まちがった青春をもう一度。   作:滝 

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もう一度、初めて雪ノ下雪乃と出会う。

 あまりにも小さな手が、その手をいっぱいにして俺の小指を握っている。

 ついさっきまで顔も身体も真っ赤でまるで別の生き物みたいだとすら思っていた我が子は、雪乃の腕の中でその白い肌を映えさせながらすぅすぅと寝息を立てていた。

 

「気持ちよさそうに寝ているわね」

 

 産婦人科のロゴの入ったガウンを着た雪乃は、安らかな寝顔を見てから小さな微笑みを俺に向けた。

 たった数時間前に産み落とされた命は、確かな熱を持って俺の指を握り続ける。それが反射だと分かっていても、その感覚にさっきからずっと感動しきりで胸がいっぱいになっていた。

 

「結衣はいつ来るって?」

「明日よ。仕事を休んで来るって言っていたわ」

 

 ふさふさのその髪を撫でながら、雪乃は静かにそう答える。さっきから微笑みは、絶え間なくその寝顔に注がれ続けていた。

 

「明日か⋯⋯。俺とは入れ違いになるかも知れないな」

「大丈夫よ。結衣もせっかく休みを取って来てくれるんだし、あなたにも会いたいでしょう。引き留めておくわ」

「ああ、そうしておいてくれ」

 

 明日、俺は朝からこの子の名前を貰いに行かなくてはならない。

 俺たちの考えた何十通りという名前の中から、出生日時を元に最適な名前はどれかと助言を貰いにいくのだ。子どもの命名には姓名判断鑑定士の意見を聞きたいと、雪乃たってのお願いだった。

 生まれたその日に雪が降っていたから雪乃、という名付けに彼女は何か思うところがあったのか、それともただこの子にとっての最高の名前を与えたかったのかは敢えて聞かなかった。

 彼女がそう望むのならば、俺にはその願いを叶える義務と責任がある。それが雪ノ下雪乃と結婚した時の、俺が誰に宣言したわけでもない誓いの一つだ。

 

「そろそろ預けて来るわね」

 

 ああ、と俺が返事をすると、雪乃は優しく俺の指を握ったままのその手を解き、病室を後にする。生後間もない赤ちゃんは、新生児室にいるのが基本だ。名残惜しいが、仕方ない。

 

「そろそろ寝ましょうか。今なら目を瞑っただけで寝てしまいそう」

「ああ、本当にお疲れだったな」

 

 雪乃が部屋に戻ってくると、俺の答えを聞いてから部屋の照明を消す。

 本当に、お疲れ様というか、もう頭も何も上がらない。

 何年経っても雪乃の体力の無さは相変わらずだったから、俺は我が子の泣き声と雪乃の安心した顔を見るまで気が気ではなかった。

 

「雪乃」

 

 ソファベッドに座ったまま、本当にクタクタに疲れた様子の雪乃をじっと見詰めた。

 子を産む落とすという大変さは、その側で見ていてようやく分かるものがある。何度も気を失いながら出産を終えた雪乃の顔は、やつれたなんて言葉じゃ足りないぐらいの疲労が見て取れる。

 俺は雪乃に見つめ返されながら、深い息を吐いて、そして胸いっぱいに空気を吸い込む。

 

「ありがとうな、本当に」

「⋯⋯おかしな事を言うのね。何もお礼を言われるようなことはしていないわ」

 

 そんな訳がないだろう、とすぐにでも言ってしまいそうになるが、それを言葉にすることはやめておく事にした。長くなりそうだし、今は雪乃を休ませる事を優先するべきだ。

 

「おやすみ」

「ええ、おやすみなさい」

 

 見慣れない天井を仰ぎ、ただ目を瞑る。

 数分と経たずに耳に届く寝息の音に、俺は祈りを込めるように意識を手放した。

 

 

       *       *       *

 

 

 懐かしい景色だった。

 リノリウムの床、プリントの擦れる音、仄かに香るタールの匂い。

 気がつくと俺の目の前には、レポート用紙が突きつけられている。

 

「比企谷。この舐めた作文はなんだ。一応言い訳ぐらいは聞いてやる」

 

 鋭利なまでの視線と、刺々しくも酷く懐かしいその声。俺の記憶そのままの平塚先生は、俺の郷愁とは相対するように厳しい表情を向けてきていた。

 俺の眼前に突きつけられたそれには、「青春とは嘘であり、悪であり」とか何とか書いてある。

 この日の事は、はっきりと覚えている。俺が雪乃と会った初めての日だから、忘れられるはずもない。今でもこんな風に夢を見たって、まるで現実かのように感じるほど俺の記憶の中で鮮やかな色彩を放っていた。

 

「いや、ホント何書いてるんでしょうねこいつ」

 

 もしもこれが数年以内に書いたポエムじみた作文だったら、思いっきり恥ずかしがれた事だろう。しかしさすがに干支も一回りするほど昔の事となると、笑うしかない。

「ふむ⋯⋯分かってやっているという事は、確信犯か。よりタチが悪いな」

 平塚先生は一瞬の思案を見せた後に、ギロりと鋭く俺を睨みつけた。えぇ⋯⋯こっわ。割と怖いもの知らずだった高校生の頃ですら怖かったのに、怖いものを知ってしまった今ではより怖い。いや俺ビビリ過ぎだな。

「この忙しい時期にその悪意のある行為は、如何なる理由を持ってしても看過できない。よって君には、奉仕活動を命じる」

 まるで既定路線のような台詞に、俺は思わず吹き出してしまいそうになる。この続きは、分かっている。俺は奉仕部の部室に連行され、強制的に入部させられるのだ。

「はぁ」

「ついて来い」

 有無を言わさぬその言葉に、俺は廊下を久方ぶりの上靴で叩き歩く。その音も凛と澄んだ空気も、何もかもが懐かしい。

「君は部活には所属していなかったな?」

「ええ」

 特別棟に踏み入れながら、俺は短くそう答える。昔懐かしい奉仕部の部室まで、あともう少しだ。

 名前のない、真白なサインプレート。それを見上げて俺は、胸が痛いほどの懐かしさに満たされる。こんなにも現実味のある夢を見るほど、総武高校で過ごした日々は鮮烈に記憶に刻まれているらしい。そのリアリティは、記憶の追体験と言う他ない。

「着いたぞ」

 そう言った瞬間に、平塚先生はその扉を開く。その瞬間、一陣の風が吹き抜けた気がした。

 教室の後ろの方へ押しやられた椅子と机たち。暫く使われた様子もない黒板。窓から差し込む斜陽は、彼女の完璧な造形により深い影を落とす。

 僅かな赤みを帯びたその世界の中、佇むようにただ本へと視線を落とす彼女。世界が終わってしまった後も、きっと彼女はこのままこうしているんじゃないかと思うほどに、その光景は絵画じみていた。

 

 ──俺は彼女の名前を知っている。

 

 雪ノ下雪乃。

 俺の将来の妻であり、たとえ自分の名前を忘れようとも忘れられない名前。

「⋯⋯⋯⋯」

 ⋯⋯いや、それにしても。

 高校生のうちの奥さん、可愛すぎません? いや三十路に近い雪乃も大人の妖艶さも相待って途轍もない美人だし可愛さてんこ盛りなんてすけども、ええ。実際十代の彼女を見ると、わっかいなークソ可愛いなーとしか考えられないわけで。

「平塚先生。入る時はノックを、とお願いしていたはずですが」

 その声は耳馴染みのある声よりも、少しだけ高い。声まで可愛いですね、うちの奥さん。ほんとこの夢、最高だわ⋯⋯。

「ノックをしても、君が返事をした試しがないじゃないか」

「それは返事をする前に、先生が入ってくるからです」

 その棘のある言い方も諦めたような目も、随分と久しぶりに見るものだ。感慨深くそれを見届けていると、ふと雪乃と目が合う。

「それで、そのやたらと腐った目の奥がキラキラしている人は?」

 ああ、いけない。いくら夢とは言え、余りにも無遠慮に彼女を見詰めすぎていたようだ。

「彼は比企谷。入部希望者だ」

「⋯⋯二年F組比企谷八幡です。よろしくどうぞ」

 俺がそう答えると、平塚先生が怪訝そうに眉を顰めた。

 その表情に、この当時の事を思い出す。確か俺は、入部って何だよと抵抗したんだっけか。

「彼にはとある罰としてここでの奉仕活動を命じたところだ。目を見れば分かると思うが彼は相当に性根が腐っているものでな。人との付き合いを学べば多少はマシになるだろう。こいつを置いてやってくれるか。彼の捻くれた孤独体質の更生が私の依頼だ」

「⋯⋯お断りします。その男の獲物を狙うような目に、身の危険を感じるので」

 えぇぇ⋯⋯断っちゃうのかよ。比企谷八幡、奉仕部入部失敗。どんなバッドエンドだよ。いやそう言えば、元々こんな感じで拒否されていたっけか。

「そう言ってくれるな。こう見えて彼は阿呆ではない。下手な事をすればどうなるか、理解しているよ」

 何だか穏やかではない展開に、随分と居心地が悪くなる。

 まあ部屋に入ってくるなりキラキラした目で見てくる奴が居たら、きっと自分目当てでやってきた輩だと勘違いしても無理はない。この頃から雪乃は、自分が容姿に恵まれている事を自覚しているからこその態度だろう。

「⋯⋯それでもまだ、信用は出来ません」

「まあそれも無理もないかも知れんな。些細な事でもいい。もし何かあったら私に言いたまえ。学校から放逐する」

 いや、何だそれ。雪乃の告発ひとつで退学かよ。

 思わず突っ込んでしまいそうになるが、所詮は夢だ。もしあの時こんな風に過ごしていたら、本当に言われていたかも知れない言葉なのだろう。

「それなら⋯⋯まあ⋯⋯。分かりました」

 渋々、と言った様子で雪乃は小さく首肯する。本当嫌そうですね、雪乃さん。ぼくはこうこうじだいのあなたともういちどあえてとてもしあわせですが。まる。

「では、後の事は頼んだ」

 そう言うと平塚先生は長い髪を翻し、颯爽と奉仕部の部室を後にする。随分と懐かしい、奉仕部での雪乃との二人の時間だ。

 長机も、ペラペラの座面の椅子も、何もかもがあの頃の通り。よっこいせ、と俺は自分の席に座ると、その瞬間から雪乃に怪訝な目を向けられる。

「⋯⋯着席の許可も無しに座るだなんて、まるで躾がなっていないようね」

 えぇ⋯⋯許可制だったのかよ。こんな時、俺は彼女にどんな風に返していたっけか。

「俺はお前に『お座り』と言われないと席に座ることも許されないのかよ⋯⋯」

「お座り、という言葉の意味ができるなら、そうして上げましょうか? 犬並みの知能があればだけれど」

 ⋯⋯いや初対面でこれは強烈だな。ここまで下に見られる俺も俺だが、雪乃の態度たるや上から目線どころか雲の上から目線レベルだ。

「別に勝手に座ったっていいだろ。部員なんだし」

「⋯⋯あなた、この部活が何をするか知っているの?」

「奉仕部。依頼が来るまでひたすら暇な部活。違うか?」

 飄々と答える俺に、雪乃は思わずと言った調子で自らの身体をかき抱いた。

「⋯⋯比企谷くん。どう平塚先生に取り入ったか知らないけれど、どうしてそこまで知っているの? 私が目当てなら、今すぐ出ていって貰えるかしら」

 まあ、そんな反応になるよなぁ。雪乃にとって見ればそこまで知られているなんて、ストーキングを受けているも同然だろう。

「なんでそうなる。ここに来る道すがら、平塚先生に聞いたんだよ」

 害意はありませんよ、と知らしめるように、俺は鞄の中から文庫本を取り出す。ぱらりとそれを捲った瞬間に、どこからか流れてくるように一枚の紙が床に落ちた。

 

『救え』

 

 拾い上げたその紙には、ただそれだけが書いてある。何度も直線を書き殴りつけて作ったような字は、どこか脅迫文じみていて鬼気迫るものがあった。

 思わず雪乃の方を見るが、彼女はもう俺の方を見ておらず手元の文庫本に視線を落としている。

 これは一体、どういう事だ。

 俺の知っている出来事の中で、ただこれだけが違っていて、あまりにも異質だった。

 長い沈黙の中、文庫本を読むふりをして頭をフル回転させる。俺が忘れているだけなのだろうか。それともこの空き教室には以前の使用者が居て、悪戯にしかけた紙が何かの拍子に落ちてきただけなのか。

 夢の中だというのに妙に冴える頭で考えていると、無遠慮なまでの音を立てて入口の扉が開く。

「雪ノ下、邪魔するぞ」

「⋯⋯先生、ノックを」

「悪い悪い。ちょっと様子を見に寄ったんだが⋯⋯」

 ふむ、と平塚先生は腕組みをして俺たちを見下ろす。平塚先生⋯⋯が仕掛けたわけでもないよな。意味も動機もなさすぎる。

「雪ノ下、いきなり諦めてしまっていないか?」

「⋯⋯その男と会話を続けていいものか、非常に疑問なので」

 その男、って⋯⋯あなたの将来の旦那さまですよ? いや旦那さまなんて呼ばれた事は一度もないけれども。今度そういうプレイもありだなぁ⋯⋯。

「しかし会話が全ての始まりだ。会話がなければ、お互いの理解も進むまい」

「私は理解も馴れ合いもしたくありませんが」

「そうか。それならそれでも構わない。だが私の依頼は覚えているな?」

「それは⋯⋯はい」

 諦念と後悔の混じった表情で、雪乃は俺の方を見る。いいね、その表情。不信感もここまで露わにされるといっそ清々しいし、一周回って新鮮だ。雪乃はどんな表情をしていたって美しい。

「では、頼んだぞ」

 平塚先生は自分が居ては会話が始まらないと考えたのか、早々に部室を後にする。

 ピシャリと扉が閉まると、雪乃は「はぁ」と諦めたような吐息を一つつくと、読んでいた本を机に置いてこちらに向き合う。

 あの紙切れに書かれていた事の意味は未だ不明。だがこれは夢だ。ならば今は。

 

「自己紹介がまだだったわね。私は二年J組、雪ノ下雪乃。奉仕部へようこそ、比企谷⋯⋯三幡くん?」

「八幡だ。五幡足りてないぞ」

 

 ──ならば今は精一杯、あの頃の雪乃との会話を楽しもうではないか。

 

 

 

       *       *       *

 

 

 

 翌朝俺は、ダイニングテーブルに両肘をついたまま頭を抱えていた。

 そう、翌朝。

 夢の中なのに俺は眠りに落ち、そして目覚めた。夢の中で眠ってしまえば完全に覚醒するだろうと踏んでいたのだが、未だ焼き増しのような世界から目覚める気配もない。

 これは非常に困った事になった。俺は早く目覚めて、生まれたばかりのあの子に名前をあげなくてはならない。こんなタイムスリップごっこなんて、している場合ではないのだ。

 

「⋯⋯どしたの、お兄ちゃん」

 

 いつの間にかリビングに入ってきていた小町が、横から俺の顔を覗き込んでいた。昨日の晩にも会ったけど、十二年前の小町わっか⋯⋯。いや、今の小町が老けたとかは全然思わないけど、ついジロジロと見てしまう。

「いや、何でもない」

「ふーん⋯⋯」

 こちらの言うことを全く信じていない声色で、小町はトーストを焼き始める。

 とにもかくにも昔の彼女たちとの別れは名残惜しいが、俺は元いた世界線とも言える現実に戻らなくてはならない。その為のヒントは、きっとあの紙にあるのだろう。

『救え』

 ただそれだけが書き殴られた紙。あれだけが俺の記憶と違っていて、強烈な暗示をもたらしている。

 一体、誰を救えというのだろうか。

 思い返せば俺の高校生活には、後悔にまみれていたように思える。もっと上手くやれていれば、無用に傷つけたり勝手に傷ついたりなんてしなかった。助けるつもりでいて、救いようもない事態になってしまった事だってある。まったく、救うべき対象が多過ぎて途方に暮れるしかない。

「パン、焼けたけど」

「おぉ⋯⋯ありがと」

 俺が頭を上げると、小町が焼き上がったトーストを皿に乗せてくれる。香ばしい匂いに、沈鬱に溺れそうになっていた心も多少は軽くなった気がした。

「頂きます」

 手を合わせてそう言った俺を、小町は怪訝そうな目で俺を見る。そう言えば毎食前にこんな風に丁寧に頂きますを言うようになったのは、雪乃と一緒に暮らすようになってからだったかも知れない。

 

「お兄ちゃん、今日やっぱ何か変だよ」

 

 そう、俺は変わってしまった。

 十二年という歳月が、関わり合う人が、そして俺自身が──取り返しがつかないほどに、変えてしまったのだ。

 

 だからもし、俺がまたあのまちがった青春をもう一度過ごすとしたら。

 もう今度は、間違うわけにはいかない。

 

 

 

       *       *       *

 

 

 

「比企谷、部活の時間だ」

 

 ホームルームを終えて教室を出た俺を待ち構えていたのは、平塚先生だった。

「いや、わざわざ迎えに来なくても⋯⋯」

「ちゃんと部活に行くとでも言うのか? 口だけではどれだけでも言えるぞ」

 どうやら俺はこの当時の平塚先生には全く以て信頼されていないらしい。実際迎えが無ければ、あの時の俺なら普通に家に帰っていたと思う。

 しかし俺には成すべき事がある。だから本当に部活には向かうつもりだったし、今の俺にはそもそも雪乃に会わないという選択肢が存在しない。

「信用ゼロですね、俺」

「当たり前だ。わざわざ人の手をわずらわせる事をする奴の、何を信用できると言うんだね」

 肩を並べ、特別棟に向けて廊下を歩いて行く。今日俺が言い出す事を、彼女は何と返してくるだろうか。芳しくない答えが返ってくるのは、必定だ。

「時に比企谷。君のその腐った目に、雪ノ下雪乃はどう映る?」

 唐突な平塚先生の問いかけ。それに俺は、何と答えたんだったか。

 いや正直JKゆきのん最高マジ可愛過ぎ抱きしめたいとかバカ正直に答えようものなら、即ゲームオーバーなのは見えている。⋯⋯いや本当抱きしめちゃダメかな? ダメだわな。

「何というか⋯⋯自意識と人間不信の塊みたいなやつですね」

「そうか⋯⋯。まるで自分の事を言っているようだ、とは思わないかね?」

 それは本当に、そう思う。思うけどもうちょっと言い方あるんじゃないですかね、現国の教師なら。

 確かにそんな似た部分があったからこそ、コモンセンスの共有が容易だったのだろう。それ故に勝手に期待して、勝手に裏切られた。俺も彼女も、無用に傷ついたように思う。

「きっと君たちは、どこかでバランスを取り損ねて、狂ったままになってしまったんだろうな」

 平塚先生のヒールが床を叩く音が、黙り込んでしまった俺の耳朶を打つ。

「案外君たちは二人三脚でなら、上手く歩けるのかも知れないな」

「⋯⋯もつれて派手に転ける未来しか見えませんね」

「それだっていいさ。転ぶ時が二人一緒なら、一緒に立ち上がる事だってできるはずだよ」

 未来の事まで全て見渡してきたかのような平塚先生の言葉に、感嘆の吐息が漏れる。まさに慧眼(けいがん)だ。事実俺たちは名実ともにパートナーとなって以降、そうやって生きてきたのだから。

「さあ、着いたぞ。行ってこい」

 奉仕部の部室の入口に着くと、バンと背中を叩かれる。中にまでついてくる気はないらしく、ヒラヒラと手を振って平塚先生は踵を返した。

 扉の取っ手に手をかけると、中にいるであろう彼女を驚かせないようにゆっくりと開ける。

「うす」

「⋯⋯⋯⋯こんにちは」

 すでに部室内に居る雪乃は、俺の挨拶とも言えないような一言にたっぷりと時間を取った後にそう返す。手に持っていた本は開いたまま、僅かな時間こちらを見た後に彼女は言った。

「もう来ないかと思っていたわ。普通あれだけ言われたら、二度と行きたくないと思うはずだけれど」

「生憎面の皮が厚いもんでな。あんなぐらいじゃノーダメージだ」

 昨日は随分と辛辣で悪辣な言葉の応酬があったが、むしろ懐かしいと楽しんでいたぐらいだ。そう言って椅子に座った俺を、雪乃は何の遠慮もなく訝しむ。

「そう。⋯⋯あなたひょっとして、私の事が好きなの?」

「⋯⋯は?」

 雪乃の事が好きかどうかなんて、そんなの好き好き大好き過ぎて愛してるまであるって話だ。むしろ今すぐ抱きしめたいぐらい。いえ、抱きしめさせて下さいお願いします。

 って言ったら、一発退場レッドカードくらうんだよなぁ⋯⋯。だから取り敢えずは、あの時の俺が言いそうな事で繋いでいくしかない。

「お前、どうしたらそんな頭の中お花畑な発想になるんだ? アルプスででも生まれ育ったの? 真名ハイジじゃないの?」

「あら違うの? それなら安心ね」

 うふふ、と俺の言う事などガン無視で口元で笑みを作ったが、目は笑っていなかった。これちょっと怒っている時のやつだ。八幡知ってる。

「ああ、勝手に安心しといてくれ」

 しかしこの流れで、今日の目的を達成するのは何ともハードルが高い。けれど後になればなるほど、言い出すこと自体不自然で筋が通らなくなってくる。

 俺は「んんっ」と咳払いをすると立ち上がり、椅子を雪乃の目の前に持ってくる。そこに座り込んで相対するのは、随分珍しいシチュエーションだ。

「雪ノ下」

 俺が呼びかけると、雪乃は椅子の背もたれに身体を預けて仰け反るように俺と距離を取ってくる。いや、そんなに警戒しなくても⋯⋯。

「連絡先、教えてくれ」

「絶対に嫌」

 机にバンと携帯を置いた俺に、雪乃はノータイムで拒絶を返す。ここまでは想定通りだから、問題ない。

「何でだ?」

「何で、って。あなたよくこの話の流れで連絡先を聞こうなんて思うわね。やっぱり私の事が好きなの?」

「どうしてそうなる。一応同じ部活に入ってるんだから、連絡先知っとかないと何かと不便だろ」

 思えばこんな風に、もっと早くに彼女の連絡先を聞くべきだったのだ。そうしていたら、いらぬ不安や不信は訪れなかったのかも知れない。

 もしも、この別の世界線での生活が続くのなら。

 早く元いた場所に帰りたいのは山々だが、最悪のケースも考えて置かなくてはならない。俺の言動の変容によって、すでにこの世界には変化が起き始めている。状況をコントロールする為にも、雪乃の連絡先は入手しておくべきなのだ。

「業務連絡以外、連絡しない。不適切な連絡だったら平塚先生に言えばいい。何か問題はあるか?」

「⋯⋯本当に連絡して来ないわよね? 業務連絡に(かこつ)けたメールのやり取りをしようとか考えてない?」

「だからしねぇって⋯⋯。そう感じたら無視してくれりゃいい」

「⋯⋯致し方ないわね」

 本当に渋々と言った様子で、雪乃も携帯を取り出す。

 雪乃は連絡先を交換する事に慣れていないようだし、俺も昔の携帯の操作方法を思い出しながらで少しばかり時間がかかったが、無事お互いの電話番号とメールアドレスを交換する事ができた。

「試しにメール送ってもいいか?」

「構わないけど⋯⋯セクハラと取られないように、十分注意する事ね」

 本当にこいつ、俺の事どう思ってるんだよ⋯⋯。気が抜けながらも俺はごく短い文章を新規メールの画面に打ち込む。

 

『よろしく』

 

 画面の中で紙飛行機が飛んでいくと、すぐに雪乃の携帯が鳴る。彼女はメールの文面を、心底興味が無さそうに眺めていた。

 今は、それでいい。

 もしもこの世界が続くとしても、俺の目指すところは変わらない。

 俺は絶対に、雪乃と一緒になる。その未来だけは、絶対に変えてはならないのだから。

 

 

 




お読み頂きありがとうございます。
中々こういう設定でのタイムリープは珍しいと思います。
八雪というタグで想像する話とは一味も二味も違うものになるでしょう。
最後までお付き合い頂けたら幸いです。


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