、心配させちゃってゴメンなさい」
クロムの頭を撫でながらルフレはそう謝った。
クロムは、ルフレを庇って『呪い』を受けたのだ。
クロムが突き飛ばしていなければ、獣にされていたのはルフレの方だったのだろう。
半身たるクロムが呪われてしまった事に、ルフレは強い自責の念に駆られていた。
聖王代理であるクロムと、クロムの軍師とは言え元々はただの行き倒れでしかないルフレ。
クロムとルフレでは、立場も何もかもが違い過ぎる。
獣に変えられても、ルフレなら然して問題は無かっただろうに。
それなのに、ルフレはクロムに庇わせてしまったのだ。
どうしてあの呪術師に気付かなかったのか、どうして近くにクロムが居た事にもっと気を払わなかったのか。
多少なりとも冷静さを取り戻したルフレは、何度も自分を責めていた。
狼にされてしまったクロムは、当初は歩く事も覚束なかった。
今までは二本足で歩いていたのに突然四つ足の獣にされたのだ、それも当然であろう。
言葉を交わす事は出来ず、何かを喋ろうとしてもその喉から出てくるのは狼の鳴き声や吠え声だけ。
自分が自分の姿でなくなり、当たり前の様に出来ていた事が出来なくなり、そして何時元の姿に戻れるのか分からない。
物凄く怖いだろうし、強い不安を感じている事だろう。
クロムをそんな目に遭わせてしまっている事に、ルフレは強く負い目を感じざるを得なかった。
代わってあげられるのならば迷わずにルフレがその『呪い』を肩代わりするのだが、そんな事は出来ないらしい。
……尤も、ルフレが『呪い』の肩代わりを出来ないのかとサーリャに訊いた時は、サーリャがそれの是非を答える前に、クロムは怒った様に吠えていたので、それが出来たとしてもクロムが了承していなかったかもしれないが。
クロムの『呪い』を解く為ならばルフレは何でもするつもりだし、『呪い』が解けるまで全力でクロムを助けるつもりであった。
「クロム、大丈夫。
絶対に元に戻れるから」
希望的観測の様な言葉に聞こえるかもしれないが、それがルフレの本心である。
ルフレはクロムの為ならば、文字通り『何でも』する覚悟があるからだ。
方々の呪術師を訪ね回ってでも、クロムの『呪い』を解かせる覚悟があった。
そんなルフレの覚悟を感じ取ったのだろうか?
クロムはまた小さく鳴いてフワリと尾を揺らす。
……クロムの声が聞けない事が、ルフレには無性に寂しく感じられた。
◆◆◆◆◆◆
何時からか、クロムは気が付けば何時もルフレを目で追う様になっていた。
戦場を共に駆ける時には何時も自然と背中を預けていて。
誰一人として犠牲を出さないように必死に戦術を練るルフレのその横顔をずっとクロムは見詰めていた。
クロムの傍には、何時だってルフレが居たのだ。
思い返せば、ルフレと出会ってからのクロムの思い出の殆どがルフレとのモノであった。
最初は、過去の記憶を全て喪ってしまったルフレが心配だったのだ。
まるで産まれたばかりの雛鳥が必死に親鳥の後を追い掛けようとしているかの様な、そんなルフレの姿を見て、クロムが放っておける筈は無かった。
しかしルフレが傍に居る事が『当たり前』になった頃、自分でももう何が切っ掛けかも思い出せない程にふとした拍子に。
そうではないのだと……自分がルフレに向けている眼差しは、決して庇護欲だけから来るモノではないのだと、気付いてしまったのだ。
守ってやりたいと言う気持ちは当然あって、でもそれは幼子へと向けるような庇護の感情ではなく。
然りとて、仲間へと向ける想いや家族に向ける想いとも違う。
時に激しく胸を焦がす様な焼け付く痛みすらをも伴うその想いを、未だかつて抱いた事が無かったクロムは、その想いを自覚した途端大いに戸惑った。
その感情を近しい言葉で表現するのであれば、恋情であるのだろうけれども。
それは、それまでうっすらと思い描いていた様な『恋』なんて綺麗な感情とは程遠くて。
初めて懐いた執着にも似た感情に、クロムは大いに振り回された。
ルフレが男女問わず自分以外の誰かと時間を過ごしているのを見ると、心の内に名状し難くも何処かどろりとした感情が生まれて。
だがそんな澱の様な感情も、ルフレの微笑み一つで溶けて消えるのだ。
きっとルフレは、クロムのそんな変化に気付いてないのだろうけれど。
しかし、ある時……クロムにとって誰よりも大切な家族であった姉エメリナを喪った時を境として、ルフレはクロムとの間に線を引く様になっていた。
“半身”だと誓い合った筈なのに、その心の距離は、以前よりも遠くなってしまったかの様にすら……。
勿論、ルフレはクロムの軍師として、クロムの“半身”として、全力でクロムを支え導いてくれている。
しかし、その微笑みには何時しかほんの僅かだが消えぬ翳りが差す様になり、ほんの少し手を伸ばせばそこにあった筈の温もりが遠くなった。
それでも、ルフレを諦める事なんて出来なくて。
クロムはずっと、ルフレを見詰め続けていた。
だからこそ。
ルフレを狙うその呪術師に気付けたのも、そしてルフレがまだその呪術師の存在に気付けていない事を察せたのも、ルフレをずっと見詰め続けていたから訪れた、奇跡とも言える必然だったのだろう……。
「ルフレっ!!」
ルフレを狙う呪術師に気付いた瞬間、クロムは咄嗟にルフレを庇う様に突き飛ばした。
だがそれとほぼ同時に、魂を直接掴まれているかの様な筆舌に尽くし難く悍ましい感覚がクロムを襲う。
息をする事すらも苦しくて、まるで獣の唸り声の様な意味を成さない音が喉から溢れ。
堪らずに地に倒れ、全身を襲う痛みと不快感からもがく様に指先で地を掻いた。
目を開けている事すら出来ずに固く目を瞑って全身を襲う痛みと戦っていると、ふとした瞬間に先程までの悍ましさが幻であったかの様に身体が楽になる。
まだ吐息は少し荒いがそれでも楽に息をする事が出来る様になり、ようやっとクロムは目を開けた。
が、何も見えなかった。
いや、正確には視界一杯に青と白の布地が広がっていたのだ。
一体何が起きているのか理解出来ないまま、とにかくこの状態を脱しようともがいてみるが、どうにも身体が上手いこと動かない。
訳も分からずパニックになりかけていると。
「クロム……?」
と少し訝しむ様な声と共に、布地が退けられてルフレの顔がクロムを覗きこんできた。
何だか妙にルフレを大きく感じるが……。
「……あなた、もしかして、クロムなの……?」
恐る恐ると、信じられないとでも言いたげな顔でルフレは訊ねてくる。
そんな訳の分からないルフレの言葉に、『勿論だ、ルフレ』と返事をした筈だった。
だが。
「ガウッ!」
クロムの口から出てきたのは、到底言葉とは言えるモノではなくて。
何をどう聞き間違えたのだとしても、獣の吠え声の様な音だった。
ちゃんとルフレと名を呼んだ筈なのに、どうして獣の……狼が吠えた様な声になるのだ。
一瞬呆然としたクロムは、慌ててルフレへと必死に訴えかけた。
『ルフレ、俺の身に一体何が起きているんだ?
俺には何が何だか分からないんだ』
だが何れ程必死にクロムが言葉を並べても、その口から出てくるのは人の言葉とは程遠い獣の鳴き声だったのだ。
喋れなくなっている事を理解したクロムは、あまりの衝撃に絶句する。
「あの、えっと、取り敢えずあなたがクロムなのは確かみたいね……、俄には信じ難いけど……。
とにかく、一旦服を脱がさないといけないわね。
身体が引っ掛かって動けなくなってるし……」
ルフレ自身も混乱した様な表情で、それでも何とか四苦八苦しながらもクロムの身体を拘束する形になってしまっている服を取り除いてくれた。
そして漸く自由に動ける様になったのだが、クロムとしては現状が到底自由であるとは言い難い。
立つ事は出来ず四つん這いの様な姿勢しか取れないが、その状態が苦ではない。
自分の手はどう見ても獣の前足と化しているし、振り返れば獣の尾が揺れている。
ルフレが慌てて懐から取り出して見せてくれた小さな手鏡には、自分の姿ではなく、一匹の深蒼色の毛並みの狼が映っていた。
驚いた様に耳をピンッと立てているその狼は、クロムが恐々と動いた通りの動きを鏡の中でしてみせる。
……どう考えても、この狼が自分であるのだろう。
あまりもの衝撃と混乱から、訳も分からずその場をウロウロと意味もなく歩き回ってしまうが、そもそも四つ足で歩く事に馴れている筈も無くて、その足取りは生まれたての小鹿よりも覚束無いものだ。
困惑するあまり、「クゥ……」と無意識に溜め息ではなく鳴き声が溢れた。
何を伝えようとしても、狼となってしまったクロムの口からは獣の鳴き声しか出てこないのだ。
頭の中身まで獣になっている訳ではないのでルフレからの問い掛けに頷いたりなどと何らかの反応を返す事は出来るのだが、クロムから何かを伝える術は殆ど無い。
話せない事がこれ程までに苦痛であるとは……。
「とにかく、サーリャに診て貰うしか無いわね……。
サーリャの天幕まで行こうと思うんだけど……大丈夫?歩ける?」
そう言って気遣ってくるルフレに、大丈夫だと頷いて返した。
流石に走ったりするのはまだ難しいが、ウロウロする内に歩き方に関しては何となくコツが掴めてきたので、少しぎこちないが移動する分には問題ない。
これからどうなるのか、どうすれば良いのか。
不安に苛まれながら、クロムとルフレは人目を忍ぶ様にしてサーリャのもとへと向かったのであった。
◇◇◇◇
サーリャは狼となったクロムを見るなり直ぐ様それがクロムであると気が付いた。
呪術の心得は無いクロムにはよく分からないが、魂がクロムのそれその物であった為直ぐに分かったそうだ。
が、クロムの姿を歪めてしまっている呪術に関しては、その場で解呪する事は不可能だと告げられてしまった。
曰く、身体その物を大きく変化させる様な強力な呪術は、無理に力技で解こうとすると、魂や心にまで傷を付けてしまったり、却って身体を歪めてしまうモノなのだそうだ。
然るべき時に然るべき手段で正攻法で解呪するのが最善であるのだと、サーリャは説明してくれた。
人を獣にする様な邪法は古くから存在こそしているものの、それが使われた例は極めて少なく文献もあまり残っていないが為にサーリャにもその解呪方法に関してはまだ分からないが、何とかしてその手懸かりを掴む事を約束してくれた。
が、そんな中、ルフレがとんでもない事を言い出したのだ。
「クロムに掛けられた『呪い』を、あたしが肩代わりする事って……出来るかしら?」
突然何を、とクロムもサーリャも驚いてルフレを見ると。
ルフレは思い詰める様な表情で言葉を続けた。
「『呪い』を解呪するのではなく、別の対象に移す方法があるって……聞いた事があるの。
身代わりとか肩代わり……とも言うのかもしれないけど。
ねえ、サーリャ、お願いがあるの。
クロムに掛けられたこの『呪い』を、あたしに肩代わりさせて」
迷い無くそう言い切ったルフレに、クロムは思わず反射的に『何を言っているんだ!』と言い返した。
それは言葉ではなく獣の吼える声にしかならなかったが、それでもこちらの意図は伝わったのだろう。
ルフレは、驚いた様にクロムを見詰めた。
『呪いの肩代わりなぞ、俺は絶対にそんな事は許さんぞ!
それで俺がこの呪いから解放されたとしても、今度はお前が獣になるんだぞ!?
サーリャが首を縦に振ろうが、絶対に俺はそれだけは認めんからなっ!!』
きっとその詳細な内容は伝わらなかっただろうけれど、クロムの剣幕にルフレはおろおろと狼狽えながら「クロム?」と呟く。
そんなルフレとクロムを見て、サーリャは一つ深い溜め息を吐いた。
「ルフレの頼みでも、それは無理ね……。
こんなに複雑に絡み付いた呪いは、下手に誰かに肩代わりさせようとする事の方が危険よ。
解呪する方法が見付かるまでは現状維持が一番……って所かしら。
まあ、もし技術的に可能なのだとしても……ここまで相手が拒絶している以上は無理ね」
現状は打つ手無し、と告げられたルフレは益々思い詰める様な顔になった。
そしてサーリャへの礼の言葉もそこそこに、そのまま何処かふらふらとした足取りで天幕を後にする。
そんなルフレを放っておける筈など無くて。
伝えられる言葉など今のクロムには無いのだとしても、『ルフレの所為ではないのだ』と、そう伝えてやりたくて。
クロムは、ルフレのコートの裾を軽く噛んで引っ張った。
その力が伝わった途端、何かを伝えようとしているクロムの意図を察し、ルフレは振り返ってクロムと目線を合わせる様にしゃがんでくれる。
「クロム、どうかしたの?」
眉間の皺は少し減ったが、それでもまだ自分を追い詰める様な焦燥の色がルフレのその瞳には色濃く映っていて。
『ルフレ、お前の所為じゃない。
そんなに思い詰めないでくれ』
だがその想いは言葉にはならず、小さな鳴き声にしかならなかった。
分かってはいるけれど、それが哀しくて。
意識とはまた別に、耳はぺたりと折れ、尾は力無く揺れる。
何の意図を汲み取ったのかは分からないが、クロムの様子にルフレは力無く微笑んだ。
そして、優しくクロムの頭へと手をやり、そっと撫でてくる。
「良いのよクロム、こうなったのはあなたの所為じゃないもの。
寧ろ、クロムだって突然狼にされて混乱しているだろうし恐いだろうに、心配させちゃってゴメンなさい」
そうやって謝ってくるその言葉に、『違う』のだと、そう返せれば良いのに。
だが、きっとその言葉も伝わらないのだろう。
思い詰めるルフレを慰める言葉一つも伝えられない事がどうしようもなく哀しいのに、ルフレの手の優しさと温かさに思わず目を細めてしまう。
「クロム、大丈夫。
絶対に元に戻れるから」
絶対に戻してみせるから、とそう言外に語るルフレのその眼差しに、『ルフレ』とクロムは小さく呼び掛ける。
だがその言葉も、やはりルフレには届いていないのであった。
◇◇◇◇◇◇