◆◆◆◆◆
数日経っても解呪方法は未だ見付からず、とうとう明日には王都に帰り着いてしまう。
最早この獣の身体にも慣れたもので、今となっては元の姿よりも遥かに素早く動ける位だし、ルフレとの不思議な共同生活にも慣れてきた。
相変わらず思い詰める様な表情をしている事が多いルフレだが、そんなルフレを励まそうとしてか、馬車での道中で共に過ごす時にはリズが何かとちょっかいをかけていて、それによって多少は張り詰めていたその意識も適度に緩んでいた。
…………まあ、その時にリズがやたら狼の姿となったクロムで遊ぼうとするのは少々悩みの種ではあるのだが。
そりゃあ中身は元のクロムのままなのだし、普通の犬や動物にやれば威嚇されそうな事をやられてもそこは我慢するのだけれども。
揉みくちゃにされたり、ひたすら肉球を触られたり、耳を弄られたりするのはあまり嬉しくは無い。
……多分それは、リズまで悲壮な雰囲気で居ると益々ルフレが思い詰めてしまうしクロムも気分が沈み込んでしまうから、敢えて悪戯する様にしているのだろうけれども。
揉みくちゃにされて毛並みがボサボサになったクロムを見かねてか、ルフレは空いた時間でクロムにブラッシングを施してくれるようになっていた。
最初の内こそ少々危うい手付きであったが、直ぐにコツを掴んだらしくどんどんとその腕は上達していて。
今となっては、あまりの心地好さにブラッシング中に眠くなってくる程である。
正直な所人間として毛繕いされて喜ぶのはどうなのかとは思わなくはないのだが、今の身体は狼なのだからその辺りは仕方がないのだしルフレの厚意は素直に受け取るべきであるとクロムは割り切っていた。
ルフレと言えば。
どうやら悪夢に魘されるのはあの日の夜だけではなく、少なくともクロムが夜を共にする様になってからは連日何かしらの悪夢に苛まれていた。
恐らくは、クロムが知らなかっただけで、ずっとこうだったのだろう……。
悪夢に苛まれてろくに眠れないから、ルフレはああも寝不足がちだったのだろうか……。
ずっとルフレの事を見ていたのに気付いてやれなかった悔しさを懐くと同時に。
きっと他人には隠そうとしてきたそれらを、不測の事態があったからとは言え、こうしてクロムだけにはその苦しみの片鱗を僅かながらも垣間見させてくれている事への、言葉には言い表し難いほの暗い喜びと優越感が綯い交ぜになった複雑な感情を懐いてしまう。
……まあ、ルフレへの恋心と執着心によって複雑な様相を呈しているクロムの心中は捨て置いて。
毎夜の如く悪夢に魘されているルフレだが、どうやらクロムが寄り添っているとその苦しみも多少は軽減されるらしい。
その為、クロムはルフレが悪夢に魘されていると必ず触れ合う様にして寄り添って眠る事にしている。
悪夢に魘されてから寄り添うよりも最初から寄り添って寝れば良い話なのだけれども、クロムがそうしようとするとルフレは遠慮してしまってそもそも寝ようともしてくれなくなるので、若干不本意ではあるのだがルフレが魘され始めてから寄り添う様にしているのだった。
……尚、そうするとほぼ確実にルフレに朝まで抱き枕にされてしまう。
……寝ている中での無意識の行動なのだろうし、他意は無いのだろうけれど。
それでもやはり、特別に想っている相手から(狼の姿であるとは言え)全力で抱き締められるのは、クロムとしては色々と思ってしまう訳なのだ。
抱き締められるのなら狼の姿ではなく元の人間の姿の時が良いとか、悪夢に魘されているルフレを抱き締めてやりたいとか。
……まあ、元の姿に戻ったなら、恋人や夫婦になりでもしない限りはこうしてルフレと共に夜を過ごすと言う事も出来なくなるのだろうけれど……。
それを思うと、クロムは憂鬱な気持ちになってしまう。
何時しか線を引かれてしまったかの様に離れてしまったルフレの心や想いに、こうして僅かばかりでも寄り添う事が出来ているのは、それがこの身が呪われてしまったが故とは言えども、何にも代え難い程にクロムにとっては尊い時間であった。
無論、このままで良い訳なんて一つも無い。
人に戻れなければ、ルフレへこの想いを告げる事すらも叶わないのだから。
しかし、人に戻ってしまえば、またルフレが離れてしまうのではないかと、そんな不安がどうしても付き纏ってしまう。
一刻も早く呪いを解いて元の人の姿に戻りたいと切実に願う一方、ほんの少しだけだが、今のこの奇妙なルフレとの時間がずっと続けば良いのに……ともクロムは心の片隅で思ってしまっていた。
◇◇◇◇◇
「やっぱり……妙ね……」
外は既に日が沈み、深い夜の闇が静かに世界を覆っている。
手にしていた古びた書物を閉じ、サーリャは何かを思案する様に口元に手を当てて黙りこんだ。
「妙って、何が?」
クロムと共に『呪い』についてサーリャの話を聞いていたルフレが、先を促す様に訊ねる。
ルフレの問いに、サーリャは黒曜石の様な瞳に僅かに憂慮の色を浮かべつつ答えた。
「そもそも、どうしてこの『呪い』を掛けたのか……と言う事がどうしても引っ掛かるわ……。
一般的な魔法と違って、『呪術』には特別な材料や儀式が必要になるのよ……。
それが古く強力な呪いである程、より複雑で難しくなるわ……。
人を獣にする程にその身体を歪めてしまう『呪い』なんて、儀式自体が難解過ぎて、余程の事が無ければ使おうとすら思わない程のものよ……」
単純に相手を害したいだけならばもっと簡便な『呪い』など幾らでもあるのに、とサーリャは呟く。
クロムには呪術の類いはさっぱり分からないが、確かに、人を獣にする『呪い』なんかよりももっと手軽にかつ直接的に相手を害せる呪いがあるのなら、どうして態々こんな『呪い』を使ったのかはどうにも引っ掛かる。
「敢えてこんな『呪い』を使った意図が、何処かにある筈だと……?」
「そんな所ね……。
……こんな『呪い』を引っ張り出してくるなんて、相当の『悪意』が無ければ出来ない事でしょうけれど……」
『悪意』と言われて思わずクロムは首を傾げてしまった。
人を害する『呪い』に『悪意』なんて付き物だろうに。
この『呪い』は態々サーリャが『相当』なんて形容する程の……そんな『悪意』ある『呪い』なのだろうか、と。
直接的に人を死に至らしめたりする様な『呪い』の方が、もっと質が悪いものなのではないかと思うのだが。
そんな風にクロムが不思議そうにしているからか、サーリャは小さく溜め息を吐いた。
「人を人の面影すら無くなる程にその身を歪めて獣に堕とす様な『呪い』は、数ある『呪い』の中でもとびっきりに質が悪いものの部類よ……。
人を人たらしめるモノを奪い、それでいて心だけは元の人のまま……。
あなたの場合はルフレが傍に居たし直ぐに気付いてくれたから良いものの、そうでなくては誰もあなたがあなたであると気付けなかった可能性の方が高いのよ?
心はあなたのままなのに、誰にもそれに気付いてすらもらえずに獣と同じ扱いを受け続け、あなたである事を否定され続ける……。
そんな事になったら、簡単に歪んでしまえる人の心がどうなってしまうのかなんて火を見るよりも明らかだわ……。
それは単に殺傷するよりも、余程残酷な事じゃないかしら……?」
サーリャの言葉に、思わずそうなった時の事を考えてしまい、クロムは怖気立つ程の恐怖を感じた。
誰にも、ルフレにも気付いて貰えず、獣として扱われ続ける……。
姿が見えなくなったクロムを探し続けるルフレに、自分はここに居るのだと訴えても何一つ伝わらない。
それ所か、狼の身であるが故に、人々を害する獣として追われてしまう事すら有り得る。
誰も彼もに『クロム』としてではなくただの狼として扱われ続けていたら、何時しかクロムも自分自身を見失い狂ってただの獣に堕ちてしまっていたであろう……。
思わず身震いしたクロムの身体を、半ば無意識にと言った風にギュッと抱き締めてきたルフレの身体も、似た様な想像をしてしまったのか抑えようもなく震えていた。
成る程、確かにこの『呪い』は飛びっきり質が悪いものだろう。
人の心が残されている事すら、『悪意』によるものなのだから。
クロムは、重ね重ね最初にルフレが気付いてくれた事に感謝した。
そしてふと気掛かりな事に思い至り、思わず小さく唸ってしまう。
実際に『呪い』を受けたのはクロムであるが、この『呪い』は元々はルフレを狙っていたものだ。
ならば、ルフレはこんな並外れた“悪意”を、あの術者に懐かれていたのだろうか……?
「この『呪い』はそもそもルフレを狙っていたもの……。
……術者個人がルフレに悪意を懐いてそうしていたのなら、もう既に術者が死んでいる事もあってこれ以上の害は無いわ……。
でも、もし……。
この『呪い』が別の誰かからの差し金なら……」
術者が何者かの依頼を受けてルフレを呪おうとしていたのなら、こんな『悪意』をルフレにぶつけようとしていた『何者か』はまだ何処かに居る事になる。
ならば、また狙われるかもしれない……と言う事か。
居るかどうかも分からない『ルフレを狙う何者か』を想像するだけで、クロムはそいつを八つ裂きにしてしまいたくなる程に怒りを覚え無意識にも唸ってしまう。
そして心から、この『呪い』を受けたのがルフレでなくて良かった、と思った。
ルフレにそんな苦しみを受けさせなかった事は、間違いなくクロムにとって誇れる事である。
しかし、ルフレにとっては──
「そんな……。
あたしが……あたしが恨まれていた所為で、クロムが……。
あたし、あたしの、所為で……」
顔色を青褪めさせ、呻く様にぶつぶつと呟くルフレのその焦点は、何処か遠い所に結ばれていた。
サーリャが呼び掛けても返事はなく、その思考は何処かに囚われているかの様で……。
驚き慌てる事はあっても何時も何処か冷静に物事を考えているルフレがこうも取り乱すのは尋常な事ではない。
『ルフレ』
そう呼び掛けながら前足でその身体を軽く揺すっていると、次第にその視線はクロムへと向けられる。
しかしその瞳には、恐怖と不安と後悔が濁り降り積もった澱の様に浮かんでいて。
クロムを見ているのに、それでも何処か遠くに焦点を彷徨わせているその瞳は、クロムを通して別の誰かを見ているかの様で。
それはまるで、夜毎悪夢に魘されている時のそれの様相を呈していた。
『ルフレ、しっかりしろ!
それはお前の所為じゃない!
お前を恨み、呪ってきた奴の責任だ……!
俺はここに居る! お前の傍に居る!
俺は、お前を置いて何処にも行ったりなんかしない……!』
きっと伝えようとしていた言葉のほんの一割も伝わっていないだろうけれど。
それでも、ルフレの目は確かに、今目の前に居るクロムへと焦点を結ぶ。
「クロム……」
しかしその目には変わらずに苦悶の翳りがさしていて。
震える声には、深い苦悩が滲んでいた。
「ごめん、サーリャ……。
今日は、もう……」
そう断ってから椅子から立ち上がり天幕を後にしようとするルフレを慌ててクロムは追い掛ける。
そんな二人を、サーリャは何時までも黙したまま見送っていたのであった……。
◆◆◆◆◆
クロムが心配そうに着いてきているのは気付いていたが、しかし今のルフレにはそれに気を配っている余裕は無かった。
自分の天幕に戻る気にもなれず、ルフレは野営地を離れ、独り人気のない森へと向かう。
今はとにかく一人になりたかった。
心配して傍に居ようとしてくれるクロムの優しさすら、今のルフレには鋭い剣で胸を切り裂かれた様な痛みを与えるのだ。
自分を撒こうとしているルフレの意図に気付いたからか、森を彷徨い歩く内にクロムの気配が後を着けてくる事は無くなった。
それでも、少しでもクロムや皆から離れていたくて。
薄暗い森の中を走って、走って……野営地からの明かりや物音が一切届かない程遠くにあった大きな岩陰に逃げる様に辿り着いた。
そして、その岩に凭れる様に倒れかかり、ズルズルと地面に膝をついて座り込む。
「うっ……うぅっ……」
目からボロボロと熱い滴が絶えること無く零れ落ち、視界を滲ませた。
聞いている人など誰も居やしないのだから、もっと声を上げて泣いてもよいのかもしれないけれど。
そもそもルフレは『泣く』事に慣れていなかったのだ。
軍師としてクロムと共に皆を引っ張る役目があったルフレには、どんなに苦しくても悲しくても、仲間達に動揺を与えない為にもそれを胸の中で押し殺す必要があった。
エメリナ様の時だって、どうしようも無い程に辛く苦しく哀しかったけれども。
皆を率いて圧倒的不利な状況の中で撤退戦を乗り越えなくてはならなかったルフレには、涙を見せる暇など一切赦されていなかったのだ。
……ルフレには、『泣き方』と言うものがよく分からなかった。
勿論軍師として戦場を征く以上、ルフレは色んな人々の涙を見てきた。
初めて人を殺した兵がその事実に耐え切れず嘔吐しながら溢す涙も。
帰らぬ人となった戦友の骸を抱き締めて慟哭する兵士の涙も。
手の施し様が無い致命傷を負った兵が、死への恐怖に震えながら「死にたくない」と溢す涙も。
人々が哀しみや苦しみに溢す涙を、ルフレは沢山見てきたのだけれども。
それでもルフレには、よく分からなかったのだ。
どんなに辛くても苦しくても哀しくても。
涙が零れ落ちた事など、無かったのだから。
それは、過去の記憶の一切を喪ってしまった事による思わぬ弊害であったのかもしれない。
だけれども、クロムの軍師として泣けない事で何かしらの支障を来した事はなかったが為に、それを問題として受け止める事が無かったのだ。
でも、今。
自覚している限りでは、初めて。
ルフレは、泣いていた。
「クロム……」
大切な……何よりも大切な人。
自分の全てよりもずっと“価値”がある、誰よりも『特別』で、自分の全てを捧げたって何一つとして後悔は無い位に大切な、譲れないたった一人。
誰よりも、愛している人。
傍に居たかった、その力になりたかった。
だからずっと、軍師として、半身として、共にここまでやって来た。
けれども。
自分の存在が、クロムに禍をもたらしてしまったのなら。
自分の所為で、場合によってはただ死ぬよりも残酷な目に遭わせてしまったのなら。
それなら、もう。
自分は、彼の傍に居てはならない。
クロムを愛し想い慕い傍に居たいと願う心とは裏腹に、何時だってルフレの心の片隅には『ここに居てはいけない』と言う思いがあった。
夜毎に見る絶望の果ての様な悪夢が、『何時か自分はクロムに死をもたらしてしまう』のだと、そう心に幾度も訴えかけていたのだから。
それだけではない。
ルフレは、自分の存在が貴族や高官達から疎まれている事に気が付いていた。
身元の保証も出来ない、記憶喪失を自称する流浪の軍師。
幾度もの戦で策を練り、自らも剣を手に多くの血を浴びてきた者。
血筋を尊び、エメリナの政策の意向もあって血生臭い者を善しとはしない貴族や高官達がルフレを拒絶するのも致し方が無い事であった。
それに加え、ルフレは女だ。
どうしたって、クロムに取り入ろうとしているのではないかと勘繰られたり、娘をクロムの后にと望む貴族達からは一際疎ましく思われていた。
心無い言葉や罵声を浴びせかけられた事は一度や二度では無い。
それでも、離れ難くて。
クロムがくれた居場所を手離す事が出来なくて。
クロムが求めてくれているのだから、と。
まだ、クロムの為に軍師としての力が必要なのだから、と。
何時かクロムの元を離れなくてはならない時が来るのだとしても、それは『今』ではないのだ、と。
そう自分に言い訳を重ねて、ここまで来てしまったけれど。
そんな自分の弱さが、クロムを苦しめてしまったと言うのならば。
そして、その弱さが何時かクロムの命を奪うと言うのならば。
もう、自分がクロムの傍に居て良い理由なんて、何処にも無い。
元より、既にペレジアとの戦争は終わったのだ。
国内の治安はまだ完全には回復しきってはいないとは言え、もう軍師を必要とする様な事も無い。
これからこの国に、クロムに必要なのは、内政を任せられる官吏達である。
…………もう、『軍師』ルフレには、居る意味がないのだ。
ならばこそ、今が潮時と言うモノなのだろう。
クロムの『呪い』が解け、それを見届けたら。
この国を、クロムの元を去ろう。
そして、遠く離れた地で、クロムの幸せを願おう。
……そうするべきだと、そうしなくてはならないのだと、そう思うのに。
クロムから離れると決めただけで、ルフレの胸はズタズタに切り裂かれた様に痛む。
目に見えない傷口から血が溢れ出ているかの様に、身も心も凍り付いた様に熱を失っていく。
息を吸う事すら苦しくて、それでも喘ぐ様にクロムの名を溢す。
頬を伝い流れる滴は、まるで土砂降りの雨に打たれているかの様に途絶える事を知らない。
自分の心全てを吐き出す様に慟哭するルフレの姿を、月明かりだけが寂しく照らしていた……。
◆◆◆◆◆