何卒、よろしくお願いします。
次の日、マックイーンは朝から心ここに在らずだった。授業中、ノートと教科書こそ机の上に出しているものの、そこに書かれているのは板書ではない。昨日の自分のタイムだ。あの後、彼女のスマホにヤンから送られてきたデータに目を通すと、意外な事実が浮き彫りになった。
タイムにそれほどの差がなかったのだ。彼女の感覚では少なくとも1秒の開きがあるように思われたが、実際はその10分の1以下で、大きな変化はなかった。
では、何が原因だったのか。それを探るため、彼女はノートに100mごとのタイムを書き写している。その増減を調べると、一本目はコンスタントに時間を刻み、最後に少しタイムを落としている。一方の二本目では中盤から終盤手前までのタイムが早く、最後の落ちがより顕著になっている。
同じ2400mだが、内容が大きく異なっているのだ。自分の中のペース配分が実現できなかった原因は一つしかない。エアグルーヴの後追いである。
(まさか、後ろにつけられるだけでこんなに…)
マックイーンの動揺は少なくなかった。これでタイムに差が出ていたならば、まだ納得もできただろう。しかし、タイムとしては全く変わらないのだ。
(悲嘆に暮れている暇はありません。トレーニングをして、乱されない集中力を身につけなくては)
その日、彼女は集中力を高めるためのアイデアを出してはボツに、出してはボツにを繰り返したものの、満足のいく思いつきを得られないでいた。
モヤモヤとした気持ちを携えながら更衣室へと行くと、同じメジロ家に所属するメジロライアンと出会った。
「マックイーン! 聞いたよ。ついにトレーナーがついたんだって。これでレースに出れるね!」
彼女は我が事のように喜び、抱きつかんばかりに肩を叩く。
「ええ、今日から本格的な練習を始めますの。まだメニューを受け取ってませんが、ワクワクしますわ」
「うんうん! がんばってね! マックイーン、じゃあお先にー」
手を振りながら更衣室を後にするライアンの足取りは相変わらず軽快で、颯爽と駆けていった。彼女と共に陽気も幾分か去ってしまったのか、静けさが際立つ。
マックイーンは着替えをテキパキと済ますと、時間を確認した。15時45分。トレーニング開始まで30分残されている。ベンチに腰を下ろし、制カバンからノートを取り出す。
今日もう何度開いたか分からなかった。タイムを見たからといって変わるわけもなく、歯痒さが減るわけでもない。
(秋の天皇賞まであと3ヶ月。このまま燻るわけにはいきません)
まだ隠された原因があるかも知れない、とマックイーンはタイムを指でなぞる。
と、その時、勢いよくドアが開かれる音が彼女を現実へと引き戻した。
「やっほー! お疲れ様ーッ! あれ、マックイーンじゃん」
伸びやかな声と共に更衣室へと入ってきたのは、トウカイテイオー。彼女とは同学年であり、得意とする距離も似通っていることから、一年目は同じレースに出走することもしばしばあった。しかし、今やテイオーはジュニアの皐月賞・日本ダービーを制した二冠ウマ娘であり、これまでの戦績は6戦6勝。常勝のウマ娘として高い人気を誇るようになっている。
マックイーンは彼女を羨ましくも、恨めしくも思う。もし、前トレーナーが健康だったならば…。詮ないことだが、思わずにはいられない。
うちに渦巻く複雑な感情とは裏腹にマックイーンは美しい微笑みを投げかけた。
「あら、テイオー。お疲れ様ですわ。あなたもこれからトレーニングかしら? 」
「そうだよー、次の菊花賞をとれば会長以来の無敗の三冠ウマ娘だからね! マックイーンもようやくレースに出れるんでしょ。また一緒に走ろうね! 」
テイオーは純粋無垢な笑顔で応えつつ、手早く準備を終え、更衣室を後にした。
マックイーンは更衣室にまた一人となった。
手持ち無沙汰になってしまった彼女は再びノートを見るのも気が乗らず、ゆっくりと練習場に向かうことにした。
ヤンをトレーナーとして迎えてはじめての練習である。彼には前歴がないため、どのような方針でメニューを立てるのか、彼女は見当がつかないでいた。
周囲は、やれ海外の天才だの、やれたづなさんの親戚だの、出どころの確かではない噂を並び立てて彼を評価しようとしている。なお悪いことに、彼が醸し出す捉え所のないオーラがまたそれに拍車をかけており、最近は凱旋門賞のウマ娘の育成にかかわったと囁かれ始めた。
野次馬としては対岸の火事のため、それで良いかもしれないが、教えを受ける当の本人からすれば、もっと確からしい情報が欲しかった。
(そういえば、ラインハルトトレーナーも最初は何も情報がなく、さる帝国の皇太子ではないか、と噂されたこともありましたわ)
それが今や学園が誇る天才トレーナーである。
自分を担当するヤンもそうなるだろうか。俗な考えが頭をよぎったが、すぐに首を振って思考の片隅に追い込む。
ヤンに失礼な気がしたのだ。まだ担当と決まってから2日目で、実力の片鱗すら見せていない彼をラインハルトと比較するのは、まるでギャラクシーに入ることが自己の栄達につながると思い込んでいるようで、そんな自分もまた醜い。
(メジロ家のウマ娘として、そのような不義は固く戒めねば)
不安と昂揚感でないまぜになりつつ、マックイーンは指定された練習場に向かった。
灰色の空が低くのしかかっている。
昂った感情、戸惑い、不安、全ては発露へ向かっていく。
若いマックイーンに抑える術があるはずもなく…。
次回、ウマ娘英雄伝説『重荷』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。