ターフの魔術師   作:スーミン・アルデンテ

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第28話:菊花賞

 秋もすっかり深まり、季節は一路冬へと向かっている。その証拠に、最高気温は25度を下回ることが常となっていた。人にとっても、ウマ娘にとっても過ごしやすい季節である。

 この季節特有の天高く吹き抜ける空には幾朶(いくだ)もの白い雲が並び、快晴とは言い難い。が、少なくともここ数日は雨がなく、場は良く整っているであろうことが予想された。それはつまり、後方からスパートをかけるウマ娘たちにも十二分にチャンスがある、ということを示している。

 鼻につく強烈な臭気につられて、マックイーンはバスの車窓からふと外を見やった。

 道沿いに立ち並ぶイチョウの樹々は皆一様に色づき、散るまでいくばくも無い葉に透かされた陽の光が優しく彼女の顔を撫でた。

 コロリ、とひとつの銀杏が道に転がり落ちる。鳩も雀も見向きもせず、打ち捨てられた木の実は彼女の乗るバスによって轢き潰された。一層強い腐酸臭が彼女の乗るバスに流れ込む。

 あじさい色の髪の少女は勢いよく窓を閉めた。とても耐えられるものではない。せっかくの鋭い鼻がねじ曲がってしまいそうな程である。ふと前のウマ娘と目が合った。彼女も銀杏の臭いに閉口していたらしい。互いに微笑を交わす。それは1秒にも満たない束の間の交流であったが、マックイーンは相手が自らと同じレースに出走することを悟った。だけでなく、相手のウマ娘も自分と同様のことを無意識のうちに感じ取ったであろう、とほぼ確信に近い結論を直感的に得た。

 横に座るマックイーンのトレーナーは何一つとして気づいてはいまい。彼はベレーを顔に被せて不動の姿勢をとっているのである。神経がワイヤーロープで出来ているに違いなかった。でもなければ、菊花賞を前にしてこのような豪胆な振る舞いをするはずがない。

 マックイーンは制服の胸ポケットから四つ折りになった今日の出走表を取り出す。

 

 

 

ジュニア・トゥインクルシリーズ 菊花賞:於 京都レース場・芝3,000m

 

1枠 1番 ドットロビン

   2番 キノボリジェニー

2枠 3番 ナイスネイチャ

   4番 エバーホワイト

3枠 5番 アウラコスタンゾ

   6番 アイリス

4枠 7番 メジロマックイーン

   8番 ヘリオロンタン

5枠 9番 マリアネッター

  10番 マヤノトップガン

6枠11番 ハニカリッパー

  12番 アクアサンライズ

7枠13番 クララガンシア

  14番 メジロライアン

8枠15番 ピアニーペネ

  16番 サルビアエントナー

  17番 オペロンフレーリー

 

                     以上17名

 

 ウマ番は真ん中やや内側。今日の作戦から行けば、理想は最も内側の1枠のどちらかであったが、こればかりは言っても仕方がない。各々が希望通りの配置になることは決してないのだ。

 その作戦のことである。

 逃げ・先行・差し・追込に大別すれば、間違いなく逃げに分類される。

 まず、初めにトップスピードで先頭に出て、後続と差をつける。菊花賞のような長距離レースで逃げを打つウマ娘は少ない。おそらくハナに立つのは容易だろう。次に中盤にかけて徐々にスピードを緩めていき、秘密裏にスローペースへ持ち込む。そうすることで、最後の直線でスパートをかける余力を残しておく、という寸法だった。

 やや巧緻に過ぎるのではないか、というのが初めにマックイーンが抱いた感想だった。相手が全員手の平の上で踊ってくれれば良い。しかし、こちらの思惑が外れれば、彼女は余計な体力を消費した状態で終盤に臨まなくてはならない。

 作戦を聞いて間もなくヤンに懸念を伝えると、彼は穏やかな微笑で報いた。

 

「たしかに、その恐れはあるだろうね。ジュニアではなく普通のトゥインクルの菊花賞であれば、君の言う通り裏をかかれるかもしれない」

 

 そう言って彼は言葉を区切り、紅茶で口を潤した。

 

「けれども、今回ばかりは心配ないよ、マックイーン。君の相手は経験の浅いウマ娘ばかりだし、何よりも注目されている。全員が君を意識しているわけだ。これを利用しない手はないだろう? 」

 

 事実、テイオーが欠場を決めてからというもの、菊花賞の最有力候補はマックイーンただ一人となった。月刊トゥインクル内において同レースの特集が組まれた際も、彼女に割かれた分量は群を抜いている。

 

『帝王無きターフにもはや敵なし』

 

 そう大きく銘打たれた記事は、見た瞬間に逃げ出したくなるほど気恥ずかしかったが…。

 全てはスタートから最初の丘を下り終えるまでに懸かっている。ここで、いかに他のウマ娘の注意を向けさせるか、が重要であった。

 バスが停車し、ブザーと共に扉が開いた。レース場に到着したようだった。

 傍らの夢うつつなトレーナーを揺すると、彼は欠伸をしながら伸びをし、

 

「もう着いたのかい? 」

 

 と、ひどく残念そうに漏らした。

 

「はい、すぐに控室で着替え。その後はパドックですわ。ほら、急いでくださいまし」

 

 ヤンの背を押し、バスを降りる。

 これまでのレースとは異なり、不思議と足取りは軽く、程良い昂揚感が身を包んでいた。復帰してから3度のレースを経てようやく感覚が戻ってきたらしい。

 

「調子は良さそうだね」

「ええ、すこぶる快調です。今日のレースでは天まで駆けてご覧に入れて差し上げますわ」

「そりゃあ結構。怪我なく地上へ帰ってきておくれ」

 

 あじさい色の髪の少女はわざと頬を膨らませて見せた。もう少しロマンのある回答を期待していたのである。

 

 

 

***

 

 

 

 マックイーンを控室へ送り出した後、ヤンはオグリと落ち合い、観客席へと向かった。今回の同行は彼女の方から言い出したことである。

 灰白色の髪のウマ娘のお目当てはチームの後輩が出走するレースではない。その後の高等部、トゥインクルシリーズの菊花賞であった。

 やがて競い合うことになる相手を一目見ておきたいのだろう。彼女の興味の的は明らかであった。ビワハヤヒデ、ナリタタイシン、ウイニングチケット、BNWと総称されるウマ娘たちである。

 クラシック三冠最後の一角を制するのは、BNWの3人のいずれかである、というのはほぼ定説になっている。これまでにタイシンが皐月賞を、チケットが日本ダービーをそれぞれ獲っている。一方のハヤヒデは不遇が続いている。両レースで二着に敗れ、実力は認められているものの、未だにG1の勝利はなかった。

 最前列に陣取ると、二人はレース場を見渡した。ターフは未だ無人で、日光に照らされた芝が一面に青々と広がっている。

 近いようで、遠い。

 数えるほどしかレース場に足を運んだことのないヤンにも、その距離はありありと感じられる。

 不意に静寂が破られた。

 パドックでのパフォーマンスが一通り終わり、観客がどっと押し寄せてきたのだ。

 彼らに遅れること十数分、ウマ娘たちが続々と姿を現した。

 マックイーンも足取り確かにターフへ進む。流石にG1、最高峰のレースだけあって、観客の数、熱気は七夕賞と比べものにならない。

 ファンファーレがよく晴れた秋空に高鳴った。

 彼女らは一人、また一人とゲートに収まっていく。

 オグリは手のひらが僅かに汗ばむのを感じた。

 空間が引き絞られ、水を打ったように会場が静まり返る。先ほどまでの喧騒が嘘のようであった。

 ガコン、という音と共にゲートが開いた。

 三冠の栄誉を手にするため、ウマ娘たちは相争う。

 スタートから先頭に立たんといち早く加速するはマックイーンともう一人、マヤノトップガン。二人並んで第三コーナーに入った。京都レース場の特徴的な丘が彼女らを待ち構えている。

 細かく刻みながら坂を上る。コーナーを回りながら、紫水晶の瞳の端で後ろを伺うと、マヤノがピッタリとくっついていた。

 

「7番メジロマックイーン、ペースを上げてハナを進む。2番手はマヤノトップガン! 他は譲り気味か、先頭はもう3身先、いや、まだ差は広がっているぞ」

 

 観客が悲鳴まじりにどよめいた。

 彼らの反応は至極もっともである。3,000mのペースではないのだ。このままでは、確実に潰れる。

 後続のウマ娘もまた同じことを思い、内心ほくそ笑んだ。最有力ウマ娘が勝手に脱落してくれたのである。距離をとって控えておき、終盤で一気に抜き去ってやれば良い。

 その群れの中にあって、ただ一人疑念を抱く者がいた。赤銅色の髪のウマ娘、ナイスネイチャである。ある時は親友として、またある時はライバルとして、彼女はマックイーンのスタミナを目の当たりにしてきた。

 

(ひょっとして、最後まで持っちゃったりします…? )

 

 否定はできない。が、全体としてのペースが速いため、無理に動くのは得策ではなかった。

 下り坂でもマックイーンの勢いは全く衰えない。むしろ、まだまだ加速しているように思われた。

 

「第四コーナー終わって、先頭は7番メジロマックイーン! 続いて10番マヤノトップガン! 一周目のホームストレッチに入ります。序盤は二人のランデブー状態、後続は6身から7身後ろ、スーッと長く伸びています」

 

 観客たちは目の前でマックイーンの走りを見て、驚きを通り越して呆れてしまった。

 いくらメジロ最強のステイヤーの呼び声の高い彼女であっても、最終コーナーを前にして力尽きるに違いない。

 一様に嘆く群衆の中、葵はひそかに喜びを噛み締めていた。徹底マーク作戦が功を奏し、最大の脅威であるマックイーンが掛かったのだ。その証拠に200mのラップタイムは11秒。かなりのハイペースであった。

 

(その調子ですよ、マヤノ! )

 

 当のマヤノもたしかな手応えを感じていた。前を行くあじさい色の髪の少女の後ろにピッタリと付けている。スリップストリームを利用しているため、ペースの割には楽であったが、流石にゴールまでは持たない。

 あとは、いつマックイーンのスタミナが切れるかである。このまま行けば、遅くとも最後の直線で足が鈍るはずであった。

 が、彼女は第1コーナーで巧みに減速し、素知らぬ顔で次のコーナーを回った。そのままのスピードで直線を駆ける。背後のマヤノはペースの変化には気づかなかった。徹底マーク作戦が裏目に出たのだ。マックイーンの姿にばかり気を取られ、肝心の彼女のペースには気が回らなかった。いや、平素のマヤノであれば難なく悟ったかもしれない。しかし、この時、いくら前を行くウマ娘にプレッシャーを与えるためとはいえ、無理なペースを自らに強いてきた。ここらで一息ついておかねば、マックイーンと諸共に潰れてしまう。

 

(もう、充分…だよね! )

 

 マヤノはマークを外し、距離を取った。スタミナのきれたウマ娘が後ろに退がる際に巻き込まれないようにするためである。

 

「向こう正面に入って先頭は7番メジロマックイーン! 1身離れて10番マヤノトップガン。さらに2身、3身、4番エバーホワイト。その5身後ろ6番アイリス、9番マリアネッター。後ろの娘たちは差し返せるのか」

 

 先頭が徐々に減速するに従って、後続も無意識のうちにペースを緩めた。距離は未だ2000を過ぎたあたり。彼女らからすれば、自分たちの方が速いペースに釣られて飛び出してしまった、と考える方が自然であった。

 が、ペースを落とさなかったウマ娘が二人いた。

 そのうち一人はメジロライアン。メジロの英才教育と日々のトレーニングによって培われた体内時計が些細なペースの変化に敏感に反応した。そして、その変化の張本人は彼女と同門である。幼少期から共に過ごしていただけあって、彼女の粘り強さはよく知っている。マックイーンがこのまま引き下がるとは思えなかった。

 いま一人はナイスネイチャ。彼女が知る紫水晶の瞳のウマ娘は無茶をしても無謀はしない。周囲が期待するような自滅の可能性をネイチャは考慮すらしていなかった。勝負は最後の直線、とスタートの前から決めている。差し切るためにも、何としても直線で距離を詰めておきたかった。

 最初にその異常に気づいたのは誰だったのかは定かではない。

 もしかしたら、疑問に思っただけかもしれず、次の瞬間には煙のように消えてしまって気にも留めなかったかもしれない。

 実況の声が、それらの疑念を確信へと変えた。

 

「第3コーナーカーブ。全体的にペースが落ちたが、相変わらず先頭はメジロマックイーン! 3身後ろ、2番手マヤノトップガン。さらにその後ろ、4番エバーホワイト、9番マリアネッター、6番アイリス。3番ナイスネイチャ、14番メジロライアン、ここで上がってまいりました。この隙に位置を押し上げようという魂胆でしょうか」

 

 周囲と同様、葵の頭に疑問符が浮かぶ。ストップウオッチでマックイーンのタイムを計測をしてみると、200mを13秒。序盤とは比べるまでもないスローペースであり、長距離レースとしても遅めであった。

 葵の顔から血の気が引いた。

 先頭を行くマックイーンは掛かってなどいなかった。意図的にペースを釣り上げていたのだ。作戦の根底が音を立てて崩れる。もともと、スタミナを切らしたマックイーンを最後の直線で抜き去る予定だった。が、今のままではそれは叶わない。徹底マークによってマヤノも疲弊している。ここまで大胆に息を入れられてしまっては、到底勝ち目はない。

 

「第4コーナーカーブ、最初に仕掛けたのはマヤノトップガン! マックイーンはまだ4身先、追いつけるのか⁉︎ 」

 

 マヤノに続いて、ネイチャ、ライアンも速度を上げる。目標はただ一人、先頭をひた走るあじさい色の髪を靡かせるウマ娘であった。

 コーナーを曲がりきり、マヤノは前にあと1身と迫った。次の瞬間、その背中が遠のく。マックイーンが温存していたスタミナを惜しみなく解放し始めたのだ。足を踏み出せど踏み出せど、差が一向に縮まらない。

 外から赤銅色の影が飛んできた。並ぶ瞬間すらない。

 やや遅れて、もう一人のメジロがマヤノを抜き去っていく。

 

「残り400! 先陣を切ったのは7番メジロマックイーン。食い下がるメジロライアン。ナイスネイチャここまでか。先頭はメジロ一騎討ち! 」

 

 ついにライアンが2番手に躍り出た。先頭までは半バ身。射程圏内である。

 余力は最早ない。

 それはマックイーンとて同様であった。

 残りは約1ハロン。

 ここまで来ればモノを言うのは才能でも機転でもない。

 根性勝負である。

 

「200を通過! 先頭はメジロマックイーン。並びかけてくる、メジロライアン。譲らない。今ゴール! 」

 

 場内は静寂に包まれた。どちらが一着か容易に判断できなかったのである。

 観客は一様に電光掲示板へと目を注いだ。

 灰白色のウマ娘は傍らのトレーナーに陳腐な質問を投げかけた。

 

「なあ、一体どっちが勝ったんだ…。私としては、マックイーンが一着だと思うのだが…」

「彼女のトレーナーとしては、そうであって欲しいね。ただ、今更結果は変えられない。発表を待つとしよう」

 

 オグリは頷くと、掲示板に向き直った。

 やがて順位が発表された。

 

1着: 7番 メジロマックイーン

2着:14番 メジロライアン

3着: 3番 ナイスネイチャ

4着:10番 マヤノトップガン

5着: 1番 ドットロビン

 

 

「マックイーンだ。マックイーンだ! 勝ったのは、メジロでもマックイーンの方だ! 」

 

 場内は喝采で包まれ、歓声が勝者に降り注いだ。

 奇しくも、ここにはいないあるウマ娘の走る姿が全員の頭をよぎる。

 もし彼女が予定通り出走していたならば、結果はどうなっていただろう。




ライバルの勝利の裏で、テイオーの目標は一朝の露となって消え失せた。
が、彼女に俯く暇はない。
憧れは未だ走り続けている。
彼女の脳裏に焼きついたままの姿で。
次回、ウマ娘英雄伝説『星屑の夢』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。

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