まちがった青春をもう一度。   作:滝 

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しかし比企谷八幡は、またまちがえる。

 ホテルに戻って夕食をとったら、後は自由時間だ。

 昨晩はどこの部屋でも麻雀大会が開かれていたらしく、今晩は各部屋対抗の麻雀大会が行われるらしい。クラスの中心人物である葉山が泊まる客室がその麻雀大会の会場になってしまうのは、必然と言えるだろう。

 当然そんなやかましい空間に身を置いていられるわけもなく、俺は一階のロビーのベンチに腰掛けていた。

 さてどうしたものか、と俺は買ったばかりのカフェオレを傾けながら考える。

 以前の修学旅行では暇つぶしに外に出て、コンビニであーしさんこと三浦に遭遇。要らんことすんじゃねぇぞオラと釘を刺されたのだ。

 当然、そんな場面を繰り返すつもりはない。歳をとっても怖いものは怖いし、あそこで彼女と話す必要があるとも思えなかった。

 そうしてボケっと縁側の老人にでもなった気分でロビーを見ていると、見覚えのある顔がエレベーターの方から現れる。

 ──相模南。

 直近でもっとも関わりを持った、赤の他人の名前だ。いやこの言い方は、矛盾しているか。

 先ほどまで風呂に入っていたのか、相模の髪はまだ僅かに湿っているように見える。ちらと一瞬目が合ったような気がするが、彼女はそのまま自販機の方まで歩いて行った。

 相模と俺の関係性は、今を以てしても良好とは言えない。例え教室で目があっても挨拶はしないし、体育祭では実行委員をやる事もなかったからそこでの絡みもなかったのだ。

 まあ、どうでもいい事だ。多分これから先、彼女と関わり合う事もない。

 そんなことをぼんやり考えていると、不意に人影が俺の目の前を通り過ぎた。相模南はわざわざ俺のすぐ目の前を通り、一人分席を空けて、俺の座るベンチに腰掛けたのだ。

 

「ん」

 

 相模はそう言うと、それぞれの手に持っていたペットボトルのうちの一本を俺の隣に置いた。オレンジ色の蓋をした、ホットのミルクティーだ。

「⋯⋯なに、これ」

「あげる」

「いや、もう飲み物あるんだけど⋯⋯」

「持って帰って、後から飲めばいいじゃん」

 相模は相変わらず俺と目を合わそうとせず、自らの手に残っているペットボトルの蓋を開けた。ちびりとそれを一口飲むと、暫しの沈黙の後に 訥々(とつとつ)と喋り始める。

「⋯⋯あのさ。文化祭でのこと、ありがと」

「⋯⋯おう」

 思いもよらなかった言葉に、俺はそんな曖昧な返事しかできなかった。まさかこいつにお礼を言われる日がくるなんて、意外すぎて理解が追い付かない。

「終わってみて考えたらさ、⋯⋯全部あんたの言った通りだった」

 ちらりと俺の方に向けられた視線は、しかし俺のそれとかち合う前に戻される。俺は「あぁ」とかまた曖昧な答えで、相模の言葉の続きを待つ。

「だから、ちゃんとお礼を言っとかないとって。それは、その気持ち」

 相模はそう言って、視線だけでミルクティーのペットボトルを指した。暖かい方を選んでくれたのは、彼女なりの優しさだろうか。

 それっきり、深く長い沈黙が訪れる。もう喋る事もないはずなのに、相模は何度かペットボトルを傾け、立ち去る様子もない。

 そんな珍しいシチュエーションに、俺はふと訊いてみたくなってしまった。もうほとんど答えを聞いているというのに、答え合わせをしたくなってしまったのだ。

「なあ、相模」

 呼びかけ、今度ははっきりと相模の方を見る。ようやく彼女と目が合うと、今度はお互いに目を逸らさない。

 

「文化祭の実行委員長、やってよかったと思うか?」

 

 俺の質問に相模は呆気にとられたみたいに目を開くと、ふっと破顔した。

 

「あったりまえじゃん」

 

 そう言った相模の表情は、本当に晴れ晴れとしていて。

 俺は後になってから、初めて相模の笑顔が向けられた事に気が付いた。

 

 

       *       *       *

 

 

 修学旅行も早いもので、もう三日目の朝である。

 俺たちはいつかと同じように、雪乃チョイスの有名コーヒーショップでモーニングをいただいていた。

 

「由比ヶ浜さん。今日のコースは伝えておいて貰えた?」

 

 雪乃は一口コーヒーを飲むと、結衣に向けてそう訊いた。

 修学旅行三日目は、完全に自由行動の日である。故に奉仕部が揃って戸部の告白に向けてバックアップできるのは今日だけ。彼らを誘導する為のおすすめコースを、雪乃は考えてくれていたのだ。

「うん、ばっちり。多分、教えた通りのコースを行くと思うよ」

 おそらくいつかと同じように、結衣から戸部にコースは伝えられ、そのままおすすめされた通りに行動するだろう。まあもし何かの変化でそうならなくても、今日に限って言えば問題ない。

 肝心なのは夜の、あの告白のシチュエーションだ。それさえあの時と違いなく再現できれば、俺への依頼は達成できる。しかしその事を考えると⋯⋯今から気が重い。

「あ、ねえ。ゆきのんが飲んでるコーヒー、あたしも飲んでみたい」

「そう? では交換しましょうか」

 しかし俺の心中など推し量れるはずもない彼女たちは、俺の記憶以上に仲がいい。この光景とその事実は、このやり直しの中での功績だと、少しは胸を張ってもいいのではないかと思う。

「⋯⋯仲いいよな、お前ら」

 その一言に雪乃と結衣の視線が俺に集まり、すぐに二人は顔を見合わせる。

「それは⋯⋯」

「ね?」

 内緒話でもするみたいに結衣は微笑み、雪乃は表情を見せまいと顔を伏せた。なんだこいつら超可愛いな。尊いの塊か?

 俺は思わず緩んできそうな頬を押さえつけながら、雪乃に向けて問いかける。

「で、今からどこ行くんだ?」

「まずは伏見稲荷。それから東福寺、その次に北野天満宮ね」

「⋯⋯すまんな」

 俺たちのやり取りに、結衣は額の上に疑問符を浮かべながら首を傾げている。まあ、よほど歴史に詳しくなければ伝わらないだろう。

「北野天満宮ってのはあれだ、学問の神さまを祀ってるんだよ」

「詳しく言うと、菅原道真公、通称天神さまね」

「あ〜、小町ちゃん受験だもんね」

 ユキぺディア情報がどこまでインプットされたかは甚だ疑問だが、その説明で小町の為ということは理解してくれたらしい。結衣は暗記系の勉強こそ苦手だが、頭の回転は早いし地頭はいいのだ。

「それから最後に嵐山ね」

 嵐山──。この修学旅行での、ターニングポイントだ。

 そのキーワードに反応してしまわないように、俺は表情筋を力ませる。白く品の良いカップに注がれたコーヒーからは、もう湯気は消えている。

 

「あー、なんか全部楽しみだなぁ」

 

 俺は努めて無表情に、無感情に。

 段々と温くなってくるコーヒーを一口飲むと、意識を逸らすように外をみやるのだった。

 

 

       *       *       *

 

 

 伏見稲荷大社と言えば、その名を聞いた事がない人の方が少ないだろうと思う。

 到着当初こそ人が多かったものの、かの有名な千本鳥居を進むほどに人影はまばらになっていく。緩やかと言い切っていいか微妙な斜度を持つ坂道を歩きながら時折雪乃の方を見ると、僅かに息が上がっているようだった。

「大丈夫か?」

「このぐらい、平気よ」

 しかしその一言ですら一息で言い切れないぐらいには、心拍数も上がっているらしい。俺が歩を緩めると、先行していた結衣の背中が少しだけ遠のく。

「戸部くんたちの様子はどう?」

「え? ああ⋯⋯まぁ、特に変わったことはない、かな。ちょっと二人でいる時間が増えたぐらいだ」

 戸部たちの様子ならとっくに結衣からも聞いていると思うが、俺の口から聞きたかったという事だろうか。

 戸部と海老名さんの様子は、雪乃に伝えた通りに進展といえるものはない。当然と言えば当然だ。いくら修学旅行とは言え、急に意識しだすことなんてまずない。それ以前に、海老名さんが自分自身に折り合いをつけられなければ、事の起こりようがないのだ。

「告白、上手くいくと思う?」

 その問い掛けに、俺は一瞬言葉に詰まる。答えなんてもう出ていて、だからこそ即答するのを戸惑ってしまう。

「⋯⋯たぶん、無理だな」

「それでも、依頼は断らないのね」

 横顔に視線を浴びながら、俺は苦笑するしかない。以前の俺なら「仕事だからな」とだけ言って、煙に巻いたことだろう。

「諦めさせるのも仕事のうちだからな」

 それを聞き届けて呆れ混じりに笑みを溢したのを、俺は視界の端で捉える。雪乃も結衣も海老名さんの告白を阻止して欲しいという暗号めいた依頼には気付いていないようだが、だとしても嘘はついていない。

「うわぁ⋯⋯。すっご。ゆきのん、ヒッキー! 早くはやく!」

 先に四ツ辻まで着いた結衣は、振り返って俺たちを手招きする。何だか子どもみたいだと思って笑みを溢すと、一陣の風が吹いた。

 真っ赤な落葉で視界が彩られ、穏やかな微笑みを浮かべた雪乃と目が合う。その表情と、我が子を初めて抱いた時の雪乃の表情が重なって、思わず胸の内が狭くなる。

「比企谷くん?」

 そう声をかけられて、思わず足を止めてしまっていた事に気付いた。

 しっかりしなければ。感傷になど浸っている場合ではないのだ。今はこの修学旅行で、彼と彼女の未来を“救う”ことが先決だ。

「すまん。ぼーっとしてた」

 そう言って俺は、止まっていた一歩を踏み出す。結衣の隣に立つと、眼下には紅葉に彩られた京都の町並みが広がっていた。

 背中にはじっとりと汗が滲んできていたが、なるほどここまで歩いてきた甲斐がある景色だ。登山を趣味にしている人の気持ちが、少し分かった気がする。

「すげぇな」

 素直にそう言う俺の隣で、雪乃は町並みではなくキョロキョロと辺りを見回していた。

「どしたの、ゆきのん」

「いえ⋯⋯。この近くに、滝行が出来る場所がある、と書いてあったから」

 滝行ねぇ⋯⋯。テレビで見かけることはよくあるが、実際に滝行しているところや、出来る場所を見た事はない。こういう霊験あらたかな場所であれば、滝行ができる場所があっても不思議ではなかった。

「滝行、やってみたいのか?」

 白装束を着て滝に打たれる雪乃の姿──は、見てみたい気もするが、相当にシュールな光景だ。そもそも滝の勢いに負けてへたり込んじゃわないかしら、この子。

「⋯⋯どんな場所なのか、少し興味があっただけよ。あなたがやってみたら?」

 俺の阿呆な想像が漏れ伝わったかのように、雪乃は少し呆れた様子でそう言った。

 滝にでも打たれれば、俺の懊悩(おうのう)も葛藤もどこかへ行ってくれるのだろうか。もしそうならば、雪乃の軽口も存外悪くない。

「いい提案だな。着替えを持ってきてたらチャレンジしていたところだ」

 同じ質量の軽口を返すと、俺ははっと短く息を吐いた。

 

 

       *       *       *

 

 

 伏見稲荷の次に向かった東福寺は、通天橋で有名な紅葉の名所だ。

 俺の記憶が確かであれば、ここで葉山たちと遭遇したはずだが──。

 

「すっげー人だな⋯⋯」

 

 流石は京都を代表する名所だけあって、シーズン終了間際と言えどもの凄い人だ。こんな人出の中で彼らの姿を探す事など、到底無理な話に思える。

「ほんと、凄い人⋯⋯。あ、あそこ空いたよ」

 通天橋を歩いていると、欄干の近くにギリギリ三人入れるぐらいのスペースが空く。そこに滑り込むと、ようやく人の頭越しではなく視界いっぱいに、爆ぜそうなほど真っ赤に色付いた紅葉を見る事ができた。

「見事なものね」

 さっきまで人の多さにげっそりしていた雪乃も、その光景にそっと息を吐いた。紅葉と雪乃の横顔の組み合わせはあまりにもフォトジェニックで、まるで精巧緻密な絵画のようだ。

「あ、ねぇ。三人で撮ろうよ」

 結衣はそう言って携帯を取り出すと、インカメラを起動させた。自然とその立ち位置のまま撮る事になるので、俺が結衣と雪乃に挟まれる形になる。

「ゆきのん、もうちょっと寄って」

「え、ええ⋯⋯」

 一気に二人との距離が縮まって、それぞれの香りが微かに鼻腔に届く。近い。なんで昔のスマホって、こんなにインカメラの画角狭いんだろ⋯⋯。

 三人の顔が入ったと思ったら紅葉があまり写り込まず四苦八苦していると、不意に正面から声がする。

「貸してみそ」

 そう言われ、取り上げられた携帯の向こうに立っていたのは──。

「って、姫菜? 偶然じゃん!」

 そう言って、イエーイと片手でハイファイブ。自分から戸部に観覧ルートを伝えておきながら、このアドリブとは恐れ入る。

「じゃ、撮るよ」

 海老名さんは手慣れた様子でフロントカメラに切り替えると、はいチーズと言って何枚か写真を撮ってくれる。もうそんなに寄る必要はないというのに、彼女たちはさっきまでの距離感のままカメラのレンズを見詰めていた。

 ふと、強烈な既視感を感じる。ここで三人で撮った記憶は、もちろんない。こうやって三人で写真を撮ったのは、いつの事だっただろうか。

「ありがとー。助かった〜」

 結衣に携帯を返した海老名さんと、引き寄せられるように目が合った。時間にしたら一秒か二秒といった短い時間。それでも彼女が言外に何を言っているか、俺にはよく分かっている。

「そっちはどんな感じ?」

「んー、もうちょっとしたら色々寄り道しながら嵐山に行く予定だよ」

 そう言って海老名さんは同行している三人を視線で指した。見れば戸部と三浦が、何やらかしましく盛り上がっている。その二人を苦笑を浮かべて見ていた葉山がこちらに気付くと、ジッと俺の方を見た。

 なんだこいつ⋯⋯。またどっちつかずは良くないとか言いたそうな顔をして。

「そうなんだ。あたしたちもちょっと寄り道しながら、嵐山に行くつもり」

「そっか、じゃあまた後で会えるかもね」

 結衣と海老名さんの会話に視線を戻すと、二人は目で会話の終了を伝えあっていた。

 それから結衣は葉山たちのところに行って一言二言話すと、すぐに俺たちの方に戻ってくる。

「もういいのか?」

「うん。向こうは東寺に寄ってから嵐山に向かうみたい」

 東寺、と言えばかの有名な五重塔のある寺だったか。歴史ジャンルはさほど情報量のないヒキペディアを検索していると、雪乃が欄干から離れる。

「ではそろそろ行きましょうか」

 それを合図に、俺たちは順路を再び歩き出した。次の目的地は、北野天満宮だ。

 

 

 北野天満宮の祭神は、天満天神さまこと菅原道真公だ。

 ユキペディア情報によると、菅原道真公は貴族の生まれで幼少の頃から学業優秀、歳をとってからは漢詩に政治に才能を発揮するという相当なチートキャラであったらしい。身近な人間で例えるなら、葉山のようなタイプの人間だろう。一気に参拝する気が失せてきた。

 とは言え世界の妹・小町の総武高校合格の祈願の為だ。俺は絵馬を書く間だけ二人と分かれ、単独で行動させてもらうことにした。絵馬になんて書くかを見られていては、(ろく)な事が書けないだろう。

 俺は学業のお守りと絵馬を買うと、あの時はなんて書いたんだっけと思い出しながら、ペンを走らせる。

 

『小町と同じ高校に通えますように』

 

 多分、こんな感じの事を書いたのではないかと思う。まあ小町が総武高校に合格するのはもう決まっている事だが、絵馬を奉納しなかったが為に神様にヘソを曲げられても困る。俺は奉納所に絵馬をかけると、雪乃たちの待つ参道へと歩き出した。

 ここ北野天満宮も紅葉の名所であるらしく、人出は凄いしそれを当てにした出店まで並んでいる。

 さて雪乃たちは、と辺りを見回しながら参道を歩いていくと、すぐにその姿を見つける事ができた。見目麗しい女の子が二人も揃っていると、無意識に視線を引き寄せられてしまう。

「すまん、待たせた」

「あ、思ったより早かったね」

 そう言う結衣の手には、食べかけの肉まん。珍しい事に、雪乃も買い食いしていたのか、やや大ぶりなコロッケをその手に持っている。他にも空のパックを持っているところを見ると、二人で腹ごしらえでもしていたらしい。朝しっかり食べたからあまり気にならなかったが、昼ご飯を食べ損ねていたのだ。

「⋯⋯そんなに食って大丈夫か。晩飯入らなくなるぞ」

「大丈夫よ、このぐらい」

 どっかで聞いたことのある台詞だなと思いながら言うが、雪乃は取り合う様子もない。

 元々食が細いのに大丈夫かしら⋯⋯と心配しながら二人が食べ終わるのを待っていると、雪乃はコロッケを半分ぐらい食べたところで急に口に運ぶペースが遅くなり、チラチラとこちらを見てくる。

 ⋯⋯分かる。分かるぞ俺には。彼女が次に何を言うのか。

「⋯⋯確かに、少し多かったみたいね」

 と、そこまでは言うが、そこから先の言葉が出てこない。まあ、雪乃の性格からしたら、残りを食べてくれとは言い出し難いのだろう。

「もしあれなら、育ち盛りという名の残飯処理係がここにいるが」

「⋯⋯そう? では処理をお願いできるかしら」

 ちょっと安心したような表情をして、雪乃は残る半分を俺に渡してくる。そしてもしゃもしゃペロリとそれを平らげている間、じっとこちらを見詰めてくる一対のお目々。

「あたしも、ちょっと多いかも⋯⋯」

 そう言うと結衣も「はい」と食べかけの肉まんを渡して来た。

 やはりこうなるか⋯⋯と思いながら、二人に見られながら肉まんも平らげる。食べ始めてみると胃が動き出したのか、意外とお腹が空いていた事に気付いた。

「ふふっ」

 不意に聞こえた笑い声に、雪乃の方を見る。思わずといった調子で溢れた笑みは柔らかく、雪乃と目が合った結衣も同じくクスリと笑った。

 あー⋯⋯また餌付けられてしまったか。なんだかむず痒いが、まあたまになら、こういうのも悪くない。

 

「⋯⋯ぼちぼち行くか、嵐山」

 

 笑みまじりの答えが二つ揃って、俺はポリポリと頭をかくことしか出来なかった。

 

 

       *       *       *

 

 

 あれから予定通り嵐山に行くと、俺たちは戸部の告白の舞台──いつかと同じ、竹林の道に目星をつけた。

 ホテルに戻り夕食をとりつつ戸部たちに話をつけると、いよいよ彼は落ち着きをなくしてくる。

 

「っべーわー。マジで緊張するわ⋯⋯。吐きそう」

「大丈夫だろ」

「っかー。ついに戸部も彼女持ちかよ」

 

 夕食を終えてホテルの部屋に戻ってくるなり、戸部はウロチョロと歩き回り、大岡と大和は彼の背中を叩く。

 彼らの言葉自体は友を思っての事なのだろうが、なんの根拠もないしいっそ空々しく感じてしまう。結末を知っているが故に、どうしてもそう思ってしまうのだ。

 いっそこの場で告白をやめさせられたら俺も気持ちが楽なのだが、そういう訳にはいかない。ちゃんと戸部を──覚悟を決めた彼を、彼女の目の前に送り届けないと。そうしなければ、その未来は変わってしまうだろう。

 

「戸部」

 

 凛とした声が、彼を呼ぶ。その声の主を、俺は部屋の端から見ていた。

 

「なに? 隼人くん、俺今マジテンパってるから」

「⋯⋯いや。頑張れって言おうと思ったけど、やっぱりやめておく」

「ひどくね⁉︎ あーでもなんか落ち着いてきたかも」

 

 側から見ていても全くそんな事はないのだが、戸部は自分に言い聞かせるように「緊張とけてきたわー」と繰り返す。

 対する葉山は、その表情を隠してそっと部屋を出て行った。俺はその背中を追って、騒々しい部屋を出る。

 ホテルを出て、川べりの道を歩いていく。まだまだ見頃と言っても良さそうな紅葉が川面に揺れ、寒いぐらいの風が頬を撫でつけていた。

 

「告白、上手くいくと思うか」

「⋯⋯さあ」

 

 俺が後ろからついて来ていることなど見なくても分かっているのだろう、葉山は振り向かずに肩をすくめた。

「質問を変える。上手くいって欲しいか?」

「上手くいくものなら、もちろんそう思うさ」

 振り返って俺を見る葉山の表情は、沈鬱と言っていい程に仄暗い。こいつと一緒というのも癪だが、葉山にだってもう結末は見えているのだろう。近くで彼と彼女を見ているからこそ、洞察する事ができてしまう。

「その言い方だと、失敗するのが決まってるみたいに聞こえるぞ」

「⋯⋯そうだよ。十中八九、上手くいかない。今の姫菜が、戸部に心を開くとは思えないからな」

 葉山は河原の石を拾い上げると、遣る方無いとでも言うかのようにそれを川に投げる。紅葉を映す川面に三つ波紋が広がり、やがて何事もなかったかのように元の姿を取り戻す。

「何度か諦めるようには言ったんだ。今じゃないって。結局耳を貸してくれなかったけど」

 俺は葉山の言葉の続きを促すように、なるべく(たいら)な石を拾い上げて、川面に滑らせるように投げた。一度だけ跳ねたそれは、すぐに元気を失って川底に沈む。久しぶり過ぎると、上手くいかないものだ。

「俺は今の状態が気に入ってるんだ。戸部も、姫菜も、みんなでいる時間が好きなんだよ」

 その言葉に俺はどう答えたのか、よく覚えている。

 

『それで壊れる関係なら、元々その程度のもんなんじゃねぇの』

 

 俺はそう言い、葉山の価値観を否定した。けれどその先の未来を知っている俺は、もう同じ事は言えない。壊さずに大切にした関係性が、やがて本物へと至る姿を見てしまったら、言えるわけがない。

「つまりお前は、何も変えたくないって事だな」

「⋯⋯ああ、そうだ」

 俺はそれだけ聞き届けると、この先の出来事を心の中に描いた。海老名さんに取り付けた約束の時間まで、もうそんなに長くはない。

「分かった。じゃあな」

 踵を返すと、ホテルに向けて歩き出す。葉山の気持ちを確認できたら、もうここに用はない。

 

「すまない⋯⋯」

「謝んじゃねぇよ。貸し一だからな」

 

 俺はそう言って、ヒラヒラと背中に回した手を振った。どうせ彼は、見てもいないだろうが。

 

 

       *       *       *

 

 

 竹林の道に、晩秋の風が吹き抜ける。

 さわさわと鳴るその中で、ぽつりぽつりと灯籠が灯っていく。

 

「っべーわ。うわ、マジで緊張する」

 

 戸部は告白の直前になっても未だ落ち着く事を知らず、その周りで葉山と大岡、大和が何も言うまいと彼を見守り続けていた。

「なんか、こっちまで緊張するね」

「なんでだよ⋯⋯」

 結衣はハラハラドキドキとでも言うように、竹林の道の先を窺い続けている。対する雪乃は、冷静沈着。興味が全くないのではと思うぐらいに、その顔に表情がない。

「そろそろ時間ね」

「ああ」

 俺は雪乃にそう答えると、そっと二人の元を離れた。一応、これだけは確認しておかないといけない。

「戸部」

 俺が呼びかけると、戸部は緊張と期待と不安が入り混じった、何とも情けない笑顔を向けてくる。

「ヒキタニくん⋯⋯。あー、やべ、ヒキタニくんの顔見たらまた緊張してきた」

 いやなんでだよ⋯⋯と思いながらも、面倒だから突っ込むのはやめておいた。それよりも俺には、訊いておかなければならない事がある。

「お前、振られたらどうするんだ?」

「また振られるの前提⁉︎ ひでーわヒキタニくん。また覚悟試してる感じ?」

「いいから早く答えろ」

 俺は目に力を込めて言うと、その真剣さに戸部は一瞬たじろぐ。しかしその答えは、すぐに返ってきた。

「⋯⋯そりゃ、諦めらんないっしょ」

「分かった」

 頷き、そっと半歩だけ後ろに下がる。戸部の全身を視界の真ん中に置いて、他の三人が聞いているのも構わず俺は言う。

 

「絶対に、諦めるなよ。絶対にだ」

「お、おお⋯⋯。モチっしょ、そんなの」

 

 一瞬俺の気迫に押されたようだったが、戸部はすぐにキリッと無駄にいい顔をして返事をした。ここまで伝えれば、もう十分だろう。

「⋯⋯ヒッキー」

「珍しい事もあったものね」

 雪乃たちの方に戻ると、二人は柔らかな表情で俺を迎えてくれた。しかしそんな表情も、これからの事を考えると胸が詰まる。

「いや、多分振られるから言っただけだ」

 そう、間違いなく振られる。“俺ごと”振られるのだ、今から。

 青々とした竹林の向こうを見ると、見慣れた制服が目についた。俺たちの待ち人──海老名姫菜は、灯籠に照られた道をゆっくりとこちらに向けて歩いてくる。

 これから先の事は、同じ事の繰り返し。

 けれど、それだけではダメな事は分かっている。虚偽の告白は避けられないにしても、俺にはまだ足掻く余地はあるはずだ。

 結局色々考えても、最善と呼べる手を考えつく事はできなかったし、これでいいかどうかも分からない。けれど間違いなく言えるのは、雪乃は俺の知る過去よりもずっと分かりやすく、俺に好意を滲ませているという事だ。昔の俺なら敢えてその心の機微に気付かない振りをしていたかも知れないが、今の俺からしたらそれは確定的だった。

 だからせめて、お互いの気持ちが分からない状態に陥ることだけは避けなければならない。

 

「雪ノ下」

 

 そう呼ぶと、竹林の向こうを見ていた二人の視線が俺に向けられる。

 まったく、こんな事を言うのには最悪のタイミングだろう。それでも、言わなければ。一か八かでも、可能性があるなら変えなくてはいけない。

 

「俺は、お前の事が好きだ」

 

 あまりに唐突に、取り違えようのない直裁な言葉で。俺は確かに、それを伝えた。

 雪乃の目は驚きに見開かれ、その隣で結衣の顔は伏せられる。結衣の前でそれを伝える事は正しい事とは思えなかったが、もうこれを逃せばタイミングはない。

 

「俺が今からする事を、誤解しないで欲しいから、今伝えておく」

 

 竹林の道の真ん中を見ると、海老名さんは立ち止まり、その真正面には緊張で身をガチガチにした戸部の姿がある。

  訥々(とつとつ)と語り出す戸部に、海老名さんは切って貼ったような無機質な笑顔を浮かべていた。そろそろ、頃合いだ。

 

「⋯⋯すまん」

 

 俺はそれだけ言って、彼女たちに背を向けた。

 

 

       *       *       *

 

 

 全てが終わって、俺は晴れない気持ちで竹林の道を引き返す。

 そりゃないわーと落胆と安堵の混じった静かに盛り上がる声も、竹林のさわさわと揺れる音すらもどこか遠くに聞こえる。

 

「⋯⋯比企谷くん」

 

 その冷たい声音に視線を上げると、問責するような目が俺を捉えていた。

 ぞくりとするほどその双眸(そうぼう)の温度は低く、宝珠のような瞳には僅かな澱みが浮かんでいた。

 

「さっきのは、いったい何? あなたは何がしたいの?」

 

 何がしたいかなんて分かりきっている事で、しかし言葉にする事はできないからこそ胸が締め付けられる。

 雪乃の冷たく鋭い視線は、あの頃よりも切れ味が増しているような気がした。それはきっと気のせいではなくて、悲しみさえ孕んだその声が俺の心の奥底まで毒のように回り込んでくる。

 一か八かの、俺の賭け。

 それに俺は負けたのだ。雪乃の反応が、その隣で沈痛な表情を浮かべる結衣の表情が、それを俺に知らしめる。

 不透明な感情というディスコミュニケーションを避ければ、分かってくれるかも知れない──という俺の考えは、見事に当てが外れたのだ。

 

「どうして、あなたが⋯⋯」

 

 雪乃は両手を握り込むと、そこまで言って言葉を途切れさせた。

 結局、彼女に分かってもらう事はできなかった。当然と言えば当然だ。海老名さんの依頼の内容を理解できていない以上、俺の行動は彼らの表面的な馴れ合いを肯定したようにしか見えないだろう。

 雪乃の憤る理由は──その感情の根底にあるものは、本来喜ぶべきものだ。俺の事を大切に思う気持ちがあるからこそ、誰かの為に傷つくのを彼女は許せない。

 だから彼女は、その先の言葉を言えないのだろう。どうして彼らの為に俺が傷つく必要があったのかと。そして『あなたのやり方は嫌い』だと、その直情を向ける事すら出来ない。その言葉の刃を自らに向けているかのように、雪乃の顔は痛苦に染められていく。

 

「⋯⋯先に戻るわ」

 

 そう言って雪乃は、俺たちに背を向けて歩き出した。この場に留まる辛さを表すかのようにその歩調は速く、俺はその背中が小さくなっていくのを見ている事しかできなかった。

 

「⋯⋯ヒッキー」

 

 結衣の声に、俺はそっとその背中から視線を外した。さっきまでの沈痛な面持ちを気力のない笑みで覆い隠して、結衣は俺を見ていた。

 

「あたしたちも、戻ろっか」

「ああ⋯⋯」

 

 そう返事をして、ゆっくりと歩き出す。

 こんな時にもその優しさを見せる結衣に、また救われているのだ、俺は。(むご)いほどに現実を突き付けた俺に、救われる価値などないというのに。

 

「ねぇ⋯⋯」

 

 灯籠に照らされた道を歩きながら、結衣は俺を見ずにそう言った。その瞬間、思わず身震いするほど冷たい風が竹林を吹き抜け、その葉は雨でも降っているみたいにサァサァと音を立てた。

 

「ヒッキーは色々考えて、ああしたんだよね」

 

 それは質問というよりも確かめるかのような響きで、わんわんと俺の頭の中を木霊する。

 ──そう、考えていた。そのはずだった。

 しかしそれは考える振りをして、結局善人ぶった生温い判断に身を委ねただけでないのかと問い質されれば、俺に弁明の余地などない。

 

「⋯⋯でもさ」

 

 小道に落とされた結衣の視線には、あの頃のように縋るような、いっそ子どもじみているとすら感じるほどの(いとけな)さはどこにもない。

 俺の行動の結果が彼女の、まだ内包していてもいいはずの素直さまでも押し殺してしまった。また彼女は、哀しい所以(ゆえん)で大人にならざるを得ないのだ。

 

「あの方法しか、無かったのかな⋯⋯」

 

 結衣のその質問の答えは、今を以てしても分からない。

 やり直していたって、分からないのだ。多分俺には、何度やり直しても分からないのだろう。

 竹林を抜け、俺は答えを探すように天を仰いだ。淡く青い光を降らせる月はまるで彼女のようだと、俺はそんな事を考えた。

 

 

 

 

 







お読みいただきありがとうございました。修学旅行編、後編でした。
敢えて結末を変えなかった事が、おそらく意外に思われるでしょう。
大人だって悩み、まちがえるのはままある事で、むしろまちがえる事が多くなっているのではと思う程です。
物語ももう終盤。このまちがいが、彼ら彼女らにどんな変化を与えるのか。
最後まで見守って頂けたら幸いです。

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