第1話:新しい風
その日、トレセン学園は1人の新人トレーナーを獲得した。名はヤン・ウェンリー。
理事長による突然の決定にトレーナー陣からは深刻な懸念が表明された。曰く、実績も経験もなく、そもそもライセンスを持たない者をトレーナーとして採用するなど言語道断である、と。
そして、同様の懸念は生徒会からも表明され、会長のシンボリルドルフはその意を質すべく、理事長室へと足を運んだ。
「失礼します。シンボリルドルフです」
なかなかに険を含んだ声であった。立場上、彼女が理事長室に立ち入るのはこれが初めてではない。しかし、これほどまでに感情を露わにしている姿はかつてなかった。
「待望! かけたまえ」
一方の理事長はいつもと変わらず、扇子に書かれた熟語で来客を歓迎し、ソファを勧めた。が、訪問客は手を振ってそれを断り、理事長の机に詰め寄った。
「無礼を承知で申し上げます。私達トレセン学園生徒会はヤン氏のトレーナー就任について正式に抗議し、この撤回を求めます。ウマ娘に通じておらぬ者が我々の育成に携わるなど、言語道断です」
前置き無しに本題に入ったのは、常日頃から鷹揚に構えている彼女らしからぬ態度である。それもそのはずで、ヤンの就任が知らされてからすでに一週間経っているが、その間学園中に不穏な空気が蔓延し、ウマ娘達はトレーニングに身が入らず、トレーナー達も育成に集中しきれていないのだ。
「承知! 私も昨今の諸君の状況を憂慮している。たしかに、彼のような者が続々と我が学園のトレーナーとなれば、ベテラントレーナーは自らの立場が危ぶまれると考えるだろうし、ウマ娘達も適切な指導を得られないと思うのは当然なことだ」
「では! 」
「畢竟!彼の指導力は卓絶しており、私が理事長権限で『特例』として就任させた」
「一体なにを根拠にそんなことを…… 。彼は未だ一人のウマ娘も育成していないではありませんか! 」
自然と強くなった語気に自分のことながら驚いたのか、ルドルフは一息入れ、咳払いをした。
「とにかく、少なくとも私はヤン氏のトレーナー就任に賛成できません。これだけは申し上げておきます」
それだけ言うと、彼女は踵を返した。扉に手をかけ退出しようとすると、
「慰留! 会長、これを見たまえ」
差し出されたのは一通の封書であった。ルドルフは渋々といった様子で受け取った。裏面を見ても差出人は書かれていない。困惑して理事長を見ると、目を通すよう促された。半ば呆れて中身を広げる。
『会長、これを読むということは貴殿は彼のヤン・ウェンリーがトレーナーとして我らの学園に足を踏み入れるのが気に食わないらしい。その判断を当然のものと私は思う。
しかし、こればかりは横車を押させてもらおう。何を隠そう、彼を推薦したのは私だ。トレーナーとしての能力および識見は未知数であり、経験は無いと言っていいが、この私が君のトレーナーを務めあげているのだから、彼ならば、おそらくそれと同等のことはこなせるだろう。なにしろ、私に幾度となく敗北の苦渋を舐めさせたのだ。その手腕の妙は私が最もよく知っている。
繰り返そう、私はヤン・ウェンリーをトレセン学園のトレーナーとして推薦する。将帥としては勝ち逃げされたが、幸運にもトレーナーとして切磋琢磨する機会を得た。これも大神オーディンの加護あってこそだ。私は彼の育成するウマ娘を見たい、そして私の育成したウマ娘たちと良い相互作用を起こしてくれることを期待する。まさか皇帝たる者がおめおめと逃げるわけにも行くまい。
重ねて問おう、会長、いやシンボリルドルフ。
不敗の魔術師ヤン・ウェンリーは相手にとって不足か?
貴殿の良き理解者 ラインハルト』
雷に穿たれたが如く衝撃がルドルフの身体を貫いた。ラインハルトはトレーナーとして、また先達としてウマ娘と生徒会長の両側面にわたって彼女を支え続けている。彼は彼女の内面をその蒼氷色の瞳で的確に見抜いていたのだ。
「ライバルが欲しい」
これは彼女が生徒会長として働き始めてからの渇望だった。走れば一着、抜きん出て並ぶものなし。結果には満足していたものの、その栄誉はどこか虚しかった。着順ではなく、魂が削られるほどの限界を超えた死闘を欲していた。いつからか彼女はレースから遠のいている。トレーニングは欠かさず行なっているし、G1レースにも請われれば出場していたが、自ら進んで出走したことはここ一年例がない。彼女は高等部2年生、残された年月があまりないことから、このまま隠居のように学生生活に幕を下ろすのではないか、と考えていた。
彼女は自らの両手で頰を叩く。理事長が突如のことに動揺するが、そんなことはお構いなしだ。
(私はとんでもない大バカだ。いつ牙を抜かれた!)
数瞬、瞑目した後息を大きく吐き出した。
「理事長、先の抗議を取り下げさせてもらいます。そして、改めて我がトレセン学園生徒会の意向を述べさせて頂きたく思います」
「承知、聞かせてもらおう! シンボリルドルフ君」
「我々生徒会はヤン・ウェンリー氏のトレーナー就任を心より歓迎します。優秀なトレーナーが増えることは優秀なウマ娘が増えることであり、ひいてはこの学園に良い刺激をもたらすことに繋がります。そのような変化を好ましく思わずにいられるでしょうか」
理事長は勢いよく扇子を広げ、声をあげて喜色を顕わにした。
「了解! これでヤン氏の就任は滞りなく進められるようになった。会長、君の決断を私は祝福する」
「理事長、一つよろしいでしょうか? 」
「歓迎! 遠慮せずに言いたまえ」
「ヤン氏に伝言を。早くかかってこい、と」
抜き身の刃を託して、ルドルフは踵を返した。その足取りは2年前のように軽やかなものだったという。
生徒会の意向が後押しになり、3日後にヤン・ウェンリー『トレーナー』が誕生した。トレセン学園のトレーナー達はある一人を除いた全員が反対を示していたため、この結果を不服とした。彼の就任挨拶ではわざとらしく咳払いをしたり、鼻を鳴らしたりする者が多かった。それを制した目が蒼氷色の双眸であったことは言うまでもない…。
そのトレーナーは自室に戻ると、彼を待っていたウマ娘たちの前で、
「天狗どもの鼻っ柱が折られるのはいつになることやら……。早ければ明日だな」
ひどく冷たく、乾いた笑みを浮かべた。この時はチームの誰一人として、その意味するところがわからなかったが、後に戦慄を以って思い知らされることになる。
ウマ娘の物語がまた一ページ。