持論です。自分の考えを書きなぐったかんじです。

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死への誘い

なんと甘美で、危険な響だろう。生きている間、生物は常に精神を有し、常に孤独で居るのだ。その孤独が、生きている間、癒えることは絶対に無いのだ。だが、死を乗り越えれば、つまり、生を失えば、精神がどうなるのかは分からないが、とりあえず生物だった物の肉体は、全て単なる「物」へとなる事ができる。「物」となる事で、人間も、猫も、猿も、魚も、生を持っていない岩石、海、空気、宇宙、と1つになる事ができるのだ。全てと1つになり、絶対に孤独になることはないのだ。生きている間、例えば次の日の課題に追われていても、例えば不治の病に苦しんでいても、例えば金が無くなり万事休すになっていても、その全てから解放されるのだ。どんな物も、失ってから輝きを放ち始めるのだ。全ての物は、滅びゆく時に輝くのだ。なぜなら、滅ぶ時こそ、全てから解放された、まるで永らく手首に縛られていたキツい縄を解かれた、無実の囚人のように、全てから解き放たれたという喜びに満ち溢れているからだ。だからこそ、死は甘美なのである。

だが、死は危険である。生物として、自ら死を選ぶのは、恐らく人間だけであろう。生物として、生を受けた物として、死が来るのは必然であるが、自ら死を選ぶのは、生を受けた物、すなわち生物として失格である。だが、こうは言えないだろうか。自ら死を選ぶ覚悟をした、その時の人間の顔こそ、もっとも人間らしい顔ではないかと。もっとも人間の輝きを、心の生物「人間」として、もっともな顔ではないかと。その顔は狂喜に満ちているだろう。狂い、喜ぶ、自殺という言葉と、狂喜という言葉は、なぜこうも似ているのだろうか。しかし、結局自殺をするのは狂気の沙汰だ。精神の生物だろうと、生物として、自ら死を選ぶのは狂気だ。私が思うに、人間は狂気に惹かれる生物なのだろう。それは、精神があるからこそ、例えば磁極のN極とS極の様に、精神と狂気は、惹かれあってしまうのだ。先程生物は孤独だ。とあったが、これもその為である。N極とN極は反発し合ってしまうのだ。どれだけ近づこうとも。勿論狂気も反発し合う。どれだけ狂気の度合いが違くとも。

 

このような愚かで適当で全てを諦めたような考えは、恐らく、誰かに受け入れられる事は無いだろう。むしろ受け入れられない事を私は望む。この考えを容易く受け入れられてしまう様な世界になど、生きている意味はそれこそない。結局死というのは、基本的に、他人から見ればただの悲しい物質化でしかないのだ。



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