まちがった青春をもう一度。   作:滝 

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鶴見留美を救う為に。下

 千葉村を訪れて、二日目の朝。

 以前の俺は思いっきり寝坊してしまっていたが、今回は当然そんな事をしている訳にはいかない。戸塚たちが起きるのとほとんど同時に目覚めると、早々にビジターハウスに向かった。

 食堂に入ると、頭の割れそうなほどの大音声に思わず耳を塞ぎたくなる。朝っぱらだというのに、小学生たちのテンションはすでに天井に近い。たしか今日は夜の肝試しまで自由行動だから、その予定でも話し合っているのだろう。

 

「朝食は向こうでもらうみたいだね」

 

 すぐ近くを歩いていた戸塚が、カウンターを指差しながら言う。朝食は食堂を利用するから、特に俺たちに割り振られた仕事はない。

 俺は配膳を待つ列に並ぶと、ぐるりと食堂を見回した。雪乃と結衣の姿を探すと、すぐに目に留まる。元々その恵まれた容姿で人目につきやすい上に、小学生の集団の中だとより見つけやすい。

「どうしたの、八幡」

「いや⋯⋯」

 雪乃たちの方を気にしすぎて立ち止まってしまっていた俺に、戸塚は疑問符を浮かべながら首を傾げる。

 雪乃と結衣は約束通りに例の四人の女の子と何事かを喋り、彼女たちの笑顔からその話が盛り上がっている事が見てとれた。雪乃の笑顔はまだぎこちなかったが、留美も一応といった様子でその場にいるのだから、仕方がないかも知れない。

 留美の気持ちが分かるからこそ、雪乃に頼んだ事はある意味残酷な側面を持つ。それが俺の立てた筋書きに必要な事だとしても、胸はシクシクと痛んだ。

「八幡、大丈夫?」

「え⋯⋯。ああ、すまん、ボケっとしてた」

 ふと前を見ると、列はもう随分と前の方に進んでいる。気付けば戸塚の声かけに対して、俺は気もそぞろな答えしか返せていなかった。

「寝不足か?」

 俺の後ろに並んでいた葉山は、眠気の一つだって残していない爽やかな声でそう聞いてくる。

「まあ、少しな」

「⋯⋯昨日の晩、どこに行ってたんだ?」

 戸塚には聞こえないほどの小さな声で、葉山は俺に問う。こいつ、ひょっとしたらとは思っていたが起きていたのか⋯⋯。

「別に。寝付けなかったから散歩してただけだ」

「随分長いこと散歩してたんだな」

 葉山の目を見ると、俺の瞳の奥を読み取ろうとする視線が待ち構えている。

「⋯⋯何が言いたい」

「別に、ただの感想だよ」

 はっ、と短く息を吐き出して小さくかぶりを振ると、葉山のとの会話を打ち切る。

 こいつとは後々長い付き合いになるが、やっぱりこういう部分はいけすかない。

 

 お前なんか一生陽乃さんに振り回されてろ、バーカ。

 俺は俺にしか理解できない悪態を心の中でつくと、朝食の載ったトレイを受け取った。

 

 

       *       *       *

 

 

 朝食を摂り終わった後の俺たちの仕事は、もっぱら肉体労働だった。

 キャンプファイヤーの準備の為に薪を割り、それをひらすらに積み上げていく。終わった頃には汗だくだ。だから当然、汗を流さなくてはならない。

 

「⋯⋯⋯⋯」

 

 歓声と水飛沫を上げ、水遊びに興じる結衣と小町。昨晩訪れた川辺で、俺は仁王立ちでその光景を眺めている。

 俺がこの千葉村において達成すべき目標は大きく三つ。その内の、二つ目。

 

 女子高生の雪乃とキャッキャうふふと水遊びしたい!(ドン!)

 

 いやだってJK雪乃の水着姿なんて二度と見れないだろうし? 俺が過去に千葉村で過ごした時は水着を持ってこれなかった所為で、そもそもそんな選択肢すら存在していなかった。これを後悔と言わずして何を後悔と言うのか。

「あれ、お兄ちゃん」

「おう」

 小町に声をかけられると、俺は履き替えたサンダルでじゃぶじゃぶと川の中に入っていく。

「いつの間に水着なんて持ってきてたの? 小町が準備した時には⋯⋯」

「いや、たまたまバッグに入っててな」

 勿論ばっちり準備しておいたのだが、それは俺だけが知っていればいい話だ。そんな俺の姿を、少し引き気味で眺める視線が一つ。

「⋯⋯ヒッキー、水着似合わない」

「余計なお世話だ」

 そう言う結衣は⋯⋯お世辞でも何でもなく、その水着は良く似合っていた。

 ブルーのビキニ姿は、あの頃と変わらない輝きを纏い、一瞬で視線と意識を奪う。今も昔も変わらないその抜群のプロポーションは、いつまで経っても見慣れることがない。

「⋯⋯⋯⋯ヒッキー、見過ぎだし」

 そう言って身体を覆い隠し、後ろを向いてしまった結衣にもはや何の言い訳もすまい。由比ヶ浜結衣が魅力的な女の子であるという事は、語らずとも誰もが知り得るところだ。

 俺は無遠慮に向けていた視線を川面に落とすと、そっと目を閉じた。俺の記憶のままならば、もうそろそろだ。川のせせらぎに混じって、その緩やかな流れに逆らう水音が聞こえてくる。

「比企谷くん。平塚先生との約束は忘れたのかしら?」

 その声に振り返ると、目の前に広がる光景に俺は息を呑んだ。

 透き通るように白く、降りかかる水飛沫をも弾き返す瑞々しい肌。普段ニーハイに秘匿された細く長い脚は陽光の元に晒され、川面よりもキラキラと光り輝いているように見えた。腰から美しい曲線を描くくびれを強調するようなワンピースの水着は、あの時よりも色鮮やかに彼女の魅力を引き立てている。

「私の進言次第で、あなたの学校生活の終了時期が決まるのよ?」

 黒々と深い色を湛える長い髪は、真夏の日差しの下ではっきりと天使の輪を映している。勝ち気で、柔らかな侮蔑を込めるように細められた目すら美しい。血色のいい唇が言の葉を紡ぐたびに、その甘やかな声に鼓膜が溶けて無くなってしまいそうだ。

 控えめに言おう。

 

 俺の奥さん(JK)の水着姿は、史上最高だ。

 

「⋯⋯ちょっと、何を黙っているの?」

「もはや何も言うまいて⋯⋯」

 俺はやっとの事で雪乃の水着姿から視線を上げて天を仰ぎ見ると、完全勝利に酔い知れていた。さっきから蚊帳の外にされていた小町は「うわぁ」と声に出してドン引きしている。

 意味が分からない沈黙が流れている所に、二人分の足音が近寄ってきていた。水着に着替えた三浦と海老名さんが、何事かを話しながら俺たちのいる川の(ほと)りを通り過ぎていく。

「ふっ、勝った⋯⋯」

 いつかと同じように、三浦はすれ違いざまに雪乃の胸元を見て勝ち誇った笑みを浮かべる。対する雪乃の顔には、やはり疑問符が浮かんでいた。

「⋯⋯? 何の話かしら」

 あの時の俺は、「お前の姉ちゃんがああなんだから」とか何とか慰めたんだっけか。しかし未来を知っている俺は、そんな夢を抱かせるような無責任とも言える発言は出来ない。

 結局、あんまり大きくならなかったんだよなぁ⋯⋯。俺も「おっきくなーれ♪ おっきくなーれ♪」と(たの)し⋯⋯だいぶ協力したのだが、カップサイズが一つ上がったところで打ち止めになってしまった。まあ俺としてはゆき乳であればどんなゆき乳でも愛せる自信があるから、何も問題はない。ゆき乳最高。

「⋯⋯本当に全然まったく気にする必要はないだろ外見的特徴に依って優劣は決められるものでもないしもし仮にそれによって勝敗を決するのであれば相対的評価をするべきであって全体的なバランスこそが評価対象となるべきだから何も問題はない」

「⋯⋯⋯⋯何か酷く貶されながら慰められた気分なのだけれど」

 不満そうな表情を浮かべる雪乃に向けた俺の視線には、同情めいた感情がのっていたのかも知れない。

 まあ、それはそれ。これはこれ。

 機は訪れ、役者は揃った。であれば、後は俺の目標を達成するだけだ。

「そぉい!」

 阿呆みたいな掛け声と共に、俺は川の水を掬い上げて雪乃に水をぶっかけた。

「⋯⋯⋯⋯」

 水をも弾く黒髪をふるふると震わせながら、雪乃はその瞳に炎を灯す。⋯⋯いいぞ、雪乃。その負けず嫌い根性、しかと見届けてやる。

「⋯⋯やったわね」

 バシャーンを派手な音を立てて、俺の視界は奪われた。前髪から滴る雫を見ながら、俺は不敵な笑みを浮かべ戦線布告をする。

「甘っちょろいな。それぐらいで俺が怯むと思ったか?」

 今度は両手で水をかきあげ、雪乃の顔面に直撃させる。彼女の顎から滴り落ちる水粒(みつぼ)を認めると、俺の目標の一つは達成されたのだと実感できた。

「てやっ!」

 背後から聞こえた声とともに、土砂降りの雨が俺の頭上に降り注ぐ。振り返れば結衣は勝ちを確信しているかのような笑みを浮かべ、腰に手をやり胸を反らせている。たゆんたゆん。

「ふっふっふ。ヒッキー、今の状況、分かってる?」

「我が兄とは言え、何の策もなしに敵陣に突っ込もうとは浅慮よのぉ⋯⋯」

 芝居がかった台詞を吐く結衣に、小町が追従する。いいだろう、まとめて相手をしてやる⋯⋯。

「八幡っ」

 俺がいざ行かんと戦闘体制を取ると、弾むような声が耳に届く。振り返ろうとした瞬間、背中にトンと軽い衝撃が響いた。

「助太刀するよ」

 顔だけで振り返ると、勝気な笑みが俺に向けられている。

「男子チーム結成だね」

「と、戸塚ぁ⋯⋯」

 きっと戸塚はこの素敵な笑顔で、テニス部のチームメンバーを引っ張って行っているのだろう。可愛らしい男の子が、今日ほど頼りがいがあると思った事はない。

「せいっ」

 感動に咽び泣きそうになっている所に、バシャンと頭から水を被せられる。結衣が戸塚もろとも水をぶっかけてきたらしい。

「さいちゃんがいるからって手加減しないよ」

「背中がガラ空きね」

 結衣の方を向いた瞬間、今度は後ろから冷ややかな声と共に水をかけられた。そして雪乃の方を向いた瞬間に「そいやー」と小町が川面を蹴り上げ、またまた頭からずぶ濡れになる。

「うわわっ」

「ふふふ、お兄ちゃん。身内の恥は身内で処理しないとね」

「俺がいつ恥になった⋯⋯」

 ほーんと小町ちゃんたら、冗談きついゾ☆

 俺は手をわきわきと動かすと、川に沈めた両手をクロスさせるように振り上げて雪乃と小町に水をかける。

「きゃっ⋯⋯」

 自分の方にくると思っていなかったのか、雪乃が可愛い悲鳴を漏らした。その目には水をかけられたぐらいでは消火出来ない炎が浮かんでいる。

 

「こんの⋯⋯」

「ははははは、来い雪ノ下。いくらでも相手してやる」

 

 そして視界はまた水飛沫に遮られ、掛け声と冷たい水の応酬が始まる。

 

 もう一度、控え目に言おう。

 

 JK雪乃との水遊びは最高だ!

 

 

       *       *       *

 

 

「ふぅ⋯⋯」

 

 小一時間ほど水を掛け合い、身体が冷えてきた所で俺は川辺に上がっていた。

 シャツをかけておいた木の下で、いつの間にかやって来ていた留美の姿を見つける。

 

「八幡、大人気ない」

「おお⋯⋯」

 

 シャツに手を伸ばしたところで、手厳しい指摘が入る。そうね、そう言われても仕方ないですね。しかし三十路に近くなってから小学生にそう言われてしまうと、堪えるものがあるなぁ⋯⋯。

「留美も一緒に遊ぶか?」

「いい。水着持って来てないし」

 川の方を見たまま、留美は小さくかぶりを振った。分かりきっていた答えでも、一応聞いておかなくてはいけない。

「他の奴らはどうした」

「⋯⋯朝ごはん食べてから部屋に戻って、私が外に行く準備をしている時に置いていかれた」

 そうか、と言葉もなく頷く。相変わらず、えげつない事をする。人は集団に入れば、どこまででも残酷になれるものらしい。

「⋯⋯辛いよな、そういうの」

「八幡には、分かんないでしょ」

 そう言う留美の声は冷たく、突き放すようだった。

 まあさっきまでみんなで大はしゃぎしていたのを見られていたのだから、そう言われるのも仕方ない。

「いや、分かる。小中高とずっと一人だったからな。俺はぼっちマイスターだぞ」

 冗談めかして言うと、ようやく留美はこちらを見た。当然、欠けらも信じていないって表情だ。

「でもさっきまで、みんなで遊んでた」

「まあ、部活の合宿みたいなもんだからな⋯⋯。教室ではいつも一人だ」

 留美の目はまだこちらを訝しんでいたが、俺の口調から冗談ではない事を感じ取ったらしい。さっきまでよりいくらかは、真面目に聞こうとしているように見える。

「それに大勢でいれば孤独じゃない、ってわけじゃない」

 シャツを着て、髪から滴ってくる水滴をタオルに吸い込ませる。

 孤独は状況だけを言うものじゃなく、感じるものだ。もちろん俺が今それを感じているというわけではないし、留美には分かりにくい説明だったかも知れない。

「⋯⋯八幡は今、孤独なの?」

「今この時に限って言えば、違うな」

「よく分かんない。説明下手過ぎ」

「おお⋯⋯」

 またまた手痛い指摘である。人の気持ちに寄り添い、ただそれを表明したいだけなのだが、中々どうして伝わらない。

「まあなんだ、生きてりゃ孤独な時もあるし、そうじゃない時もある」

 何だか人生語るおっさんみたいになってきたな、と思いながら俺は留美に語りかけ続ける。留美の目にはまだ、納得の色は浮かんでいない。

「⋯⋯そんな時なんて、くるのかな」

 ようやく聞けた本心からの言葉に、俺は短く息を吐いた。

「選択の問題だな」

 孤独を選ぶか、そうではないか。実は単純で、だからこそ人生というシステムは冷酷なのだ。

 どんな状況だって、全て自分の選択の結果だ。

 あいつがどうでとか、こんな事があってとか、言い訳めいた事は関係ない。それですら選択に付随する結果であり、原因ではない。鶴見留美の状況は、そこにどんな思いがあったとしても、彼女の選択の結果なのだ。

 

「留美はどっちがいいんだ?」

 

 だから今一度、問おう。

 分かりきった、彼女の答えを。

 

「孤独⋯⋯じゃない方がいい」

 

 今、鶴見留美は選択した。

 であれば後に続くのは結果だ。その先に待つのが、残酷なものであったとしても。

 

 

       *       *       *

 

 

 川辺での水遊びを終えた俺たちは、夜までの時間を使って肝試しの為の準備を進めた。

 俺と戸塚と小町で夜の肝試しのコースを下見と段取り、そして雪乃と結衣は件の四人を探し出してコンタクトを取って貰っている。俺の作戦の為の、重要な役割だ。

 すでに俺の示したリミットである夕方はとうに超え、作戦の内容は葉山たちを含め全員に説明をしてある。相変わらずみんなの反応はよろしくはなかったが、前回よりはいくらかマシな反応だったように思う。

 

「コースの確認、終わったよ。俺たちの方の準備は完了だ」

「ああ」

 

 葉山の報告に俺は頷きを返すと、すでに漆黒へと色を変えた空を仰ぎ見た。時刻は午後七時過ぎ。もうそろそろ肝試しが始まる時間だ。

 葉山たちには今回において、完全な裏方をお願いしてある。お化け役として小学生たちを驚かしつつ、鶴見留美を含むグループに対してコースの改変を行う。小町が出発の順番を指定する事で留美たちのグループが最後になるようにするのは、以前と変わらない。

「けどこの作戦、本当に上手くいくのか?」

「言っただろ。“あの子たちの良心”に期待するしかないって」

 またも葉山の好きそうなキーワードではぐらかすと、葉山は腕を組んで黙り込んだ。何か言いたげな表情だったが、彼は質問を重ねる事はなかった。

「⋯⋯それじゃ、持ち場に戻る。こっちの事は任せてくれ」

「ああ、頼んだ」

 葉山が頷くと、俺もおうむ返しのように深く頷く。葉山が森の中に消えて行くと、スタート会場から小町の声が聞こえてくる。拡声器でも使っているのか、その声は元気が良すぎて少し割れていた。

「比企谷くん」

 遠くから聞こえる悲鳴やら笑い声やらに耳を澄ませていると、不意に声をかけられる。振り返るとそこには雪女の衣装に着替えた雪乃の姿があった。

 雪乃だから、雪女。安直だけれど、和装の雪乃もいい。凄くいい。

「準備万端みたいだな」

「ええ⋯⋯」

 雪乃は肯定こそ返すものの、その声はいつも以上に元気がない。物憂げな表情と相まって、本物の雪女がそこにいるみたいだった。

「⋯⋯不安か?」

「そんなわけがないでしょう」

 俺の心配の言葉にも、即座に否定していつもの勝ち気な表情に早変わり。これだけ女優の資質があれば、まあ大丈夫だろう。

「彼女たちと普通に話すより、よっぽど気が楽だわ」

「⋯⋯それもどうなんだと思うけどな」

 俺が若干引いていると、「おーい」と背中に声がかかる。振り返ると普段着のままの結衣が、手を振りながらこちらに歩いてくる。

「うーん、遠目からでもやっぱり似合うね」

「それは褒めているのかしら⋯⋯」

 雪乃は頬に手をやり疑問に首を傾げると、結衣は肯定するようにうんうんと首を縦に振る。

 結衣の小悪魔衣装姿が見れないのは残念だが、今回は仕方ない。仮装する事によって作戦に支障が出るかも知れないなら、不安要素は潰しておくほうがいい。

「ヒッキー、もうちょっとで半分ぐらいだけど」

「ああ。そろそろスタンバイ頼む」

「うん」

 雪乃は結衣と呼吸を合わせるようにほとんど同時に頷くと、俺が動き出したのを合図に歩き始める。

 森の中に入ってしばらく歩くと、分岐に出た。ここが俺と結衣の持ち場で、最初の関所だ。

「じゃあね、ゆきのん。頑張って」

「ええ」

 雪乃は頷くと、深い黒を湛えた森の奥へと消えていく。夜闇に紛れる間際の背中は、まるで幽霊のようで少しゾッとした。こんな事を本人に伝えたら、また口を尖らすだろう。

「いよいよだね⋯⋯」

「⋯⋯ああ」

 そう言う結衣の口調からは、いつもの明るさが抜け落ちている。今日の作戦を知ってしまえば、まあそう言う反応になるだろう。

 ブブッとポケットの中で携帯電話が震えて、俺はすぐにその通知の内容を確認する。小町からは短く「最後の一組出発」とだけメールが届いていた。

「今、留美たちのグループが出発したらしい」

「うん」

 合図を送り合うように視線を交わすと、俺は元来た道を少し戻って茂みの中に身を隠した。今頃葉山たちがコースレイアウトを変え、こちらに彼女たちを誘導してくれている事だろう。

 息を殺して待っていると、やがて聞き覚えのある声たちが近づいてくる。肝試しという非日常もあってか、彼女たちの声は常よりも大きい。だから彼女たちがどのぐらい近くにいるか、そして俺の横を通り過ぎたのかどうか、よく分かる。

「留美ちゃん、こっち」

 結衣が細く小さな声で呼びかけると、四人から数歩遅れて歩いていた留美がハッと顔を上げた。留美と目が合うと結衣は「しーっ」と唇に人差し指をあてる。

「⋯⋯⋯⋯」

「こっちに来て」

 そう言う結衣を訝しげに見ながら、留美は何も言わずに俺の隠れる茂みの方へとやってくる。

 この役目は、やはり結衣にしか出来なかった。俺がもし暗闇の中から急に留美に話しかけようものなら、絶叫上げられて作戦台無しになるからな⋯⋯。

「⋯⋯なに?」

 俺の側まで来ると、留美は抱えた違和感を吐き出すように、小さな声で俺に問いかける。しかしその問いの答えは、俺ですらも知り得ない。

「まあ、見ててくれ」

 やがて四人は葉山たちに操作された道順のまま、袋小路に差し掛かる。コース順通りに来たはずなのに行き止まりになっている事に、彼女たちは口々に文句とも悪態ともつかない事を言いながら、不安を覆い隠すように声を大きくした。

 そんな彼女たちの前に、一つの人影が幻影のようにゆらりと、その帰り道を塞ぐように現れる。雪女さながらに冷たい表情の雪乃は、凍てつくような視線を彼女たちに送っていた。

 

「なんだ、雪乃さんじゃん」

「えー、登場の仕方地味ー。もっとちゃんと脅かせてよー」

 

 いつの間に彼女たちは、雪乃さんなんて名前呼びをしていたのだろう。しかしそれは、雪乃に対して心を開いている証拠。俺の作戦に置いて、非常に重要な役目を持つ。

 俺がこの千葉村において達成すべき目標は大きく三つ。その内の、三つ目。

 それは雪乃の手によって、鶴見留美を救うこと。彼女の過去を、彼女自身の手で救うことだ。

 

「貴女たち、一体どういうつもり?」

 

 真夏だというのに、氷点下の声が凛と響いた。それをしかと両の耳で聞き届けた彼女たちは、息をするのも忘れたみたいに言葉を失う。

 鶴見留美を救う為の俺の作戦は、あいも変わらず一か八か。それにコンセプトは何も変わらない。俺は彼女たちの関係を破壊する。自浄作用も何もない、腐敗した関係性は、一度壊すしかない。

「留美ちゃんは、どこに行ったの?」

「え⋯⋯っ」

 雪乃に指摘されて、彼女たちは初めて気付いたのだろう。ぐるぐると周りを見渡しても、身を隠している彼女が見つかるわけもない。

「どうして彼女を、除け者にしているの?」

「⋯⋯⋯⋯」

 あまりにも直截な質問に、すぐに答えられる者などいるわけもない。

 彼女たちにしてみれば、雪乃の言動は酷く恐ろしいものだろう。憧れ、心を許した存在からの厳しい糾弾。一人は唖然とし、一人は呆け、一人は違和感にその身を抱き、一人は恐怖を目に浮かべている。

「そんな事をして、何になるの?」

 雪乃の問いに、応える者は誰ひとりとしていない。

 私たちの何が分かるの?

 そう言わせない為に、雪乃は千葉村に来た当初から彼女たちに接触している。集団から排斥されている留美の事も認識し、その状況を黙認したように思わせながら、その裏で問題に目を向けていたという状況を作り出したのだ。

「留美ちゃんが貴女たちの集団から抜けたら、今度は貴女たちの中から誰かが標的になるだけよ」

 残酷なまでの事実を、雪乃は彼女たちに突きつける。彼女たちにすればどこかで既に分かっている事で、恐れているはずの事。なのにそれを続ける事を、俺は未だに理解する事ができない。

「そんな事を繰り返して、果たして友達と言えるのかしら」

「⋯⋯⋯⋯」

 耳が痛いほどの静寂と、張り詰めた空気。

 俺のやり方は、結局歳月が過ぎようと大差はない。斜め下の方法が、斜め上に変わったぐらいだ。

 一連のやり取りを、留美は食い入るように見詰めていた。握り込まれた手が、ぷるぷると震えている。俺がそっと留美の肩に手を置くと、少しだけその震えが収まったように思えた。

「お互いの顔を見なさい。貴女たちの中で、本当に友達だと言える人はいるの?」

 雪乃に促されて、彼女たちは遠慮がちに視線を交換しあう。その中でただ一人だけ、じっと地面を見詰め続けている少女がいた。

「違う⋯⋯」

「由香⋯⋯」

 由香と呼ばれた少女は、地表に視線を送りながら絞り出すように声を出す。その様子を、留美はまた震えるほど強い力で拳を握りながら見ていた。じっと沈黙を守っていた結衣が、さっき俺がそうしたように留美の肩に手を置く。

「そんな事ない。そんなんじゃない⋯⋯!」

 その静かで強い叫びは、一体どこから湧いて出てきたのだろうか。ひょっとしたら彼女も、今の留美のように排斥された経験があるのかも知れない。

「そ、そうだよっ。私たち、ちゃんと友達だもん」

「うん。そうだよ⋯⋯ね?」

 由香に同調しているようでいて、しかし彼女たちの言っている事は由香の意図を汲み取ったものではない。ただストレスフルな現状から逃げたいが為に、その否定に乗っただけだ。

 由香が言いたいのは、自分たちが友達同士であるという事ではない。彼女が「違う」と否定したかったのは歪んだこの集団と、その心理なのだ。

「私、探しに行ってくる」

「えっ⋯⋯ちょっと、由香⋯⋯」

 由香は駆け出すと、雪乃の横を通り抜けて元きた道を走っていく。後の事は、葉山たちに任せておけばいい。彼らにはグループからはぐれた子がいたら、ゴール地点まで誘導するように頼んである。

「⋯⋯貴女たちは行かないの?」

 由香が走り抜ける間も冷たい視線を彼女たちに送り続けていた雪乃は、殊更に冷たい声でそう言った。

「い、行こうよ」

「⋯⋯うん」

 一人が言い出すと、残る二人も頷き足早にその場を去っていく。後に残されたのは、夏の夜に憂いを浮かべた目で宵闇を仰ぎ見る雪女だけだ。

 留美は雪乃を、どう感じただろうか。四人ばかりを気にかけているようでいて、実は自分の事を救ってくれた救世主か、それとも恐ろしい断罪者か。

 これで鶴見留美の人間関係は、瓦解を始めた。以前と違うのは、そこに再構築の余地があるか否かだ。

 

「行くか」

「⋯⋯」

 

 黙って頷く留美に、結衣が寄り添って歩き出す。

 さあ、答え合わせの時間だ。

 俺は知らずに握り込んでいた拳を解くと、彼女たちの二歩後ろを歩き始めた。

 

 

       *       *       *

 

 

 一度として同じ形を取らない炎が、広場の中心で高く燃え盛っている。

 キャンプファイヤーを取り囲んだ小学生たちは輪を作り、次々と相手を替えながら二日目のイベントはフィナーレを迎えようとしていた。

 フォークダンスは自由参加なのか、輪の外で座り込んで話す留美と由香の姿を見つけた。残りの三人は、首をぐるりと回しみたが見えるところにはいないようだった。

 

「上手くいったのかしら」

「うん、多分ね」

 

 雪乃も結衣も、温かな目線を彼女たちに送り続ける。

 巨大な炎に照らされる度に由香の表情は泣いているようだったり、泣き笑いのような顔だったりと忙しない。留美は微笑みを湛えたまま何度か頷き、こちらには聞こえるはずもない言葉を紡ぐ。

 ──上手くいったのか、否か。

 今この場面だけで判断するならば、結果は上々と言っていいだろう。元より全員が関係を再構築できるなんて思ってもいない。

 重要なのは、これからだ。俺たちがやったのは、ちゃんと友達になれるかどうか、そのきっかけを作っただけに過ぎない。

 

「まあ、いいんじゃないか」

 

 残る三人にだって、やり直せる可能性は残っている。その関係の崩壊はすでに始まってしまっているが、それを止められるかどうかは、無責任だが彼女たち次第だ。もちろん、彼女たちにその気があればの話だが。

 果たして留美と由香は、本当の友達になれるだろうか。俺にはもう、そうなる事を祈るぐらいしかできない。

 願わくば雪乃と結衣のように。

 何年経っても切れない絆で、時にぶつかり合い、互いに支え合って補い合い、生涯に渡る親友になって欲しい。そうして初めて、俺と彼女は救われたと言えるのだろうから。

 由香が何事かを言うと、留美はまた頷き、彼女の手を握る。

 その光景はキャンプファイヤーの炎に照らされ、さながらハイキーで切り取られた写真のようで。

 だからきっと、眩し過ぎたのだ。

 俺がパチリと瞬きをしたのと同時に、熱い雫が頬を転がり落ちた。

 

「比企谷くん、泣いているの?」

「あ⋯⋯」

 

 慌ててシャツの袖で涙を拭おうとした俺の腕を掴むと、雪乃は意思を込めた強さで制する。ポケットからハンカチを取り出すと、そっと傷口でも拭うかのように、優しく俺の涙を拭いた。

「驚いたわ⋯⋯。あなた、ひょっとしていい人なの?」

「あはは⋯⋯。あたしも一瞬そうなのかと思っちゃった」

「⋯⋯ばっか、気付くの遅ぇよ」

 ありがと、と小さく言うと俺は思わず顔を逸らす。まったく、こういう部分は変えたくとも変えられそうもない。

「そうかも知れないわね」

 真っ赤な炎に照らされた雪乃の顔には、慈しみの込められた微笑みが浮かべられている。この世界線で来てから一番優しい表情に、うっかりどころか思いっきり惚れ直してしまう。

「もしも比企谷くんが私と同じ小学校に通っていたら、きっと色んな事が違っていたんでしょうね」

「買い被りすぎだな」

 もしもそんな状況になったとしても、俺に彼女が救えたとは思えない。きっと彼女と人生を交わらせる事すらなく、仮に知り合っていたとしても高嶺の華と路傍の石ころでは何も起こりようがないだろう。

 

「今の俺だから、できたんだ」

 

 もしもこれで、鶴見留美を救う事ができたのだとしたら。

 それはお前と、出会えたからなんだよ。

 俺はそう心中呟くと、雪乃の微笑みを目に焼き付けるように、そっと瞼を閉じた。

 

 

 







お読み頂きありがとうございます。
千葉村編後編はいかがでしたでしょうか? この展開を予想できている人がいたら私が凹みます。
結局壊してしまう所は八幡で、そこに救済の余地を残すのは大人であるが故なのかも知れません。
次の話はどの話になるのか、楽しみにお待ち頂ければと思います。



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