修学旅行から帰ってきて、土日を挟んでの月曜日。
まったくこの二日の休日というのは、酷い有り様だった。食事の時以外は部屋に引きこもり、延々と正答があるかどうかも分からない正解探し。
あの竹林の、青白い夜のことを何度も頭の中でリプレイさせては自分にダメ出しして、替わりの台詞を言わせてみてもしっくり来ない。
しかしもう、月曜日。
俺は学校に行かなければ、そして放課後に奉仕部の部室に行かなくてはならない。いくら自分を責めたところでその時はやってくるし、彼女たちと関わらないなんて選択肢はないのだ。
「あ、おはよ。お兄ちゃん」
しっかりと顔を洗ってからリビングに入ると、小町は朝食を用意してくれているところだった。温かいご飯と味噌汁の香りが鼻腔を満たし、少しだけ陰鬱な気持ちがやわらいだ気がした。
「おはよ」
俺がそう言って椅子に腰掛けると、朝食の準備を終えた小町は俺の目の前に座る。いただきます、と手を合わせると、箸を手に取るわけでもなくじっと俺の目を覗き込んでくる。
「⋯⋯うん。だいぶ顔色マシになったね」
「⋯⋯そんなに酷かったか、俺」
「酷かったよー。目なんて死んでるどころか火葬まで終わってたもん」
そうですか、そんなに灰色に濁った目をしてましたか。愛妹にも心配されるぐらいに、俺はダメダメであったらしい。
俺はその視線から逃れるようにお椀を上げて味噌汁を啜ると、おっかなびっくりといった調子で、小町はいつかと同じ台詞を言う。
「ねぇ⋯⋯。なんかあった?」
「⋯⋯あった」
「それって、雪乃さんと結衣さんも関係ある?」
「ある。⋯⋯そんでもって全部俺が悪い」
そう言い切って小町を見ると、はえーっと気の抜けたような表情が目の前にある。
「珍しい⋯⋯。絶対はぐらかしてくると思ったのに」
確かに以前の俺なら、間違いなくそうしていただろう。しかしそうしたところで何の意味もないし、この時の兄妹喧嘩は随分長引いてしまった事をよく覚えている。こんなところで同じ
「なぁ⋯⋯」
俺は箸を置いて居住まいを正すと、真正面に小町を見据えた。こんな事を実の妹に訊くのは兄としてどうなんだとは思うが、残念ながら適切な相談相手は小町以外に思い付かなかった。
「自分がちょっと傷つく事で、大切なものが守れるとしたら、どうする?」
「えぇ⋯⋯。抽象的すぎるんだけど⋯⋯」
そうは言いながらも質問をしてくるわけでもなく、小町はしかつめらしい表情で腕を組んだ。うーむ、と唸ること暫し。パッと目を開けると、小町は実に軽い口調で言った。
「まあ、ちょっとぐらいなら守る、かな」
その答えに、やはり兄妹だなと俺は少しだけ相好を崩す。だが俺の質問の本番は、これからだ。
「じゃあ、そうする事で他の誰かが傷つくとしたら?」
「これまた抽象的な⋯⋯。そんなの簡単でしょ」
小町は箸を手に取るとピッと俺にその先を向ける。お行儀が悪い。
「守れるものか傷ついちゃう人、どっちが大切か考えて選ぶ」
そう言って卵焼きを口に放り込んだ小町を、俺は身じろぎ一つせずに見ていた。
そう、なんだよな。
小町の言う通りだ。至ってシンプルで、簡単な問いかけだったはずなのだ、これは。
俺がまちがえたのは、その選択だ。誰も彼もを救えると、その慢心がまた彼女たちを傷つける結果になってしまった。
「⋯⋯ありがとな」
「⋯⋯? なんでお礼言うの?」
俺は小町の質問には答えずに、かぶりを振った。
もう答えは決まった。次の選択は、まちがえない。今度こそ、絶対に。
* * *
登校してから放課後になるまで、俺はひたすらに沈黙を守り教室内を静観していた。
誰も彼もが修学旅行の熱を残しつつも、いつも通り。葉山たちグループにもそれは当てはまり、別段変わった様子は見られない。というかそうでなければ、困る。
ひとつ気になると言えば結衣の視線がこちらに向く事が多かったことぐらいだが、それ自体は以前と同じだ。互いの様子が気になるのは、必然だろう。
ふらりと教室を抜け出すと、俺は特別棟には向かわず、一階の自販機コーナーへ足を運んだ。温かいマッ缶を買うと暫く手の中で転がして、その熱を奪う。
プルタブを開けて、一口、二口と舌に絡みつく甘さを嚥下していく。そろそろ結衣も、奉仕部の部室に向かった頃だろうか。
マッ缶が残り半分になると、俺は一息にそれを飲み干して空き缶をゴミ箱に放り込んだ。いつもと違う道を通りながら、部室へ向けて足を繰り出していく。
部室の前まで来ると、中から密やかな声が聴こえてくる。もう彼女たちは、部室の中にいるらしい。
「⋯⋯⋯⋯」
俺は努めていつも通りに、その扉を開ける。
瞬間、止まる会話。廊下にまで染み出した沈黙。
「⋯⋯うす」
「⋯⋯こんにちは」
「ヒッキー⋯⋯」
机の上にはティーコゼーの被せられたポットと、二つのティーカップ。焼き菓子と紅茶の香りがどこか懐かしく感じられる。
扉を閉め、俺がいつもの席に座っても会話が再開する気配はない。それもまあ、無理はない事かと思う。
いっそのこと彼女たちの真正面に立ち、俺の
「今日はもう、来ないかと思っていたわ」
「ああ、ちょっと寄り道しててな」
そう言いながら、俺は何でもないとでも言うように鞄から文庫本を取り出して、読み止しのページを開いた。
それきり、会話は生まれてこなかった。結衣も沈黙をかき消す為に話の端くれを見つけようとしなかったし、それは雪乃も一緒だった。
ただページを繰る音と、時折カップがソーサーに置かれる音だけが部屋に響く。
これが、俺の選択の結果なのだろう。以前よりなお沈鬱で、批難すら向けられる事のない程の隔絶。だが俺がするのは、後悔ではない。その選択を、誤らないことに集中しなければならない。
──コンコン、と。
あまりにも部屋の中が静かだったから、その音はよく響いた。
「どうぞ」
雪乃が僅かに固い声でそう言うと、ガラリと扉が開いて冷たい風が吹き込んでくる。
「邪魔するぞ」
そう言って入ってきたのは平塚先生で、風に弄ばれる長い髪を疎ましそうに撫でつけている。
「少し頼みたい事があるんだが⋯⋯。都合が悪かったか?」
俺たちの間に流れる沈黙に気付いたのだろう。平塚先生はそう言うと俺たちの顔を順番に見ていく。
「いや、何もないですけど」
俺がそう言うと、平塚先生はふむと顎に手をやり頷いた。
その質問には、俺が答えるしかない。雪乃は嘘をつけないから、その代わりを務めるのは俺の役目だろう。
「改めた方がいいか?」
雪乃も結衣も何も言わない違和感に、やはり気付いたのだろう。平塚先生はそう言うが、俺は顔を横に振った。
「いえ、大丈夫です」
そう言って雪乃と結衣の方を見ると、彼女たちもこくりと小さく頷いた。まあ、そうさせたようなものだが、今日のタイミングを逃されてもあまりよろしくない。
「入って来ていいぞ」
平塚先生がそう声をかけると、廊下から姿を現したのは現生徒会長であるめぐり先輩で。
「ちょっと、相談したい事があって⋯⋯」
そう言った彼女の後ろから一歩前に出てきたのは、亜麻色のセミロングの髪を風に揺らした、一人の女子生徒──一色いろはだ。
エアリーな髪型にくりっと大きな目。俺と目が合うと⋯⋯おそらくは以前もそうしたのだろうが、ふわりと微笑みを向けて見せる。
校内で見かけてもかなり遠巻きに眺める事しかなかったから、改めて近くで見ると懐かしさが込み上げてくる。あざとさ全開、甘さもスパイスもマシマシの高校一年生のいろはは、眩しい程にその魅力を全身から滲み出させていた。
「あ、いろはちゃん」
「結衣先輩、こんにちは〜」
小さく手を振り合う彼女たちを見て、俺は人知れずほっと胸を撫で下ろしていた。よかった。ここまでは、ほとんどあの頃のままだ。
万に一つも無いとは思うが、俺は今までの行動に様々な変容を与えてきた。バタフライ効果でこのイベントが発生しないとなると、かなり困る事になるところだった。
「もうすぐ生徒会選挙があるのは知ってる?」
めぐり先輩のその一言から始まった奉仕部への依頼内容は、あの頃と何も変わっていない。
遅れに遅れた生徒会選挙。会計以外の立候補も出ており、後は信任投票を待つだけだが、いろはの意図しないところで生徒会長に推されたこと。なんとかして生徒会長当選を回避したいというその依頼の中身は、あの時と寸分の違いもない。
「一年生だから生徒会長にはなれない、って事にはならないのかな?」
「ならないわ」
「規約には、会長は二年生に限る、みたいな事は書かれてないんだよ」
結衣の質問に雪乃は即答し、めぐり先輩が補足する。
思えばこの会話からでも、雪乃の気持ちを推し量ることは出来たように思う。生徒会の選挙規則まで把握してるとは流石ユキペディアさん、とかそんな話ではなかったのだ、これは。
曰く記憶というのは、定着するかどうかは興味や刺激があるかによるものらしい。読んだものをそのまま覚えておくなんて、いわゆるギフテッドと呼ばれる特殊な人間以外にできる芸当じゃない。故にこの時の雪乃の発言は、生徒会に興味があるという証左に他ならなかった。
「つまりは信任投票で不信任になるか、新たな候補を擁立するしかないということね」
状況を取りまとめた雪乃の発言に、その場の誰もが押し黙る。
俺はもう、落選するだけなら出来るなどと大口を叩く事はしなかった。そんな事をいって
「不信任の線は、正直厳しいだろうな」
そう言って俺は、ちらりといろはの方を見た。
誰もが見て分かる通り、いろはとても可愛い女の子だ。応援演説が酷かろうが、選挙演説がグダグダだろうがまず信任されるだろう。当て馬候補をぶつけたところで、中途半端な人間では勝負にならない。
仮に演説の中身や選挙公約が互角の中身だとしたら、多くの人間がこう判断するはずだ。生徒会長として“視界に入れて心地よい”のはどちらなのか?
そんな残酷な判断基準を、誰しも心に秘めている。
「じゃあ、他に誰かやってもいいって人を探す、とか⋯⋯」
「そんな奴がいたら、とっくにもう立候補してるだろうな」
結衣の提案を、俺はやんわりと否定する。それは結衣も分かっているのか、机に視線を落とした。雪乃は何か言いたそうに俺を見たが、開きかけた唇は元の形に戻っていく。
「何とかなりませんかね〜」
当事者であるはずのいろはは、まるで部外者みたいに間延びした声でそう言った。その態度はこの重苦しい空気を払拭せんが為に作られたものだというのは、今の俺ならば分かる。
「正直、さっぱり良い手が思い浮かばないな」
俺はお手上げ、とでも言うように頭の後ろで手を組んだ。それを見たいろはは貼り付けた笑顔のまま俺を見てくるが、気付かない振りをした。
「結論は出なさそうだな」
それきり黙ってしまった俺たちを見て、平塚先生は寄りかかっていた壁から身を起こしながらそう言った。
「一色さん。また明日、改めてもらってもいいかしら」
「あ、はい」
雪乃の凛とした声に、いろはは思わずといった様子で居住まいを正した。今日のところは、これでお開きだ。
「じゃあまた明日、よろしくお願いします」
いろはは椅子から立ち上がると、雪乃の方を向いて
平塚先生がめぐり先輩といろはを連れて部室を後にすると、再び俺たちの間に音の無い時間が訪れる。その沈黙には先ほどまでの会話の流れで、黙考という名前を与えてもいいのだろう。しかしそんな気休めは、今の俺には必要ない。
「⋯⋯そろそろ帰るわ」
「あ⋯⋯うん」
俺はそう言うと立ち上がり、鞄を背負った。二人からすれば完全下校時間前に自ら率先して帰ろうとするなど、奇異に映るかも知れない。あるいはこの雰囲気に耐えられなくなって帰ろうとしていると思われてしまうかも知れないが、この機会を逃すわけにはいかない。
俺は彼女たちを振り返ることなく──敢えて雪乃の表情を見ないようにして、奉仕部の部室を後にした。廊下に出ると、冬の気配をむき出しの頬に感じながら、早足で歩いていく。
階段を降り、ちょうど空中廊下へと繋がる分岐に差し掛かると、誰かに手を振るいろはの姿が見えてくる。その仕草から察するに、めぐり先輩と分かれたところらしい。
「一色」
早足で追いつくと、俺はその背中に向かって声をかけた。瞬間ビクッと天敵を察知した小動物のように身体を跳ねさせ、いろはは俺の方を振り返る。
そういえば、彼女からしてみたら俺から名前を呼ばれるのは初めてだろう。しかもいきなり背後から呼び止められたら、驚いても無理はない。
「あ、はい⋯⋯。なんですか、先輩」
いろはは振り返った直後こそ警戒心を露わにしたものの、俺だと分かるとすぐに急造の笑顔を装着した。
「明日、また話しに来るだろ。終わった後、時間くれるか」
「はぁ⋯⋯分かりましたけど⋯⋯」
まだ続きそうな語尾が気になって待っていると、笑顔を引っ込めて神妙な顔付きになる。
「それって、結衣先輩たちには話せないような内容、ってことですか?」
「ああ、そうだ」
俺は包み隠さずそう言うと、いろははうーんと廊下の壁を
「分かりました。じゃあ、明日よろしくお願いしますね」
「ああ」
そう言って俺は踵を返すが、廊下に響く足音は一つ。
背中を刺すような視線にはやはり気付かない振りをして、俺は歩き続けるのだった。
* * *
翌日の放課後。
奉仕部の部室の中で、また俺たちはそれぞれの距離感で椅子を並べ、車座になっていた。
「では、改めてお話を伺いましょうか」
雪乃がそう言うと、いろはは「はいっ」と元気に返事をした。⋯⋯が、部室の中にはその声が僅かに響いた後、静寂に満たされる。
「あ、えっと⋯⋯。わたしは生徒会長とかやるつもりがないので、落選したい、っていう話なんですけど」
いろはは話の端緒が渡された事に気付くと、背筋を伸ばして話し始める。
「信任投票で不信任よりも、理想は決戦投票ですね! この人には誰も勝てないよーってぐらい、凄い人に負けるのが一番いいんですけど」
その難しさを、恐らくいろはは想像し切れていないのだろう。溌剌とした声が、プレッシャーとなって俺たちにのしかかる。
「決戦投票、ね⋯⋯」
「やっぱり立候補して、やってもいいって言ってくれる人を探すか、説得? かなぁ」
雪乃は腕を組んで瞑目し、その隣で結衣は誰に言うでもなくそう呟いた。俺も仰々しく溜息を吐くと、殊更に気難しい顔を作る。
「もしいたとしても、そこから推薦人三十人の署名、それに選挙公約と選挙活動か⋯⋯」
その実現性の低さを強調するように、重苦しい声でそう言った。その言葉に雪乃は
「やっぱり難しい感じですかねー⋯⋯」
俺たちの反応に同調するように、いろはもすっかり肩を落とした。その難しさは、やり直しの中であっても変わらない。
「どんな手段を取るにしても、一色さんには演壇に立ってもらう必要があるわ」
「まあ、それは大丈夫ですけど⋯⋯」
雪乃は少しの間閉じられていた目を開けると、憂いを帯びた瞳に冷めかけた紅茶を映していた。しかしいろはの方に視線を向けると、そんな態度など最初からなかったかのように、小さな灯火をその目に浮かべた。
「どちらにしても必要だと思ったから、一色さんの公約と演説内容を考えておいたわ」
「え、すご⋯⋯。雪ノ下先輩、仕事早いですね⋯⋯」
自分の為にしてくれた事だというのに、いろははちょっと引いていた。そういうとこだぞ、いろはす。
「けど、二つだけですか?」
雪乃から選挙公約の書かれた紙を受け取ると、内容を
「いやー、あたしも少ないんじゃないって思ったんだけど」
「この場合、数が多ければいいという話ではないわ。何よりあなたは、落選したいわけでしょう?」
「それは⋯⋯はい。そうですね」
雪乃の冷静沈着な言葉に、いろははふむふむと顎に手をやりわざとらしく反応を返す。
俺はそんないろはの様子を、注意深く観察していた。今一状況に対して緊張感がないが、彼女は本当に生徒会長をやりたくないのだろうか。ふとそんな可能性を考えてしまって、俺はそのやり取りを静観していた。
「⋯⋯先輩は何か、いい案はないんですか?」
すると流石に俺の視線が気になったのか、目が合うなりふわりと微笑んでそう聞いてくる。俺の腐眼で見詰められてなお笑顔で返すとは、やはり一色いろは、恐ろしい子⋯⋯。
「いや、全然だな。昨日から考えてみたが、これと言った手がない」
その問いには、そう返すしかない。そうしなければいけない理由が、俺にはあった。
俺がそう答えたっきり、会話は途絶え沈黙はその深さを増していく。溜息を吐く事すら億劫になるほどの重苦しい静けさに、いろはの顔にも深刻さが差してくる。
「と、とりあえずあたしは、やってくれそうな人がいないか、声をかけてみるよ」
「そうね⋯⋯。解決策を考えるのと同時並行でそちらも進めていきましょう」
結衣の提案に雪乃がひっそりとそう言うと、ほんの数グラムだけ空気は軽くなった気がした。今日のところはこれで、お開きだろう。
「一色さん。解決策は引き続きこちらで考えてみるけれど、応援演説を誰に頼むかはお願いしていいかしら」
「あ、はい。適当な男子に頼めばやってくれるかと」
さらりと言うけど友達の女の子、とか言わないところが闇の深いところなんだよなぁ⋯⋯。まあそれも、いろはの魅力と言っていいだろう。
「じゃあ、よろしくお願いします」
いろはは椅子から立ち上がると、ぺこりと頭を下げる。事の進展の無さも、その所作一つとってみても、昨日から何も変わっていない。
いろはが辞去すると、再び部室の中を静寂が支配する。会話は生まれない。すなわち何も案がないという俺の言葉を信じている、という理解でいいだろう。
「⋯⋯俺も帰るわ」
「ヒッキー⋯⋯」
まるで昨日のリプレイのような光景に、やはり何か言いたい事はあるのだろう。結衣はそう声をかけてくるが、上手く言葉にできない様子だった。
「俺も俺で、考えてみる」
「うん⋯⋯。お願い」
結衣にそう声をかけながら、ちらりと雪乃の方を見る。
思えばあの時のように互いのやり方を批判し合わないだけ、マシなのかも知れない。あるいはその逆で、言い争うというコミュニケーションすら成立していないだけかも知れないが。
俺は部室の扉を閉めると、はぁと彼女たちに聞こえないように溜息を一つ吐くと、いろはの姿を探して廊下を歩き始めた。
* * *
「それで、話ってなんですか?」
昨日と同じく空中廊下への分かれ道で落ち合った俺たちは、特別棟一階の外、保健室の隣の階段に座り込んでいた。
テニスコートからはポーンポーンとボールが跳ねる音が聞こえ、聞き慣れたそれはどこか牧歌的にすら感じられる。
「ああ、それなんだが⋯⋯。まずは連絡先を教えといてもらっていいか?」
「は?」
いろはは一瞬素になると、すっと腰をずらして人ひとり分の間を取った。
「⋯⋯いやー、二人がいるところではちょっとってそういう意味でしたか。うーん、単に連絡先知りたいだけとかなら今好きな人がいるのでごめんなさ」
「ちげぇよ⋯⋯。生徒会長選挙の為だ」
いろはの言葉をそう遮ると、俺は隠す事もなく嘆息した。いつもの早口が出てこないところをみると、まだまだ距離感が詰められていないようだが、それはさて置き。
「さっき解決策はないって言ったけど、一つだけある」
「はぁ⋯⋯」
いろはは全力で訝しむような目線を送りつけてくるが、それも無理はないと思う。彼女から見たら俺の行動は意味不明すぎるし、ヤバイ人認定まであと一歩ってところだろう。
「それと連絡先の交換と、なんの関係があるんです?」
「ある、としか言えない。解決策の内容はまだ一色にも言えないからな」
あり得ないとは思うが、いろはから雪乃と結衣に伝わってしまう可能性が少しでもあるなら今は伝えない方がいい。しかしその進め方に納得しているのは俺だけで、いろははいよいよ俺を信用できる人リストから除外しようとしていた。いや、そもそもそのリストに俺の名前が載った事があるかどうかも疑問だけど。
「具体的には、言えないと⋯⋯。夜中に変なメールとかしません?」
「しねぇっての⋯⋯」
雪乃といい、いろはといい、俺にどんな印象を持っているのか。まあ人がいうところの犯罪者の目を持つ俺が信頼を勝ち取るには、これからの行動にかかっているという事だろう。
「一つ具体的な事が言えるとしたら、一色にも手伝ってもらう必要がある。だから連絡先を交換しておきたい」
「はぁ⋯⋯それはまぁ、生徒会長やらなくていいならいいんですけど」
渋々と言った様子で、いろはは携帯を取り出した。
連絡先の交換が終わると、俺はいろはの顔をじっと覗き込んだ。彼女のその意思を、本気を確かめる為に。
「一色」
わざと硬質な声でそう呼ぶと、その声の異質さに気付いたのかいろはは居住まいを正す。くりっとした目に真剣さを灯して、いろははしっかりと俺と目を合わせていた。
「本当に、生徒会長になりたくないんだよな?」
その質問は、どう考えても、どこから見ても、俺の為の問いだった。
俺のこの生徒会長選挙に於いて、大きく選択を変える。理由は単純だ。これから先の事を知っている通りになぞったとしても、誰も救えない。このまま元の世界線に戻れないなんて未来は、受け入れられない。
それにこの世界線に於いては、俺と雪乃の奉仕部における“勝負”が存在していない。故にあの頃の出来事を再現したとしても、必ずどこかで躓く。そんな不安定な未来よりも、俺は大きく様相を変えた未来の方がまだ明るいと、そう信じている。
「はい。やりたくないって、昨日から言ってるんですけど⋯⋯」
今更何を訊くんだとでも言うような顔で、いろはは肩から背中にかけて張り巡らせていた緊張を解いた。
これで、俺の腹も決まった。
一色いろはは、もう生徒会長にはならない。つまりいろはの人生から高校一年生にして生徒会長という貴重な経験は抜け落ちてしまうし、元の世界線ほど俺たちと深い関わりは持たないだろう。それに関しては何とか手の打ちようはあるが、関係性が続くかどうかはいろは次第になる。
だが今が選択の時で、間違うわけにはいかなかった。小町に言われた通りだ。“どっちが大切か選ぶ”という、その残酷で単純な行動原理によって、この世界線のいろはの学校生活は、人生は変わっていくだろう。
「分かった。後は任せてくれ。準備ができたら連絡する」
俺はそう言って立ち上がると、鞄を背負って空を見上げる。
茜色の空の中で鳥影が雁行している様子をひと睨みすると、俺は踵を返した。
* * *
翌日から俺は、奉仕部に顔を出す事をやめた。
一応雪乃と結衣には「解決案を一人で考えたい」とだけ連絡して、結局その週は一度も部活に参加しなかった。
彼女の決断を促すには、そうする必要があった。俺があの部屋にいては、少なからず俺の意見が彼女たちの考えに影響を与えてしまうだろう。
土日が明けて、月曜日。
いつかと同じように、上の空で午前の授業を聞き流していた。四限目は現代文で、平塚先生が担当する授業だ。
カツカツとチョークが黒板を叩く音を聞きながら、ただひたすらに板書を写す。それが終わるとちょうどチャイムが鳴り、めいめいが教科書やノートを片付けていく。
それでも俺は黒板の方を見続けていると、必然かのように平塚先生と目が合った。
「比企谷」
「⋯⋯はい」
平塚先生は深い溜息を吐くと、静かに言った。
「この後、職員室に来るように」
それだけ言って、平塚先生は教壇を降りると教室を出ていく。俺は授業道具一式を机にしまうと、教室を出て平塚先生の背中を追いかけた。昼休みの廊下は行き交う生徒たちで、いつも通りにかしましい。
職員室に入ると、奥に設けられている応接スペースに入った。ガラス天板のテーブルと、黒い革張りのソファは、俺の中だけで郷愁を湛えてそこに存在していた。
「⋯⋯今朝、雪ノ下が話をしに来たよ」
向かい合ってソファに座ると、平塚先生は紫煙をくゆらせた後にそう言った。
「生徒会長選に、立候補するそうだ」
「そうですか」
その言葉を聞いて、俺はいつの間にか肩に込められていた力を抜いた。やはりこの世界線でもその決断は変わらないぐらいに、雪乃にとって生徒会長という職は重要なのだろう。
「なんだ、驚かないな。彼女から聞いていたのか?」
「いえ。ただ雪ノ下なら、そう言い出してもおかしくないなと思って」
おかしくない、どころか必定だったのだと、今では思う。
雪乃は陽乃さんという存在を追い越したい。それが叶わなくても
彼女のその選択は、陽乃さんから見れば後を追ってくる、いつまでも変わらない妹に見えるだろう。しかし雪乃の本当の目的は、陽乃さんになる事ではない。彼女の目的は幼い頃からの夢を追う事であって、陽乃さんの背中を追っていたのではないと、今なら分かる。
「応援演説は、葉山がするようだな」
俺は平塚先生の言葉に返すことはせず、俺の知る世界線での出来事を反芻した。
いろはが初めて奉仕部の部室に来た日の帰り、俺はたまたま時間潰しに入ったドーナツショップで陽乃さんと居合せた。そこに折本が加わり、葉山が呼び出されたたりと登場人物が増えていき、いつの間にかその週の金曜日にWデートっぽい事をする運びになってしまったのだ。その最中で会った雪乃と結衣の表情は、今でも忘れることが出来ない。
当然そんなイベントを看過するはずもなく、俺はあの日の陽乃さんとの邂逅を回避していた。無用に彼女たちを傷つける必要など、どこにもなかった。
しかしその変化は雪乃の考えに影響はなかったようで、葉山という一番手堅い、最強のカードを既に手中に収めている。葉山が雪乃の自陣に引き入れられてしまうのは少し都合が悪いが⋯⋯まあ、何とかなるだろう。無理矢理にでも、するしかない。
「それで、君はどうする?」
タバコの火を灰皿で揉み消すと、平塚先生は俺を真っ直ぐに見た。それに対する答えは、俺の決断はもう決まっている。
「決まってます。雪ノ下の意思を尊重して、応援します」
俺の頭の中で再生されるのは、いつかのディスティニーランドでのこと。スプライドマウンテンに乗った後に休憩しながら、彼女は『あなたも姉さんも持っていないものが欲しくなった』と言った。
きっと彼女も、まちがえていたのだと思う。目的と手段をあべこべにしていたのだ。それでも俺は、雪乃の決断を尊重する。
『それがあれば、救えると思ったから』
直後に彼女が言ったその救うべき誰かは、訊いてもはぐらかされてしまった。けれどそれは、きっと彼女自身のはずで、彼女を救う唯一の方法だ。
「⋯⋯そうか」
そう言って平塚先生は、深い慈愛に満ちた目を俺に向けた。酷く
「けど、それだけじゃダメなんです」
俺は手のひらの汗をズボンで拭うと、膝の上で握り込んだ。
「俺からも平塚先生に話⋯⋯というか、お願いがあります」
これから俺が言う事にその光景が歪められてしまうのは、とても堪えられないことだった。
それでも俺は、言わなくてはならない。ブレザーのポケットに入ったままの、あの紙に書かれた、たったの二文字。
『救え』
その指令に、真に応える時がきた。
俺の一番大切な人を、救う為に。平塚先生の目を真っ直ぐ見つめて、俺は言った。
「奉仕部を、廃部にさせて下さい」
ここまでお読み下さりありがとうございました。
早いもので、次のお話で最終話になります。
今回も感想を頂けると嬉しいのですが、ついつい返信に訊かれてもない事まで答えるクセがありまして……。
最後までネタバレなしで楽しんで頂きたいので、感想には完結後に返信させて頂きます。ご了承下さい。
それでは次回、最終話でお会いしましょう。