ターフの魔術師   作:スーミン・アルデンテ

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第24話:緋色の涙

 結局、練習は日が沈むまで続いた。

 ヤンから終了が宣言されると、皆のそりのそりとチームハウスの更衣室を目指す。脚がひどく重い。原因は全員が正確に把握していた。最後に行った坂道ダッシュの影響である。たった十本と云えど、練習で消耗している身体には充分堪えた。あのマックイーンですら、まだ息が整わないでいる。

 だが、彼女らは自らに鞭打って着替えを済ませなければならない。この後にヤンから自主練の方針について説明を受けることになっていたし、何より、食堂の営業時間には限りがある。ことは一分一秒を争った。

 階段を上がり、ミーティングルームへ入る。

 二つの長机の向こう、ホワイトボードを背にヤンは腰を下ろしていた。脇にはベルノ。二人ともカップから立ち昇る湯気を顔で受け止めている。どうやら、先に紅茶を嗜んでいるらしい。

 

「やあ、お疲れ様。みんなの分もあるよ」

 

 もちろんのことながら、淹れたのは彼ではない。

ヤンの右手奥に併設されたキッチンからタキオンが顔を覗かせた。

 

「蜂蜜とレモンが嫌いな者はいるかい? 」

 

 三人が三人とも首を振ると、ダークブラウンの髪のサブトレーナーは鼻歌交じりにそれぞれの前にカップを置いていった。縁にレモンが添えられており、中の液体がほのかに明るい。かすかな湯気が彼女らの鼻腔をくすぐった。

 マックイーンが口をつけると、柔らかな甘さが口の中に広がる。レモンのおかげか、後味もしつこくない。

 ホッと一息つく。

 ふと傍らを見やると、ウオッカはスプーンでちびちび飲んでいる。味が好みにあったらしく、カップを両手で持ち上げ、喉に流し込んでいる。オグリは紅茶には目もくれず、レモンに齧りついていた。

 彼女らの所作は淑女たる者としては看過し得ぬものであったが、不思議と悪感情は湧かない。それはかつての自分からすれば他愛もないこの空間が『メジロ』という、ときに重くのしかかる華やかな家名の(くびき)を地平の彼方へ押しやってくれるからだった。メジロ家に充満した格式高い芳香の中から、この奔放な雰囲気を嗅ぎ取るのはいささか無理がある。

 その奔放な、悪く言えば野放しのウマ娘たちを一つ処に留め置いて、チームとして機能せしめている恒星がヤン・ウェンリーであることは紛れもない事実である。

—— それにしても、出世のお早いこと

 と、マックイーンは回想のページをめくらずにはいられない。彼女のトレーナーはつい三ヶ月半前に唐突に現れ、ウマ娘の()()()も知らぬままにレースに臨み、初陣を勝利で飾った。さらには、ライセンス取得後まもなくチームを率いるまでに至ったのである。破竹の勢いと言って良い。

 が、不思議なことにヤン自身に浮ついた様子は見られなかった。これはマックイーンの脳内尺度の一つの限界である。彼がかつて宇宙一の智将と称せられ、一つの国、そして一つの灯火の守護者となり、銀河に吹き荒れる暴風から守り通さんとしたことなど、あじさい色の髪の少女の関知するところではなかった。彼女の目に映るヤンは、常にちょっとだらしのない柔和なトレーナーである。

 

「オグリは今日のトレーニングで脚部へ大きな負荷がかかっている。自主練では筋トレを軸に上半身のパワーアップと体幹の強化に努めてくれ。来月あたりにダートレースに出走してもらう」

「了解だ」

「次にウオッカ。君はここに来てくれ。デビュー戦までに残された時間が少ない。タイムを測っておこう」

「ラジャー! 」

「マックイーンは過密ローテを控えているから、あまり脚に負荷をかけるわけにはいかない。自主練は主に水泳を行なってもらう。タキオンに練習を見てもらってくれ」

「ええ、分かりましたわ」

「任されようじゃないか」

 

 今回は追い切りを行わない。正確には行えない。一回走って終わりではないのだ。

 すす、とマックイーンは目を伏せた。

 菊花賞、そして秋の天皇賞への出走を確実にするためには、それぞれのトライアルレースにおいて連対、つまり二着以内が必須である。よしんば連対を逃したとしても、入着しなければ話にもならない。その枠を狙うのがマックイーンだけであるはずがなかった。

 そのとき、腹の虫が鳴った。マックイーンは思わずお腹を押さえた。オグリ、ウオッカも同様である。三人とも発生源は自分と信じた。

 ヤンはあまりの音量にしばし呆然としていたが、事態を把握すると、すぐに微笑が取って代わった。

 

「じゃあ、今日はこれまで。遅くなってすまなかったね」

 

 刹那、全員がバックを持って立ち上がった。一路食堂へと向かう。

 この際、目の前の空腹が何にも増して重要だった。

 

 

 

***

 

 

 

 

 食後ウオッカが自室へ帰ると、めずらしく灯りが点いていなかった。この時間帯、彼女のルームメイトはいつも机に向かい、予習復習に勤しんでいる。

 不審に思ったが、すぐに彼女は見当がついた。

 

(どうせ自主トレだろ)

 

 門限までには帰ってくるに違いなかった。真紅の髪の少女はおそらく、

 

「良い汗かいたわ」

 

 と、機嫌良く第一声を放つだろう。

 

(オマエだけが時間を有意義に使うと思うなよっての)

 

 ウオッカは湯船が満たされていくのを横目で眺めながら、動画サイトでルドルフの走りに魅入る。

 序盤からしなやかに肢体を躍動させ、好位置を一貫してキープする。ベースは先行だが、最終コーナーを回ってもなお控えている。皇帝の本領が発揮されるのは、いつも直線に入ってからであった。

 明らかに、空間が歪んだ。

 一歩一歩踏み出す度に一人、また一人とかわしていく。トップスピードに乗った彼女が先頭に立つまでほんのわずかだった。あとは、まるでそれが当然のように悠然とゴールを果たす。

 後続は、もはや彼女を見ていない。追いつく術がないことを知っているのだ。

 相手に一縷の希望すら許さない勝利。ルドルフが『皇帝』と言われる所以である。

 ウオッカには参考にすべき箇所が数多くあった。

 まず、位置取り。トゥインクルシリーズではルドルフは常に厳しいマークに曝されれる中、必ず彼女の得意とする間合いの勝負に持ち込む。そのコントロールはレース全体に及んでおり、全ては掌の上と言って良かった。流石にそのレベルは現時点では望むべくもないが、トゥインクルシリーズ最高峰のアプローチは盗む価値がある。

 次に、スパートをかける前の足運び。彼女のスパートの特徴は迷いなく脚を進めることにある。それを可能にしているのは最終コーナーから加速までの僅かの間に刻まれる数歩であった。そのたった数歩がゴールまでの青々とした絨毯を拓き、彼女に勝利の道筋を指し示す。差しを得意とするウマ娘として、このテクニックは喉から手が出るほどの代物である。

 最後に、その圧倒的な差し脚の速さ。こればかりは才能の果たす役割も大きい。極論を言えば、差し脚のキレがあればあとは努力で何とでも賄えるのだ。

 自分にはその才能が余人より豊かに備わっている。が、『皇帝』と比べて遜色がない、とは口が裂けても言えない。

 

(ま、オレはまだ中一。いきなり完璧を目指さなくても、何とかなるさ)

 

 浴槽の水位が基準に達した。

 ウオッカは動画サイトを閉じ、音楽アプリに切り替えた。アップテンポの曲が湯気を揺らす。

 湯に浸かりながら、目を閉じる。今日のラダーでの感覚がまだ身体の芯に残っていた。脳内でラダーを繰り返す。目線は下げず、頭を動かさない。理想とイメージが重なった。

 

「やりーッ! 」

 

 拳を握り、水面を叩く。

 あとはこの感覚を身体に覚え込ませるだけである。それは遠くないうちに達成されるだろう。ウオッカは無邪気にそう信じた。彼女の思考には何より楽天家の気質に由来する部分が多い。

 この点、スカーレットの精神構造と対をなす。彼女は良く言えば丁寧な、悪く言えば神経質な完璧主義者であった。そして、その性格の例に漏れず、常に自分の長所よりも短所に、周囲の足らざるよりも優れたるに気を取られていた。例えば、彼女の強みは長くもつスパートと有り余る根性にある。が、スタミナはそれほどではない。ゆえに彼女がとるべき戦法は、早めに前につける先行策である。それを彼女は逃げにこだわるあまりスタミナ切れを起こし、最終局面で競り負けてばかりいる。

 キチンと反省をすれば、戦法が自分に適していないことが明らかなのだが、彼女の発想は常に補うことに主眼を置く。最近のトレーニングはランニングマシンの傾斜を強め、走らねば頭から転げ落ちるような姿勢で走り続けている。

 

(私がスタミナで負けるわけがないじゃない! )

 

 この思い込みは彼女の小学校時代に起因する。彼女は身体の発達が早く、体格が一回り大きかった。そのため、何をしようと負けようがなく、幼さゆえの全能感を植え付けられてしまったのである。だが、次第に周囲の同級生の成長が追いつき、彼女と肩を並べるようになり、彼女のリードは小さくなった。余裕は焦燥に取って代わられ、トレーニングの量も徐々に増えていった。その甲斐あって選抜レースでは良い結果を残すことができ、スカウトも少なくなかった。

 が、結局はその全てを袖にし、唯一自ら望んだチームからは拒絶された。残るは選抜浪人だが、それは今年一年ジュニア・トゥインクルシリーズに参戦しないことを意味する。

 

「私はどうすれば…」

 

 汗を拭いながら、彼女は自問する。

 ふと、背後に人の気配が感じられた。真紅の毛束と共に鋭く振り向く。

 

「やあ、ダイワスカーレット君」

 

 立っていたのは、かつて誘いをやんわりと断った黒髪のトレーナーであった。スカーレットの目尻が吊り上がる。先ほどの独語を耳に入れられたかもしれない。

 ヤンとしては、寮の門限が近いため、見回り当番として帰寮を促しに来ただけである。彼女に対して含むところはない。

 が、スカーレットはそうは見なさなかった。ヤンがあえて自身のトレーニングを邪魔したように感じられたのである。結果を出せない苛立ちも相まって、つい煮えたぎった感情が口をついて出た。

 

「アンタに何が分かんのよ⁉︎ 」

 

 決壊した心の堰はもはや持ち直すことが叶わなかった。

 

「アタシは一番にならなきゃいけないの。アイツに勝つだけじゃない。私を負かした気でいるテイオー先輩やラインハルトトレーナー、全員を見返さないと気がすまない! だから、もっとトレーニングしなきゃダメなんだから! だから放っておいて! 」

(でも貴女(アタシ)は一番じゃないわ。何よ偉そうに。そういうの何て言うか知ってる? 負け犬の遠吠えって言うのよ。惨めよね、ホントに)

 

 頭の中には冷静な意見が駆け巡っていた。感情が昂るほど、脳内の声の舌鋒は鋭さを増す。

 

(実は構って欲しいだけじゃないの? 今だってそう、相手が来た途端、トレーニングをほったらかして八つ当たり。そんなんだから、一番になれないのよ)

 

「違う! 」

 

 あまりの声量にヤンの肩は微かに跳ね上がった。

 スカーレットは歩を進め、アイボリーのスカーフを掴む。

 

「アタシは! 一番にならなきゃいけないの! そう誓ったんだから! だから、邪魔しないでよ! アタシが苦しむのを黙って見ててよ。一番になれない…アタシが悪いんだから…」

 

 涙で視界が滲んだ。鼻水も一気に滴り落ちる。

 彼女は情けない姿を見られまい、とヤンの胸に頭を押し付け下を向いた。自らの目と鼻から垂れ落ちる液体が一つ、また一つとシミになっていく。止めようとするも逆効果で、感情の波は寄せるばかり。ついには言葉すら発せず、しゃくりあげて喚くのみである。

 その全てをヤンは受け止めた。

 彼女の感情の昂りがピークを超えると、ベンチに座らせ、落ち着くまで背中をさする。その掌は大きく、そして温かい。彼女はトレセン学園入学以来、初めて人の体温に接したかもしれなかった。

 

「一番になる、という君の夢を否定するわけじゃないが、あまりに壮大な目標を見たままだと、足元を掬われてしまう。もう少し現実的な通過点が欲しいな。例えば、クラシック三冠だとか」

「……クラシック三冠は夢物語って笑われないのかしら? 」

「笑われるだろうね、一冠を獲るまでは」

「一冠を獲っても、そのあとで失敗したら…」

「頭をかいて誤魔化すのさ」

「結局は笑われるじゃない」

「そう、どの道笑われる。ならせめて、最善の準備をして勝てるようにしたら良い。勝負の結果を貶されるのは実力を否定されるだけで済むが、勝負に向けた努力を貶されるのは自分自身を否定されることと同義だからね。それに耐えられるのは余程の恥知らずか、あるいはお気楽者さ」

「アタシはどっちでもないわ」

「見れば分かるよ」

「ねえ、仮にアンタがアタシなら、クラシック三冠とトリプルティアラのどっちを目標に据えるかしら? 」

「それはトリプルティアラだよ」

「クラシックじゃなくて? 」

「君は、あれだ、短気だろう」

「ぶっ飛ばすわよ」

「とにかく、気質的に中距離の方が向いている。そういう意味では、全て中距離のティアラ路線の方が勝算が高い」

 

 ふーん、と相槌を打ちながらスカーレットは立ち上がった。

 すでに気持ちは落ち着きを取り戻している。

 寮に戻ると、ウオッカは目元の赤みで察したのか、いつになく優しかった。

 ルームメイトに謝意を示しつつ、スカーレットはさらりと告げる。

 

「アタシ、ヤントレーナーのチームに入るから」

 

 告げられた側はそっと受け取れる内容ではなかった。

 当然理由を問いただすが、なかなか打ち明けてくれない。

 

「なあ、オレにだけ。絶対に漏らさないから」

「ダメよ。秘密は知っている人数が少ない方が良いもの。一度でも手から離れたら、どうなる分かりきってるわ。そんなに知りたいなら、自力で暴いてみることね」

 

 文句を垂れるウオッカの横でスカーレットは八重歯をのぞかし、笑いを噛み殺した。

 まさか「泣き顔を見られたから」なんて答えに辿り着くはずがないし、自分から言うわけがなかった。ライバルが頭を抱える姿が容易に想像できる。

 




チームに加入して落ち着く間もなく初戦を迎えるウオッカとスカーレット。
レースの女神が微笑むのは…。
次回、ウマ娘英雄伝説『響け! ファンファーレ』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。

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