ターフの魔術師   作:スーミン・アルデンテ

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ごめん、タキオン……


第18話:悪魔の証明

 マックイーンに合格を伝えた後、ヤンはタキオンにも電話をかけた。3コールほど待つと、科学者の気怠げな声が電話口の向こうから聞こえる。

 

「なんだい、ウェンリー君、こんな時間に」

「やあ、一つ良い知らせを、と思ってね」

「ふうん、聞こうじゃないか」

「無事に試験を終えて、正式にトレーナーになることができたんだ。そこで一つ提案なんだが––––– 選抜レースについて少し話をしよう。明日、昼にでもどうだい?」

「良いとも、私も話しておきたいことがあるんでね。場所はそちらで決めてくれ」

 

 そう言うとタキオンは電話を切った。

 翌日、ヤンは学園に戻ると、真っ先に理事長室を訪れた。表向きの用件は無論のことながら、合格の報告である。

 扉を開くと、革張りのソファに身を預けていた少女が椅子から飛び降り、勢いよく駆け寄ってきた。

 

「祝賀! 良くやってくれたヤントレーナー。これで君は正式にこの学園の常勤トレーナーとなった。これからもよろしく頼むぞ! 」

 

 理事長はポケットからバッジを取り出した。鳶色の地に星を含んだ銀の蹄。これを身につける者は、すなわち中央でトレーナーを名乗ることを許された者である。その責任は重大で、担当ウマ娘・チームの盛衰が双肩にかかっていると言っても過言ではない。

 左の襟元につけてある一つ星の階級章を外し、代わりに蹄のバッジをつける。

 名実共にヤン元帥がヤントレーナーとなった瞬間である。九割九分まで変わり映えしないが……。

 

「感激! 意外とバッジが似合っているではないか! それで、ヤントレーナー、チームをもつ意向はあるかね? 」

「はい、それで一つご相談なのですが、タキオンのことです」

 

 理事長は頷くとヤンにソファを勧めた。

たづなが紅茶のカップを二人の前に用意する。

 ヤンは一口飲み、その茶葉の上質なるを実感した。こちらの世界に来て以降、数多く消費したティーバッグが寄ってたかっても敵わない上品な香りが鼻腔を通り抜けていく。

 しばしの間、カップの上には無言の時が流れた。理事長は背を伸ばしヤンの口が開かれる時を待っている。一方のヤンは、どう質問を切り出すべきかを思い悩んでいた。しばしの沈黙の後、ティースプーンで飲み口を叩くと、視線を向けた。

 

「彼女は一体何を抱えているのですか? どうにも彼女が今の苦境に立たされているのは、彼女の奇矯な態度のみに帰されるようには思えないのです」

「明察! その通りだ。ヤントレーナー、今から話すことは私とたづな君、そして会長しか知らん。君で四人目だ。くれぐれも内密にしてもらいたい。

–––– アグネスタキオンは不治の病にかかっている。ウマ娘にのみ発病するもので、病名を“先天性走行時筋肉硬化症”という。結論から言うと、彼女は走るべきではない」

「では、なぜ止めないのですか。ましてや、あのような規則を新設して」

「痛恨! 君の言うことはもっともだ。責任は長たる私にある。あの規則はもう少し慎重に協議された後に提出されるはずだった……。元より選抜レースの出走を促進する必要性に関してはたびたび論じられてきたからな。

しかし、ある理事と一部のトレーナーたちが圧力をかけて、体裁を整え、理事会に提出させたのだ。強硬な案をな。結果として理事の過半数が賛成し、可決されてしまった。

だが、ヤントレーナー、一つだけ言い訳をさせてくれ。彼女には再三にわたって英数科への転向を勧めてきたのだ。前例がないわけではないし、能力の面から見ても彼女は十分に値する。だが、首を縦に振らない。もはや出走を回避することは退学を意味するのだ。あの案さえなければ、チームに入り、療養中と称すこともできたのだが……」

「理事長、それでは、選抜レースを病欠した場合はどうなるのでしょう? 」

「振替! その場合は、首席トレーナーの立ち会いの下、タイム計測のみ行う。結果の如何に関わらず、チームへの加入を認められるだろう」

「では、レースで手を抜いた場合は? 」

「厳罰! レースへの侮辱行為は、一部の例外を除き等しく退学処分だ。怪我をしていた、などの事情があれば、その限りではないがな」

「それだけ分かれば十分です。何とかして見せますよ」

 

 ヤンは立ち上がり、おさまりの悪い黒髪を手櫛でといてからベレー帽を被り直した。

 

 

 

***

 

 

 

 ノックもおざなりに実験室へ入ると、部屋の主人は実験を脇におき、読書に熱中していた。目線をあげ来客の姿を認めると、一度奥へ隠れ、いつも通りビーカー入りの紅茶を提供した。

「それで、話とは何だい?」

 

 わかり切っているはずだが、シラを切って見せている。口調もきわめて穏やかで、これから起こることなど露ほども知らないようだった。

 選抜レースの件だよ、とヤンが何事もないかのように伝えると、タキオンは整った眉をひそめた。

 ヤンは構わずに言葉を継ぐ。

 

「出走する、という考えに変わりはないかい?」

「もちろんだとも。私は走るために学園に来たのだ。その意志を曲げたことはないよ」

「今回のレースを回避して、次の機会に望みを繋ぐ、というのは?」

 

 タキオンは紅茶を飲み、一つため息を漏らした。やや荒く天板へ置かれたビーカーが非難がましい音を鳴らす。彼女は自由となった両手の指を絡め合わせ、人差し指の爪で二度三度皮膚を掻くと、ゆっくりとヤンを見据えた。ダークブラウンの瞳は硬質的な輝きを発している。

 

「あまり迂遠な言い回しは好まないよ。ウェンリー君、何が言いたいのかな?」

「つまりだね、選抜レースを走らずに済ます、という考えはないかい?」

「聞き間違いかな、もう一度言ってくれるかい?」

「そんなに選抜レースに出走したいのかい? 君の脚を犠牲にしてまで」

 

 その瞬間、タキオンは大きく目を見開いた。動揺が空気を介してヤンにまで伝わってくるかのようである。

 が、やがて全てを悟ったのか、流し目で窓の外を見やった。視線の先には名も知らぬチームの練習場がある。芝の上で走っている姿はいつかの自分が夢見たものであったし、慣れないダートに足を取られて砂に塗れる姿は誰しも一度は経験するものであった。彼女らを叱咤激励するトレーナーに対する独語も一度や二度ではない。ガラス窓越しに聞こえるはずもないのに……。

彼女は徐に立ち上がると、デスクの引き出しから一枚の書類を取り出した。軽く叩いて埃を払ってから、ヤンの前に差し出す。それは加入届だった。チーム名以外の欄は全て記入済みである。書かれてから年月を経ているからか、インクがやや褪せており、紙の色味も既に元のそれではなかった。

 

「君に預けておくよ。チーム名が決まったら、埋めておいてくれ」

 

 それきり彼女は貝のように心を閉し、口を開くことはなかった。拒絶されたヤンとしては、これ以上長居することも憚られた。彼は物言わぬ相手に向かって、出走をしても走らないための策をいくつか授けたが、反応はない。暖簾に腕押し、ぬかに釘とはこのことであった。

 

 

 

***

 

 

 

 八月二十六日。

選抜レース当日、トレセン学園は好天に恵まれた。燦然と輝く太陽の光を受け、青々とした芝がコースに広がっている。馬場状態は良。この上ない舞台であった。

会場となる第一共用練習場には多くの生徒が駆けつけている。出走予定のものは体操着に着替えていた。中等部のウマ娘が圧倒的に多い。その中にはダイワスカーレットの姿もある。彼女はあたりを見渡し、従姉の姿を探した。つい昨日、枠順と共に出走者の名前が学内掲示板に張り出されると、彼女は思わず目を疑ってしまった。尊敬する従姉の名前が含まれていたのである。右を見渡し、次に左に目をやると、見覚えのあるダークブラウンの髪が視界に入る。

タキオン先輩、と言って駆け寄る。

 

「やあ、スカーレット君。どうしたんだい? 」

「先輩こそ、どうして出走者に名を連ねているんですか? もう高2ですよね」

「ああ、ちょっとタイミングが悪くてね。去年の選抜レースに出走し損なってしまったんだよ」

「それは、災難でしたね。留学って大変です」

「全くだよ。やっとレースに出られる」

 

 スピーカーから呼び出し音が流れ、高等部の出走者に招集がかけられる。頑張ってください、とエールを送るスカーレットを尻目に、タキオンは大会本部に向かう。テントの下では運営にあたっている生徒会の面々が忙しなく動き回っている。インカムをつけて連絡をとっているルドルフとかすかに目があった。コンマ数秒の間、手を止めた会長はすぐに職務に思考を戻す。私情を限りなく頭の片隅に追い遣ろうとしているようだった。

 タキオンが出るのは、五つある高等部のレースのうち二つ目である。

 エアグルーヴによって注意事項が読み上げられると、第一レースの出走者以外はラチの内側に整列した。

 レースは2,000メートル。短めの中距離である。スタートからフィニッシュまで要する時間は薬の効果時間内に充分収まる。

 第一レースのゲート入りが行われていく。高等部で選抜レースに出走するものは大半が地方の学園出身であり、これらの流れには慣れていた。

 全員がゲートインを終えたところで、グラスが白い手旗を上げた。それを見てルドルフはボタンを押す。瞬間、ゲートが開いた。出遅れた者はおらず、新進気鋭のウマ娘たちが先頭を争い、駆けていく。だが、ルドルフはその様子に目もくれず、ゲートから視線を動かせないでいた。次にボタンを押す時が、タキオンが走り出す時。友人に引導を渡す時であった。

目をこらすと、彼女は両脚に注射を打っていた。走るつもりなのだ、とルドルフは察した。ダークブラウンの髪のウマ娘は、全てを賭してレースに臨んでいる。

心臓が早鐘を打つ。

一組目が最終直線に差し掛かったところで方々から歓声が上がった。もつれにもつれ、最後は四頭が並ぶ大接戦であった。スタート地点では、前の組が全員ゴールしたのを確認し、先程と同様にゲートインが滞りなく進んでいる。

白旗が、上がった。

生徒会長はボタンを押すや否や、椅子を蹴って立ち上がった。

 

「エアグルーヴ! 担架だ! 急げ‼︎ 」

 

 突然の出来事に面食らった副会長であったが、すぐに救護テントに指示を出すと、会長と共にゴール地点へ向かう。

 途中、トラックを横目に見ると、レースは思わぬ展開を見せていた。

 先頭はタキオンだった。逃げを打ったらしい。しかも、作戦としての逃げではなかった。速すぎるがゆえの結果としての逃げである。第二コーナーに入って早くも後続に三身の差をつけていた。それはじわじわと広がっている。コーナー間の直線に入った時、エアグルーヴは表示をチラリと見た。

 59秒08。

 彼女は目を疑った。レースの中間地点でこのタイム。そのペースはルドルフが持つコースレコード2分00秒10を上回る。

 二番手以降はタキオンのハイペースについていけず、もはやバテてしまい、差がなかった。観衆の注目は、自然とタキオンに集まる。このまま行っての記録更新を誰もが期待していた。もしそうなれば、間接的にではあるが、『皇帝』に初めて土が付くのである。

 応援の声がどこからともなく湧き上がり、大きな波となり会場全体が興奮のるつぼと化した。マックイーンもその一助を担っている。最前列で拳を振り上げ、檄を飛ばしていた。

が、彼女のトレーナーは素直に喜べないでいた。聞いた話では、走るのは不可能だったはずである。彼は目敏くルドルフたちの走る姿を認め、事態の尋常ならざるを悟り、人波をかき分け、一人ゴール地点に向かった。

タキオンの脚は衰えることを知らないようだった。第3コーナー、そして第4コーナーを曲がりきり、最後の直線に入る。流石に厳しいようで、顔を歪めていた。

終わってみれば、記録は1分59秒31。かつてのコースレコードを1秒近く縮め、初の1分台に乗せた大記録である。

流していると、ヤンが駆け寄ってきた。

 

「タキオン! 脚は大丈夫かい? 痛んだりは? 」

「やあ、()()()()()君。()()何ともないさ。それよりも、見ていてくれたかい? これが『私』さ」

 

 タキオンは歯を見せて笑みを浮かべた。後を振り返り、自らの駆け抜けた跡を見やる。あっと言う間であった。長いようで、終わってみれば、何とも呆気ない。

 自分の名が呼ばれた。その声は震えている。声の主が抱く感情が怒りかそれとも悲しみか、いずれであるかタキオンには測りかねた。ただ、その声の方へ足を踏み出す。一歩また一歩と確かめながら向かっていく。

 取り立ては唐突にやってきた。

 筋肉が強ばり、前へつんのめる。ルドルフはあわやの所で彼女を抱きかかえ、何とか転倒を阻止した。そのまま担架にのせ、エアグルーヴとヤンに保健室まで運ばせた。その後をマックイーンが追っていく。

 彼女らを見送ると、ルドルフはテントへと踵を返そうとした。その時、心ない一言が彼女の耳朶に届いた。

 

「なんだ、走れるじゃないか」

 

 声の主は果たして伊地知であった。ルドルフは自身の頭が急速に煮えたぎるのを冷静に分析していた。血走った双眸が発言者を射抜く。敵意が全身に満ち満ちて、害意として発露する直前、彼女の肩は押さえられた。

 

「マルゼンスキー……」

「ルドルフ、貴方にはまだ運営の仕事が残っているでしょ」

「そう、だな。すまない」

 

 ルドルフは言葉少なに伊地知に背を向けた。

 事なきを得た理事は救世主に礼を言おうとすると、機先を制して投げかけられたのは軽蔑の眼差しだった。が、それもほんの一瞬のことで、マルゼンスキーはすぐにいつもの人好きのする笑みをたたえている。

 




走ることが情熱の矛先を向ける唯一の対象だった。
彼女の病は不幸か、はたまた宿命か。
次回、ウマ娘英雄伝説『アグネスタキオン』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。

改行した場合の段落はじめについて

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