まちがった青春をもう一度。   作:滝 

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鶴見留美を救う為に。上

 山滴る、とは俳句に於いての夏の季語だ。

 早いもので、もう夏休み。いつかのように俺たちは千葉村の駐車場に降り立ち、高原の空気を胸いっぱいに吸っていた。

 

「んーっ、気持ちいーっ」

 

 結衣は思いっきり伸びをしながら、心底といった調子でそう言う。

 これから今日を含めて三日間、つまり二泊三日をここ千葉村で過ごす事になる。奉仕部の活動としては珍しい宿泊を伴うイベントに、俺の感慨もひとしおだ。

 未だ元の世界線に戻れる気配もないが、この千葉村での出来事をどうするかが、鍵となっている可能性は大いにある。

「うわぁ、涼しいね。八幡」

「おお⋯⋯そうだな」

 高原の涼やかな風に乗って、新緑の香りが鼻腔をくすぐる。戸塚の真似をして伸びをすると、下界の暑さが嘘みたい感じるほど爽やかな風を全身に感じる事ができた。

「⋯⋯すごく肩が凝ったわ」

「ごめんってば、ゆきのん⋯⋯」

「あ、帰りは席変えます? 小町が肩を貸しますよ!」

 千葉村へ向かう道中結衣の枕にされていた雪乃が不貞腐れ、小町がフォローするみたいに言葉を挟み込む。もちろん、この千葉村で過ごすに当たって役者はまだ揃っていない。

「さあ、ここからは歩いて移動だ。荷物を下ろしたまえ」

 俺たちが平塚先生に促されるまま車から荷物を下ろしていると、タイヤノイズを引き連れて一台のワンボックスカーが駐車場に入ってくる。

 俺たちの乗ってきた車の近くにそのワンボックスは停まると、中から見知った顔ぶれがわらわらと降りてくる。

「や、ヒキタニくん」

「⋯⋯葉山」

 それから三浦と海老名さん、ついでに戸部。やはりこの世界線に置いても、この面子は変わらないらしい。そうでなくては、大分困る事になるところだった。

「全員集まったな。それでは移動する」

 颯爽と歩き出した平塚先生に続きながら、みんな口々に「今日って何で集まったんだっけ?」「キャンプ?」「泊まりがけのボランティア活動でしょ?」などと困惑を撒き散らしていた。

「おいおい⋯⋯しっかりしてくれよ。これから君たちには林間学校のサポートスタッフとして働いて貰うんだぞ」

「っべー、タダでキャンプ出来るんじゃなかったん?」

「わたしも優美子からそう聞いてたけど?」

「あーしは戸部からキャンプって⋯⋯戸部?」

「おい⋯⋯最初から説明しておいただろ」

「っべー、俺やらかした系だわ。っべー⋯⋯」

 賑々しい四人を尻目に、雪乃は先頭を歩く平塚先生にそっと疑問を呈する。

「あの、何故葉山くんたちが⋯⋯」

「ん、人手が足りなさそうだったからな。学校の掲示板で募集をかけてみたところ、彼らが名乗りを上げたというわけだ」

 その答えを聞いても、雪乃の表情は芳しくない。当然の反応だろう。この時の雪乃にとっての葉山は、因縁の相手と言ってもいいぐらいの存在だ。

「これもいい機会だ。君たちも別のコミュニティとうまくやる術を身につけた方がいい」

 まったく、平塚先生の提案には頷くしかない。これからずっと先、俺たちは厄介な人たちと関わり続ける事になるのだ。

 黙ってしまった雪乃の隣を歩きながら、俺は懐かしい顔たちを思い出して、一人郷愁に耽るのだった。

 

 

       *       *       *

 

 

 小学生たちが全員集まっての集会が終わると、詳細な説明の後にオリエンテーリングが始まる。

 そのゴール地点で弁当や飲み物を配膳すべく、俺たちは森の中で歩みを進めていた。いよいよ俺にとって、二度目の千葉村が始まったのだ。

 

「頑張れー」

「ゴールで待ってるべー」

 

 葉山たちは気のいい高校生お兄さんお姉さんよろしく、地図を片手に右往左往する小学生たちにエールを送っている。

 時折木漏れ日を浴びながら、真夏とは思えない快適な道をただ歩く。急な曲線を描く道の先に、いつかの光景が広がっていた。

「⋯⋯⋯⋯」

 小学生の集団の中でも一際目立つ女子五人組。

 かしましいその輪から、一人だけ外れた少女──鶴見留美は俺の記憶のまま、孤独を背負い歩いていた。

「あのー、ここってどう行けばいいと思いますかぁ?」

 いつかのようにそのグループの女の子たちは積極的に葉山に話しかけてくる。一緒になって歩きながらテレビや芸能人の話、はたまた中学校の話などと、コミュニケーションに長けた子たちの集団よろしく葉山たちとの会話は弾み続けていた。

「⋯⋯⋯⋯」

 その集団から二歩ほど遅れ、一切会話に入らない留美を見て、雪乃は小さな溜息を吐く。その溜息が今に向けられたものなのか、過去の自分に向けられたものなのかは分からない。

 留美が黙っていても、残る四人は気にかけもしない。もし気にするとしたら時折彼女を振り返って、クスクスと耳にまとわりつくような忍び笑いを漏らす時だけだ。

 俺がこの千葉村において達成すべき目標は大きく三つ。その内の最たるものは、鶴見留美を救うことだ。まったく救うだなんて、自分でも傲慢だとは思う。

「チェックポイント、見つかった?」

 俺の記憶よりもずっと優しく、そして残酷に葉山は留美に話しかける。言うまでもない、公平性という悪手だった。

「⋯⋯いいえ」

「そっか、じゃあみんなで探そう。名前は?」

「鶴見、留美⋯⋯」

「留美ちゃんか。俺は葉山隼人。よろしくね」

 たったそれだけの会話だというのに、かしましかった四人の会話は完全に停止している。

 集団の中にいながら排斥するという絶妙なバランスが崩されようとしている事への不安と、緊張感。しかもそれは、さっきまで気を許しお喋りに興じていたイケメンのお兄さんによってもたらされようとしている。

「⋯⋯あれ、どう思う?」

 葉山たちと距離を取りながら後ろを歩いていた俺は、隣を歩く雪乃に(たず)ねる。

「⋯⋯まあ、どこの小学校でもある事なんでしょうね」

 苦り切った表情で言う雪乃の声には、嫌悪のようなものすら聞いて取れる。

「くだらないわ」

 空気を読む、相手の意見に共感あるいは隷属し、誰かを貶めることで自分の立ち位置を固め、得られる束の間の安心感、歪んだ集団への所属欲求。

 中には社会生活に欠かせない要素であろうと、雪乃は「くだらない」と切って捨てる。それでこそ、この当時の雪乃だ。

「ああ、くだらない」

 俺は深く頷き、同意を返す。

 空を仰ぎ見ながら歩みを進めると、パラパラと降り注ぐような木漏れ日が眼を焼いた。

 

「雪ノ下」

 

 俺が呼ぶと、雪乃は返事をするでもなく怪訝そうに俺の顔を見た。後ろを振り返り、小声で話せば会話が聞き取れられないぐらいの距離が空いているのを確認すると、俺は少しだけ雪乃の耳元に口を寄せて言う。

 

「俺に協力してくれ」

 

 

 

       *       *       *

 

 

 オリエンテーリングのゴール地点につくと、俺たちは早速割り振られた業務にあたり、方々へ展開していた。

 ひとまずの俺の仕事、というか男手の主な仕事は弁当の配膳準備だ。段ボールに入った弁当たちを、えっちらおっちらと車のトランクから下ろしていく。しかしそんな作業も、あっという間に終わってしまう。

 

「なあ、葉山」

 

 葉山が一人でいる所を見計らって、俺は声をかけた。俺の方から声をかけるのが余程珍しいのか、少しだけ眉を上げた後に爽やかな笑みを浮かべる。

「どうした」

「ここに来る時に会った子たち、いただろ」

「ああ」

 俺が何を言いたいのか分からない、という顔で葉山は頷きを返す。しかし俺の表情からそれがあまりいい話題ではないというのは分かったらしい。

「休憩しがてら、話を聞くよ」

 そう言うと葉山は親指で炊事場の端を指す。確かにこんな誰が聞いているかも知れない場所、それにいくら平地より涼しいとは言え真夏の太陽の下でする話じゃない。

 俺たちは炊事場の端まで移動すると、そこに置かれたウッドベンチに腰掛ける。じっとりとかいた汗をタオルで拭うと、夏の匂いがした。

「一人だけ、除け者にされた子がいたろ」

「⋯⋯ああ」

 葉山の事だから除け者という表現にひっかかるのだろう。返事をするのに僅かな間を取った後、控えめに頷く。

「あの子に話しかけるのは、やめた方がいい」

「どうして君はそう思うんだ?」

 努めてフラットな声色で、葉山は俺に問いかける。俺の明確な否定に苛立つ様子も見せないとは、やはり流石葉山と言わざるを得ない。

「北風と太陽だよ」

 俺の回りくどい言い方でも、葉山はある程度の理解に至ったらしい。興味深そうな目で、俺の言葉の続きを促す。

「あの状態から留美に話しても、逆効果だと思う。それよりも残りの四人の方を気にかけてやるんだ」

「気にかけてやるだけか? 俺はもっと⋯⋯」

「いや、気にして声をかけるだけでいいだろ。高校生のお兄さんお姉さんが気にかけてくれているって分かったら、あの子たちも体面を気にして留美と普通に喋るようになるかも知れない。そこは自浄作用に期待だな」

「⋯⋯なるほどな」

 葉山の好きそうなキーワードを織り交ぜて説明すると、思ったよりもすんなりと俺の意見は聞き入れられる。こういう時に頭の回転の速いやつは助かる。

 俺にとって千葉村での留美の一件は、ずっと心で(わがかま)っていた事だった。

 あの時俺は葉山たちに悪役を押し付け、留美を取り巻く人間関係を崩壊させた。そして結果として、留美はそのまま孤独の道の真っ只中を歩いていく事になったのだ。

 クリスマスのイベントの時に見た留美の姿を、俺は忘れる事が出来ない。最終的にはイベントを通して周りに溶け込んでいったが、それまでの孤独が消える訳ではない。

 孤独が悪いことだなんて、今更言うつもりはない。それを決められるのは、孤独を感じている本人だけだ。

 

 だけど俺は、やはりどこかでまちがえた。

 その思いだけが今でもぐるぐると、心の一番奥底を回り続けている。

 

 

       *       *       *

 

 

 キャンプといえばカレー。カレーといえばスパイスカレーだ。

 追い求めるはターメリック、コリアンダー、クミンの黄金比。カルダモンは欠かせないし、フェンネルも多めに入れていい。だけどクローブ、あいつはダメだ。あいつの香りは強烈かつ個性的だからな⋯⋯。

 などと雪乃が妊娠中に料理スキルをメキメキ上げた俺のスパイスカレー知識と秘伝のレシピをひけらかしたい所だったが、キャンプでのカレーといえばルーカレーが基本である。

 

「どう、うまくいってる?」

 

 件の女子五人組の班。彼女たちが晩御飯となるカレーを調理している所に、葉山は俺の提案通りに声をかける。

 途端に沸き立つ四人と、覚めた表情をしたままの少女が一人。すでに鍋は火にかかっており、手持ち無沙汰な様子だ。

「⋯⋯あんな感じだ。できるか?」

 俺は隣でその様子を見ていた雪乃にそう声をかける。先に葉山が声をかければ、多少に参考になるはずだ。

「どうかしら⋯⋯。あまり自信はないわね」

 普段の自信満々な態度とは打って変わって、小学生たちの反応を見る雪乃は物憂げだ。無理もない。これから葉山が去ったら、今度は雪乃の出番だ。あんな賑やかな集団は、例え小学生が相手でも苦手意識が働くだろう。

 しかし、これは今回の俺の作戦において非常に重要な意味を持つ。例えキャラじゃなくても、実行に移してもらわなければいけない。

「頼んだぞ」

 やがて話を終えた葉山がその場を離れると、四人はキャアキャアはしゃぎ、ひとしきり盛り上がると留美の方を見る。ひそひそと言葉を交わし、侮蔑混じりの密やかな笑みが交換されていく。

 雪乃は「はぁ」と小さな溜息を一つつくと、彼女たちの方へ向かっていった。俺は雪乃が動き出すと同時に、少し坂を登った所に移動する。様子を見る為と、留美を待ち受ける為だ。

 

「何か困っている事はない?」

 

 雪乃に声をかけられ、四人は一瞬で会話を止め、惚けた様子で彼女を見た。無理もない。イケメンお兄さんに声をかけられて盛り上がっていたら、今度はまるで雑誌からモデルが出てきたみたいな美人のお姉さんに声をかけられたのだから。

 というか実際雪乃は大学の時、芸能事務所からスカウト受けてたなぁ⋯⋯。事務所を三つも断るやつなんて、俺は雪乃以外知らない。やはり俺の奥さんは美人過ぎでは? めっちゃ好き。

「あのっ、隠し味とか入れてみたいかなって思ってたんですけど」

 フリーズが解けた四人は、口々に料理について雪乃に相談をし始める。

 これで彼女たちのグループの立ち位置は、確固たるものになった。美男美女の高校生たちにも一目置かれる、カーストトップグループの完成だ。事実他のグループの小学生たちも、チラチラと雪乃たちの様子を窺っていた。

 そんな賑やかな輪の中から、そろりと抜け出す人影が一つ。いつかのように俺の佇んでいるすぐ近く、視界にギリギリ入るぐらいの所で留美は立ち止まりゴミ集積場の柵に背中を預けた。

「楽しんでるか?」

 急に俺に話しかけられて驚いたのか、留美は目を見開いてこちらを見ると、すぐに地面へと視線を戻した。

「楽しそうに見える?」

「いや、見えないな」

 少しだけ馬鹿にしてるようなニュアンスを混ぜた声で、留美は反問する。何も本気で聞いているわけがない。留美の本心に近づけるような会話であれば、何でもよかった。

「比企谷八幡だ」

 俺が名乗ると、留美は話しかけた時と同じように驚いた顔を見せる。じっと待っていると、留美も何を求められているか分かったようだ。

「⋯⋯鶴見留美」

「それでこいつが由比ヶ浜だ」

 俺と留美が話をしているのを見て何事かとこちらに向かってくる結衣の名前を紹介すると、彼女はひらひらと手を振る。

「由比ヶ浜結衣です。よろしくね、留美ちゃん」

「ん⋯⋯」

 留美が静かに頷き、それっきり会話は消え失せる。何か言おうとした結衣に俺はかぶりを振ってそれを止めると、再び留美に問いかけた。

「一人が好きなのか?」

「別に⋯⋯。でも一人でいるのも仕方ないかなって思う」

 そう言った留美の隣に、結衣はしゃがみ込んだ。留美に相対するわけでもなく、ただぼんやりと彼女と同じ方向を見る。

「どういう事か、聞かせてもらってもいい?」

 視線を交わすこともなくそう言う結衣は、無理に聞き出す意図はないとその態度で語っていた。やはり結衣は、この頃から結衣だ。底抜けに明るく、時に無遠慮で、そして誰よりも大人だった。

「⋯⋯前に、誰かをハブにして、話をしないっていうの、やってたの。そのうちちゃんと喋るようになって、また違う誰かが標的になって」

 そこで言葉を切ると、留美は小学生らしからぬ重々しい溜息を吐いた。

 孤独を良いと感じるか悪いと感じるかは、孤独を感じている本人が決める事だ。留美がそのどちらを取るかなんて、聞くまでもない話だった。

「私、そのハブにされてた子と色々喋っちゃったんだ。どうせすぐに終わるブームみたいなものだったし。⋯⋯そうしたら、今度は私の番になったっていう、ただそれだけ」

 ただそれだけ。本当にただそれだけであるならば、彼女は何故そんな悲嘆に暮れた表情をする必要があっただろうか。

 炊事場から聞こえてくる、非日常を彩る賑やかな声。大きな波のようなその声が音を小さくすると、結衣はポツリと呟いた。

 

「優しいね、留美ちゃんは」

 

 正しく彼女の方を見て、微笑む結衣。

 その哀切に満ちた表情を、俺は忘れられそうにない。

 

 

       *       *       *

 

 

 夜の帳が下りてしばしの事。

 俺たちは自炊したカレーを食べ終え、小町の淹れてくれた紅茶を啜っていた。誰に言われるでもなく率先して紅茶を淹れてくれる小町はやはり世界の妹だ。

 

「今頃、修学旅行の夜みたいな会話をしているのかな」

 

 昼間の賑々しい小学生たちを思い浮かべているのか、どこか遠くの出来事を語るみたいに葉山が言う。

「大丈夫かなぁ⋯⋯」

 その言葉の先を引き継ぐように、結衣が密やかに声を出す。それは恐らく俺に向けられたものだったように思うが、それに反応したのは平塚先生だった。

「ふむ、何か心配事かね」

「まあ、ちょっと⋯⋯。一人、孤立してしまった生徒がいたので」

「ねー、可哀想」

 三浦はそう言うけれど、どこまでが本心なのか計り知れない。元来の性格がオカンだからそれなりに心配しているのかも知れないが、何せハブられたのならまた新しく友達を作ればいいとか簡単に言ってしまうような人間だ。それほど重大視しているようには見えない。

「それで、君たちはそれを見た上でどうしたい?」

 平塚先生の問いかけに、皆一様に黙り込む。

 この場で、どれだけ留美の問題に積極的に関わっていこうとする者がいるだろうか。

 その行動には責任が伴い、それでも彼女を救うと覚悟を決めている者。そこまで強い意思がある者は、この場では恐らく一人しかいないだろう。

 

「俺は、助けたいと思ってます」

 

 不退転の意思を込めたその表明に、誰もが俺の方を見る。心配そうに、あるいは何を言っているんだという目で。

「ほう⋯⋯」

 ただ一人だけフラットな視線を送ってくるのは、平塚先生だ。腕を組み、ただ教師然と目を()める。

「何故君はそう思う?」

「その生徒⋯⋯鶴見留美と話をして、一人でいる理由を聞いたからです」

「そうか⋯⋯。差し支えなければ、聞かせてくれるか?」

 留美の個人的な話になるから、全員にその話を共有するのは若干の躊躇いがある。しかし、この場にいる人間の手助けが必要なのも確かだった。

 俺が端的に留美が置かれている状況を説明すると、皆が一様に口を噤む。きっと誰もが、どこかで見聞きした、あるいは携わった経験のある事だったのだろう。

「それで、その生徒には助けを求められているのかね?」

 平塚先生は腕を組み直すと、真っ直ぐな目で俺を見据えた。隣に座った戸塚が、横から心配そうな視線を送ってくる。

「いいえ。でも後悔している様子でした」

「⋯⋯うん。留美ちゃん、ちょっと諦めているみたいだった。だから本人から助けて欲しいなんて、言い出せないんじゃないかな⋯⋯」

 結衣の補足に、再びその場に沈黙が流れる。さわさわと高原の緑が擦れ合う音だけが、静寂をかき消していく。

「比企谷の結論に反対の者はいるかね?」

 平塚先生が反応を見るようにぐるりとその場にいる全員の顔を見ていく。幸いな事に、俺が言い出した事に否定的な人間はいないようだった。いや、言い出せる雰囲気ではないというのが正解かも知れないが。

「よろしい。ではどうすべきか、議論したまえ。私は寝る」

 平塚先生はふわと欠伸を噛み殺して伸びをすると、その場を後にする。残された俺たちの間に再び沈黙が訪れると、小町が心配そうに言う。

「お兄ちゃん⋯⋯。助けるって言ってたけど、具体的に何か考えてるの?」

「ああ」

 即答すると、テーブルを囲んだ全員の耳目が俺に集まる。少し間を置いてから、俺はその作戦を説明する。

「雪ノ下と葉山には少し話をしたが⋯⋯。留美以外の四人の子たちを、気にかけてやって欲しい。少し依怙贔屓(えこひいき)に見えるぐらいでもいいと思う」

「それで、どういう効果があるの?」

 戸塚が首を傾げて、素直に疑問を呈する。俺の説明は、葉山にしたそれと変わる事はない。

「高校生のお兄さんお姉さんが、自分たちを特別に気にかけてくれていると、彼女たちは認識する。必然的に周りから目を向けられる事も多くなるだろうし、ちゃんとしなきゃって意識が働くはずだ。自然と留美とも話すようになるかも知れない」

「いや、無理っしょ」

 即座に切って捨てたのは、あーしさんこと三浦だ。まあ、彼女ならばそう言うだろう。

「これでいいんだって思って、調子乗るだけじゃん」

「あー⋯⋯まあそう取られるかもね」

「だべ。期待薄じゃね?」

 三浦に同調する海老名さんに、即座にのっかる戸部。相変わらず戸部は戸部だった。

「そうかもな⋯⋯。けどもし駄目でも、俺に作戦がある」

 勿論こんな小細工一つで解決するとは端から考えてはいない。彼女たちの拘泥した状況に、自浄作用などもう残ってなどいないだろう。

「作戦って?」

 結衣の続きを促す声に、俺は口を引き結ぶ。

「⋯⋯それはまあ、駄目だったらの話だ。リミットは明日の夕方。それで何も変わらなければその時に話すから、協力して欲しい」

 そう言って俺は手を膝を置いて、机につきそうになるぐらい深く頭を下げた。顔を上げると、皆が一様に唖然とした顔を浮かべている。

「一つだけ聞いていい?」

 僅かな沈黙の後に口を開いたのは、意外な事に海老名さんだった。

「ヒキタニくんは、どうしてそこまでするの?」

 海老名さんが疑問に思うのは、当然の事だ。なぜ会ったばかりの少女に対してそこまで干渉しようとするのか、側から見ていて意味が分からないだろう。

「あの子を救う事が、俺を救う事にもなるから」

 その俺の答えの真意を想像できた者は、この場には誰一人としていないだろう。普段の俺の様子から勝手に過去と現在を結びつけて、みんなそれぞれ納得したような表情を浮かべていた。

「⋯⋯そろそろ部屋に戻ろうか。少し冷えてきた」

 繰り返し訪れる沈黙に耐えかねたかのように、葉山がそう声をかける。

 各々が小さな声で同意を返すと、テーブルの片付けに取り掛かった。

 

 俺が何故、そこまでするのか。まったく、酷い動機もあったものだと思う。

 何もかも全て、自分の為。俺の後悔をかき消し、雪乃と我が子の待つあの世界線に戻れる可能性が僅かでもあるなら、俺は何だってする。

 ただそれだけなのだから。

 

 

       *       *       *

 

 

 荷物を置く為に立ち寄っただけだったバンガローに戻ると、俺たちは順番に風呂に入った。

 またも着替えの途中を戸塚に見られる事になったが、まあそれはどうでもいい事だ。

 

「いいお湯だったね」

 

 最後に風呂に入っていた戸塚は戻ってくるなりそう言うと、敷いてあった布団に座り込んだ。

 まだ少し濡れている髪をしっかりとタオルで拭き取ると、ドライヤーで髪を乾かし始める。しっかし風呂上がりの戸塚、いい匂いがするなぁ⋯⋯。

「僕、もう大丈夫だけど⋯⋯」

「ああ、じゃあそろそろ寝るか」

 髪を乾かし終わった戸塚がそう言うと、葉山がそう返事をする。既に布団は引いてあるから、身の回りを少し片せばもう寝る準備は完了だ。

 パチッ、と古臭い型の照明のスイッチを切ると、裸電球は沈黙する。

「ちょーちょーこれ、なんか修学旅行の夜みたいじゃね?」

「ああ、そうかもな」

 浮き足立つ戸部の言葉に、葉山は眠気を隠そうともせず適当に返す。

「⋯⋯好きな人の話しようぜ」

「嫌だよ」

 やれやれ、と俺は誰にも聞こえないように小さく溜息を吐いた。やはりこの世界線でも、この話題になるのか。まあ戸部が戸部である限り、変わりようもないのだろう。

 戸塚はいないと答え、戸部が海老名さんの事を気になっている、と吐露した後は、必然的に葉山の番だ。

「隼人くんは?」

「俺は⋯⋯いや、やめておく」

「えー、そりゃないべー。俺言ったんだし」

 今のはお前が言いたくて言っただけだろ⋯⋯と心中突っ込みながら葉山の言葉を待つ。隣で戸塚も、息を殺しているかのように沈黙を守っていた。

「言わないって」

「いやいや、隼人くんらしくないべー。フェアじゃないっしょ」

「⋯⋯⋯⋯」

「イニシャルだけでいいから!」

 食い下がる戸部に、葉山はわざとらしく溜息を漏らしてみせる。僅かな間の後、静かに言う。

「⋯⋯、Y」

「え、Yって⋯⋯マジ?」

「もういいだろ、寝よう」

「いやいや、まだヒキタニくんの聞いてないっしょ」

「⋯⋯は?」

 ちょっと待てよ⋯⋯。俺の記憶の限りでは、こんな下りはなかったはずだ。

「いるんしょ? 好きな子」

「⋯⋯ちょっと興味があるな」

 戸部の一言に葉山が乗っかってくると、薄闇の中でこちらを見てくる戸塚と目が合った。いや、そんな目で見られても⋯⋯。

「イニシャルでいいから」

 先ほどと同じ誘い文句で、戸部は何とか答えを引き出そうとしてくる。まあ、この場で言ってしまったとしても、大きな問題はあるまい。それにさっさと寝てもらわないと、俺が困る。

「イニシャルは⋯⋯、Y」

「えっ」

 戸部は驚きの声を上げ、視界の端で戸塚の目が見開かれるのが分かった。そりゃまあ、そんな反応になるだろう。

「ひょっとして⋯⋯同じ相手とか?」

「ないな」

「ないよ」

 戸部の推測を、俺と葉山はほとんど同時に否定する。

 葉山の方から俺の事は分からないだろうが、俺は葉山の答えを知っていた。何をもって葉山は即座に否定したのかは分からないが、俺の方は断言できる。

「まあ、イニシャルがYって結構いるしなー」

 そう言う戸部に、俺は彼女たちの名前を思い浮かべる。雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣、三浦優美子、雪ノ下陽乃──。

 あとはYoshiteru Zaimokuzaなんて名前もあるが、そんな事を言い出しても海老名さんしか喜ばないからやめておこう。いや、海老名さんでさえ喜ばないな⋯⋯。

「はい、言ったぞ。もう寝ようぜ」

「だな。流石に眠い」

 俺の提案に葉山が同調すると、ようやく静かな時間が訪れる。

 余程疲れていたのか、すぅすぅと幾つかの寝息が重なるまでそれほど時間はかからなかった。

 俺は勿論、目が冴えて眠れなかったし、眠るつもりもなかった。この日の夜の出来事を覚えていれば、寝られるはずがない。

「⋯⋯⋯⋯」

 俺は寝ている戸塚たちを起こさないように、抜き足差し足でバンガローを出た。

 目指すは林の方角。そこに行けば、あの時と同じで居場所をなくした彼女と、逢えるはずだ。

 

 

 しかし俺の記憶の中にある場所に辿り着いても、雪乃の姿は無かった。

 記憶違いかと思ってぐるぐると辺りを探し歩いてみたものの、いっかなその姿を見つける事ができない。

 おいおい、マジかよ⋯⋯。せっかく雪乃と二人きりになれるチャンスだったのに。しかも合宿の夜にとか、レア中のレアだぞ。

 諦めきれずに俺は施設の敷地内をあても無く歩いていく。高原の夜は季節が一つ先に進んだかのように肌寒い。上着でも持ってきておいた方がよかったと、随分と歩みを進めてしまってから考える。

 やがて視界の大部分を占めていた木々はまばらになっていき、川のせせらぎが聞こえてきた。開けた場所に出ると、川が見えてくる。そしてその(ほと)りで座り込む二人の少女の姿も。

 なるほどな、と俺はひとりごちる。

 俺が言動を変容させた所為で、夕食の後に起きるはずだった三浦と雪乃の口論が発生していない。その変化が故に、バンガローに戻った後に三浦と口論する場面もまた、訪れなかったのだろう。

「⋯⋯よお」

「え⋯⋯。あ、ヒッキー」

「比企谷くん⋯⋯」

 驚かせないようにわざと足音を立てながら近づき声をかけると、二人は同時に振り返る。

 月光を反射する川面に照らされた雪乃と結衣の顔は、この世のものとは思えないほど静謐な美しさを湛えていた。彼女たちの空間を壊してしまった自分が大罪人に感じるほどに、それは神秘的で何物にも替え難い光景だった。

「⋯⋯何してんだよ、こんな時間に」

「ヒッキーこそ、どうしたの?」

「なんか、寝付けなくてな⋯⋯」

 座るのに丁度いい石を見つけると、俺も彼女たちの目線の高さに合うように腰掛ける。

「あたしたちも、そんなとこ」

 ね、と結衣が視線を向けると、雪乃は小さく頷いた。

「なに話してたんだ?」

「んー⋯⋯。恋バナ?」

 結衣のその一言に、どきりと心臓が跳ねる。それを聞いた雪乃も、否定をしない。

「男子の部屋は、どんな事話してたの?」

「あー⋯⋯、まあ似たようなもんだな」

 俺の答えに「ふーん」と相槌を返すだけで、結衣は追及することもなかった。まあ聞いて答えられてしまったら、今度は自分たちの事も喋らなければいけなくなるから、当然かも知れない。

 それっきり会話は途切れ、川のせせらぎだけが耳に届く。川面は月明かりを受けてキラキラと輝き、まるで地上を流れる天の川のようだった。

「比企谷くん」

 長い沈黙を破ったのは、意外にも雪乃だった。彼女は俺と目が合って声が届いているのを確認すると、青白く光る川面を見ながら話し始める。

「本当にあなたのやり方で、解決できると思ってる?」

「⋯⋯まあ、期待は薄いな」

「だったら何故⋯⋯」

 思わずと言った調子で雪乃の声音が厳しくなると、それに気付いたのか彼女は言葉を飲み込んだ。その姿を、結衣は心配そうに見守っている。

「⋯⋯ゆきのん、昔になにかあった?」

 遠慮がちにかけられる声に、今の雪乃は何と返すのだろうか。固唾を呑んで見守っていると、彼女は訥々と語りだす。

「⋯⋯昔、ちょっとね。似たような事があって」

 それを語っていいのか確かめるように、雪乃は窺うように結衣の目を見る。彼女はゆっくりした動きで、続きを促すように首を縦に振った。

「その時に、助けてくれようとした人はいたわ。⋯⋯でも駄目だった。余計に拗れて、訳がわからないぐらいに複雑になって、どうにもならなかった」

 こんな事を話すのは、雪乃にとって辛い事だと思う。思い出せば思い出すほど古傷を開くようなものだし、友だちだからと言って積極的に知っていて欲しい事でもないはずだ。相手が結衣ならば、特に。

 それでも雪乃は自分の言葉で、ただ真っ直ぐに結衣に伝えようとしている。結衣に心の一部を、明け渡そうとしているのだ。

「⋯⋯ごめんなさい。こんな話、聞きたくないわよね」

「ううん、そんな事ない」

 大きくかぶりを振ると、結衣ははっきりした口調でそう言った。浮かべた微笑みは傾慕の想いに満ちていて、どこか嬉しそうだった。

「ゆきのんがちゃんと話してくれて嬉しい。なんか、すっごく」

 すん、と僅かな音がして、結衣が僅かに目を潤ませているのが分かった。その光景に、俺は酷く安心する。彼女たちの友情は、既に確たる形を持っている。

「留美ちゃんの為に、できる事はやってこうよ。それにもし駄目でも、ヒッキーには奥の手があるんでしょ?」

「⋯⋯ああ」

 頷く俺を認めると、結衣は「ね」と小さく首を傾げ、雪乃の手を握る。

 

「ええ、私たちにできることなら」

 

 結衣の手を握り返す雪乃を見て、俺は二人に聞こえないように深く息を吐いた。

 きっと、もう大丈夫だ。

 青白い月明かりの下で微笑み合う彼女たちを見ながら、俺は強くそう思った。

 

 

 







お読み頂きありがとうございます。
千葉村編前編はいかがだったでしょうか。
後編に向けた仕込みがどのような料理に変わるのか、楽しみにして頂けたらこれ幸いです。

頂いた感想は漏れなく読ませて頂いています。ありがとうございます。


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