51話 鬼のいない世界
無惨との最終決戦から3ヶ月。鬼殺隊本部・産屋敷家の大座敷、柱合会議がいつも開かれていた場所。まだ誰もいないその部屋に、今日は座布団が並べられていた。
刻限には、まだ間がある。
今日は最後の柱合会議。産屋敷輝利哉は、柱たちの顔を一人ひとり思い浮かべる。
今日で彼らに会うのは最後かもしれない。鬼殺隊は解散し、彼ら柱だけでなく、子供たち――隊員のみんなを、血なまぐさい戦いの呪縛から解き放ってあげられる。命懸けの殺し合いに駆り立てる必要も、もう無くなるのだ。
その反面、大きな寂しさもあった。鬼殺隊の当主の家に生まれ、生活は常に鬼殺隊と共にあった。まだ八歳ではあるが、その脳裏には様々な思い出が蘇っていた。全ての感覚を極限まで研ぎ澄ませ、頭脳の力の全てを解放し、まさに全身全霊で挑んだあの壮絶な最終決戦でさえ、忘れえぬ思い出だ。
そんな中、輝利哉は小さな違和感も覚えていた。何かが足りないような、そんな気がしていた。しかし今日は、大事な日だ。鬼殺隊がその歴史を閉じる日。輝利哉は気持ちを切り替えた。
(今日は、泣かないように頑張ろう)
そう思って座敷を見渡した時だった。
座布団は10枚並べられていた。
(柱は9人だったはずなのに、なぜ僕は10枚用意したのだろう?)
自身のうっかりに苦笑しながら、輝利哉は身支度を整えていった。
9人の柱たちが入ってくる。
輝利哉は鬼殺隊当主として柱たちに語り掛けた。
「今日が最後の柱合会議だ。これまでに大勢の子供たちが亡くなった。大きな大きな犠牲を払った。だが無惨は滅び、鬼はいなくなった。柱のみなは、その中心となって鬼殺隊を支えてくれた。その柱のみなが、この最後の柱合会議に誰一人欠けることなく――」
ふと、輝利哉は言い淀んだ。
誰一人欠けること無く?
勘違いか。父が存命の時、会議を見学していると、一番端に座って穏やかな笑顔を向けて来る人物が居た。その姿が一瞬頭をよぎる。
あれは、誰であったのだろう?
気のせいか。輝利哉は思い直し、
「9人全員が揃って今日の日を迎えられたこと、本当に嬉しく思います」
そして改めて宣言する。
「鬼殺隊は、本日をもって解散する」
「――御意」
9人は、万感の思いを込めて答えた。
産屋敷家の人々、輝利哉の妹のくいな、かなた。母であるあまね、姉のひなき、にちかもこの場に同席していた。父の耀哉は無惨討伐を見届けて静かに息を引き取ったが、無惨を滅ぼしたその歓喜の瞬間を共にすることができた。それ以外の人々は、みな生きてこの戦いを終えることができたのだ。
輝利哉は意を決し、背筋を伸ばしてきちんと正座し直し、努めて明るい声で、にこやかにお礼の言葉を述べ始めた。
「みなさまには、長きに亘り身命を賭して御尽力いただいて参りました。……産屋敷家一同は……こ、心……心より……」
輝利哉の顔が歪み、その目から大粒の涙がハラハラと零れ落ちる。
「心より……感謝を……申し上げます」
輝利哉は涙声でしゃくりあげながらそう告げ、産屋敷家の人々も共に深々と頭を下げた。涙のしずくがポタポタと畳に落ち、しんと静まった座敷に頭を下げたままの輝利哉の嗚咽が響いた。居並ぶ柱たちもみな輝利哉の気持ちが痛いほどに胸に迫り、声もなくこの様子を見つめていた。
「どうか、お顔を上げてください」
しのぶは、思わず輝利哉の傍に駆け寄ろうとしたが、それよりも早く、うっすらと涙を浮かべた義勇が輝利哉たちに声をかけていた。
「今日まで我々が鬼殺隊であれたのは、産屋敷家の御力あればこそ。輝利哉様も立派にお勤めを果たしておられました。……亡き耀哉様も、歴代のお館様も、誇りに思っておられることでしょう」
あまり感情の見えないいつもの調子であったが、しかし続く言葉は優しく、義勇も込み上げる自身の想いを必死に抑え、努めて平静に語ったのだった。
「ありがとう……ございます……!」
輝利哉は、総司令官として無我夢中で挑んだ戦いをまた思い出し、涙が止まらなかった。
悲鳴嶼は遠慮なく涙を流し、甘露寺も寂しいと盛大に泣いていた。他の柱たちもみな、感極まって泣いており、不死川は天井を見上げて涙を堪えていた。
(終わったんだな……。でもみんなに会えなくなるわけじゃないよね?)
時透は、みなの顔を盗み見ながらこれから先の楽しいことを考えようとした。
(あの冨岡さんが、こんなに気の利いたことを言えるようになったんですね)
涙を流しながらも、しのぶは内心可笑しくなった。
「それにしても」
悲鳴嶼が言う。
「痣は、あの戦いの後みな消えていました。二十五を過ぎて痣を出した私も、このように何事も無く生きております。他の者も、二十五歳を前に寿命を迎えることはありますまい」
その後会議では、最後に小さな話し合いが持たれ、全員の同意の後に散会となった。
産屋敷家は生き残った隊員それぞれに十分な支援を約束し、こうして最後の柱合会議は終わった。
戦いは幕を閉じ、これからは鬼のいない世界でそれぞれが新しい道に踏み出してゆく。
たくさんの桜の木に囲まれた蝶屋敷。季節はまさに春、その桜は満開に咲き誇っている。その中に、ひと際鮮やかに花を咲かせる大きな古木があった。昔、花の呼吸の初代剣士が植えたものだという。
「必勝」と名付けられた桜の木は、見事勝利を収めて戦いを終えた隊員たちを静かに見守っている。
蝶屋敷では、最終決戦で怪我を負ったたくさんの隊員たちが未だに治療や機能回復訓練を受けており、炭治郎もその一人であった。彼の元には連日多くの見舞いが訪れており、互いにその労を労っていた。今後は回復した者からここを出て、鬼との命がけの戦いの無い、新たな生活を始めることになる。
炭治郎はしかし、何かが足りない、いるべき人がいない、そんな思いを抱いていた。ずっと考えていたが思い出せず、すっきりしない毎日を過ごしていた。
そんな炭治郎の下に、ある日珍しい客が訪ねてきた。那田蜘蛛山で一緒に戦って知り合った緑川と尾崎だった。柱稽古でも何度も一緒になり、最終決戦でも共に戦い互いに良く知った仲になっていた。久しぶりの挨拶を交わし、お互いに近況報告をした。2人は夫婦になるらしくその報告もしに来てくれたようだった。
「お2人はどうやって知り合ったんですか?」
炭治郎が聞いた。
「きっかけは村田さんと一緒に行った遠征任務だったような気がするんだが……。よく思い出せねえんだ。そもそも庚3人に遠征任務なんて行かせるか?それに、内容もなんだか良く覚えてねえし」
「あの任務の時、何かのきっかけで刀の色変わりしたんだよね、私たち」
「その時だっけ?那田蜘蛛山じゃなかったか?」
「違うよ、会津の時だよ」
言い合いになる緑川と尾崎。
「……こんな調子なんだ。那田蜘蛛山の前に遠征任務に行ったんだが、村田さんも俺たちもそのあたりから所々記憶が曖昧なんだ」
炭治郎は不思議に思った。自分でも同じように曖昧な部分があるからだ。
禰豆子が鬼になった時。那田蜘蛛山で十二鬼月と戦った時。柱合裁判の時。無限列車。吉原。刀鍛冶の里。そして最後の無惨との戦闘。記憶の一部に蓋がされている、そんな気がしていた。
「炭治郎、お前那田蜘蛛山で誰に助けられた?」
緑川が何気なく聞いた。
「誰って、緑川さんに。その後義勇さんが来て」
「そうか、俺はお前に助けられて、その後水柱が来たと思ってたけどな……」
2人は顔を見合わせて考え込んだ。
「俺も、思い出せない事があるんです」
炭治郎は思い切って、自分が抱いている違和感について打ち明けてみた。
「お前もそうか、炭治郎」
何か思うところがあるらしく、緑川が炭治郎から視線を外して空を見上げた。
「何だろう、何か忘れてる気がするんだ。大事なものを……でもどうしても思い出せないんだ」
寂しそうに、悔しそうに呟く。
「どうしても忘れさせたいらしいが……。一体何の呪いだよ」
緑川は寂しそうにまた笑った。
またある日、愈史郎が猫の茶々丸と一緒に訪ねて来て話が弾んだ。茶々丸はしきりに辺りを見回していたが、何かを探すように部屋の外へ出て行った。
「1回死にかけたのに、本当に良く頑張ったな。前線で戦ってるのをずっと見てたが、お前は偉いよ」
愈史郎がこんなに優しい笑顔を向けて来るのは初めてだった。あの戦いをくぐり抜けて、今こうして穏やかに話をしている。改めて、本当に戦いは終わったのだという感慨が湧いて来る。
しかし愈史郎は最愛の珠世を失ってしまったのだ。
珠世の話をする時、愈史郎の表情や仕草には変化は見られないが、炭治郎には匂いで分かる。深い悲しみと後悔の匂い。
珠世を庇うことができたら、珠世の身代わりになって死ねたらどれほど良かっただろう。愈史郎は、ずっと後悔の中にあった。自分一人生きてどうなる?珠世のいない生活など何の意味がある?そう自問自答していた。
(俺だって、禰豆子が死んでしまっていたら……。どうなっていただろう?)
愈史郎にとっては、唯一の家族とも言える存在。そして命の恩人であり、恋慕の対象でもあった。大切な、世界でただ一人の人。愈史郎の心中を思い、炭治郎は胸が痛んだ。
いつの間にか茶々丸が戻って来て、炭治郎の布団の上で寝そべっていた。
不意に、脳内に蘇る記憶があった。
(危ない!)
庇ってくれた後ろ姿。黒い刀。フラッシュバックのように、最終決戦で無惨に殺されかけたあの場面が浮かんだ。
(これは?この記憶は……?)
「俺はただ周りの人たちに助けてもらって、やっと生きて帰れただけです……」
炭治郎は我に返りそう答えると、
「フン、当たり前だろう。冗談で褒めただけなのに真に受けやがって。もう俺は帰るぞ」
愈史郎は優しい微笑みを消して普段のキリっとした表情に戻り、毒を吐いて帰ろうとした。
「俺と一緒に戦った人、他に誰かいなかったですか?何か忘れてる気がして」
炭治郎は自分が抱いている違和感について慌てて尋ねた。
「柱やお前の同期たちがいただろ?じゃあな」
愈史郎は怪訝そうな顔でそう言って、茶々丸を抱いて今度こそ帰ろうとした。
「愈史郎さん……。死なないでくださいね」
愈史郎から隠し切れない悲しみの匂いを感じ、炭治郎は思わずその背中に声をかけた。
「珠世さんのこと、ずっと覚えていられるのは……愈史郎さんだけなんですから」
愈史郎は一瞬歩みを止めたが、何も言わずに帰って行った。
愈史郎が帰った後も、炭治郎は考え込んでいた。
(誰かが覚えていなければ、居なかったのと同じになってしまう……。あの人のこと、俺は忘れちゃいけないんだ。絶対に!)
唐突に、また思い出した。茶々丸と遊んでいる誰かの、笑顔の口元。茶々丸が懐いて、よく誰かの羽織で爪を研いでいた。
(名前も顔も分からない。このままじゃ……)
「禰豆子!手紙だ!手紙を書くぞ!」
炭治郎はすぐに文机に向かい、誰宛ともない不思議な手紙を書き始めた。
「お兄ちゃん、何、急に?」
人間に戻り、すっかり体調も回復した禰豆子は、やれやれと言った調子で返事をする。炭治郎は、つかえていた思いを込めて一気に手紙を書き終えた。
宛名は無い。
(貴方は、俺たちに託して行ったんですよね?俺たちは、貴方に託された命を繋いでいきます)
蝶屋敷に様々な見舞客が訪れる中、小腹が減った伊之助は厨房に向かった。見ると、アオイがこちらに背を向け、まな板の上で何かを切る小気味良い音を響かせていた。伊之助が気配を消し、足音を忍ばせて並んだお膳からおかずを一つ、つまみ食いした時だった。
「あっ!また盗み食いして!!」
急にアオイがこちらを振り向いた。
「しっ、してねえ!」
もごもごと咀嚼しながら伊之助が言い訳すると、
「口いっぱいにして何言ってるの。……口ごたえするとお尻を叩きます」
アオイが冷静に怒って見せると、
「わ、分かった。もうしねえ」
(何で悟られた?もしかしてコイツつええのか?何にしてもこれはやべぇ!)
包丁を持って冷静に怒るアオイの迫力に恐れをなし、伊之助は素直に従った。
(前に誰かと一緒につまみ食いしたよなぁ。誰とだっけ?)
唐突にそんなことを思い出しながら伊之助は帰ろうとした。
コホン、とアオイが咳払いをした。
「こっちのお盆のは伊之助さん専用ね。いつでも作ってあげるから、盗み食いは止めてね」
おにぎりとおかずの乗ったお盆を差し出しながらわざと怒ったようにそれだけ言うと、アオイはまた伊之助に背を向け、調理に戻った。
「お、おう……。ありがとう」
人間の感情の機微が分かるようになっていた伊之助は、何となくアオイの気持ちが分かり、”ホワホワ”以上の感情を覚えながら、出されたおにぎりを平らげていた。
治療を終えた炭治郎は、以前住んでいた雲取山の家に戻ることにした。禰豆子ももちろん一緒、善逸と伊之助も一緒について来た。当面は一緒に4人で暮らそう、そう話し合った。
山の麓近くで三郎じいさんに再会し、無事鬼の首魁を倒して生還したことを報告、禰豆子の無事な姿も見せると涙を流して喜んでくれた。
家は、あの事件以前のようにきれいになっていた。近所の人々が総出で、血だらけだった床や壁、畳を換え、時々手入れもしてくれていた。そして、きちんとした墓石に亡くなった家族一人ひとりの名前が刻んであるお墓まで作ってくれてあり、炭治郎は深く感謝した。
ただいま。
炭治郎と禰豆子はそう挨拶してから、鬼の始祖を倒してみんなの仇を討ち、無事帰還したことを家族の墓に報告した。
(父さん、母さん。竹雄、花子、茂、六太。たくさんの人に支えられて、俺も禰豆子も、人間として、生きて戻ってこられたんだ。帰って来られたんだ……。ただいま)
ただいま。
家族みんなの幻影が現れ、炭治郎と禰豆子を優しく抱く。
おかえり。
炭治郎と禰豆子は思わず顔を見合わせた。そこに家族の気配を感じ、その声を聞いたような気がしたのだ。
亡き家族たちを想い、禰豆子と炭治郎は初めて思い切り泣いた。
ただいま。ただいま!
そう、何度も叫びながら。
(今日だけは泣いてもいいぜ。この俺が許す!この伊之助様がな)
善逸も2人の肩を抱きながら一緒に号泣し、伊之助も猪頭の下で涙を流した。
4人の平穏な暮らしが始まった。
善逸は当初の想いが通じて禰豆子と夫婦になり、炭治郎はカナヲと、伊之助はアオイとそれぞれ幸せな家庭を築いた。
色々な事が起こった。暗い事件が世界中を支配したこともあったが、それでも彼らが再び戦うことはなかった。
それから、長い、長い月日が流れた。