ターフの魔術師   作:スーミン・アルデンテ

20 / 31
一人称に初めて挑戦してみました。
かなり難しかったです…。
もうしません


第19話:アグネスタキオン

 私は物心ついた頃から走ることが好きだった。

 ――何が良いのか

 と、聞かれたら、困ってしまう。そこに深い理由は見出せない。だが、強いて挙げるのならば、駆け抜ける時の、この世の全てを置き去りにして目の前の景色がその意に反して私に勢いよく接する、というその瞬間が何とも言えぬ征服感をもたらし、幼心に快かったのだろう。

 私が生まれた地区は北海道の西南部、千歳市で、澄んだ水に育まれた豊かな自然に囲まれている。西の山岳地帯の裾野に面した所に家があり、子供の感覚からすると限りなく広がる、裏の草原が遊び場だった。

 母はウマ娘で、来る日も来る日も私に付き合って草原を駆けた。流石にトゥインクルでオークスを獲った脚は錆び付いておらず、私はいつも大差で負け、負けてはもう一回と頼み込み、ついには母が根負けして最後の一勝を譲るのが常だった。

 父は医師で、道内の大学で生理学教室を束ねる少壮の教授であった。寝ても覚めても研究一筋であり、家の外にいる時は大学にいる、と自他ともに認めていた。が、私の見たところ、結構な子煩悩だったのではないか、と思う。

 休日の縁側で父はたいてい囲碁かチェスの本を片手に盤に向き合っている。そこへ私がトコトコ歩み寄ると、父は必ず、やってみるか、と誘いをかけた。

最初はいかにも難しそうで、

 

「外で走った方が楽しいに決まっている」

 

 と断っていたが、ちょうど小学校に上がった頃、梅雨のないはずの北海道であまりに長く雨が続き、暇を持て余していたのだろう。父と対局してみることにした。

 後から思えば、これが私のトレセン学園入学を決定づける、ある出会いの呼び水であった。

 しかし、未来予知者ではない私はそのようなこなど露ほども知らず、父との対局に熱中した。最初、私がズブの素人も良い所だったので、九子の置き碁とクイーン落ちというハンデ戦だったが、そのうちメキメキと上達し、夏休みには五子とルーク落ちに、年の暮れには三子とポーン落ちにまで迫った。年が明け、いざ平手に打ち込んでやるぞ、と意気込んでいたが、ちょうど父の研究が佳境を迎え、にわかに父との対局の機会が減った。

 相手に飢えていた私はほんの気まぐれに東京で行われる子供チェス大会にエントリーした。順調に決勝まで勝ち進んだところで、あのウマ娘と出会うことになる。彼女の名はシンボリルドルフ。大会の決勝戦として、これほど珍妙な組み合わせは後にも先にも絶えてなかったに違いない。何しろ大会における最年少である小学校ニ年生のウマ娘対決なのだから。私の手番が黒で、後攻に決まった。チェスでは白番が有利で、序盤、随分とポーンがやられ、ナイトとルークを交換する羽目になった。が、中盤にビショップでクイーンを取り、道をこじ開けたところから流れが傾き始める。これを軸にクイーンを膠着していた戦線から一挙に逆サイドへ動かす。機動力においてクイーンに対抗できる駒は無く、盤面は攻守相乱れる展開となった。

 終盤はお互いに詰めきれず、引き分けに終わり、同時優勝となった。対局後に握手を交わした際、その手に妙に力が入っていたのが印象に残っている。

 次に出会ったのは道内の小学生囲碁大会で、同じく決勝戦でぶつかった。

 席についた時、彼女が微笑むのが見てとれた。どうやら、胸中は私と同じであったらしい。大会ルールでは六目半のコミが設けられている。つまり、必ず勝敗がつく仕組みであった。

 結局はちょうど百手で終局を迎え、半目差で私の勝利に終わった。勝負が決した後、相手はしばらくその場を動かなかった。敗戦がよほど悔しかったらしい。表彰式の後、自分の電話番号を紙に書いて渡してきた。

 その日の夜にかけてみると、開口一番に再戦の日取りを催促された。幸い、お互いの家は車で一時間ほどの距離にあったので、私が彼女の家を訪ねることになった。それを聞いた両親の顔ときたら、今でも鮮明に思い出せる。父は普段は全く見せることのない動揺を露にし、髪を櫛で整えてから行くようにアドバイスした。母も失礼のないようにと、私を百貨店まで連れて行き、他所行き用の服を二、三着購入した。その時は面倒だ、と不平不満を垂れていたが、彼女の家が近づくにつれてその意味するところを悟った。

 彼女の家は邸宅と言った方が相応しく、正門を抜けると、大きな庭があり、中央を石畳の道が貫いている。中に入ると、床は大理石が敷き詰められているわ、天井にはシャンデリアが吊るしているわで、住む世界が違うとひしひしと感じた。

 一室に招き入れられると、今まで触ったこともないような革張りのソファを勧められた。供された紅茶も白地に鮮やかな青の模様があしらわれたカップに入っている。何から何まで家と勝手が違い、戸惑ってしまう。膝に乗せた拳の震えが治らなかった。

 私の緊張をほぐすためか、それとも会話の糸口に困ったからか、少女はチェス盤を持ってきた。お互いに無言で駒を並べ、そのまま一局指し始めた。手が進むにつれて私たちの口は滑らかになっていく。

 

「なあ、タキオン。走ることは好きか」

「ああ、もちろん好きだとも」

 

 その後、私たちはその一局を指し掛けにして、裏庭に出た。

 以降、私たちは三年に渡って交流を続ける。それは充実した時間だった。よほどウマがあったらしく、私は彼女のことを愛称で呼ぶようになった。帰国後はなんだか遠く感じられて、ずっと役職名で呼び続けたが……。

 この関係に終わりを告げたのは、父の研究に授けられた世界的に権威のある賞である。受賞理由は『CoMRSの機序およびその治療法に関する研究』。その成果を以って、父は栗東大学の教授に推薦された。家族総出で引っ越す運びとなり、私は生まれ故郷を離れた。

 が、その後もルナとのやりとりは変わらず続き、全国ウマ娘陸上記録会において再会を果たした際、トレセン学園に誘われた。

 

「私は君とまだまだ競い合いたい。ともに高みを目指そうじゃないか」

 

 それが彼女の誘い文句だった。私は、当然のことながら、二つ返事で承諾した。

 トレセン学園に入学したい、と希望を述べると、両親は特に反対することもなく、むしろ後押しをしてくれた。滋賀に引っ越してこのかたチェスも囲碁も脇に置き、レースに打ち込んだことがプラスに働いたらしい。

 入学試験は四科目の筆記試験とタイム測定の実技試験であった。

 結果はルナと紙一重の次席合格。が、これは彼女が筆記試験において満点を取ったからに他ならない。タイム測定は五分五分だった。思えば、ともに走ったのは、それが最後である。

 試験後、脚に違和感を覚えた私は、疲労が原因とたかを括っていたが、父は何か思い当たる節があったらしい。翌日、大学で採血と遺伝子検査を受けた。結果を言い渡す際の父の顔は今も鮮明に思い出される。私はよりにもよって父の専門分野の疾患を発症したのである。まだ幼かった私はその事実を受け入れることができなかった。そして、未だに受け入れきれていない自分がいる。

 が、もはや受け入れるしかあるまい。

 次また走れば、今度は脚以外にも症状が及ぶおそれがある。

 私はもう二度と走れないのだ。視界が滲み、涙が溢れてくる。それは努力虚しくこぼれ落ち、真っ白なシーツに点々とシミを刻んでいった。

 扉が開かれ、来客を知らせる。客人は椅子に腰掛けると、サイドテーブル上に折りたたみのチェスセットを置き、駒を並べた。

 が、彼女は目を伏せ、微動だにしない。今日ばかりは駒たちに潤滑剤の役割が期待できなかった。

 私は目の前の少女に構わず、白黒両色の駒を進める。配置し終え、ふと彼女に語りかける。

 

「なあ、()()、私はまだ走るのが好きだよ」

 

 項垂れていた彼女がハッと目を上げた。彼女の視界に入ったのは、いつの日か差し掛けに終わった対局である。ルナはそれらの駒を押し除け、私の胸に顔を埋めた。嗚咽を漏らし、肩が震えている。

 

「すまない、タキオン。守れなかった……。私のせいで、私のせいで……」

「何もキミのせいじゃないだろう。私は走りたくて走ったんだ。そのことに関して、微塵も後悔はしていないよ」

 

 彼女がようやく落ち着き、言葉を発せるようになった頃、外から歓声が上がった。

 

「今は、高等部の最後の組が走っているはずだが」

 

 この時の彼女らには知るよしもなかった。つい一時間前に樹立されたタキオンのレコードが破られたのだ。新たに記録保持者の座についたウマ娘の名は、オグリキャップ。笠松トレセン学園からの編入生である。




あり得べからざる事態が起こってしまった。
それぞれの思惑の交錯する中、学園は説明に追われ、ついに記者会見を開く。
次回、ウマ娘英雄伝説『奔走』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。

改行した場合の段落はじめについて

  • 一文字下げた方が読みやすい
  • 一文字下げない方が良い

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。