ターフの魔術師   作:スーミン・アルデンテ

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第9話:追い切り

 七夕賞まで残り10日を数えたこの日、梅雨は後ろ髪をひかれることなく去ったと発表された。明けは例年より早く、雲のない快晴でもって文月は始まりを告げる。

 高く上った太陽は足下をギラギラと照りつけ、この日の最高気温は30℃を記録した。トレーニングには厳しい季節である。拭ったそばから汗が噴き出し、目蓋を流れ落ちては視界を邪魔する。

 マックイーンは今日、3回目の手水を行なっていた。冷たい水は火照った身体に覿面で、濡らした手を首筋にあてると、天にも昇るような心地良さに包まれた。幾分か暑さを和らげると、拝殿へと足を運ぶ。彼女は設備を使うだけ使って寮に帰るほど図太くはなかったし、なにより神仏を疎かにしたせいで久々のレースに負けた、と後から思うのは沽券にかかわる。

 生憎、賽銭をするのはいつも最初の一回のみだったが、願う気持ちは人一倍強いという自負があった。

 

(万事つつがなく済みますように)

 

 祈ることはいつも同じであった。自分のことだけではない。対象には彼女のトレーナーであるヤンも含まれている。彼も最近は奔走しているらしく、練習が終わると足早に去る。さらには時たま商店街で見かけることもあった。本屋に入り浸っているようで、

 

「一度に10冊も本を買ったらしいけど、大丈夫? おたくのトレーナー、今さらアンタを放ったらかして読書に夢中になってたり? 」

 

 と、ネイチャから非難めいた報告を受けた。本のジャンルを尋ねると、ウマ娘についての基本的な知識が書かれた一般向けのものが多い。

 

「ヤントレーナーなりに頑張っていらっしゃるのですわ。最近は私のトレーニングのあとも部屋に残って作業しているようですから」

 

 当事者が弁護にまわったからか、ネイチャはそれ以上追及してこなかった。しかし、彼女の生来の心配性は治らないらしく、機会を見ては自主トレを共にすることを提案した。マックイーンはやんわり断るつもりだったが、ネイチャの押しの強さを前に粘りきれず、結局は負けた。

 が、やはり断っておくべきだったかもしれない。この階段は初心者に優しくなく、ネイチャは5本目の途中から明らかに足が鈍っていた。

 

「はあ、やっと着いた。休憩」

 

 ようやくの思いで6回目の登頂を果たしたネイチャは石畳にヘタレ込んだ。ボトルを手に取り、麦茶を流し込むものの、真夏日の空気の下に放置していたからか、彼女の喉の渇きは満たされなかった。

 一方のマックイーンは参拝を終え、息が整ったところで、ちょうどネイチャと入れ違いになるように下りの途につこうとしていた。

 

「では、お先にネイチャ」

「うん、すぐに追いつくよ」

 

 マックイーンを見送って、ネイチャは大樹に身を寄せた。湿度が高いからか、木陰は彼女の期待したほどの心地良さではない。

 

(マックイーンはこの階段を自主トレの度に10本もやるんだ。すごいなぁ…)

 

 去年のジュニア・トゥインクルで彼女は重賞4勝。前トレーナーさえ壮健であれば、一年生ながらGⅠ を獲っていたかもしれない。一方のネイチャはGⅢに3回出場し、いつも良いところまで行くものの、まだ勝利はなかった。

 

(やっぱり役者が違うのかな……)

 

 石畳に目をやると、先ほど下っていったマックイーンの姿が浮かんだ。名家の教育が抑え込んでいるが、彼女の本質は猪突猛進で、そのくせこれと決めたらテコでも動かぬ芯の強さがあった。かつてのスイーツ管理が良い傍証だろう。彼女は我慢すれば報われる、と無邪気に信じてヤンに促されるまでのあいだ徹底して止めようとすらしなかった。

 その偏執ぶりが今はトレーニングに向いている。一途に努力を重ね、七夕賞の勝利、そしてさらにその先の天皇賞制覇を見据えている。彼女にとっては毎日が目的達成の手段であり、それに対して自己を最大限沿わせてきた。

 

(私はそこまでして、負けてたっけ? )

 

 答えは否である。勝利を望んでいたものの、それは消極的な選択の結果だった。どうせ出るのなら、勝った方がいい。その程度のものであった。

 

「もういっちょ頑張ってみますか」

 

 疲れた身体に鞭打ってネイチャは先ほど来た道を戻り始めた。マックイーンはすでに一つ目の踊り場を過ぎている。

 

「今行くよ、マックイーン」

 

 誰に聞かせるわけでもなく、一人呟き自らを奮い立たせた。

 が、気持ちの強さは疲労とは相関しないらしい。マックイーンと更衣室の前で別れたあと、彼女は一心にトレーナー棟を目指していた。目当ての部屋の前まで来ると、ノックもおざなりに扉を開ける。

 

「どうかしましたか? ネイチャ」

 

 優しく声をかけて来たのは彼女のトレーナー、南坂。去年は専属トレーナーだったが、今年になって彼のスカウトに応じるウマ娘がちらほら出てきたため、今はチーム『カノープス』のトレーナーとなっている。その指導の堅実さには定評があり、ネイチャが負けるとも劣らなかったのは彼のおかげによるところが大きかった。

 

「別に、湿布取りに来ただけです。ハリキリ過ぎちゃって」

 

 そう言って物置と化したレターケースから袋を引っ張り出し、ジャージのポッケに入れる。

 

「しっかり疲れをとって下さい。明日のトレーニングに影響が出ないように」

「はーい、わかってますってば」

 

 気だるげな返事を残して部屋を後にした。もう2年目になるのに、まだ関係はぎこちない。コンビを組んでからまだ一ヶ月ほどなのに息のあったヤンとマックイーンが羨ましく感じる。

 当のヤンは南坂のとなりに部屋を構えているのだが、今は不在のようで、明かりはついていない。

 鉄階段を下り、寮へと向かおうと歩き出すと、珍しい顔に出くわした。

 

「どうしたんですか、会長さん」

「ああ、ナイスネイチャ。いや、ヤントレーナーから頼まれていた遠征届に判を押したから、渡しに行こうと思ってね」

「ヤントレーナーなら、トレーナー棟にはいませんでしたよ」

「そうか、ありがとう。これで無駄足をせずに済んだよ」

「いえいえ、お礼なんて。お安い御用ですよ」

 

 照れ笑いをする彼女に改めて感謝を伝えると、ルドルフは心当たりがあったため、旧校舎へと足を向けた。

 最上階の奥まった一室、タキオンの実験室へ入る。薬液の独特のにおいが鼻をつく。生憎、ヤンの姿は見当たらなかった。

 

「失礼する。アグネスタキオン、いるかい」

 

 わずかな静寂の後、黒いカーテンの奥から返事が聞こえた。

 

「やあやあ、会長。どうしたんだい? 旧校舎くんだりまでやって来て。まさか、レースに出ろとせっつきに来たわけではあるまいな」

「残念ながら、今日は別件だ。ヤントレーナーを探していてね。ここにいると踏んでいたんだが、アテが外れたようだ」

 

 大げさに肩をすくめて見せる。取り繕わない彼女の姿は学園内においては珍しい。だが、タキオンからすれば、ルドルフはいつもこの調子であったため、気には留めなかった。

 

「ん〜、なら私が渡しておいてあげよう」

「いや、それは遠慮するよ。これは大事な書類だからね。できれば直接渡したい」

「そういうことなら、電話して呼びつけようか?」

「頼めるかい?」

「もちろんだとも! 」

 

 言うや否や、白衣のポケットから電話を取り出し、耳に当てる。

 コール音が数回流れた後、

 

「やあやあウェンリー君、今会長が来ているんだがね。どうやらキミに渡したいものがあるそうだ。そうさ、悪いが直接渡したいらしいのでね、今すぐに来るか、それとも会長のアポを取るかしてもらいたい」

 

 いくらかのやり取りを通して、どうやらヤンがこちらに来ることで話がまとまったらしい。

 

「感謝するよ、タキオン。ところで、話は変わるんだが」

 

 その瞬間、彼女のダークブラウンの瞳が鈍った。耳を閉じなかったのは相手がルドルフで、人の心を踏み荒らす輩ではないからである。

 ルドルフは続ける。

 

「君の脚は、そんなに酷いのかい? 」

「酷いとも。走れるのはせいぜいあと一、ニ回だろう」

 

 タキオンの脚は難病に侵されている。病名は『先天性走行時筋肉硬化症』。ウマ娘特有の疾患で、急激な負荷をかけると筋肉が硬直し、力を発揮することができなくなる。この病気は別名、悪魔の病気とも呼ばれていた。それは走れば走るほど悪化するという性質からであった。さらに輪をかけて醜悪なのは、悪化すれば、その症状が全身に広がることである。根治療法は現在のところなく、対症療法が辛うじてあったが、それも気休めでしかなく、根本的な解決法はただ一つ、走らないことであった。

 それはウマ娘にとって拷問に等しい。この不条理を跳ね返すべく、タキオンは研究に身を投じた。ウマ娘について深く知るために留学し、現地でトレーナー免許も取得した。しかし、その努力虚しく解決の糸口は皆目見当がつかなかった。

 彼女はトレセン学園入学以来ターフに立ったことがない。選抜レースにも出走せず、留学して時間稼ぎをしたものの、もはや手は尽き、今に至る。

 先日のヤンの提案によって延命されたものの、チームに入れば、結局は走らねばならない。彼女の現状は贄の羊にも似ていた。いつかは分からないが、この学園にいる限り走れなくなるのは免れ得ないのだ。

 

「会長、私はもうここにいない方が良いのかもしれない」

「滅多なことを言うな、らしくないぞ」

「時々思うんだ、私は袋小路にハマっているのではないか、とね。目の前の壁があまりにも高い」

「なら、君は走りたくないのかい? 」

「そうは言っていない。私は走りたくてここに来たんだ。でも、足が言うことを聞いてくれないんだ。あんなに好きだった芝が今は私を引き摺り込む沼にしか見えない。私は…」

 

 震える彼女は拳を握りしめ、白衣にシワを刻む。

 ルドルフは胸ポケットからペンを取り出し、書類に一つ書き加えた。

 

「何をしているんだい、キミは」

「タキオン、その目で見てくると良い。実際のレースを、そしてヤン・ウェンリーの教え子の走りを。

 そして決めるんだ。自分の去就をな」

 

 静寂が空間を支配する。

 タキオンもルドルフも一言も発しない。

 ヤンがやって来るまで空気が人為的に震わされることはついぞ無かった。

 もはや言葉は尽くされたのである。




マックイーンの仕上げは上々。
アグネスタキオンを臨時のサブトレーナーとして迎え、万全の体制を整えたヤン一行は東北へ向かう。
次回、ウマ娘英雄伝説『7枠13番』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。

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