我が家にはペットが二匹いる。
比企谷家の愛猫・カマクラと、由比ヶ浜家の愛犬・サブレである。
千葉村から帰ってきてしばし。夏休みも折り返しを過ぎた頃に、結衣からサブレを預かったのだ。
それ自体一度経験した事でもあるのだが、久しぶり過ぎてサブレのいる生活はどうにも慣れない。というか毎日のようにひゃんひゃんと足元に擦り寄って来られると、中々に心休まる暇がないのだ。
そういやこいつ、犬種はなんだっけか。確かミニチュアダックスフント⋯⋯いや、キャバリア・キング・チャールズ・スパニエルだったか? 絶対違うな。
「毎日まいにち飽きないなお前」
舌を出したままハッハッと俺の足元で座り込んだサブレに言うが、もちろんサブレは何も反応しない。
千葉村から帰ってきてからというもの、俺はあの夏とほとんど同じように過ごしていた。つまり、あれから雪乃に会っていない。
雪乃とこれほど長く会わない時間を持つ事なんて、それこそこの高校二年の夏以来ではないだろうか。故に雪乃に会う事によってのみ補給されるビタミンYが不足している。多分このままではビタミンY不足で俺は死ぬ。ゆきのん会いたいのん⋯⋯。
そんな女々しい事を考えていると、ポコリンとメールの受信を知らせる音がする。
『あと五分ぐらいでつくね』
差出人には、『☆★ゆい★☆』の名前が表示され、本文には短くそう書かれていた。もうすぐ彼女がサブレを引き取りに来るのだ。
何の変哲もない夏休みの過ごし方の中でも、わずかに変わった事があった。メールの履歴には、結衣が旅行中に撮って送ってきた写真が何枚もあり、それ以上にたわいのないメッセージのやりとりが何通もある。
これは俺の知る世界線では、無かった事だ。短い文面のやり取りは何度かしたけれど、こんな風に距離感が近いというか、仲の良い友達同士のようなメールのやり取りはしていない。
ぼんやりとこれはどういう事なのか考えていると、ピンポンとインターホンが鳴る。どうやら結衣が到着したらしい。
モニターでくしくしと髪型を直している結衣の姿を認めると、俺は一階まで降りる。がちゃりと扉を開けると、出し抜けに明るい声が届く。
「やっはろー! ヒッキー」
「⋯⋯おう」
とても旅行帰りとは思えない元気な挨拶に、俺は心の中だけで「ひゃっはろー」と言い返す。
「まあ、上がっていってくれ」
「うん。お邪魔しまーす」
流石に俺の家に来るのは二度目⋯⋯いや事故の後にも来たらしいから、三度目か。多少は慣れたのだろう、家に上がる事にも抵抗がなくなってきているように思えた。
リビングに戻ると、飼い主の匂いを敏感に嗅ぎつけたのか扉を開けるなりサブレは結衣に飛びつく。
「おー、サブレ久しぶり〜」
サブレはワフワフと、滞在中の出来事を喋るかのように吠えまくる。それを見ながら俺は麦茶を用意していると、ふと気付く。小町はどこに行ったのだろう。
思い出して来てみれば、サブレを引き取りにきた時は玄関での立ち話程度だった気がする。何がきっかけかは分からないが、あの時とは少し変わってきているらしい。
「あ、これお土産ね」
「おお、ありがと」
はい、と紙袋ごと渡されたそれを見ると、何種類かのお土産が入っていた。パッケージを見るに、定番お菓子のご当地版というやつらしい。
「預かってもらってる間、何かサブレが迷惑かけたりしなかった?」
「まあ、迷惑被ってるとしたらカマクラだな」
サブレがうちに来たことによって一番影響を受けたのは、やはりカマクラだろう。顔を合わせば追いかけ回され、相手をしてくれるはずの小町を取られと散々な目に遭っていた。
それをかいつまんで結衣に話すと、あははと苦笑する。
「ヒッキーには?」
「ん? いや、俺は別に。散歩で外に出るのが苦痛だっただけだな」
「散歩よりも外に出るのが嫌なんだ⋯⋯」
結衣は麦茶の入ったコップを両手で持ちながら、ちょっと引いていた。いや当たり前でしょ⋯⋯この暑い中で外に出るなんて自殺行為じゃねぇか。
「なんかゴメンね。予定とか、色々狂わせちゃったかも」
「いや、特に予定はないからいいんだけど」
事実、俺の夏休みの予定は何もなかった。社会人になってからというものあれだけ羨ましかった一ヶ月以上にも渡る長期連休は、いざ与えられてみると長過ぎて持て余すほどだ。まったく、贅沢な悩みではあるが。
「ふーん、予定ないんだ⋯⋯」
結衣は手に持ったままの麦茶の水面に視線を落として、そうひとりごちた。彼女のその雰囲気から、俺は何となくその後に続く言葉が想像できてしまった。
「じゃあさ、今度の花火大会、一緒に行こうよ」
ああ、やっぱりこうなるのか。俺は遠慮がちな結衣の視線を受けながら、次に言うべき言葉を探す。
「外に出るのが苦痛って、さっき言ったんだけど⋯⋯」
「もー、夏休みだからってそんな生活してたらだめじゃん。たまには太陽の光浴びないと、本当に目が腐っちゃうよ?」
いや花火大会は夜だから、太陽の光関係ないんだけど⋯⋯。しかしそんな事を言っても、またその顔が不機嫌になるだけだろう。
「⋯⋯でも二人でいるところを誰かに見られたら、噂されちゃうかも」
「なにその言い方。キモい」
女子っぽく言ってみたのだが、あっさりバッサリ切られてしまった。というか実際また花火大会に行ったら相模や陽乃さんにエンカウントする可能性もあるから、あのイベント自体は非常に億劫なのだ。
「いやでも、人ゴミがね?」
なおも言い訳めいた事を続けていると、結衣はこちらをじっと見ながら黙ってしまう。非難するようだった視線は徐々に色を変えていき、やがて落胆のようなものを滲ませる。
「⋯⋯ヒッキーは、あたしと一緒に行くの嫌?」
そんな風に聞かれたら、嫌だなんて答えられるわけがない。こういう時の結衣の
「⋯⋯そんなわけないだろ」
「うん⋯⋯。はい、じゃあ決まりねっ」
結衣は立ち上がると、テキパキとサブレを連れて帰る準備を始める。結局この世界線でも、結衣とは花火大会に行くことになるらしい。
「じゃ、また連絡する」
「おう」
玄関まで送ると、結衣は空いた方の手を振る。
別れの時を悟ったのかひゃんひゃんと鳴くサブレを、俺は片手を上げて見送った。
* * *
その日は午前中からぽんぽんと空の大砲のような音が鳴っていた。確かあれは、号砲花火とか言うんだったか。
俺が結衣との待ち合わせの駅に着くと、俺は周囲を見回した。格好からして俺たちと同じ目的地であるらしい人々が、コンコースを足早に行き交っている。
「お待たせっ」
弾むような声と同時に、浴衣姿の結衣が視界にカットインしてくる。
いつかと同じ薄桃色の浴衣に身を包んだ結衣は、髪はいつものお団子頭ではなく一つにまとめられてアップにしている。十二年ぶりのその姿はあまりにも感慨深くて、思わず上から下までじっくり見てしまう。
「⋯⋯ねぇ、見てるんなら何か言ってよ」
「⋯⋯茶髪と浴衣は合わねぇな」
「もー! なんでそんなデリカシー無いこと言えるのっ」
俺の答えは大変ご不満だったらしく、結衣は手に持った赤い手提げを振り回して二の腕にクリーンヒットさせてくる。手提げはモーニングスターじゃねぇぞ。
「あいったぁ⋯⋯」
たいして痛くもなかったが、痛がらないというのも無礼というもの。二の腕をおさえる振りをしても、結衣の膨らんだ頬が萎む事はない。
「ヒッキー、もうちょっと気を使えないと女の子にモテないよ?」
「別にモテたくなんてねぇよ」
たった一人にさえ、モテたらいい。そんな本心を口にするわけもなく、ガタガタと大きな音を立てながら現れた電車に乗り込んでいく。
車内はレジャーシートやらパラソルやらを持った人たちで、中々の混み具合だった。俺たちを乗せた電車がゆっくりと走り始めると、不意に結衣は問いかける。
「そういえば、ヒッキーってゆきのんと連絡取ってる?」
「いや⋯⋯。千葉村から帰った後に、夏休み中にまた部活はあるのかって聞いたぐらいだな」
残念な事に、非常に残念な事にそれが事実で、雪乃とはその一通しかやり取りしていない。しかも返信は『ないわ』の三文字である。そのあと携帯を一時間握りしめても続きが送られてくる事はなかったから、ちょっと泣いた。
しかし俺の答えに思うところがあるらしい結衣は、顎に手をやり表情を僅かに険しくさせる。
「そっか⋯⋯。私もね、何回かメールとかしてるんだけど、電話はいっつも出れないみたいだし、メールの返信もすっごい遅くて」
実際、俺とのメールのやり取りも返信がくるまで丸一日以上かかっていた。
思い当たる節があるとすれば、それは雪ノ下家による隔離。あるいは、本当に家の用事で忙しいかだ。普通に考えれば後者だと思うが、前者の可能性があるのが雪ノ下家の恐ろしいところなのだ。
「まぁ、家の事が色々あるんだろ」
千葉村から帰ったあの日、雪乃が家のハイヤーで連れ去られるように帰って行ったのは、あの時と変わらない。結衣から事故に関する出来事は遠ざけたかったが、流石にそこまでのコントロールは出来なかった。
「うん⋯⋯」
結衣はそう返事をすると、小さく溜息を吐いた。
あの車を見て、結衣は何を思ったのだろう。それっきり黙ってしまった結衣の横顔を盗み見ても、それが分かるはずもない。
電車が目的の駅に滑り込むと、人波と一緒にホームへと降りる。そのまま列に流されるように進んでいくと、間も無く花火大会の会場だ。別の交通手段できた人々と合流するたびに、人口密度は上がっていく。
「だいぶ混んできたね」
普段歩く分にはだだっ広いと思っていた歩道も、こうも混み合ってくるとただ歩くのすらも難しい。隣を歩く結衣は、徐々に増えてきた色とりどりの屋台に目を奪われていた。
花火が始まるまで、まだ一時間以上もある。またあの時と同じように屋台をまわって時間を潰す事になりそうだ。
「まだ時間あるけど、どうする?」
「⋯⋯屋台でも見てくか」
「うん、そだね」
今から場所取りという選択肢もあるにはあるが、人間飯を食べねば生きてはいけない。今回は小町の欲しい物を買って帰るというミッションは存在していないが、飲まず食わずというのも厳しかろう。
「あ、見てヒッキー。あの綿菓子⋯⋯」
「由比ヶ浜」
しかし何もかも同じというわけには、いかなかった。このまま行けば、おそらく相模南と会う事になり、また結衣が不躾な興味と嘲笑の対象にされてしまう。それはなんとしても避けたい。
「悪い、こっちから見たいんだけど、いいか?」
「あ、うん⋯⋯。いいよ」
結衣が見ている方とは反対の屋台の並びを指さすと、特に異論はないのかすんなり受け入れてくれる。表情に僅かな疑問が残っているようだったが、多少強引でもやむなしだろう。
「ねえ、何食べる?」
「まずは型抜きだな」
「食べ物じゃなかったっ⁉︎」
「いや、あれも食いもんだから」
そんな何気ない会話も、結衣はどこか楽しそうだ。
願わくばいつまでも、そんな風に笑っていて欲しかった。
けれどそれは叶わない願いだ。それは他でもない俺が一番よく、知っている。
* * *
屋台を回り始めてしばらく経った頃。
俺と結衣が道端でリンゴ飴をもしゃもしゃ食べていると、聞き覚えのあるダミ声が耳に届く。
「あれー、結衣とヒキタニくんじゃん。うぇーい!」
そう言って手を挙げているのは戸部で、その隣には葉山の姿もある。片手に屋台で買ったものらしきビニール袋を持っているから、こちらと同じく花火前の腹ごしらえ中だろうか。
「あ、とべっち⋯⋯と隼人くん。こんな所で奇遇だね。うぇーい!」
結衣と戸部はパリピよろしくハイタッチすると、葉山は微笑ましい光景を見ているかのように目を細めた。すっとその視線が俺の方にスライドしてくると、途端にその目に浮かぶものは慈しみから興味へと変わっていく。
「やあ」
「⋯⋯よう」
なるほどな、と心中でひとりごちる。相模と会わないようにするという事は、こんな風にあの時会わなかった人間に会う可能性もあるわけだ。
「戸部と二人だけなんて、珍しいな」
「いや、大岡と大和もいるよ。場所取りをしてくれてるんだ」
そう言って葉山はビニール袋を軽く持ち上げた。彼らの分も含めて、買い出し中という事らしい。
「そっちはデートか?」
「そんなんじゃねぇよ」
即座に否定するが、まあどこからどう見てもデートだろう。しかしその否定に意味はなくとも、一応言葉にはしておかなくてはならない。
しかしこの状況というのは、またとない機会かも知れない。俺は結衣と戸部の話が盛り上がっているのを視界の端で確認すると、葉山との話題を変える。
「ところで、ちょっと聞きたい事があるんだが⋯⋯」
声をひそめて言う俺に、葉山は胡散らしいとでも言うような視線を返してくる。
「夏休みの間、雪ノ下が何をしているか知ってるか?」
俺の直截で唐突な問いに、葉山は言葉を失ったように目を瞬いた。しかしそれは一瞬の事で、返される答えは素っ気ない。
「そういう事なら、本人に直接聞けばいいだろ」
「あいにくプライベートな連絡は禁止されているもんでな」
「⋯⋯一体どうしたらそうなるんだ」
そんなの俺が聞きてぇよ。と誰にも聞こえない声で呟き漏らす。この手の話はセンシティブでドメスティックな話題過ぎて、葉山の反応は芳しくない。
「雪ノ下さんから聞いてるかも知れないけど、俺だって頻繁に連絡を取り合うような仲じゃない。だから最近の事は、全然知らないんだよ」
「過去の事なら分かるのか? 例年どうだったかとか」
「もし知っていても言えないよ。プライベートな事だからね」
「⋯⋯まあ、そうだわな」
当たり前だろ、と肩をすくめられてしまうと、もうそれ以上の質問は意味を持たない。
俺が結衣の方を見ると、戸部との話も終わったところらしかった。
「そろそろ行くわ」
「ああ⋯⋯」
葉山はそう答えるが、顎に手をやり思案顔だ。そのままにして置くのも気持ち悪いので続きを待っていると、結衣には聞こえないぐらいの小さな声で言う。
「どっちつかずは良くないと思うぞ」
「⋯⋯だからそんなんじゃねぇって言ってんだろ」
どっちかだなんて、それはもう決まっている。
それはもうどうしようもなく、取り返しがつかない程に。
* * *
花火の打ち上げまでもう間も無くという時間になると、観覧エリアは人でごった返していた。
当然空いているベンチなどはなく、一番見やすい場所はすでにレジャーシートや大型のブルーシートが敷かれ、二人とはいえ滑り込むようなスペースは無い。
「えっと、どうしよっか」
結衣は浴衣だから、芝生にそのまま座るというのはよろしくない。かと言って立ち見をしようにも、観覧エリアの通路は立ち止まるのも難しいぐらいの往来である。
しかし、そんな事は分かり切っている事だ。
「あんまいい場所は残ってないかも知れんが、レジャーシートなら持って来てる」
俺はそう言ってたすき掛けにしていた小さめのバッグを指さすと、結衣はほえーっと間の抜けた表情をしていた。
「意外⋯⋯。あ、ううん。ヒッキーって割りと頼り甲斐あるなーって思ってたけど」
「⋯⋯微妙なフォローをどうも」
それもこれも、こうなる事を分かっていたから準備できた事だ。何よりこのままフラフラと有料観覧エリアに近付いて陽乃さんに会うのも具合が悪い。また帰りしなに雪ノ下家の車を見る事になり、避けていた事故の話題に触れる事になるだろう。
「ここら辺でいいか」
「うん」
芝生エリアに点々と植樹された木の下に空いているスペースを見つけると、二人がようやく座れるぐらいの小さなレジャーシートを敷く。あいにく空を見上げると枝葉が少し花火の邪魔をしてしまいそうだが、座れるだけマシだろう。
俺たちが座り込んでしばらくすると、会場に花火大会開始のアナウンスが流れ始めた。そしてひゅるるるる、と火球が空に細い線を描くと、光の華が炸裂する。歓声に紛れてもう一発、さらにもう一発と次々に花火は打ち上げられていく。
「おぉ〜」
結衣も控え目に歓声を上げながら、胸の前でパチパチと小さく拍手をする。本当に結衣は、どの仕草を切り取って見ても女の子らしい。
光の輪が大きくなっていく度に、会場の歓声は大きくなっていき、どこか遠くから調子っぱずれな「たーまやー」という声が届く。
彼女の瞳はいくつもの花火を色とりどりに映し込み、その横顔はあまりにも美妙だった。
もしも、俺が好きになったのが結衣だったとしたら。
俺と彼女はどんな未来を迎えていただろう。きっと俺は彼女の優しさに甘えて、酷く苦しめたり傷つけたりすると思う。あるいは俺が彼女の為に変わる努力をして、笑顔を見続ける事ができたのかも知れない。
けれどそんな想像は、無意味だ。俺が感情によって誰かを選ぶ事は出来ても、好きになるという感情を選び取れるわけじゃない。
「ねえ、ヒッキー」
瞬きも忘れて見入っていたのか、潤んだ瞳に花火を閉じ込めながら結衣は言う。
「サブレを助けてくれて、ありがとう」
その一言に、俺は息をするのも忘れて結衣の顔を見詰めていた。
結局、この話をするのは避けられないのか。あれだけ回避してきた事故の話題も、結衣の方から言われてしまっては避けようがない。
「入学式の日に、犬を助けようとして、怪我しちゃったでしょ? あの犬が、サブレだったんだ」
「⋯⋯ああ」
「あ、驚かないって事は、やっぱり小町ちゃんから聞いてたんだ」
頷く俺を見て、結衣はまた花火を見上げる。ぱらぱら、ぱらぱらと、光と音が降り注ぐ。
「だからあの時から、ヒッキーの事は知ってたの」
さほど遠くない話だというのに、結衣の声は遥か昔を懐旧するみたいだった。それほどまでに、俺にこの話をするのに時間がかかったという事が、その表情から読み取れる。
「お見舞い、行かなくってごめん。小町ちゃんに入院先を聞ければよかったんだけど⋯⋯。そんな事までしてくれなくてもいいって言われて、そのままにしちゃってた」
俺を正面に捉えてぺこりと頭を下げる結衣の姿に、何故だか罪悪感すら覚える。俺が下手に事故の話題を避けなければ、こんな風にする必要もなかったはずだ。
「いや⋯⋯。謝る事なんかじゃねぇだろ。俺が勝手にやった事なんだし」
事実あれは俺が勝手にやった事で、誰にも謝られる必要なんてない出来事だ。助けなければ良かったなどとは露ほども思わないが、結衣にそう言われることは酷く息苦しい。
「うん⋯⋯。でも入院してたから、凄く大切な時期に学校にいなかったわけじゃん? ヒッキーがいつも一人なの、あたしのせいなのかもって思ったら⋯⋯やっぱり謝りたい」
あの時リードを離してしまったのは自分だという悔恨もあるのだろう。結衣の表情は未だ晴れず、いつしか花火を見上げる事もやめて俯いている。
「んな事気にしてたのかよ⋯⋯。俺がぼっちだったのは、この性格だからだ。元々社交性があれば、二年に上がった時に友達できてるはずだろ」
これじゃいつかの繰り返しだ。避けても避けても訪れるというのならば、これは必要なやり取りだったのかも知れない。
少なくとも結衣にはずっと心のどこかに
「ヒッキーは優しいね」
空から降り注ぐまばらな光に合わせるようにして、ひたすらに柔らかい声色が耳朶を震わせた。
いつの間にか俯かせていた顔を上げると、心の奥底を掬いあげるような視線が俺に注がれている。
「だから、なのかな」
俺は彼女の、その表情を知っている。
熱に浮かされたような、焦がれるような、確かな熱量を持った声。言葉を紡ぐ度に引き結ばれる唇。
「ヒッキー、あたしね」
明滅を繰り返す空が、結衣の顔を幾度となく照らす。うっかりしていたら取り込まれてしまいそうなその目に、心が震えた。
「あたしね⋯⋯」
駄目だ。
そう強く思った。それが酷い欺瞞でも、誰の為にならないかも知れなくても、彼女にその先の言葉を言わせてはいけない。
「由比ヶ浜」
結衣の話を遮るように、俺はその名前を呼ぶ。びくっと僅かに、彼女の肩口が揺れた。
「え⋯⋯。うん、何?」
「俺も、お前に言わなきゃいけない事がある」
まったく、こんな時に言うなんて。デリカシーもなにもあったものじゃない、最低のタイミングだ。
それでも、いつかは言わなければならない事だった。俺が何度この青春の時代を繰り返したとしても、不変の感情。それに伴う、残酷なお願いについて。
「俺、雪ノ下のことが好きなんだ」
俺は気を抜けば逸らしてしまいそうになる視線を結衣に向けたまま、ただはっきりとそう言った。
目を見開いた結衣の表情は純粋な驚き、であれば次に浮かべるのはどんな表情か。
正直、また傷つけると思うと見ていたくなかった。それでも俺は、自身への戒めのように結衣を見詰めながら続ける。
「だから応援して欲しいとかそんな話じゃないんだけど⋯⋯。ただ知っておいて欲しいというか」
「うん⋯⋯」
「それからあいつと連絡取り辛くなってるかも知れないけど⋯⋯。また新学期が始まったら、一緒に居てやって欲しい。雪ノ下には、由比ヶ浜が必要だと思うから」
「⋯⋯なにそれ。お願いされなくても、一緒にいるよ」
そう言う結衣の顔に張り付けられた微笑みの下にあるのは、悲壮か哀切か。その表情を見ていると、心臓が針で突かれているかのように痛んだ。
また、彼女の優しさに甘えてしまった。悲しみさえ隠して見せる彼女の強さに、救われてしまった。
「ありがとう」
だから俺は、結衣の目を見詰めてそう言った。
少し前、千葉村での夜。川辺で語り合う彼女たちの姿を思い浮かべる。
きっと彼女たちなら大丈夫だと、確信と祈りを込めて、俺はゆっくりと頭を下げた。
* * *
夏休み明けの初日。
久しぶりの通学路は、学校が近づくにつれて数人で連れ立って歩く集団が目立つようになってくる。皆一様に夏休みの間にあった事を話し合っているのだろう。その声は夏休みの前と比べるまでも大きくかしましい。
元の世界線で俺は、そんな光景をどんな気持ちで見ていただろうか。夏休みが終わってしまった絶望感と気怠さで背中を丸めながら登校していたような気がする。
「おはよっ」
昇降口で靴を履き替えていると、二の腕に軽い衝撃を覚える。声のした方を見ると、結衣が片方の肩にかけた鞄を軽くぶつけてきたらしい。
「おお、おはよ」
その声の掛け方も、声色も表情も、あまりにもいつも通りで拍子抜けしてしまう。もっとぎこちなくなったり、避けられたりしてもおかしくないというのに。
「なんか、そんなに久しぶりじゃないのに、すっごい久しぶりな気がする」
「⋯⋯まあ、そうだな」
あの花火大会の日以来、ほとんど毎日のように来ていた結衣からのメールは、ただの一通も送られてくる事はなかった。
そんな状況もあって結衣とどんな顔をして会えばいいか
「ね、今日から部活あるのかな?」
「さぁな。直接聞けば分かるだろ」
そう言って俺と結衣は隣り合って歩き出す。やがて教室へと上がる階段へと差し掛かると、俺はいつかと同じようにその姿を見上げた。
大きなガラス張りの窓たちが透かす、夏の厳しさを残したままの陽光。その光を受けてなお涼やかに、雪ノ下雪乃は何者をも寄せ付けない空気を身に纏っていた。
「あら、久しぶりね」
踊り場にさしかかった彼女は、視界の端で俺たちに気付いたらしい。後光のように陽の光を背負いながら、うっかりすれば見惚れてしまいそうなほどの微笑みを浮かべていた。というか、完全に見惚れていた。
「ゆきの〜ん!」
俺が何か言うより先に、結衣は階段をダッシュで上っていくとその勢いのまま雪乃に抱き着いた。その光景に硬直の解けた俺は、一歩一歩踏みしめるように階段を上がっていく。
「ちょっと⋯⋯。こんな所で抱きつくのはやめてちょうだい」
「だって、だってさぁ、もう!」
よほど雪乃と会えたのが嬉しいのか、彼女の非難もどこ吹く風で結衣は抱き着いたまま離れない。その光景は、ひたすらに眩しい。
「⋯⋯今日から始めるのか。部活」
「ええ⋯⋯。そのつもりだけれど」
「了解。また後でな」
「ちょっ、ヒッキー、置いてくなし!」
俺が雪乃たちを追い越して階段を上り始めると、結衣は文句を垂れながら追いかけてくる。
「ゆきのん、また放課後にね」
「ええ、また後で⋯⋯」
その言葉と一緒にどんな表情を浮かべているかは、背を向け歩き出した俺に知る由はない。
振り返れば、きっと見えるだろう。けれど俺は振り返らない。
決定的に変えてしまった事を、後悔しない為に。前だけを向いて、彼女たちと向き合う為に。
お読み頂きありがとうございました。
花火大会編、というか結衣ちゃん編はいかがでしたでしょうか?
結衣に対する態度が正解か不正解か、おそらく八幡ですらも迷いながらの答えで、正答の無い問いであると思います。
俺ガイル原作でも結衣は重要な登場人物でしたが、この話でもそれは変わりません。
雪乃の態度だけではなく、結衣の反応の変化も注視して頂けるとより楽しめると思います。
それではまた次話で。感想もどんとこいばっちこいでお待ちしています。