まちがった青春をもう一度。   作:滝 

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雪ノ下雪乃の悲壮はもう要らない。上

 九月は台風の季節だ。

 それはここ千葉も例外ではなく、昨晩は凄まじい風雨に見舞われた。激しい雨に大気中の埃やら何やらが洗い流されたのか、教室の窓から望む空はまさに秋晴れの空と言うべき青さだ。

 しかし今はそんな空の青ささえも疎ましい。一晩中がたがたとシャッターを揺らされ続け、お陰でかなり寝不足だ。

 

「八幡、眠そうだね」

 

 くぁ、と欠伸を噛み殺していると、戸塚は苦笑混じりにそう言った。正直、眠い。保健室に直行して仮病使って眠りこけたいぐらいに眠い。

 しかしそういう訳にもいかない。何せ次のロングホームルームでは、文化祭での係決めがある。実行委員を誰がやるか、そこで決まるのだ。

「ああ、台風の音がうるさくてな」

「確かに、凄かったね」

 そんな他愛のない会話を遮るように、チャイムが鳴る。それを合図にバラバラと散っていたクラスメイトたちは、まるでパズルゲームのようにあるべき位置へと戻っていく。

「えー、ではロングホームルームを始めます。今日の内容は文化祭での係決めです」

 眼鏡のルーム長は教室にさざめく声が収まるのを待って、遠慮がちに話し始めた。教室は完全な静寂に包まれ、彼からしてみれば相当に仕切り難い空気だろう。これから各々が持つ手練手管で面倒な役目の押し付け合いが始まるのだから、無理はない。

「まずは文化祭実行委員ですが、誰かやってもいいと言う人はいますか」

 その問い掛けに、応える者は一人としていない。それもまた当然だろう。

 実行委員になってしまえば、クラスでの役割は免除される代わりにその出し物に関わる事は難しくなる。つまり文化祭という高校時代で一番フェスティバれる時期に、クラスから離れる事になるのだ。青春を謳歌したい者ほど、回避したい役割だろう。

「えっ、と、誰かいませんか」

 そう、普通ならば、避けて通りたい道だ。けれどそれにメリットを見出せる者もいる。恐らくこの中では、ただ一人だけ。

 俺はすっと背筋を伸ばすと、無言のまま右手を挙げた。

「あ、じゃあ比企谷くんと」

 ルーム長が黒板に「文化祭実行委員 男子 比企谷」と書くのとほとんど同時に、教室中の視線が俺に集まる。俺を知らない彼ら彼女らは無関心に、俺を知る彼女らと彼らは、その顔に驚きをのせて。

「他に誰か、立候補はいますか」

 こんな行動は、まったく自分らしくないと思う。それでも俺は、果たすべき目的の為には必要だと信じている。

 文化祭実行委員になり、このイベントを通して雪乃との関わりを持つ事。それは文化祭を迎える上で、最上位のタスクだった。

「じゃあ、誰もいないようなので、文化祭実行委員の男子は比企谷くんでいいですか」

 返事をする者は誰もいない。その沈黙を了解と受け取ったルーム長は黒板に書かれた『男子』の横に『女子』と書いた。

 続いては女子の実行委員選出だが、後は俺の知っての通りの展開だ。

 結衣がその仕事は大変なのかと訊き、三浦は自分と呼び込みをする予定だからと引き留める。葉山に推された相模は大変鬱陶しい態度で、実行委員の役を引き受けた。

 あの時と違う事があるとすれば、実行委員の仕事に興味を持っていた結衣が相模に揶揄されなかった事ぐらいだ。花火大会での遭遇を回避した事が、功を奏したらしい。

 誰もが嫌がる役さえ決まってしまえば、後は早い。次々と板書されていく名前を見ながら、俺はこれから繰り広げられるであろう未来へと思いを馳せていた。

 

 

       *       *       *

 

 

「ヒッキー、どういうこと? あれ」

「あれじゃ分かんねぇよ。すぐに言葉が出てこないおじさんおばさんか」

 

 放課後になると、珍しく結衣は教室の中だと言うのに俺に話しかけてきた。まあ結衣にとっては意味不明だろうから、そう言うのも当然だ。

「もう! 分かるでしょ。実行委員の話」

「ああ⋯⋯。まぁあれだ。クラスに残っても居場所ないしな」

 俺は問い質された時の為に用意しておいた言い訳を言うが、結衣はまだ納得していない。というよりも『不満です』と顔に書いてあるし、隠そうともしない。

「別にそんなこと、ないと思うけど」

 拗ねたような態度が、なんともこの頃の結衣には似つかわしい。やたらと拗れている俺や雪乃に対して、よくしていた表情だ。

「⋯⋯部活、いくのか? 俺はあと少しで実行委員会だから、そっち行くけど」

「ううん。ゆきのんも今日は文化祭の用事で来れないから、部活はないって」

「そうか」

 だったら僕にも連絡くれませんかねぇ、連絡先知ってるんだし⋯⋯と思っていると、ポケットの中で携帯が振動する。

 画面を開くと雪乃から『文化祭関連の会合がある為、本日の部活は中止します』とだけ書いたメールが届いていた。ガチで業務連絡だなこれ。まあ結婚してからも『今日の晩ご飯はカレーにするので昼ご飯にカレーを食べないように』とだけ送ってくる事もあるし、割と素の文面なのかも知れない。それにしても昼飯にカレー食うと晩飯もカレーになる率は異常だ。

「それじゃ、そろそろ行くわ」

「あ、うん。頑張って」

 胸の前で小さく手を振る結衣に頷きを返すと、俺は教室を後にした。向かう先は文化祭実行委員会の開催場所である、会議室だ。

 普段は職員会議などに使われているらしいそこに近づく生徒は、そう多くない。廊下で合流したまばらな人の流れは、そのまま会議室の中へと吸い込まれていく。

 会議室の中に入ると、先に来ていたらしい相模の姿を見つけた。いつかと同じように、元々の知り合いと会ったらしくお喋りに花を咲かせている。

 俺は適当な席に座ると、ぼんやりと扉の方を見ていた。もうそろそろ、彼女が来るはずだ。

「⋯⋯⋯⋯」

 そうして扉を見続けていると、一人の少女が会議室に入ってくる。その瞬間、ざわざわと煩かった会話が完全に止まった。

 雪ノ下雪乃はぐるりと会議室内を見回し、俺と目が合うと頬に手をやり小首を傾げる。何故比企谷くんがここにいるのかしら、とでも言い出しそうな表情だった。

 そのやたらと可愛い仕草と視線の先に湧きたったのは男子たちだ。ひそひそと「今、俺みてた?」なんて期待に胸をときめかせている。いやどう考えても俺でしょ。っていうか人の奥さんジロジロ見んじゃねぇよ可愛いのは分かるけれども。

 そんな絡みつくような視線も空気も完全スルーで、雪乃は手近な席に座った。それを合図にしたように、再び会議室に会話の波が押し寄せる。

 やはりこういう大勢のいる場では、雪乃の異質さというか特別さがはっきりと分かる。まとまりのない有象無象の中で、雪乃は見た目から空気までが整いすぎていて、いい意味でも悪い意味でも目立つのだ。

「はい、では文化祭実行委員会を始めまーす」

 そう声に出したのは、ほとんど定刻通りにやってきた生徒会長・城廻めぐりその人である。生徒会メンバーに合図を送ると数人の生徒がプリントを配り始め、彼女たちより遅れて入ってきた平塚先生と体育教師の厚木が腕を組んでその様子を静観している。

 いや、それにしてもめぐり先輩と会うのは久しぶりだ。めぐり先輩が卒業してからというものほとんど会う事もなかったから、「わっか⋯⋯」という感想よりも懐かしいという感情の方が強い。

 

 嗚呼⋯⋯まためぐりッシュして貰いたい。ついでに「君、最低だね⋯⋯」って蔑まれたい。

 そんな阿呆な事を考えながら、俺は繰り返される光景をただ見守るのだった。

 

 

       *       *       *

 

 

 文化祭まで一月を切った。

 また本日も放課後に実行委員会があるわけだが、開始は午後四時から。それまでの時間潰しに部室へと寄り、文化祭準備期間中の部活動について話していると、コンコンと扉がノックされる。記憶のままの展開であるならば、俺は今日の客人の名前を知っている。

 

「どうぞ」

 

 雪乃はいつもと変わらぬ冷静な声音で、来訪者へ入室を許可する。ガラリと音を立てて、その引き戸は開けられた。

 

「失礼しまーす」

 

 扉を開けた生徒の名前は、相模南。

 それに実行委員で一緒になった二人の女生徒も連れ立って訪れているのも、あの時のままだ。社交辞令的な会話を交わすと、相模は早速本題に入る。

 

「雪ノ下さんも居たから知ってると思うけど、うち実行委員長やる事になったじゃん? でもぶっちゃけ何やっていいか分かんないし、できれば助けて欲しいなって」

 

 貼り付けたみたいな軽薄な笑みを浮かべたまま、軽率に彼女はそう言った。

 当たり前の事だが、相模南は何も変わっていない。囃し立てられるがままに実行委員になり、そして実行委員長にまで就任してしまった。

 俺はできる事ならば、雪乃に実行委員長をやってもらいたかった。陽乃さんから見ればまた雪乃は姉の後ろ姿を追っているように見えるかも知れないが、実行責任者として人、物、金のリソースを駆使し文化祭という事業を運営してみせる事は、経験としてこれ以上ない貴重なものだ。義母さん──雪乃の母親に彼女が認められる一助にもなるだろうし、それに相模による失敗の後始末もつけなくてよくなる。

 

「つまりあなたの補佐をすればいいという事かしら」

「そうそう」

 

 しかし現実はそう簡単ではない。いくつかの会話の後、雪乃はそう相模に問い掛ける。

 あの実行委員会の場で、雪乃を実行委員長に推すのは実現性が無さすぎた。現に体育教師の厚木が雪乃に実行委員長になる事を勧めても、彼女は固辞した。残念ながら今のところ、こと文化祭においての物事は既定路線を走り続けている。

 

「それなら、構わないわ。私も実行委員なわけだし、その範疇から外れない程度ならお手伝いするわ」

「本当に⁉︎ ありがとう、すっごい助かるっ」

 

 手放しで喜ぶ相模を、俺は半眼で見続けていた。

 このまま行けば、彼女はとんでもない判断ミスを犯し、その結果雪乃は過労に倒れる事になる。本番では目を覆いたくなるような失敗とそれに付随する行動で、多くの人を巻き込む事になるだろう。

 絶対に、そうはさせない。

 あの時俺は、雪乃の孤高を支持した。共感し、憧れてすらいたと思う。しかしその結果が、雪乃に体力の限界を知らしめる事になってしまった。

 そんなまちがいは、もう要らない。彼女たちの知らない未来で、良き隣人たちに恵まれその中心で笑う雪乃の姿を、俺は知っている。彼女がその才腕でいずれそこに至るのだとしても、まちがいを見過ごす事はできない。

 

「じゃあ、よろしくね」

 

 そう言って相模は友人と言っていいのかどうか分からない二人を引き連れて、奉仕部の部室を後にした。

 後に残されたのは、晴れ晴れとした表情の相模とは真反対の表情を浮かべた結衣と、少し疲れたような様子の雪乃。ついでに地蔵化していた俺だけだ。

「⋯⋯部活、中止するんじゃなかったの」

 問い詰めるような口調と声に、色はない。結衣のいつもと違う調子に気づいた雪乃ははっと顔を上げるが、その表情を真似するかのように彼女もどこか冷めた表情を浮かべた。

「私が個人的にやる事よ。部活動とは関係ないわ」

「ううん、違うよ。だってさがみんたちが来たのは、この部室だもん。奉仕部に、依頼に来たんだよ」

 食い下がる結衣に、俺は強烈な違和感と空恐ろしさを覚える。

 結衣らしくない、とまでは思わない。ただ俺の知る限り、結衣がこんなにも自己主張するようになるのは、もっと先。それこそ関係性が拗れまくった後だったはずだ。

「だから、あたしも手伝うよ」

「⋯⋯由比ヶ浜さんだって、クラスの方の役割があるでしょう。私ひとりで十分よ」

「クラスの方なら大丈夫。ずっとかかりっきりって事にはならないもん。それに全然、十分じゃないよ」

 語気を弱めた結衣は、その眼差しを柔らかくさせる。その表情にさっきまでの刺々しさはなく、夜露に濡れながら咲く花のようにひっそりと微笑んだ。

「たった一人で十分なんてこと、絶対ないよ」

 哲学めいた響きを持つ言葉が、雪乃の表情に変化を与える。いつしか雪乃も、その表情から険しさを取り除いていた。

「⋯⋯分かったわ。でもクラスの方を優先してちょうだい。こっちの手伝いは、手隙の時だけ。それでいいかしら」

「⋯⋯うんっ!」

 そう言って結衣は、いつだったかのように勢いよく雪乃に抱きついた。

 そんな二人を見て、ようやく俺は思い至る。

 花火大会のあの日、俺が取り付けた結衣との約束。結衣の言動は、俺の「雪乃と一緒に居てやって欲しい」というお願いそのものではないか。

「そろそろ行くか。文実」

 まったくいつになっても、どこにいても結衣には世話になりっぱなしだ。俺は二つ重なる返事を背中に聞きながら、廊下へと続く扉を開ける。

「じゃあ、あたしはクラスに戻るから。手が空いたら連絡するね」

「ええ。でも直近で手伝ってもらう事は何もないわ。お願いしたい場面が出てきたら、こちらから連絡する」

「分かった。それじゃね」

 ひらひらと手を振る結衣と別れると、雪乃と二人で会議室に向かって歩いていく。

「なあ」

 視線を前にやったまま俺がそう言うと、視界の端で雪乃は訝しげに首を傾げる。こんな事を言えば疎ましがられるのは必定だが、言っておかなくてはならない。

「あんまり前に出過ぎるなよ。たぶん相模は仕事ができるタイプじゃないけど、委員長なんだからな」

「あら、誰に向かって言っているのかしら」

 そう言って浮かべられた勝ち気な笑みこそ、雪乃に相応しい。

 魚を捕って与えるのではなく、捕り方を教える。それが奉仕部の基本理念であるはずだ。

「比企谷くん」

 やがて会議室が近づいてくると、不意に雪乃は足を止める。その顔からはさっきまでの勝ち気な笑顔が抜け落ち、代わりに僅かばかりの不安を孕んでいた。

「その⋯⋯。比企谷くんもなの?」

「はい?」

 質問の意図が分からず、思わず間の抜けた返事をしてしまう。何が言いたいんでしょう、この子。

「比企谷くんも、手伝ってくれるのかということよ」

「ああ⋯⋯」

 注意して見なければ分からないぐらいに頬を染め、気恥ずかしいのか上目遣いでそう聞いてくる。久々に見せた(いとけな)さと、庇護欲全開になってしまいそうな程の可愛さに頭がクラクラする。

 正直、抱きしめたい。苦しいわと文句を言われるまで抱きしめ、うなじをくんかくんかと嗅いで嗅覚も触覚も全て雪乃で満たされたい⋯⋯。

 やっちゃダメ? ダメだわな。うん知ってる。

 

「まあ、出来る限りでな」

 

 そんな考えているだけで学外追放級の願望を頭の中だけに押し留めながら、俺はそうとだけ答える事にした。

 

 

       *       *       *

 

 

 雪ノ下雪乃が副実行委員に就任するとお触れがあったのは、数日後の事だった。

 それからすでに何度かの実行委員会が持たれ、その度に雪乃の存在感は増していた。最初こそ俺の忠告通り雪乃は相模を委員長として立てようとしたが、それが叶うことはなかった。相模南が、リーダーとしての才覚を持ち合わせていなかったが為だ。

 そのこと自体、分かりきっていた事だった。大抵の人間はリーダーなんてやりたがらないし、その才能を持たない者の方が多い。相模もその内の一人だったというだけだ。

 だからあまり期待はしていなかったが、確実に火種は燻り始めている。承認欲求を満たし、自尊心を取り戻さんとする相模の思惑は、この世界線の上でも崩れ去ろうとしていた。

 いつぞやと、あまりにも同じ。

 誰も救えない、救われないダンスを、皆一様に踊っている。

 

「何かあったの?」

 そう言ったのは葉山で、それを受け取ったのは会議室の前に立ちその中の様子を覗き見ている一人の女子生徒だ。

 有志団体の申し込み用紙を取りに行くという葉山と一緒に向かったその先で、数人の生徒が入口を塞ぐようにして中を窺っている。

「えっと⋯⋯」

 まごまごと喋り出す彼女の言葉にはまとまりがなく、よく分かっていない事だけが伝わってくる。無論その話を最後まで聞くつもりはない。干渉すべきタイミングを逃したら、取り返しがつかなくなる。

「ちょっとごめんなさいねっと」

 俺は入口を取り囲む生徒たちに手刀を切りながら割って入ると、ガラリと音を立ててその扉を開けた。

 事件現場になっている会議室の中央には雪乃とめぐり先輩、それから陽乃さんの姿。その三人⋯⋯というより雪乃と陽乃さんが纏う近寄りがたさと電気を放つような痺れるほどの緊張感に、誰もが黙って事の成り行きを見守っている。

「姉さん。何をしに来たの」

「やだなー睨んじゃって。私は有志団体のオファーがあって来てるんだよ?」

「ご、ごめんね。私が呼んだんだ。この前、街でばったり会って⋯⋯」

 詰問する雪乃に、陽乃さんはさらりとその怒気とも言うべき言葉をいなす。めぐり先輩のフォローの言葉も、雪乃にはほとんど届いていない。

「あ、比企谷くんだ。ひゃっはろー!」

「⋯⋯うす」

「あ、隼人も一緒だったんだ」

 陽乃さんに呼び込まれるように、俺たちは返事をしながら会議室の中へと踏み込んだ。どうやら間に合ったらしい。

 その後に起こる出来事を、俺はひたすらに静観していた。

 有志団体として、管弦楽部OGを集めて出演すると言う陽乃さん。彼女は遅れてやってきた相模を試すような視線と言葉で牽制し、そして取り入れる事に成功する。役者が揃えばここまで演目もかぶるのかというぐらい、記憶のままの展開だ。

 

「みなさん、ちょっといいですかー?」

 

 雪ノ下姉妹の一悶着を終え、会議室にいつもの光景が戻ったところで相模が声を上げた。立ち上がった彼女に、いくつもの視線が向けられる。

 

「ちょっと考えたんですけど、文実もちゃんと文化祭を楽しめてこそかなって」

 

 どこかで聞いたような言い回しに、俺はひとり鼻白む。

 文化祭においてのまちがいは、ここからだ。

 相模南による、決定的な誤判断。油断と甘い考えが招く、文化祭実行委員会崩壊の始まり。

 この日を境に実行委員は人員不足へと陥り、負担は残されたメンバーへとのしかかる。そして一人は倒れ、それでもなお立ち上がろうとする。しかしその悲壮と孤高を支持する俺は、もういない。

 

「文化祭をちゃんと楽しむには、クラスの方も大事だと思います。スケジュールもかなり前倒しで進めてこれてるし、仕事のペースを少し落とす、っていうのはどうですか?」

 

 相模の提案に対し、雪乃が口を開くその一瞬前。俺は声を張り、ただ一言をはっきりと告げた。

 

「俺は反対だ」

 

 元より静まりかえっていた会議室は、耳が痛いほどの沈黙に包まれる。ペンを走らせる音すら聞こえてきそうな静寂。それをかき消すように、俺は言葉を続けた。

「前倒しならそのまま本番まで走るべきだろ。こういうイベント事には途中でイレギュラーやら横槍が入れられて遅れてくもんだし。それで直前になってあれが無いこれが無いってバタバタしだすんだ。それを防ぐ為にも、今の進行をキープすべきだろ」

 思いもよらないところからの反対意見だったのか、相模だけでなく雪乃や陽乃さんまで目を丸くしていた。

 相模による誤判断が起きた原因は、あの頃の俺には分からなかった。いや、考えてすらいなかったように思う。いくら陽乃さんに気に入られ、気が緩んでいたとは言え、不自然なぐらいの状況の誤認識と、誤判断。

 目的論で言えば、そうする事で相模にとって達成される目的がある。それすなわち、進行の前倒しを理由に自分がクラスの出し物へと参加できるようにする事。文化祭実行委員会でコンセンサスを得ているという、大義名分を獲得する事だ。

 馬鹿らしい。そんなものの為に、あの時雪乃は倒れたのか。

「でも、みんなだってクラスの方にも参加したいだろうし⋯⋯」

「クラスの方に顔を出しにくくなるのは、実行委員になった時点で分かりきってる事だろ。クラスに貢献したければ文実が始まるまでにやればいいし、文実だって毎日あるわけじゃない」

 意思の弱い者ほど、相模の提案のような甘言になびく。そしてそれ以上に、声高に主張する者の意見を受け入れてしまうものだ。会議室に弛緩と私欲が伝播する前に、こんな愚考は叩き潰さなくてはならない。

「で、でも⋯⋯」

 暴力的なまでの正論に、相模の反論はあまりに弱い。ディベートの場であればもはや死に体といった様相だが、俺に手を緩めるという選択肢はなかった。

 悪いな相模。

 お前に恨みはないが、雪乃を守る為ならなんだってやる。まちがいはもう、見過ごせない。

「委員長権限でそう判断するというのなら、勝手にすればいい。けどそれでもし遅れや問題が出てきたとしたら、責任を取ってくれるって事でいいんだよな? 相模実行委員長」

 俺の真正面からの問いかけに、相模は今度こそ完全に沈黙した。

 あまりに手厳しいとは思う。しかしここまで言われて、自分の意見を押し通そうとはしないだろう。

「⋯⋯⋯⋯各自作業に戻ってください」

 相模は長い沈黙の後、か細い声を絞りだした。緊張感に耐えかねたかのように、またざわざわと会議室内に喧騒が戻ってくる。

 ──なにあの言い方。

 ──もうちょっと言い方あるよね。

 相模の取り巻き二人の方から何やら聞こえてくるが、彼女たちは気付いているのだろうか。相模の考えは間違いだったと、そう言っている事に。

 さて、俺も仕事をするかと机に視線を戻す刹那、不穏な視線とかち合う。

 いつからそうしていたのか、陽乃さんは俺と目が合っても逸らそうとせず、内緒話でもするみたいに片頬に手をあてる。

『か・ほ・ご』

 唇でその三文字を象ると、彼女は愉快そうに笑うのだった。

 

 

       *       *       *

 

 

 会議室での一件から今日でおよそ三週間、文化祭まで一週間を切った。

 今や文実の詰所になっている会議室にはほとんどのメンバーが揃い、進み気味だったスケジュールはキープどころか更に前倒し状態。お陰で現時点でオープニングセレモニーとエンディングセレモニーのリハーサルまで出来ている。

 やはり人の数は力だ。俺の発言の所為で簡単にサボれない雰囲気が出来上がり、毎回ほぼ全員が集まるようになっていた。

 

「相模さん、こっちの書類の確認を」

「うん。ありがと」

 

 相模はというと、当たり前だが文実には毎回出席している。もう自分の発言など忘れたのか、順調過ぎるぐらいの進行具合に自信を持ってきているようだ。巻きで進んでいくにつれて、本来の委員長としての仕事を雪乃から相模へと移行していったのも大きいだろう。

 もちろん俺と相模の関係は良好とは言えず、視線を合わせようともしないし、現時点でも一切口をきいていない。後からケチがつくパクリのキャッチフレーズを潰したのが、決定的だったと思う。

 そのお陰もあるが、あの時ほど忙しくはない。キャッチフレーズ再検討での俺の風刺的な発言がなければ、俺の事を悪く言う声も少なかった。まあ、「クラスより文実優先だからなぁ〜」って当て擦りのような事を言う奴はいたが。主に相模の取り巻きに。

 

「ゆきのん、有志団体の最終リストできたよ」

「ありがとう。確認しておくわね」

 

 準備が順調な背景には、少なからず結衣の活躍もあった。外部の人間の出入りが多くなってきたタイミングで、有志団体の取りまとめを快く引き受けてくれたのだ。約束通り雪乃の手伝いが出来て、結衣も満足そうだった。

 しかしそう、外部の人間の出入りが激しいという事は、この人もまた会議室に顔を出す回数が増えたということだ。

 

「ひゃっはろー、比企谷青年。順調そうだねぇ」

 

 背中に声をかけられただけで、思わず身震いしてしまう。その声が愉快そうであればあるだけ、空恐ろしさを感じるのだ。

 俺の隣の空席に腰掛けると、机に片肘をついて横顔を見詰めてくる。

「何しに来たんですか」

「おや、雪乃ちゃんみたいなこと言うね。やっぱり付き合ってるの?」

「なんでそうなるんですかね」

 俺は頭をかきながら致し方なしと仕事の手を止める。陽乃さんの目を見ると、やはり隠そうともしない好奇が滲んでいた。

「ねえ、作戦は上手くいったみたいだね」

 そっと俺の耳を手で覆うと、揶揄(からか)うような声音が不穏に鼓膜を震わせた。何もかもを知っているとでも言うかのように、彼女の言葉には確信が満ちている。

「⋯⋯なんの話ですか」

「さあ、なんの話でしょう?」

 ふわりと俺から離れると、可笑しそうに笑ってみせる。

 ぶっちゃけ、この人と話すのやだなぁ⋯⋯。この頃の陽乃さんは埒外すぎるし聡すぎる。彼女の年齢を追い越した俺ですら、手に余る存在だ。

「ねえ、君のしたことの意味、分かってる?」

 グロスに艶めく唇が、三日月を作った。ほら、またこんな表情をするのだ、彼女は。

「試練を遠ざけたり避けているだけじゃ、駄目だよ」

 俺を見詰める目は笑っているのに、その瞳は真剣そのもの。いつの間にか背中に汗が伝っている。

 分かってるんだよ、そんな事。一体何年、雪乃と一緒に過ごしてきたと思ってるんだ。

「そのうち君に頼りっきりになっちゃうよ、雪乃ちゃんは。それがいい事だとは思わないけどなぁ」

 その指摘は余りにも的確で、やはりというか彼女たちはどうしようもなく姉妹なのだと思う。

 雪ノ下雪乃は、優秀だ。豊富な知識と辣腕で実質的にこの文化祭を運営し、現時点では順調としか言いようがない。

 しかしそれは、陽乃さんがいたから。文化祭としての正解を、彼女は知っていたからだ。

 答えのある問題の対処は出来るが、こと友情や恋愛といった正答がない人間関係の話になると、雪乃はどうしたらいいか分からない。故に模倣する。そして依存する。

 悪癖だ。この頃の雪乃には仕方のなかった事とは言え、そう思う。いずれ彼女は自分自身の力でそれを克服していく事になるが、もし俺がその為に必要なプロセスまで排除してしまっていると考えると、得体の知れない焦燥感に襲われる。

 

「ま、君が雪乃ちゃんの面倒を最後までみてくれるんなら、いいんだけどね」

 

 心にもない事を言うと、陽乃さんは「じゃ」と手を振って会議室を後にした。

 面倒ならそりゃ、一生かけてみるけれど。そういう問題じゃないのだ、これは。

 後に残された俺は頭を抱えてしまいそうになる手をどうにか机に押さえつけ、仕掛かり中の仕事へと戻る。

 泣いても笑っても、高校二年の文化祭はこれが最後で、これっきり。三度目のチャンスなど、ありはしないのだから。

 

 

 







お読み頂きありがとうございました。そしていつもたくさんのお気に入りと感想をありががとうございます。
誤字脱字報告も助かってます。何度確認しても残っているものですね⋯⋯。

文化祭編前編は楽しんでいただけたでしょうか。後編は文化祭本番という事もあり、テンション高めに行きますよ!
ログインしていなくても感想は頂けるように設定していますので、何か一言でも頂けると私が喜びます(そして筆が捗ります)。

全体の話としては、これで折り返し地点といったところです。完結までお付き合い頂けたら幸いです。


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