ターフの魔術師   作:スーミン・アルデンテ

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お待たせしました!

【訂正箇所】
次回予告に誤解を招く表現があったため、編集しました。


第26話:メジロの人々

 月曜日の昼下がり。マックイーンはこの時を毎週待ち望んでいる。中等部2年生・3年生のみが五時間目で授業が終わり、自由時間が与えられていた。さらに、ヤンは例の如く昼寝に出かけているため、一時間にも満たないわずかな時間ではあるものの、チームの談話室を独占できるのだ。

 カップにティーストレーナーを沈め、ウォーターサーバーからお湯を注ぎ、机に置く。待つあいだにケータイからステレオに音楽を飛ばし、再生を始めた。曲はバレエ《白鳥の湖》より『情景』。優美な旋律が部屋に溶け込み、空間を彩る。それに合わせてマックイーンは大きな伸びを一つ。

 そのままカウチソファに根を張ろうとするが、ヤンから申しつけられていた仕事があるため重たい腰をあげ、プロジェクターとパソコンを繋げる。ホワイトボード一面に一昨日のデビュー戦が映し出され、そのまま再生が始まった。

ゲートが開き、スカーレットが出遅れた。先行型の彼女にとってその差は致命的である。同じ脚質のマックイーンには身に沁みて感じられた。

 私ならば、と彼女は自問する。おそらく最初の直線で先頭が見える位置まで駆け上がり、勢いそのままに最終コーナーまで持ち込むだろう。出遅れると体力的にはやや厳しいが、コーナーなどで息をつく瞬間はいくつかある。あくまで彼女の主戦場である中長距離であったならば、の話だが…。

 今回の舞台は距離としてはマイルに分類される。スタミナを回復させるほどの余裕は存在しない。出遅れた真紅の髪の後輩がどのようにして勝利を収めたのか、興味をそそられた。本来は全員集合してから振り返りを行う予定であったが、彼女は構わず動画を続けた。

 最終コーナーを回って最後の直線に入る。

 マックイーンは紫水晶の瞳を見開いた。スカーレットが取った戦法はかつて彼女が七夕賞で取ったものと酷似している。だが、状況としては全く異なっていた。まず、この戦法は自分が脚を残した状態でこそ真価を発揮する。外から馬群を抑えることで後続を牽制し、先手をとってスパートを仕掛けることが要諦なのだ。

 

(スカーレットはそうではありません。最後の直線で早くも一杯に陥っていますわ)

 

 結局はクビ差で一着を手にした。

 が、実力に裏打ちされた勝利と言い切れる結果ではない。相手の稚拙さが彼女を相対的な勝者の位置へと後押ししただけである。

 ヤンがどう評するのか、気になるところであった。それは間もなく明らかになるだろう。

 機器が正常に作動するのを確認すると、彼女は今度こそソファに沈み込み、足を投げ出す。メジロのウマ娘として、また一人の淑女(レディ)としてあるまじき、あられもない姿に成り果てた彼女だったが、誰も見ていないのを良いことにそのままカップを引き寄せ、茶葉を取り出す。

 ミルクを入れると、透き通った茶褐色の液体がみるみるうちに亜麻色へと姿を変えた。

 口をつけ、弛緩する全身の筋肉に命の水を行き届かせる。

そのまま目を瞑って一眠りしようと考えないではなかったが、彼女はレースが近い。分析を怠るべきではなかった。

 制カバンからノートを取り出し、ページを繰っていく。京都レース場のページに行き着いた。分析といっても、構造は非常に単純である。ほぼ平坦なコースの中、向正面から第3コーナーにかけてアイロンのような形をした丘がある。目立つ特徴はそれが唯一であり、地力の差が出やすいレース場と言っても良い。故に菊花賞は「一番強いウマ娘が勝つ」と称せられていた。

 菊花賞における最大の難関はコースの形状ではなく、むしろ距離であった。3000mという、およそ公式戦で体験したことのない長丁場となる。彼女のステイヤーとしての真価が問われるレースであることは誰の目にも明白であったし、事実上マックイーンとテイオーの対決であることは暗黙のうちに認められていた。

 ステイヤー VS 帝王。

 名前負けも甚だしい。マックイーンは苦笑する。

 いずれにせよ、彼女のやるべきことは以前と変わらない。

 

(練習あるのみ! ですわ)

 

 指導を受ける側としてはそれで良いのだが、授ける側のヤンとしては一筋縄というわけにはいかない。

 トレーナー用食堂に面した池のほとりのベンチに寝そべる彼はベレーを顔に被せて思案に耽っていた。

 現在、マックイーンにはスタミナ強化を指示しており、彼女はそれをよく守っている。が、正直なところテイオーに対する勝ち目は四分六分というところである。トレーナーとしては何とか五分五に持っていってやらねばならない。

 ヤンは空に向かって問うた。

 

「何か妙案は無いものかな」

「おやおや、お困りかな。昼行灯さん」

 

 ヤンは緩慢な動作でベレーを外す。視界一杯に千草色の髪のウマ娘が映り込んだ。

 

「どうして、君がこんなところに? 勧誘ならとっくに打ち切ったよ」

「やだなー。一応、私チーム入ってるんで、失礼しちゃいますね、まったく。そ・れ・に、ここ私のお気に入り昼寝スポットだって言わなかったっけ? 」

「そいつは初耳だった。寝床を横取りしてすまなかったね」

「許しましょう。空よりも広い私の心に免じて。そして、海よりも情け深いスカイさんに話してごらんよ、君の悩みってやつをさ。これでも去年の菊花賞勝ってるんだよ? 」

 

 見事に内心を看破されたヤンだったが、驚く素振りすら見せず上体を起こす。

 ベレーの形を整えると、帽子としてあるべき位置に戻した。

 

「君の時はたしか逃げを打っていたね。あの会長のレコードに迫る好タイムだったとか」

 

 スカイの耳がぴくりと跳ね上がった。会長云々のくだりはあまり触れられたくない話題らしい。

 紺碧の瞳を水面に移し、一年前の記憶を滔々と語りだす。

 

「私にとってジュニアの菊花賞は初めての長距離だったんだ。当たり前なんだけどペース分かんなくて練習も空回ってばっかりで…。沖野トレーナーにも心配されちゃったな。んで、煮詰まった挙句、発想を逆転させたんだよ。

 私に分かんないんだから、誰も分かりっこないってね。

 結局、作戦はハイペースの逃げ。全員を諸共に巻き込んでやった。あの時のスペちゃんの反応は傑作だったなー。『ええ! セイちゃん逃げるの⁉︎ 』って顔してさ。同じチームなんだからメニューで色々察せるだろうに」

 

 大口を開けてモノマネをした後、彼女は笑いを噛み殺す。

 

「どう? 参考になった? 」

「ああ、充分に」

 

 ヤンは立ち上がると、スラックスについた塵を払い落とした。

 トレーナー室の方に足を進め、後ろ手にスカイに別れを告げる。

 千草色のウマ娘はそのしなやかな指を銃に見立てて、去りゆくヤンの背中に狙いを定めた。

 

「あんまり隙を見せてると、撃っちゃうぞ」

 

 口で銃声を模しながら指を跳ね上げる。無い煙を吹き消し、誰に聞かせるでもなくポツリと呟いた。

 池の水面の細波が彼女の瞳の中できらりと妖しい光をたたえている。

 

 

 

***

 

 

 

 ヤンがチームの談話室のドアを開けると、部屋は緻密に計算され尽くした旋律で満たされていた。選曲者はソファに身を預け、意識は留守にしているらしかった。

 ジャンパーを上から掛けてやり、冷房の風を弱める。

 ティーバッグをカップへ滑り込ませ、湯を注ぐ。頃合いになると袋を取り出し、ゴミ箱に放った。芳しい湯気がヤンの鼻腔をくすぐる。

 半分ほど飲むと、スカーレットとウオッカが肩を並べて扉をくぐった。しばしの間を置いてベルノとオグリが連れ立って部屋に入る。さらに遅れてタキオンがやって来て、全員が揃った。

 

「これから見てもらうのは一昨日のデビュー戦だ。出走した二人は勿論のことながら、他のメンバーにも意見を聞くから、各々そのつもりでいてくれ」

 

 そう言ってヤンは再生ボタンを押す。

 スカーレットとウオッカの脳裏にはその光景が鮮明に刻まれている。記憶と記録の食い違いにわずかな違和感を覚えつつ、二人は映像に集中した。

 再生が終わると、ヤンが感想戦の口火を切る。

 

「さて、どうしたものか。

ウオッカは仕掛けのタイミング、コース選択については悪くなかった、と思うよ。ただ、スピードが足りなかった。そこが今後の課題だな。

 スカーレットは結果については申し分ない。が、内容の方はちょっと不味い。出遅れたがために随分とペースを乱された。今度はもっと楽に勝てるように、スタートの練習を取り入れてみよう。他にも言いたいことはあるが、今はそれだけだ」

 

 ウオッカはふと傍のウマ娘を見やる。不意に視線が交錯した。記憶の中のライバルならば、ヤンに対して反駁すると思われたのだが…。

 以降もメンバーからの指摘は相次ぎ、そのたびに彼女は真紅の毛束を揺らし頷く。驚くべきことに、手帳を取り出してそれらを書き留めてすらいた。

 練習へ向かう途中、ウオッカはスカーレットに対して問うた。

 

「どういう心境の変化だよ。お前が素直にアドバイスを容れるなんて…」

「別に、アタシを見てくれてるからこその助言でしょ。理由も納得がいったし。そっちこそ、どういうつもりよ。まるでアタシがいっつも反抗的な態度をとってるみたいじゃない。失礼しちゃうわ」

「オレの知ってるスカーレットさんだったら、出遅れた分を取り返すだけよ! って、マッハ3で撥ね付けるぜ」

 

 言った瞬間、ウオッカはすでにトラックへと駆け出している。

 スカーレットはその背中を追いかけた。

 二人の後ろ姿を見送りつつ、マックイーンは安堵の息を吐く。後輩たちは驕りや僻みとは別次元を走っているらしかった。それら他者に依存する負の感情ほど正常な成長を妨げるものはない。

 

「どうやら、最も懸念していた事態は避けられたようですわね。これで安心して実家に行けるというものです」

 

 過密スケジュールを控え、彼女は精密検査を受けるため実家から一時帰宅を要請されている。知らぬうちに燻っていた火種が燃え上がっては困るのだ。

 目の前の戦いに集中するために。

 

「テイオー…」

 

 決戦の日は着々と迫っている。

 

 

 

***

 

 

 

 三女神の噴水前、一人の少女が佇んでいる。名をメジロドーベル。マックイーンと同じくメジロ家の生まれで、彼女もまたトゥインクルシリーズでの活躍が期待されている。

 されている、というのは表現に正確さを欠くかもしれない。彼女に言わせれば、『かつてはされていた』である。

 なぜなら、彼女の同世代にトウカイテイオーが存在し、常に頭を押さえつけられているからだ。学内の選抜レースでの対決を緒戦とし、以来四度の敗北を喫している。その全てが完敗であった。プライドを賭けて臨んだホープフルステークスは五馬身差をつけられ、次こそは、と練習に励む彼女を嘲笑うようにーー彼女はそう感じたことを今もなお恥じているーーマックイーンが頭角を顕し、ジュニア・クラシックは彼女らの一騎打ちの様相を呈すかに思われた。ドーベルはそこに分け入る隙を見出せず、トレーナーである東条ハナの勧めもあり、ティアラ路線を選んだ。結局は桜花賞・オークスと二冠を達成しているが、元はと言えば逃避から始まっており、世間の注目がテイオーに向いているからか、ドーベルはその半分も評価されなかった。

 ついたあだ名は「影の女王」。

 本人からすれば、皮肉のスパイスが効き過ぎているように感じられた。

 艶やかな緑の黒髪、憂いを帯びた藍色の瞳。深窓の令嬢に似つかわしい面貌をしたウマ娘はその脆さゆえの寡黙も相まって学内に多くのファンを抱えている。年長からは気難しい妹として、年少からは物静かな強者として、見守られつつ憧れられている。

 特に高等部、ルドルフに心を踏み躙られた者らはドーベルが第二の自分に身を落とさぬよう、細心の注意を払っていた。リギルのマネージャーを務めるエイシンフラッシュがその筆頭格である。今日の検査に際しても、

 

「絶対に受けるべきです。私のように失意のどん底に沈みながら再起不能を告げられることがどれだけ辛いか…。あのような思いを貴女にはして欲しくありません」

 

 と、検査を行う必要性を懇々と説いた。

 細菌性屈腱炎のために競技人生を諦めざるを得なかった先輩の言葉は軽くはない。

 彼女は折れた。

 

(怪我をするぐらい根を詰めた方が良いのに…)

 

 ドーベルは常日頃からそう思っている。が、決して口には出さない。以前東条トレーナーの目の前で同じ内容のことを無意識のうちに漏らしたところ、逆鱗に触れた。彼女の剣幕は地を裂き、天を割るほどの凄まじさで、

 

「自分を追い込むことは自らを壊すことではない! 覚悟を履き違えるな! 」

 

 と、叱責を受けた。

 道理はトレーナーらにある。それは誰の目からも明らかであり、他ならぬドーベルがよく分かっていた。

 

(それでも、私は……)

 

 水面に映る自分はひどく頼りなげで、今にも消えてしまいそうであった。

 負の連鎖に従って自己嫌悪の波に沈む彼女を現実へ引き戻したのは彼女の双子の姉、メジロライアンの声だった。

 

「ドーベル! 遅れてごめん」

 

 短く切っ癖っ毛、暁闇を溶かし込んだ瞳。そして何よりも彼女を彼女たらしめているのは、抜けるような清々しい性格である。

 ドーベルの姿を認めるや否や走った彼女の額にはうっすらと汗が滲んでいた。

 

「あれ? マックイーンは? あの子が時間に遅れるなんて、珍しい」

「さっき連絡があったわ。感想戦、長引いてるみたい」

「確かに、一年生のデビュー戦だもんね。指摘はいっぱいあるか」

 

 しばらく経って、マックイーンはやってきた。その表情には鬼気迫るものがあり、周囲の生徒を無言のうちに押しのけている。

 

「申し訳ありません。すっかり待たせてしまって…」

「良いって、良いって。私たちもついさっき来たところだったから」

「そうでしたか、それなら良いのですが…」

 

 マックイーンは怪訝な眼差しを二人に向けた。

 顔に出やすいライアンの目が泳いでいる。

 ドーベルは手を叩き、彼女らの思考を打ち切った。

 

「はいはい、車がもう正門前に来ているから、行くよ二人とも」

 

 トゥインクルシリーズ創設以来の名門であるメジロ家の令嬢たちが肩を並べると、威厳が増し、彼女ら一人一人が醸し出す音色からは想像もつかぬほど重厚な三重奏が奏でられる。

 フリープラネッツのキャプテン、マックイーン。

 週に8回ジムに顔を出すトレーニングジャンキー、ライアン。

 最も過酷なチームと名高いリギルのメンバー、ドーベル。

 それら強烈な個性、或いは肩書きがメジロ家というだけで、付属品となる。

 本家、分家のいずれかのウマ娘が必ずトレセン学園に在籍し、重賞レースで勝利せざるはなし、という驚異的な系譜の出であるがために、彼女らは色眼鏡から逃れる術を持たない。

 例え申し分のない成績を残していたとしても…。

 

 

 

***

 

 

 

「結果は皆様揃って異常なし。まことに重畳でございます。特にマックイーンお嬢様に関しましては、トレーナーが型破りな肩書きですので一層の注意を払いましたが、杞憂だったようです。菊花賞ではライアンお嬢様、そしてテイオー様との良い勝負が見られるでしょう」

 

 メジロ家の主治医が検査の結果を報告している。彼が言葉を区切るたび、対面の老ウマ娘は満足そうに頷く。

 相手は現メジロ家当主、マックイーンら3人の祖母にあたる。

 彼女はシワの刻まれた手で報告書のページを繰っていく。

 

 

「結構、結構。ウマ娘は身体が資本。何かあってからでは遅いですからね。

 ところでドクター。細菌性屈腱炎の研究の進捗はどうですか? 」

 

 細菌性屈腱炎。

 それは原因が判明している唯一の屈腱炎である。病原菌はStreptococcus Ungula。個々の菌体が蹄型に並んだ鎖状の配列を作ることが特徴的で、ペニシリンにのみ感受性を示す。ペニシリンが薬効を示せば、元の生活に戻れるが、耐性菌であった場合、脚が侵され二度と走ることは叶わない。

 メジロのウマ娘では当主である彼女の娘の一人、マックイーンの母が発症し、引退を余儀なくされている。罹患率と家系の関連性も指摘されているため、メジロ家が管轄する研究所では菌についての研究が強力に推し進められていた。

 

「菌の生態すら未だ解明すること能わず。また、病態生理についても未だ多くの謎が残されております。なぜ、筋膜炎ではなく、屈腱炎なのか、目下研究中であります」

「何も詫びることはありません。基礎研究に10年、20年を要するのは世の常です。ましてや努力が結実することなく、成果としてただ行き止まりが一つ見つかっただけ、ということも珍しくありません。臆せず研究を続けてください」

「かしこまりました」

 

 主治医が一礼して部屋を辞した。

 当主は執事を呼び、マックイーンを呼ぶように申しつけた。

 

「よろしいのですか? この後、来客がございますが…」

「待たせておきなさい。何事にも優先事項があります」

 

 本来ならば、メジロの品格を貶める行為である。だが、執事は今回ばかりは敢えて素直に従った。

 

「お婆様、マックイーン、ただいま参りましたわ」

 

 呼び出された理由が思い当たらないからか、彼女はスカートの裾を握って静かに入室した。

 

「マックイーン、貴女に伝えておかねばならないことがあります。が、その前に……今回のハードスケジュール、提案したのはヤントレーナーですか? 」

「いいえ、違います。私がお願いしたのです。あの方はむしろ難色を示しておいででした」

「天皇賞を制すため、ですか? 」

「その通りですわ」

「一つ言っておきます。天皇賞を秋に制そうが、春に制そうが、私たちは構いはしません。だから、無理だけはしないで頂戴」

「分かっております。ヤントレーナーからも重々申しつけられておりますので、ご心配なく」

 

 当主はマックイーンの言葉を聞いて、納得したわけではない。孫の性格を彼女はよく知っていた。

 が、これ以上は逆効果のように思われたため、マックイーンを下がらせた。

深いため息が部屋に吸い込まれる。

 過去と現在と未来、全てが彼女にそうさせた。

 特に、未来の果たした役割が大きいだろう。

 その未来が、姿を見せた。

 

「お初にお目にかかります。トレセン学園元理事、今はトレーナー委員会特別委員を勤めさせて頂いております。伊地知と申します。ご機嫌いかがですかな? 当主様」

 

 よくものうのうと顔を出せたものだ、と彼女は心の中で毒づいた。

 自身が耄碌していなければ、目の前の人物は杜撰な提案によって生徒に不利益を強いた挙句、収賄を理由に理事の座を追われたはずであった。

 が、彼によれば、誤解があるらしい。

 

「まず、そのどちらにも私が関与していたことは事実として認めましょう。しかし、私も被害者なのです。嵌められたのですよ」

「初めて耳にしますわね。例の事件に黒幕がいただなんて」

「そうでしょうとも。しかし、この真犯人の名は聞いたことがおありでしょう。――ヤン・ウェンリーというトレーナーの名を」

 

 伊地知の言うところによれば、ヤンはトレセン学園トレーナーOB会との個人的な繋がりがあった。そのコネを利用して無免許ながらトレーナーとして学園に職を得るや、彼は影響力の拡大を図るため、理事長秘書と通じ、才能豊かなマックイーンが担当ウマ娘となるように手配し、実現した。

 彼が次に目をつけたのは諸事情によりレース参加を拒んでいたアグネスタキオンであった。言葉巧みに彼女を誘導し、選抜レースへの出走を強制。その結果、彼女を悲劇が襲った。現在、彼女は療養の傍ら、ヤンのチームのサブトレーナーを務めている。その真意は彼の毒牙によって選手生命を絶たれるウマ娘をこれ以上生み出さないためである。

 が、彼女の努力虚しく、新たに数人のウマ娘がヤンのチームに参加した。

 

「これは非常に由々しき事態でございます。放置しておけば、後日禍いを引き起こしますぞ」

「それに私の孫も巻き込まれる、と」

「ご明察の通りにございます。一刻も早く手を打たなければ! 」

「妄言を基に動くほど私は暇ではありません。お引き取りください」

「妄言⁉︎ 一体何をもって私の言葉を疑われるのか! 」

「第一に証拠がなく、第二にその説を提唱している者は貴方ただ一人という事実があり、第三にヤントレーナーのお人柄から推察するに、そのような手の込んだ悪事を為すようには思えません」

「ご安心ください。証拠がございます」

「ほう、ではここで見せて頂きましょう」

「それは出来かねます」

「理由を聞いても? 」

「行動を起こすには時機というものがございます。適切な時機に動かぬ証拠を突きつけることで、彼の悪事を快刀乱麻を断つがごとく尽く暴いてご覧に入れましょう」

「その時機というのは、いつでしょうか? 」

「今ではない、とだけ申しておきます。つきましては、その時まで援助をお願いしたいのですが…」

「貴方の言葉が正しい、と証明された暁には協力を惜しみません」

「その言葉、努々お忘れなきよう」

 

 脂汗が絨毯に落下し、シミとなった。

 当主は隠すことなく渋面を顔に貼り付ける。

 伊地知は意に介していない。




チームを担当してしばらく、書類に忙殺されるヤン。
一方のマックイーンは誓いを果たすため、過酷なローテに身を投じる。
次回、ウマ娘英雄伝説『激動』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。

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