ターフの魔術師   作:スーミン・アルデンテ

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第11話:出走

 東北の地に降り立ったヤンは駅を出ると、肌に粘りつく空気に包まれた。思ったより暑いな、というのが最初の感想だった。

 それもそのはずで、東北はまだ梅雨明けしていない。南の太平洋高気圧がもたらす暖かく湿った空気が流れ込むため、一年で最も雨量の多い時期の真っ只中である。

幸いなことに今日と明日は天気が保つため、芝の状態はマックイーンにとって有利に働きそうだった。

 ふと、担当のウマ娘を見やると、明日のレースよりも額にへばりついた前髪の方が気になるらしく、格闘している。

 ホテルのロビーに入ると、気持ちの良い風が頬を撫でた。たった1分と少しのあいだ外気に触れただけだったが、生き返るような心地がした。

 フロント係は組み合わせを見て、後ろの2人が明日のレースの参加者だと察したらしい。

 部屋のカードキーを渡す際に、

 

「お二人とも、頑張ってくださいね」

 

 と、温かい言葉をかけてくれた。

 2人の反応は対照的で、マックイーンは感謝の言葉を口にして喜びを表したが、タキオンは形式上の礼をするに留まり、どこかやるせない表情だった。

 が、夕ご飯の頃にはすっかり両者の表情が入れ替わっていた。

 マックイーンの眉間には深い谷が刻まれている。それだけでなく、箸の動きがひどく鈍い。

 

「どうしたんだい? マックイーン、食べないのかい」

「ええ、少し緊張してしまって、喉を通らないのです」

「それは一大事だ。マックイーン君、今日は食べておいた方が良いよ。何せ明日はレースだろ。腹は減っては戦はできぬ、とも言うじゃないか」 

 

 食べておかねばならない、と頭ではわかっているようで、先ほどから彼女は肉豆腐に何度か箸を伸ばしているが、半分も減っていない。

 

「別に無理して食べるものじゃないさ、最後にデザートだけ食べておしまい、それなら喉を通るかもしれないから」

「ええ、そうですね。これぐらいならば」

 

 そう言ってマックイーンはラズベリーのムースに口をつけた。

 

「これならいくらでもいけそうですわ」

「なら、僕のも食べるかい? 」

「ええ……、頂きますわ」

 

 顔を赤らめて器を受け取った。サッパリとした後味だからか、先程と比べて手の動きが軽やかだった。

 が、彼女は頼んだものを食べ切れず、残りはタキオンが平らげた。

 

「さて、帰りに少し売店に寄らせてもらって良いかな? 少しお酒が欲しくてね」

 

 言った瞬間、タキオンが顔をしかめた。

 

「ウェンリー君、それは大丈夫かい? 二日酔いで寝坊などということは、よしてくれたまえよ」

「安心してくれて良いよ。幸い、僕は酒に飲まれたことはなくてね」

「それなら良いが、保険としてルームキーを一枚預かっておこう」

「ああ、助かるよ」

 

 その後、ウマ娘たちはトレーナーと別れてホテルへ向かった。

 

「申し訳ありません、タキオン先輩。ご迷惑をおかけして」

「何言ってるんだい、キミは明日の出走者だろ。むしろレースに集中して、他のことは私なりウェンリー君なりに寄りかかれば良いのさ」

「そう、ですわね。少し思い詰めてしまったようです」

 

 そのまま部屋に戻るまで会話は絶えてなかった。マックイーンはシャワーを浴びるなり、布団をかぶって寝入ってしまった。随分と神経をすり減らしているらしい。

 タキオンは先程飲み込んだ言葉を反芻していた。

 

(レースに出れるだけ幸福だよ、か。つまらない慰めだ。そんなに羨ましいのか、ターフに立つことが。私だって足が何ともなければ……)

 

 シャワーを浴びると、幾分かむしゃくしゃも共に流れ落ちていった。ドライヤーで乾かしている間に、スマホが通知を表示する。ヤンからのメッセージだった。

 

『マックイーンの調子はどうだい』

『もう寝たよ、かなり参っているらしい』

『そうか』

 

 やり取りはそれだけであった。タキオンは呆れた。担当ウマ娘の不調だと言うのに、扱いが軽すぎる。

 浴室を出て、ベットに腰を下ろす。

 向かいのベットに沈むあじさい色の髪の少女に目をやった。

 

「キミはちょっと不運だな、ウェンリー君がもう少し頼りがいが有れば良いのだが…」

 

 目を閉じながらタキオンのぼやきを聞いていた少女は心の中で否定した。

 

(違うのです。私が悪いのです。私がもっと強ければ。メジロのウマ娘としてもっとふさわしければ、このような事態にはならなかったでしょうに…)

 

 しばらくすると、ライトが消えた。タキオンも寝たようだった。

 が、マックイーンは意識を手放せないでいた。目を開けても、暗闇が彼女の視界を塗りつぶしている。慣れてくると、次第に情報が増えてきた。といっても、白いシーツとテーブルの木目が見えるぐらいのもので、特に目新しいものはない。

 

(私は何をしているのでしょう…)

 

 マックイーンは布団を頭からかぶった。外の世界と薄い布で隔てられ、少し落ち着いた。が、眠りに落ちるには至らなかった。

 担当ウマ娘が現実世界で悶々としている頃、ヤンは夢の世界にいた。それはこちらの世界に来て初めて見る夢で、およそ一ヶ月前には現実であり、自分もその中にいた。

 懐かしい匂いがする。アドレナリンと機械が発する電子臭とを還元酸素を混ぜ合わせた匂い。

 ディスプレイには彼我の艦隊の状況がリアルタイムで映し出されている。

 

「ヤン提督、敵艦隊は凹形陣を取ったまま前進してきます」

「よし、主砲三連斉射、全艦全速前進」

 

 号令と共にそれぞれのビームが集約され、大きなエネルギーの奔流となって敵の只中を駆け抜けた。瞬間、めくるめく閃光に視界が覆われ、目が眩んだ。

 視界が回復すると、目の前を阻む艦艇は皆無だった。抉れた傷口にキリで追い討ちをかけるように、自軍が殺到する。

 

「どうやら、私たちが勝ったようですわね」

 

 常ならぬ副官の口調にヤンは振り向く。そこにいたのは金褐色の頭髪でもヘイゼルの瞳でもなく、あじさい色の長い髪と紫水晶の瞳をもつウマ娘であった。

 

「マックイーン、どうしてここに……」

「貴方がトレーナーだからです。何を今更おっしゃるのですか」

 

 心底呆れ返った声色であった。整った眉がはねあがっている。

 

「さあ、行きますわよ。時間がありません」

「しかし、私は……」

 

 躊躇うヤンの視界に鈍く光るものが映った。

 続いてブラスターの発射音。

 次の瞬間、マックイーンはよろめいてヤンの腕にしなだれかかった。ヤンの軍服に顔を押し当て、肩を震わせる。

 

「お恨み申し上げますわ」

 

 それは驚くほど低い声だった。短いながらもヤンの心を締め付けるには十分である。

 

「貴方のせいで、何千万もの将兵が帰らぬ人となりました。貴方のせいで、多くの孤児と未亡人が生み出されました。貴方のせいで、私は……」

 

 言葉は途切れ、マックイーンの姿は消えた。

 赤く染まったヤンの両手がなによりも雄弁に今の出来事を語っている。

 

(『私』に彼女たちの側にいる資格があるのだろうか? 『私』は……)

 

 彼は跳ね起きた。時刻は1時すぎ。まだ寝入ってそれほど時間は経っていない。が、拭いきれない不快感が寝汗と共に彼の身にまとわりついている。

 

(トレセン学園に来て以来、あちらの世界の夢を見ることはなかったんだが…)

 

 担当ウマ娘のレース前で、柄にもなく緊張しているようだった。なにしろ、艦隊戦とはワケが違う。が、その違いが救いでもあった。

 

(もう、命を奪わなくて済む……)

 

 艦隊司令になって以来、終生解放されることのなかった自責の念。命の奪い合いと無縁になってからは取り立てるように彼の心の中を占め続けていた。

 暗い感情が再びむくむくと頭をもたげてきた瞬間、扉がノックされた。

 

(火事でも起こったかな?)

 

 真っ先に思い浮かんだのは穏やかではないものだったが、それにしては静かに過ぎる。

 果たして、尋ね人は彼の担当ウマ娘であった。

 

「ちょっとよろしいですか、眠れなくて…」

「ああ、拒む扉を僕は持ち合わせていないよ」

 

 マックイーンは顔をわずかに綻ばせ、おずおずとヤンの後に続き、ベットに腰掛けた。

 

「ミネラルウォーターでも飲むかい? 」

「ええ、お願いしますわ」

 

 そう言ってヤンは冷蔵庫からミネラルウォーターを2本取り出した。

 

「どうしたんだい、マックイーン」

「明日のレースが怖いのです」

 

 そこにいたのは、等身大の彼女であった。夜の不思議な魔力がメジロのウマ娘であることを忘れさせたのかもしれない。

 マックイーンは明日がおよそ3ヶ月ぶりのレースであった。先のエアグルーヴとの競争でレース感の風化は疑いようのない事実として目の当たりにしている。

 

「マックイーン、君は久しぶりのレースに緊張しているのかい? 」

 

 彼女はまじまじとトレーナーの顔をみた。自明のことであった。

 

「はい、そう、だと思います」

「ならよかった」

 

 驚いて目をあげた。ヤンはミネラルウォーターを呷る。唇を潤すと、さらに続ける。

 

「それはちゃんと練習してきたからさ」

「そう、なのですか」

「ああ、人間、準備をするとその結果が出るまでハラハラするものだ。なぜなら、その努力が報われる場合も有れば、その逆もまたありうる。その狭間にいるとき、まさにY字路を目の前にしたとき、我々は両極端の未来が見えるからこそ、緊張する」

「私は今、2つの未来を見ているのですか…」

「ああ、一着の未来とそうでない未来。この一月の努力が報われるか否か。どうだい、マックイーン」

「その通りです。私は……」

 

 言い淀むマックイーンの背をヤンはさすった。優しい振動が全身に伝播し、なんとも言えない温かさが込み上げてくる。

 

「私は天皇賞を制したいのです。ですから、このようなところで躓くわけにはいかないのです。それでも、いやだからこそ怖いのです」

「心配しなくて良いさ。やれるだけのことはやったから、あとは走るだけだ」

 

 マックイーンは頷くと、意識を手放した。

 ヤンは毛布をかけてやる。かつては一個艦隊を率いていた彼だが、今世話をしているのは目の前の少女ただ1人だった。

 

(私は揺れ動いてばかりだ)

 

 彼は精神安定剤を服用し、ソファで眠りの園へ旅立った。

 次に彼を起こしたのはカーテンから差し込む朝の光の片割れだった。

 ソファで寝たからか、身体の節々が痛む。立ち上がり、伸びをする。停滞していた血の巡りが回復し、頭が冴え始めた。

 時計を見ると、朝の8時。レースが12時からであることを考えると、まだ時間に余裕があった。

 ベットを見やると、マックイーンの姿はなく、整えられたシーツだけがそこにあった。

 彼女らの自室を訪ねると、外に出てきたタキオンが随分と非難のまなざしを向けてきた。

 

「ウェンリー君、一つ言っておくが、ウマ娘は繊細だ。キミもトレーナーならば、レース前は担当ウマ娘のケアに心を砕くべきだ」

「ああ、ちょっと視野が狭くなっていたようだ。これからは気をつけるよ」

「なら、今回は良しとしよう」

 

 着替えを終えたマックイーンも合流し、朝食の会場へと向かった。

 彼女は昨日の分を取り戻すかのようにトーストに齧り付いている。

 

「マックイーン、あまり食べすぎてはいけないよ」

「わかってますわ。ですが、その、お腹が空いていまして……」

「誰も横取りはしないさ。ゆっくりお食べ」

「ウェンリー君の言う通りだとも。今日の主役はキミなのだから」

「わかりましたわ」

 

 トースト一枚、ハム二枚、スクランブルエッグ、そして牛乳がこの日の朝食だった。

 問題なく平らげた後、マックイーンは再び寝床に入り、一時間ほど横になった。

 起床後、一行は福島駅からバスに乗ってレース場に向かった。マックイーンの心臓は早鐘を鳴らす。

 たが、控え室に入り、パドックに立った頃にはすでに落ち着いていた。

 

「さあ、7枠13番、メジロマックイーン。1番人気です。レースに出るのはおよそ3ヶ月ぶりです。人気に応えることはできるのでしょうか? 」

「久しぶりのレースとはいえ、弥生賞を獲ったウマ娘ですから、実力は折り紙つきです。良いレースを期待したいですね」

 

 観客席に向かって手を振っていると、ヤンの黒い瞳と目があった。初めてパドックを見るからか、その目は忙しく動きまわっている。

 紹介が終わった者からターフへ向かう。

 今日対決する面々を見渡す。皆、緊張した面持ちでアップに取り組んでいる。マックイーンも例に漏れず、グルグルと腕を回したりその場でジャンプを繰り返す。

 

(お帰りなさい、私)

 

 会場にファンファーレが鳴り響く。

 マックイーンは初めにゲートへと歩み入った。

 他の15人も続々とそれぞれのゲートに入る。その中の誰一人として負けるつもりの者はいない。だが、勝つのはただ一人。決着には3分も要さない。

 最後の一人がゲートに入った。

 それはつまり、スタートまで秒読みの段階に入ったことを示す。

 静寂が空気を圧する。固唾を飲む音ですら聞こえそうだった。

 わずか数秒、されど数秒。

 今、道が開かれた。

 16人のウマ娘たちが一斉に走り出す。




次回、ウマ娘英雄伝説『七夕賞』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。
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